夕闇色の恋歌
COLORFUL LOVE view of AKIRA
 ふいに、ひやりと冷えた空気を感じた。
 書類を捲る手を止めてぐるりと見渡すと、リビングの端、俺の座るソファからは一番離れたところの窓が、ほんのわずかに開いている。バルコニーに通じるその窓が開いている理由は、すぐに思い当たった。
壁に掛けられた時計をちらりと見る。彼女が「コスモスの様子を見てくる」とバルコニーへ出てから、すでに三十分近くも経っていた。
 ――まさか、あれからずっと外に?
 俺は慌てて立ち上がった。



 外に出ると、あたりはすでに薄暗く、思った以上に空気が冷えていた。日に日に早まる夕暮れ。日中のぽかぽか陽気が嘘のような肌寒さ。そして、きれいに咲いたプランターのコスモス。
 秋の深まりを感じるには十分な条件のそろったルーフバルコニーの一番端、手すりの前に立ち、何かをじっと見つめる後姿を見つけた。
  
「つくし」
  
 びくっと肩を跳ねさせてから、くるりと振り向いたつくしは驚いた表情を浮かべていたが、俺の姿を捉えると、ふう、と安堵の溜息を吐き、その表情を笑顔に変えた。

「びっくりした」
「そんなに驚いた?」
「うん。なんにも音がしなかったよ」
「いつまでも戻ってこないから、どうしたのかと思ってさ」

 風邪ひくぞ。言いながら歩み寄る俺に、平気だよ、と笑って、つくしは再び手すりの外に目を向けた。

「夕焼けを見てたの」
「夕焼け?」
「うん。すっごくきれいだったんだよ。ほら、まだあっちの地平線ギリギリに色が残っているでしょ?」

 隣に立ち、つくしが指さす方向を見ると、たしかに夕焼けの残像のような淡い色が残っていた。

「太陽が沈んだらね、空の色がどんどん変化していったの。真っ赤だった空が、だんだん薄くなって、……うーん、何色って言えばいいのかな。ピンク色にも見えたし、うす紫色にも見えたし……ああ、もっと色の名前を知っていたらいいのに」

 悔しそうに、けれどどこか楽しそうに言うつくしに、俺はくすりと笑みが漏れた。

「夕闇色だったかな、たしか」
「夕闇色?」
「ああ。日が沈んでから月が出るまでの間のことを『夕闇』って言うだろ?だから、その間に見える空の色を総じて『夕闇色』って言った気がする。まあ、正式な色の名前じゃないだろうけどな」
「へええ。夕闇色かぁ。……いいね。すてきな響き。うん。その名前がぴったりかも」
「哀愁漂う秋の空って感じ?」
「うん、まさにそのとおり。本当に、すごく、すごくきれいだった」

 今見た光景がまだはっきりと浮かぶのだろう。つくしは、夜の色が滲み始めた空をじっと見つめている。とても、愛おしそうな深い表情で。
 俺は、そんなつくしの横顔を見ていた。
 もう何度となく見ているこの横顔。けれど、いつも同じことを思う。

 空を見上げるつくしの横顔は、悲しいほど美しい。

 初めて意識したのは、公園のブランコで三日月を見た夜。心の奥底にほわんと何かが灯った気がしたけれど、何もかもに気付かないフリを決め込んで、すぐに封印した。
 次は、司がニューヨークに旅立った日の夕方。類の家からの帰り道。心の奥底でさわりと何かが揺れたけれど、やっぱり気付かないフリをした。
 ――そのあとは、もう覚えきれない。学校で、街で、俺の家の庭で、つくしの部屋の窓辺で……何度も灯って、何度も揺れて、その度に気付かないフリをして、封印して……いつしか、気付かないフリでは誤魔化しきれなくなって、封印は形だけになっていて、想いはするりとあふれ出ていた。
 この想いが成熟することなど、あり得ないと思っていた。この「恋」と呼ぶには深すぎる「真剣な片想い」が、「真剣な両想い」になることなど、もはや想像したことすらなかった。
 けれど、それは現実となった。

