『おはよう』
「おはよう。……ってそっちは朝じゃないよね」
『うん。真っ昼間』
会社へ行く支度をしている最中に掛かってきた電話は、ロサンゼルスに出張中のあきらからだった。
着ていく服を鏡越しに合わせていたつくしの唇が、自然と緩く弧を描いた。
『もう起きてた?』
「うん、起きてたよ。もう少ししたら家を出ようかなって支度してたところ」
『そっか。……ん? ずいぶん早くないか? 俺、時差計算間違えたかな』
「ううん、多分間違えてないと思う。今ちょっと忙しくて。だから今日も早出しようかなって」
『そんなに忙しいのか? 昨日も帰り遅かったよな。俺に届いたメール、相当遅い時間だったぞ?』
「あ、見てくれた? そうなの。昨日は終電一本前くらいだったよ」
『マジで? メールはすぐに見たんだ。あまりにも遅かったから電話も返信もしなかったけど』
「なーんだ。待ってたのに」
『え!! マジ!?』
いつでも穏やかに話すあきらの声が、突然跳ねあがった。
すぐに、ひどく驚いて慌てるあきらの顔が浮かぶ。でもそれは予想以上の反応で、驚いたつくしは思わず動きを止めた。
「あ、いや、あの――」
『牧野、そういう時はすぐ寝ろよ。次の日が休みならいいけど、そうじゃないんだからさ。しかも今日も早く――』
「あー……ごめん。嘘。すぐに寝たよ。疲れてたから速攻で熟睡」
一瞬の沈黙の後、今度は盛大なため息が聞こえた。
『今、マジで焦ったぞ』
「ごめん」
『俺、すぐに電話するか、そっちが朝になるのを待って電話するか、すげえ迷ったんだよ。結局、すぐにでも寝たいだろうと思って朝を選択したんだけど、その選択は間違いだったかって一瞬マジで考えた。まったく、焦らせるなよ』
もう一度大きく息を吐いたあきらの気配に、つくしは罪悪感を覚えた。
ほんの些細な悪戯心だった。あきらの驚く声が聞けるかな、と思った。
いつものあきらなら、ほんの少し驚いて、でも嘘だとわかったら「なんだよー」と笑ってくれる。
つくしが期待したのは、そんな小さなやりとりだった。
まさかこんなにも真面目に捉えられて、心配させて焦らせるなんて、思ってもみなかった。
「あの、美作さん。ごめんね。あたし――」
『本当にすぐに寝た?』
「え? あ、うん。本当にすぐに寝たよ。というか、気付いたらあっという間に寝てたっていうか」
『実は待ってた、なんてないよな?』
「ないない。本当にないよ」
『そっか。なら良かった』
「ごめんね。そこまで驚かせるつもりはなかったんだけど」
『……あー。いや、俺こそ過剰反応だったよな。ついさっきまで会議してて、珍しくかなりエキサイトしちゃったもんだから、まだ神経がピリピリしてるっていうか……切り替えがなってねえな。すまん』
たしかにいつものあきらでは考えられない程、余裕のないやりとりだった。けれどそれも、あきらの状況を知れば納得出来る。
謝られたつくしはますます罪悪感を覚えた。
と同時に、あきらのことが心配になった。
「美作さん、大丈夫? 疲れ溜まってるんじゃないの?」
『ん? ああ、大丈夫。疲れてることは疲れてるけど、大したことないよ。心配しなくていい』
「心配しなくていいって言われても……」
聞こえてくるあきらの声に全神経を集中させてみれば、その声はいつもとはどこか違っているように感じた。ほんの少し尖っていて、ほんの少し苛立ちが見えて、ほんの少し掠れている。
本当は口で言ってる以上に疲れていて、無理しているのではないだろうか。
――あー、もうっ。どうしてすぐに察してあげられないのよ、あたしは。
こんな時に悪戯心を出した自分が悔やまれて仕方なかった。
「美作さん。本当に大丈夫?」
『本当に大丈夫』
「でもさ、声掠れてない?」
『そうか? 会議で相当声を張り上げたから、そのせいかも』
「実は風邪ひいたとか」
『ああ、それはない。間違いなくさっきの会議のせい。時間が経てば治るよ』
「本当に?」
『本当に。……そんなに心配か?』
「そりゃあ……」
心配に決まってる。電話越しでしか様子を探れず、顔色を確かめることも出来ないのだから、その心配は近くにいる時の比ではない。
でも、そんなことは言うまでもないことで、ここでそれを言い募る気にはなれず、つくしは口を噤んだ。
ふっ、と電話の向こうであきらが微笑む気配がした。
