01 / 02
煌めく夏色の彼方に
COLORFUL LOVE
1
 今日も、滞りなく一日のバイトが終わった。
 もわんとした外気に包まれる瞬間を覚悟して、和菓子屋の裏口から外に踏み出したつくしだったが、思ったよりも暑さはずっと引けていた。
 暦は八月を駆け抜けて、あっという間に九月に入った。
 頭上には、夕方に差し掛かる手前の青い空が広がっている。けれどその色は、真夏のそれに比べたら、ずっと淡くて柔らかい。蝉の鳴き声はするけれど、漂う空気に息の詰まるような熱はなく、肌に感じる陽射しに焼けるような痛みも感じない。

 ――もう夏も終わりってことかな。

 ほんの少し拍子抜けして、ほんの少し物悲しくなる。
 そんなことを胸に歩き出した十数秒後、視界に飛び込んできた光景に、胸がドクンと脈打って、急速に苦しくなった。
 それはつくしの意思よりも先に、反射的に広がる痛み。
 つくしの足は、ピタリと止まった。





 あれは一週間前のこと。
 その日、たまたまバイトのなかったつくしが、部屋のソファで扇風機が送る生ぬるい風を浴びながら本を捲っていると、携帯電話が鳴り出した。
 静かな部屋に突然響いたその音に少しばかりドキリとして手に取れば、ディスプレイには見慣れた、けれど少しだけ久しぶりに感じる名前。
 つくしは、心の深いところが僅かにキュッと縮まるような感覚をやり過ごし、深呼吸を二つほどしてから通話ボタンを押した。


 **


「もしもし」
「よぉ。久しぶり」
「久しぶりね、美作さん。どうしたの?」
「今日、バイト休みなんだな」
「え? うん、そうだけど……なんで知ってるの?」
「今、アパートの前に居るから」
「あ、そうなん……え!」

 いつもと変わらない口調でさらりと言うから、思わず聞き逃しそうになった。
 開け放った窓から急いで外を見る。そこには見慣れた車と、それに寄り掛かってこちらを見上げているあきらが居た。
 つくしの姿を捉えて、軽く手を挙げる。
 ただそれだけの仕草がやたらと眩しく思えて、手を振り返す動作がぎこちなくなる。

「これから予定とかある」
「え、ううん、別に」
「じゃあドライブ行かないか?」
「ドライブ?」
「もうすぐ夏も終わっちゃうしさ。海でも見に行こう」
「海かあ」
「今年、行った?」
「ううん。行ってない」
「だろ? だから行こう」
「見るだけよね?」
「泳ぎたかったら水着持って行ってもいいけど?」
「……いえ、遠慮しておきます。美作さんこそ、どうぞ」
「いや、泳がない」

 クラゲがウヨウヨ居そうだろ、とあきらが厭な顔をしている。
 たしかにあきらが苦手そうな部類だと思ったらなんだか可笑しくて、つくしは思わず噴き出した。
 クスクスと笑い続けるつくしの耳元で、再び「行く?」と声がする。あきらに見えるように大きく頷いて、「支度するから待ってて」と電話を切った。





「はい、お土産」
「え?」

 車に乗り込むとすぐに、小さな袋を手渡された。反射的に受け取ったつくしは、その袋をじっと見つめる。

「海外に行ってたんだよ」
「海外?」
「ちょっとした視察。ていうほど大袈裟なものでもないんだけど、ヨーロッパにあるうちの関連企業とか取引先をいろいろと見て廻ってたんだ」

「ああ、それで」とつくしは呟いた。


 大学が夏休みに入ってからも、二人は数日に一度のペースで連絡を取り――その大半はあきらからの連絡で――食事をしたりドライブに行ったり、美作邸を訪れたりしていた。
 けれど、ある日ぱったりと連絡は途切れ、ここ十日程は音沙汰なし。
 どうしたのだろうと思ったけれど、恋人でもなんでもないのに「連絡ないけど、どうしたの?」なんて言えるわけもなく――言っておかしいこともないのだろうが、つくしの性格ではそれは無理だった――不自然さを感じながら今日まで至っていた。


「行く予定は前からあったんだけど、スケジュールが全然読めなくてさ。出発も突然になっちゃったもんだから、ずっとバタバタ続きで。連絡もしないで悪かったな」
「やだなあ。そんなの謝らないでよ。まあたしかに、どうしたのかなとは思っていたけど。でも別に、あたしに言って行かなきゃならないわけじゃないんだし」
「いや、そうなんだけどさ。でも……うん。なんとなく、な」

