「おはようございまーす」
いつもと同じ朝、いつもと同じ時間。
いつもと同じように会社へ出勤したつくしだが、社内の雰囲気は、いつもとはどこか異なっていた。
「あ、牧野さん。おはよう!」
「つくしっ、おはよう!」
返って来る挨拶の数が、いつもよりも圧倒的に多い。
そして、そのトーンも、女性社員にいたっては、いつもよりも半オクターブ、下手をすると一オクターブ近く高い。
一種異様とも言える空気が漂っていた。
――……一体、何があったって言うの?
訝しげな表情を浮かべて、キョロキョロと周囲を見渡しながら自分のデスクまで行くと、席を並べる同僚の木下美穂に声をかけた。
「おはよう」
「あ、つくしおはよう!」
「ねえねえ、どうかしたの?」
「ん、何が?」
「なんか今日、いつもと違う気がするんだけど」
「……ああ! つくし、昨日は早退したもんね」
「したけど、それが何か関係あるの?」
「あるある。つくしが帰った後にね、とんでもないビッグニュースが飛び込んできたの!」
「ビッグニュース?」
「そう。なんとなんと、今日の午前中に美作商事の専務が来社されるって!」
「……美作商事の専務が来社?」
「そうよっ! 美作商事の新しい専務。美作あきら専務よ。これはメイクもお掃除も気合いを入れないわけにはいかないでしょう!」
これ以上ない気合で胸の前で拳を握り締める美穂を前に、つくしはただただ固まっていた。
――……あたし、何も聞いてないんですケド。
「当たり前でしょ? つくしが帰ってから知らされたんだから」
「え、ああ、うん。そ、そうだね」
考えていることが声になって呟かれてしまうのは、つくしの癖。またしても、それが出てしまっていたようだ。
「そういうことで、つくしもいつもより気合を入れてお掃除してね。部長も課長もチェックするみたいだから、念入りにやらないとやり直しよ」
「そ、そうね」
つくしが「聞いてない」と思ったのは、会社や同僚に対してではない。本日来社するらしい美作商事の専務、美作あきらに対して。
けれどあきらとの関係は会社の誰にも話していない、つくしのトップシークレット。
――他の意味に捉えてくれて助かった……。
強引に手渡された雑巾で机を拭きながら、つくしは心の中で冷や汗を拭った。
美作商事の子会社であるこの会社に入社して、八ヶ月。
緊張感いっぱいで毎日を過ごしていたつくしも、月日を重ねるごとに仕事に慣れ、少しずつ余裕が出てきた。
今では、不慣れ故の疲労や、仕事量の多さに生活のペースが乱れ気味だった入社当初が、懐かしく思える程。
おかげで、恋人である美作あきらともそれなりに会うことが出来ていた。
むしろ忙しいのはあきらのほうで、この初秋に「専務」という肩書を与えられてからというもの、今までにも増して慌ただしく働いている。
ただ本人は、そういった苦労をあまり見せたりはしない。
少しでも時間があれば「会いに行くよ」と連絡をくれて、会ってる時はいつでもニコニコと笑顔を絶やさなかった。
時々疲れた顔をしている時もあるが、つくしがそれに気付いたことを察すれば、必ず笑顔で「なかなか仕事がハードでさ」と隠すことなく話してくれた。
そして時には、休息が欲しいと言ってつくしの膝枕で横になる。
そっと髪を梳くつくしに、あきらはいつでも穏やかな笑みを浮かべた。
「気持ち良すぎて寝そうだ」
「いいよ、寝ても」
「ヤダよ、もったいない。せっかく一緒にいるのに」
「また会えばいいじゃない」
「そりゃそうだけど、そんなんじゃ足りないんだよ。毎日でも会いたいところを泣く泣く我慢してるんだから」
「大袈裟だなあ」
「大袈裟じゃないさ。一週間も会えなかったんだぞ?」
「仕方ないでしょ? 美作さんが忙しかったんだから」
「そうなんだよなあ。忙し過ぎだよ」
時折交わされるそんな会話には、しっかり者のあきらの甘えた一面が垣間見えた。
きっと、自分にしか見せない、自分しか知らない顔だろうと思うと、つくしはそれが嬉しくて、愛しさが溢れた。
そんなあきらと最後に会ったのは、昨晩のこと。いや、正確に言えば、別れたのは今から数時間前のこと。
実は昨日の早退は、あきらが関係している。
昨晩、つくしはあきらと一緒に、社交界のパーティーに出席していたのだ。
つくしの人生に「社交界」という言葉が登場したのは、英徳に入学してから。
上流階級のご子息ご息女が圧倒的多数の英徳において、それは当たり前に存在する日常の一部。けれどつくしにとっては、遠い遠い未知の世界だった。
少しだけ身近に感じるようになったのは、F4と知り合ってから。
でも、そんな場所に行ったことはほとんどなくて、あきらや総二郎との会話で耳にする程度だった。