『ありがとう。牧野が心配してくれてるってだけで、疲れが癒えるよ』
「……そんなことじゃ全然癒えないと思うんだけど」
『癒えるさ。こうやって話すだけで全然違う。また頑張ろう、って思えるしな』
ありがとな、と言ったあきらに、つくしは心の奥がじんわりと温かくなって、自然と笑みがこぼれる。
あきらの言葉がとても嬉しかった。
つくしだって同じことを感じるから。
疲れている時にはあきらの声が聞きたくなる。聞けばそれだけで楽になる。あきらの声の威力は絶大だ。同じように自分があきらを支えられるなら、こんな嬉しい事はない。
喜びが溢れるように、笑みが溢れた。
受話口の向こうから、優しいあきらの声が聞こえてくる。
『牧野は大丈夫か? 寝不足だろ?』
「あたし?」
『休日出勤もしてるみたいだし、疲れてないか?』
「あたしは大丈夫。今週が最大の山場だって前から言われてたからね」
『そっか。無理するなよ』
「美作さんこそ」
『あはは。そうだな。……っと、あんまり長話していられないんだった』
「あ、まだ仕事中だよね。あたしも行かなくちゃ」
じゃあまたな、とあきらが言って、頑張ってね、とつくしは告げて電話を切る。
それがつくしの中に描かれたこの後の流れ。
でも、あきらが口にした言葉は、つくしの予想をあっさりと裏切った。
『俺、これからロンドンに行くんだ』
「え? ロンドン?」
*
「良い天気だなあ」
つくしは、晴れ上がった冬の空を見上げて呟いた。
ほわりと浮いた薄雲が青に溶ける寸前の様子をぼんやりと眺める。
――美作さん。空見る時間あるかなあ……あるわけないか。
きっと今日も忙しく働いている。思うだけで胸の奥がきゅっと痛くなるような感覚に、つくしは無意識に深呼吸をした。
「おまたせー……って、あれ? つくし今、物思いに耽ってた?」
ふいに背後から声がした。
振り返ると、楽しそうに目を細めた美穂が「邪魔しちゃった?」と笑った。つくしは彼女の元へと歩きながら、首を横に振る。
「そんなんじゃないよ。良い天気だなって思ってただけ」
「うっそー。ものすごーく遠くを見てたよ?」
「そうだった?」
「うん。完璧に恋人を見る表情だったんだけどなあ」
「……もうっ、美穂ってば!」
当たってるだけに恥ずかしくて、つくしは照れ笑いを浮かべる。
そんなつくしに美穂は満足げな笑みを浮かべ、つくしはますます照れ笑いを深くした。
それは、ようやく訪れた昼休憩だった。
つくしは同僚の木下美穂と社員食堂――と言う名のお洒落なカフェテリア――の窓際の席を陣取り、昼食を取っていた。疲れきっているせいかあまり箸が進まなかった二人は、定食を半分食べたところで断念して、こんな時は甘いもの、とケーキセットを突いていた。
「なんか、ここに座ったらどっと疲れが出た」
「わかる。気が抜けるんだよね」
「そう。しかも、戻ったらまたあの忙しさが待ってるかと思うと……」
「ダメだよ。今そんなこと考えたら余計に疲れるから」
「……そだね」
言いながらも、二人の頭からは仕事のことが離れない。
話は自然とそこへ向かう。
「それにしても、ここまで忙しいとはね」
「ホントだよねえ。一応覚悟はしてたんだけど」
「私もそうだけど、そんなの全然役に立ってないよ。毎年こんななの?」
「なんか今年は特に忙しいって話をちらっと聞いた」
「そうなの? じゃあ、来年はもうちょっとまともかなあ」
「いや……噂では、これから毎年こうなるんじゃないかって――」
「やめよう。……今から来年のこと考えるのはやめよう。今、吐き気がした」
「あはは。そうね。吐くまで考えることじゃないね」
年末は、休日返上、家に帰れないほど忙しい期間がある――。
それは、ずいぶん前から聞かされていた話ではあった。 故に、それなりの覚悟はしていたのだが、その忙しさは、つくしを始め、初めて年末を迎える入社一年目の社員達の想像を軽く越えていた。
けれど想像以上だと感じたのはつくし達だけではなかったようで、上司や先輩社員達も、ここまでの忙しさは初めてだと苦笑いする程だった。