 片眉を僅かに上げたあきらのその表情は、どこか照れてるように見えた。
 つくしはつくしで、心を見透かされたような気がして恥ずかしくなっていた。
 顔が火照るのを誤魔化すように、渡された袋を目の前にかざす。

「これ、開けてみてもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、遠慮なく」

 ガサガサと袋を開けると、そこから出てきたのは飴色の液体にリーフのモチーフが沈む美しいボトルだった。

「うわぁ。キレイ。これって……?」
「プラハで見つけたシャワージェル」
「プラハ? プラハって……えっと」
「チェコ。街を歩いていて見つけたんだ。あ、高いものじゃないから、気兼ねなく使えるはず」

 マジで庶民的価格品だぞ、と笑うあきら。
 それは厭味でも何でもなくて、あまり高価なものを好まない自分を安心させるための言葉だということを、つくしはきちんと理解っていた。

「ありがとう。プラハなんて行ったこともないし、チェコの場所さえもあやふやだけど……異国の美しい街を想像しながら使わせてもらう」
「あはは。チェコはドイツの隣。ヨーロッパはどこもそうだけど、プラハもすごく美しい街だよ。きっと行ったら気に入ると思う」
「へええ」
「本当は、一緒に行けたら良かったんだけどな」
「そうだねぇ……え、一緒に?」

 まじまじと見ていたボトルから視線をあげると、あきらは何事もなかったように涼しい顔で「じゃ、出発な」と車を発車させた。涼しい顔をしていられないのは、つくしだ。

「あの、美作さん。一緒にって?」
「だから、一緒にヨーロッパへ行けたら良かったってこと」
「何言ってんの、行けるわけないでしょう」
「いや、本気で誘うつもりでいたんだよ」
「だって仕事で行ったんでしょう?」
「まあ仕事と言えば仕事だけど、バカンスと言えばバカンスさ。ヨーロッパに点在する会社を見て廻ってただけなんだから。ほとんど観光みたいなもんだろ?」
「いや、それはちょっとわからないけど」
「誘われたら迷惑か?」
「迷惑かって、美作さんのほうが迷惑でしょう? あたし、仕事の手伝いとか出来ないよ?」
「……ぶはっ! そんなこと期待して誘うわけじゃないって」

 あきらは「牧野ってほんと面白いよな」といつまでも笑い続けた。「何がそんなに可笑しいのよ」とつくしは怪訝な表情をして見せたが、心の中では、あきらのその笑い声を心地良く感じていた。

 常に穏やかで人当たりの良いあきらは、普段から眉間に皺を寄せているようなタイプではない。笑顔はいつだって美しいし、余程のことがなければポーカーフェイスを崩したりもしない。
 けれど彼を深く知れば、それがいかに表面的で外向けの作られたものであるかがわかる。
 いつまでも感情のままに笑っていたりするあきらは、どこも装っていない素の状態。
 今日はそれがいつも以上に嬉しかった。

「今度、機会があったら誘うよ」
「ホントに?」
「ホント」
「弾丸ツアーはお断りよ」
「了解」

「次の予定って何かあったかな」と呟くどこか楽しそうなあきらの声を耳に響かせながら、つくしは窓の外の流れる景色に視線を流した。
 あきらと二人でヨーロッパの街並みを歩く。――もし本当にそんな日が来たならば。
 思い描くだけで、つくしの顔には笑みが浮かんだ。





「うわーっ。きれーいっ」

 浜辺の駐車スペースに車が止まるや否や、つくしは待ちきれないとばかりにドアを開けて飛び出した。アスファルトの淵ギリギリに立って下を見れば、すぐそこは砂浜で、その先には海が広がっていた。揺れて輝く波も、全身に感じる海の匂いも、そのすべてがつくしを高揚させる。

「うわーっ。ほんっとに綺麗だなあ……」
「牧野、興奮しすぎ」

 振り向けば、バタンと車のドアを閉めたあきらがクスクスと笑っていた。

「だってすっごく綺麗なんだもん。しかもほら、すぐここから砂浜だよ? すぐに降りれちゃうんだよ?」
「そういうところを選んで車を停めたからな」
「海は車から見えたりする時があるけど、砂浜って久しぶり。テンション上がるなあ」