では、さらに身近になって「社交界デビュー」と呼べるものをしたのは一体いつなのかということになれば、それは、あきらと付き合い出してからだろう。
あきらはごく自然に、つくしを社交界にデビューさせた。
つくしには司と付き合っていた過去があるものの――それにより、ある一定の知識を得る経験をしたという事実はあるのだが――、一般家庭で育った彼女が、短期間でそのマナーのすべてを身につけることは不可能に近い。
右も左もわからない状態と言っても過言ではないつくしだったが、あきらは実に上手くエスコートした。
不安と緊張で固まるつくしにあきらは「学ぶことも身につけることも山のようにあるけど、時間をかけて徐々に埋めていけばいいから」と言って、つくしのそばを片時も離れず、必要なことはその都度教えた。
そして、つくしの行く場所には必ず類や総二郎といった気の知れた仲間達がいた。これもあきらの気遣いで、自分一人ではフォローしきれないだろうことも考慮して、そういう場所を選んでつくしを連れて行く。
おかげでつくしは、あきらが近くにいない時でも、類や総二郎、時には桜子や滋と楽しい時間を過ごすことが出来た。
最初は本当に息することも忘れる程の緊張感しか感じられなかったつくしだが、徐々に慣れてきて、今では、忙しくてあまり会えずにいる仲間と昔のように時間を共にすることの出来る、楽しい場になっていた。
昨日のパーティーも、類と総二郎が一緒だった。
もしかしたら司が帰ってくるかもしれないという噂があったようで、いつにもまして人数の多いパーティーだった。
但し、噂は噂のままで実現せず、「道明寺司は帰国していない」という現実は、小さなチャンスも逃すまいと期待に胸を躍らせていたご令嬢達を拍子抜けさせ、少しでも距離を縮めたいと目論む各分野の経営者達の肩を落とさせた。
その落胆した空気は、全く関係のないつくしにさえ伝わって来るほどで、なんだか哀れに思えて仕方なかった。
**
「牧野、どうしたの?」
食事の手を止めて周囲を見渡していたつくしに、いち早く声をかけてきたのは類だった。
あきらと総二郎は、挨拶したい人がいるとかで、どこかへ消えていた。
「別になんでもないんだけどね。道明寺ってすごいんだなあってしみじみ思っていたところ」
「ん?」
「あいつが来るかもって話は、あくまでも噂だったんでしょう? それなのにこんなに人が集まって、来ないとわかってここまでガッカリするって、どれだけ会いたかったんだよ、って考えてたの」
「道明寺財閥と言ったら日本では抜きん出た存在だからね。それに、司の帰国話は噂の域を越えてたっていうか、本当に帰国するはずだったんだよ」
「そうなの?」
「うん。ただ極秘帰国の予定だったんだけど。一体どこから漏れたんだか」
「へえ、そうだったんだ。類はどこから聞いたの?」
「司から。でも話が広まって騒ぎが大きくなってきて、面倒だから帰るのやめたってさ」
「面倒だから……そんな理由?」
「そ。実際に面倒でしょ、ここに放り込まれたら」
「まあ、そうかもしれないけど」
脳裏に、帰国情報が広まったことにキレてる道明寺が浮かんで、つくしは思わず噴き出した。
キョトンとした表情でつくしを見ている類に「ごめんごめん」と謝って吹き出した理由を話すと、類は納得したように笑った。
「司、牧野に会いたかったみたいだよ?」
「あたしに?」
「表向きは重要な会議に出席するため、なんて言ってたけど。本当は、牧野が時々パーティーに出てるって話をどこかから耳にしたみたいでさ。俺に連絡が来たの。それは本当か、って。みんなで楽しんでるよって言ったら、俺も行くって」
「ゲッ、そうだったの?」
「だから相当残念がってたよ」
もちろんあきらにはこんな話はしてないけど、と笑った類につくしは苦笑いを浮かべて、再びフォークを持つ手を動かし始めた。
司とは一年近く会っていない。
時々忘れた頃に他愛もない連絡が来て、他愛もない話をする。それから、他愛もないメールも来て、他愛もないメールを返したりもする。
ただそれだけの――司の中でどうであるかは不明だけれど――、つくしの中では「元彼氏で今は友人」という位置におさまっている存在。
久しぶりに会いたかったなあと思った。
そういう意味では、ここにいる大勢の人と似た落胆を抱えているのかもしれない。
けれどそこに深い意味は微塵もないから、やっぱりここの人達とは違うようにも思う。
やがて、あきらと総二郎が戻ってきた。
F3の存在感は、華やかなパーティー会場でも群を抜いていて、いつでも注目の的。誰もが三人を意識して、様々な人が次々と声を掛けてきた。一緒にいるつくしもその輪に巻き込まれることが多いのだが、その時は、たまたま一人になった。
トイレに行きたかったつくしは、こっそりその場を離れた。