つくし達の部署は春に新設された部署で、この時期の仕事量の調整がうまくいっていなかったことが原因のようだ。「前の部署仕事に上乗せしすぎだな、こりゃ」なんて上司達は嘆いていたが、今更それを言ってもどうにもならない。やるしかない、とみんなで気合いを入れて、本当に休日返上、不眠不休で働かないと処理しきれない程の仕事に埋もれて終わりの見えない状態で過ごすこと、早数日。
タイムリミットまであと半日というところで、ようやく、本当にようやく、ゴールがわずかに見えた気がしていた。
「私、全部終わるかなあ」
「あと半日かあ。明日は清掃業者が入るから、仕事は出来ないんだったよね」
「……もうこうなったら朝までやるかな。明日から三連休なんだし、それもアリだよね」
「あはは! 美穂は開き直ると強いよね」
「開き直らなきゃやってられないよ。清掃業者に追い出されるまで居座ってやろうかしら」
鼻息荒く言い切って、勢い任せにアイスティをゴクリと飲む美穂は、実に勇ましい。けれどどこかかわいい。その姿に笑みを浮かべて、つくしはケーキを頬張った。
「にしても、金曜日が祝日、土曜日がクリスマスイブ。日曜日がクリスマス。彼氏さえいたら楽しくて仕方ない連休なのに、何の予定もないって悲しすぎる」
アイスティーのストローを指先でもて遊びながらため息を吐いた美穂に、つくしは小さく微笑んだ。
「仕事仕事であっという間に週末、しかもクリスマスだもんね」
「いいじゃない、つくしは。彼氏がいるんだから」
「そりゃいるけど……」
「クリスマスは、やっぱりデートするの? もうどこへ行くとか決めてる?」
興味深げな瞳がつくしに向けられた。
ずっと内緒にしてきたあきらの存在を彼女に話したのは、つい最近のこと。ただし、「付き合ってる人がいる」という事実だけ。
十日ほど前、部署内の女性社員の間で合コンの話が持ち上がった。
年頃の女性が多いわりには彼氏のいない率も高くて――美人で性格の良い人間ばかりなのに、どうしてみんなフリーなんだと不思議に思っているつくしだが、仕事が忙しい、高望みし過ぎ、高嶺の花だと思われているなど、まあ理由はいろいろあるのだろう――、今までも何度も合コン話はあった。
けれどその度に、つくしはなんだかんだと理由をつけて断ってきた。
今回もやはり同じように断ったのだが、なかなか諦めてくれなくて、いつも以上に苦労した。それを手伝ってくれたのが美穂で……そしてついに言われたのだ。「彼氏、いるんでしょ?」と。
今までは、そんな人はいないと突っぱねて来たのだが、今回はそう簡単にいきそうになかった。
ここのところ、あきらとランチするために昼休憩に外へ出る回数が多かったこともあり、彼女は確信に近いものを持っていたようで、「つくしを観察した結果、そういう結論になった」と言い切った。そうなると、下手に隠す方が怪しいように思えて、どうしようかと悩んだ末、相手があきらであることを言わなければいいか、と白状したのだ。
つくしが「実は学生時代から付き合ってる人がいる」と言うと、彼女は満面の笑顔を浮かべた。
「やっぱりね。ずっとそうだろうと思ってたよ」
「ごめんね。ずっと嘘ついてて」
「ううん。そんなのは全然いいよ。これだけ居ないって言い張るからには、きっと何か話せない理由があるんでしょ? だから今まで追求しないでいたんだし」
「美穂……」
「私こそごめんね。本当は今だって言うつもりなかったんだよ。でもあのしつこい誘いに毎日困り果ててるつくしみてたら、私のことくらい頼ってくれてもいいんじゃない、って思っちゃったんだよね」
「……うん。助かった。ありがとう」
「ううん」
「あのね、美穂――」
「あー。大丈夫。もちろんこれからも無理矢理訊き出すつもりなんてないよ。だから安心して」
美穂は優しく笑っていた。彼女がどんなことを想像して言っているのかはわからなかったけれど、つくしはその優しさがとても嬉しかった。
これからは、何もかもを隠したりせず、話せることは話そう。まだ、あきらの名前を話す勇気はないけれど。でもそれもきっといつか。
今はそんなふうに思っている。
「クリスマスは、まだ未定。でも多分この調子だと、何もなく終わりそう」
「そうなの? 誘われてないの?」
「今、日本にいないの」
「へ?」
「海外出張中。ロサンゼルスに行って、今は移動してロンドンみたい」
「ロサンゼルスにロンドン!?」
驚きに目を丸くした同僚に、つくしは小さく肩を竦めて頷いた。