 満面の笑みを浮かべるつくしにあきらもつられて笑い、目を細めて海を見た。
 時折吹く海風が髪を揺らし、聞こえてくる波の音に強弱をつける。

「気持ちいいね」
「うん。風も穏やかだしな」
「ホントだね。……でも、この時期ってこんなに人って少ないものなの?」
「ん?」
「ほら、一応まだ八月だしさ。もっと家族連れとか学生とか、たくさん遊んでいるのかと思った」

 見渡す砂浜には人影がまばらで、見える限りでは海で泳いでいる人影もない。
 つくしにはそれが不思議に思えた。

「こんなに綺麗な場所なのに。遊泳禁止とか?」
「いや、そんなことはないよ。でもここの水って冷たいんだよ」
「そうなの?」
「うん。この時間帯じゃあ波に乗る目的でもなければ入らないよ。でも今日は波もないからな」
「ふうん。そういうことか。美作さん詳しいんだね」
「昔、総二郎と来たことあるから」
「あー、女の子も一緒ね」

 呟くつくしに、あきらは苦笑いを浮かべる。

「でも、これくらいの方がいいだろ? 混雑してごちゃごちゃしてるのは、俺はちょっと……」

 大混雑でイモ洗い状態のビーチで佇むあきらを想像して、つくしは思わず噴き出した。

「ぶっ。そんなところ、美作さんは絶対無理よね。似合わな過ぎる。あははははは!」
「似合わな過ぎるって……似合いたくねえよ」

 大口を開けて笑うつくしをあきらは厭そうに見て、それからひょいと数十センチ下の砂浜に飛び降りた。
 その突然の行動に、驚いたつくしは目を丸くした。

「え、美作さん!」
「なんだよ」
「それ、アリ?」
「どれ?」
「砂浜に下りちゃうの……えっとたとえば砂浜を歩くとか。……ついでに、足だけ海に入っちゃうとか」
「……アリじゃねえか? せっかく海に来たんだし」
「ホントに? あたしもやっていい?」
「もちろん」
「やったーっ!」

 叫ぶと同時に、つくしもピョンと飛び降りた。ざくっと鈍い着地音が響く。
 傍目にもわかるほどテンションの上がったつくしが「早く行こう!」と海へと駆け出す。あきらは呆れた表情をしながらも、そのあとに続いた。

 波打ち際に着くと、つくしはひょいとサンダルを脱ぎ捨てた。
 波の引いた跡が残る場所にそっと立ち、波が打ち寄せるのを待つ。やがてたっぷりとした波が両足を包むように押し寄せて、そして引いていった。

「うわぁ! 本当に冷たい」
「だろ?」
「うん。でもすっごく気持ちいい。美作さんも一緒にどう?」
 
 再び押し寄せた波を受けながら、つくしが笑いかける。それを受けたあきらが「どれどれ」と同じようにサンダルを脱いで横に立つと、つくしはますます嬉しそうに笑った。

「あ、きたきた!」
「うわっ! すっげー冷てえ」
「でしょ?」
「おまえ、よく笑ってられるな」
「だって楽しいじゃない。ほら、また来たよ」
「うわっ、冷てーっ!」

 つくしが笑い、そしてあきらも笑う。
 二人の楽しそうな声が響き渡った。




 
 足元で生み出される水しぶきの音と楽し気な笑い声が辺りを満たす。
 どれくらいの間、そうしてはしゃいでいただろうか。
 やがて二人は笑い転げながら砂浜に腰を下ろした。

「あー、楽しい。すっごい笑った」
「俺、こんな笑ったの久しぶりかも」
「あたしもだなー」
「それにしても、水の冷たさって慣れるもんだな」
「ホントだね。最後のほうなんて平気だったよ」
「どっちかっていうと感覚がマヒしたってやつかもだけど」

 水に浸かっていた自分の足先を触って「うわ、冷てっ」とあきらは笑った。
 その横顔を見て、つくしは微笑む。

「意外だったなあ」
「何が?」
「あたし、美作さんは砂浜に降りたがらないと思ってた」

 その言葉に、あきらがつくしの顔を見る。

「ほら、砂がつくでしょ? どんなに払ったとしても車が汚れるじゃない」
「俺がそれを嫌がると?」
「うん。綺麗好きそうだし」

 実際、あきらの車はいつでもとても綺麗で、きちんと掃除が行き届いている。

「ああ、それで牧野は砂浜に降りた俺に過剰反応したのか」
「そう。驚いちゃった」

 しかも、一緒にこうしてはしゃげるとは思ってもいなかった。
 波間ではしゃげばどんなに気を付けても服が濡れる。時と場合によっては取り返しがつかないほどビショビショになることだってあるのだ。
 あきらはどちらかと言えばそういうことをあまり好まない人間で、だからきっと、後先考えずに大騒ぎしてしまうつくしを諫める立ち位置を選ぶんだろうと思っていた。
 それが現実はどうだろう。
 案の定濡れてしまったスカートの裾を絞ってみようかと握り込むつくしの隣で、あきらは足を投げ出して砂浜に座り込み、水のかかった衣服を見下ろして「結構濡れたなー」なんて笑顔を浮かべている。
 厭そうでも、煩わしそうでもない、心を開いた人間にだけ見せる本当の笑顔。
 つくしはそれが、とても嬉しかった。

「せっかくここまで来たのに、眺めるだけで帰るなんてもったいないだろ?」
「夏だし?」
「そう。夏だし。服は濡れてもすぐ乾くし、砂は払えば落ちる。車は多少汚れても掃除すれば綺麗になる。それに」
「それに?」
「牧野は絶対にこうしたいって言うと思ってたから」
「あはは。それはその通り」

 二人は笑い合って、どちらからともなく海を見つめる。
 波の音が心地良く響いていた。




 他愛もない会話をしながら目の前の景色を眺め続けるうち、空の色が徐々に変わり始めてきた。
 刻々と近づく夕暮れ。海の色はそれを映すように少しずつ変化しながら、なおもキラキラと揺らぎ煌めく。

 すっかり服が乾いた頃、「そろそろ戻るか」とあきらが言って、名残惜しさを感じつつも、つくしは頷きサンダルを手に取った。
 すっかり乾いた足の砂を払い落とし、サンダルを履く。
 あちこちに残る砂を払いながら立ち上がったつくしが顔を上げると、先に立っていたあきらは駐車場とは反対の方を見ながら「あそこ、座れそうだな」と言った。
 視線を追うと、そこにベンチらしきものが見えた。

 砂浜を少し上った、駐車場と同じ高さにあるその場所は、簡単な屋根の下にどっしりとした木のベンチがあるだけではあるものの、歴とした休憩スペースだった。
 二人は並んで座り、再び海を眺める。
 時折、何気ない話をするが、話が終わればまた沈黙が戻り、波の音だけが響いた。
 打ち寄せる波のようなゆらゆらとした時間が続いていく。

「なんか、海って見てるだけで癒される」
「わかる。不思議だよな」
「うん。憂鬱だったのが嘘みたい晴れてく」
「そうだな。……で、牧野は憂鬱だったのか」
「……うん。まあね」

 その日、つくしは朝からカサカサとした気持ちを抱えていた。
 自分じゃどうしようもなくて、きっとこれは明日になるまで抱え続けるんだと諦めていた。今日はもうどうにもならない、と。
 理由はわかっていた。

「――今日で、一年なの」
「……そうだな」

 何のことだと問う事もなく頷いたあきらに、つくしは小さく笑みを浮かべた。

「やっぱり覚えてたんだ」
「まあな」

 一年前の今日、つくしは司と別れた。
 ずっと覚えていたわけではない。思い出してしまったのだ。数日前、ふいに。それこそ、バイトから帰った直後に暑い空気を逃がしたくて窓を開けた、そんな何気ない瞬間に。
 直後は驚いて、そしてなんとなくがっかりした。思い出さなくてよかったのに、と。
 けれど一度思い出してしまったものはもう消えない。それからは、いつも心のどこかが憂鬱だった。
 もうすべては終わったことだし、去年と今年は違うとわかっていても心がざわついて、今日に至っては、憂鬱を通り越して息苦しく感じる程だった。

「だから、誘ってくれたの?」
「牧野が覚えてる確信はなかったけどな。でも、もし覚えていたとしたら……俺だったら、きっと誰かに一緒にいて欲しいって思うから。だから、さ」
「……」
「誘って正解だった?」

 その問いに、つくしがこくりと頷くと、「良かった」とあきらは笑った。

「過ぎてしまえばあっという間、ってよく言うけど、この一年は結構長かったよな」
「……うん、長かった」
「ずいぶん苦しんだよな」
「……うん、そうだね」
「よく頑張ったな」
「そうかな?」
「うん。すっげー心配だったからさ、あの頃」
「あー……美作さんには本当に心配かけちゃったよね。自覚してます」

 バツが悪そうに項垂れるつくしにあきらは小さく微笑んだ。

「意味深い一年になったよ。俺にとって」
「なに、それ」

 答えは返ってこない。かわりに、ふんわりと微笑んで「海、綺麗だな」と目を細めた。

 ――美作さんのその横顔の方が、よっぽど綺麗だよ。

 あまりにも美しく整ったその横顔に、つくしは思わず見惚れた。
 その視線に気付いたのか、それとも偶然か。じっと海を見ていたあきらが、その視線をつくしに移した。
 つくしはドキリとして、慌てて目を逸らす。
 きっと笑われる。「何見てんだよ」って笑いを含んだ声がする。そう覚悟していたつくしだったが、一向にその気配がない。
 不思議に思ってそっと見たあきらは、ひどく思いつめた顔でつくしを見ていた。

「……何?」
「……いや」

 なんでもない、とあきらは再び海へと視線を向けたが、さっきまであんなに綺麗だった横顔が、今はもうどこかせつなく憂いに満ちていた。

「ねえ、美作さん。どうしたの?」
「どうもしないよ」
「どうもしない顔じゃないけど」
「……」
「何かあるなら、言って?」

 つくしからすれば、さっきまでのあの綺麗な横顔を取り戻したい、そんな想いだった。
 それが届いたのだろうか、ちらりとつくしに視線を送ったあきらは、もう一度海を見据えると、小さく息を吐く。
 しばらくの沈黙の後、あきらが口を開いた。それはとても慎重な声色だった。

「ヨーロッパを廻った帰りに、ニューヨークへ行って来た」
「ニューヨーク?」
「うん。……司に、会ってきたんだ」
「……」

 あまりの不意打ちに、返す言葉が見当たらず、つくしはあきらから視線を外して僅かに俯いた。
 そんなつくしに、あきらは小さく顔を歪ませ、髪をぐしゃりと掻き上げる。

「あーごめん。やっぱりやめよう」
「え?」
「今の話、忘れて。ほんとごめん」
「あ、違うの。大丈夫だから話して」
「でも――」
「本当に大丈夫。そうじゃないの」

 たしかに。
 さっきまで「別れて一年」なんて話していたにも関わらず、突如あきらの口から出た司の名前に、つくしの胸はざわついた。
 けれどそれは反射的な何かで。深く傷ついたとか、司の話が嫌だとか、そういう事ではない。

「まさか道明寺の話だなんて思ってなかったから、ちょっと驚いただけ。ただそれだけだから。それ以上どうのってことはないの」
「本当に?」
「うん、本当。だから続けて」

 あきらはとても細やかな人だ。ただ司に会っただけなら、つくしに話したりはしないだろう。躊躇いながらも話し出したからには、何かがあるはず。
 それをきちんと聞きたかった。

「道明寺がどうかした?」

 つくしはあきらをじっと見つめた。ここで目を逸らしてしまっては、きっと話してくれないだろうから。
 あきらもまた、そんなつくしをじっと見つめていたが、やがて小さく頷くと、再び慎重に口を開いた。

「牧野がどうしているか訊かれた。元気にしてるか、何のバイトしてるか。あと、住んでいる場所。牧野、一人暮らし始めたこと、あいつに言ってなかったんだな」
「ああ、そういえばそうだったかも」
「隠すのも変だから、一応教えた。勝手にすまん」
「ううん、別にいいよ。あいつのことだから勝手に調べ上げてるかと思ったんだけど、そうじゃなかったってことね」
「うーん、そこはわからん。敢えて訊いてきたのかもしれないし」
「ふーん。まあ、なんでもいいけど」
「それから、伝言を預かってきた」

 つくしは、僅かに眉をひそめた。

「伝言?」
「うん」
「なんて?」
「――『変わらずにいてくれたら』って」
「……変わらずに?」
「うん」
「そしたら、何なの?」
「その続きは言わなかった。ただ牧野にそう伝えてくれって」

 ひそめた眉はそのままに、つくしはその言葉を心の中で反芻する。
 その言葉の意味をどう捉えたらいいのか、わからなかった。
 そこに込められた司の想いが、友情なのか愛情なのか――もし後者であったなら、それはどう受け止めたらいいのだろう。
 脳裏に司の顔が浮かぶ。何かを言いたそうに自分を見る顔。感情の読み取れない、顔。
 けれどそこに何かの結論をみつけることは出来そうになかった。
 つくしは小さくため息を吐き、軽く頭を振った。

 ――やめよう。考えてもどうにもならない。

 強制的に思考を断ち切って視線をあげると、心配そうに見つめるあきらと目があった。

「大丈夫か?」
「うん。考えても、どうしようもないからね」
「ん?」
「道明寺の言葉の意味。深く考えたところでどうしようもない。もう終わったことだもん」

 つくしは小さく肩を竦め、そして海を見つめた。

「時々思うの。あたしと道明寺は会話が足りな過ぎたなって。付き合ってる時も、別れる時も、あたしたちはもっと話し合うべきだった」
「だけど物理的に無理だっただろ?」
「そうだけど、でもそれを言い訳にし過ぎた。本気になったらどうにか出来たはずなのに。きっと方法はいくらでもあったはずなのに」
「……」
「だから、関係を終わらせることも、あたしは考え抜いた末だったけど、道明寺にとってはあたしに押しつけられただけの結論だったんだよね。最後までそんなだったから、あいつはあたしに言いたいことがたくさんあるのかも。今でも」
「でも司も、わかったって言ったんだよな?」
「そう言わざるを得ない状況にしたんだよ。あたし、かなり頑なだったし」

 つくしは力ない笑みを浮かべた。

「あの頃の道明寺ってすごく大変だったんだよね。連絡も全然なくて、それこそ顔も声も忘れそうなくらいだった。だけど道明寺からしてもあんな状態は不本意だったに違いないし、きっと歯がゆかったと思う。そこへあたしに一方的に別れを押しつけられて。きっと道明寺は、あたしなんかよりもずっと辛かったよね。今はそれがぼんやりわかる」
「……」
「でも、もう今更なの、全部。あの頃のあたしは――道明寺を想って待っていたあたしは、もう居ないんだから。どこにも」
「牧野……」
「これでも少しは前へ進んだつもりなんだよ、あたし。『変わらずに』なんて、そんなの無理よ」

 つくしはあきらに「そうでしょう?」と微笑んでみせた。
 あきらはそれをじっと見て、それからふっと表情を緩めた。

「そっか。そうだな」
「うん」
「悪かったな」
「え?」
「こんな話題持ち出して」

 あきらの顔に後悔の色が見えて、つくしは慌てて言葉を紡ぐ。

「やだ、謝らないでよ。美作さん何も悪くないのに」
「やっぱり、こんな伝言は伝えるべきじゃなかった」
「仕方ないじゃない。預かってきたんだもん。美作さんに責任はない。むしろあたしが謝らなきゃいけないくらいだよ。いつまでもあたしたちのことに巻き込んで振りまわしちゃって」
「そんなのはどうってことないけど。でもこんな中途半端な伝言、気持ちを波立たせるだけだったよな」
「そんなに気にしないで。あたしは大丈夫。案外平気。自分でも驚くくらいなんともない」

 それは本当のことだった。
 あの頃散々苦しんだ、息が出来なくなるような感情は湧き上がらなくて、拍子抜けするほど冷静に受け止めている自分がいた。

「もう傷はふさがってるから」
「でも、ふさがっていても傷は傷だろ。抉られたら痛いし、血だって出る」
「そうだけど」
「伝えないっていう選択肢だってあったんだ。……ごめんな」

 あきらは、つくし以上に痛みを感じているのではないかと思えるほど、傷ついた顔をしていた。

 ――本当に、どこまでも優しい人ね。

 その優しさが嬉しくて、でも胸が痛くなるほど苦しくなった。
 つくしはカラリと笑う。大丈夫と繰り返すかわりに。

「伝えない選択肢はないんじゃない? だって、美作さんだもん」

 あきらは一瞬言葉に詰まり、肩を落とすと同時にため息を吐いて頭を掻いた。

「そうだよなー。自分で自分が厭になる瞬間だよ」

 嘆くあきらに、つくしはアハハと声をあげて笑った。「そんなに笑うな」と顔を顰められたけれど、それでもつくしは笑い続けた。

NEXT
2009.10.05 煌めく夏色の彼方に
inserted by FC2 system