 司とつくしが別れ、俺とつくしの距離が少しずつ変化していった。ゆっくりゆっくり築き育んだ関係が「真剣な両想い」という位置に落ち着いた時、なによりも非現実的に思えていたそれが、なによりもしっくりくることに気付いた。
 総二郎も類も、司までもが――おそらく本人にとっては、出来ることなら認めたくない現実だろうけれど――、「何よりもシンプルで、誰よりもナチュラルで、理想的で現実的だ」と口を揃えた。
 なってみれば、それは最初から決まっていたことのように思えるほどだった。
 それからの日々は、穏やかで優しい一方で、自分の未熟さと向き合うことも多かった。片想いが両想いになったら、そこから先には幸せばかりが待っている、などという子供じみた考えでいたわけではないけれど、わかっているつもりでいた「両想い」の現実は「わかっているつもりだった」だけで、本当は何一つわかってなどいなかったことを嫌というほど感じることとなった。
 相手は、何も持たない、何も求めない、けれどしっかりとした意思と正義感を持ち、誰と付き合おうがどんな状況に追い込まれようが、ひたむきに庶民であり続ける、牧野つくし。それまでさんざん相手にしてきたマダムとはあまりにもかけ離れた女。
 百も千も承知で始めたこととはいえ、何もかもが、今までの恋愛――「ごっこ」かもしれない――とは異なっていた。大人ぶって平静を装い、余裕を感じさせながら、実のところ、戸惑い翻弄され続けた俺。そんな自分を偽れば偽るほど、苦しくなってうまくいかなくなって……挙句の果てにはケンカになって――そういえば、あのケンカもこんな空の下だったっけ――今までの俺ではあり得ないような醜態をさらした。ほんの少しプライドを捨てて、ほんの少しわがままになって、自分に正直になればよかっただけなのに。
 今となっては、青過ぎて、若すぎて、恥ずかしい。類に怒られ、総二郎に呆れられ、あの司にアドバイスされる俺。思い出すだけで、今でも胸に痛みが走る。
  
 それでも。
 今、俺とつくしは、ここにいる。
 ずっと変わらぬ横顔で空を見上げるつくしがいて、それを穏やかな気持ちで見つめることの出来る俺がいる。
「真剣な両想い」の中で得たものは、苦々しい想いばかりではない。むしろ、そんな想いがかすんでしまうほど大きいものがある。想い人が同じように想ってくれるということは、とんでもなく幸せなことだということを知った。
 俺は牧野つくしを愛していて――それも、自分で感じていた以上に深く愛していて、言葉では言い尽くせないほど大切に想っている。その幸せの為なら、どんなことでも乗り越えようと思える。
 つくしがいてくれるだけで、どんなことでも乗り越えられると思う。
 それが、――そういうことのすべてが「幸せ」なんだ。


 俺は、つくしをそっと後ろから抱きしめた。彼女はごく自然に腕の中におさまって、胸の前で組まれた俺の手に自分の手をそっと重ねた。抱きしめたその身体はあまりにも冷えていて、もっと早くこうしていたら良かったと後悔した。

「美作さん、あったかいね」

 もっと早くこうしてもらえば良かった。
 俺の考えを読んでいたかのような言葉をしみじみ言うつくしに「おまえが冷たすぎるんだよ。もう中に入ろう」と促してみたけれど、返ってきたのは全然違う言葉だった。

「ねえ、美作さん。あのケンカ、覚えてる?」
「あのケンカ?」

 つくしは腕の中から俺を見上げて言葉をさらに言う。

「真っ赤な空の下でした、あのケンカ」
「覚えてるさ。もちろん」

 今、それを思い出していたところなんだから。
 俺の独り言ともいえる呟きをしっかり聞き取ったつくしは「えーっ、美作さんも思い出してたんだーっ」と、大口をあけて笑った。

「あたしも夕焼け見てたら思い出しちゃって、思わず一人で笑っちゃった」
「なんで?」
「だって、美作さんがあたしと言い合いしたんだよ? 誰が通るかも誰が聞いてるかもわからない公園で。しかも大声で」

 あたしじゃなくて、スマートで大人な美作さんがだよ。
 くくくっと肩を揺らして笑うつくしは本当に楽しそうで、俺は軽い戸惑いを覚えた。同じことを思い出しても、それに伴う感情が何故こんなにも違うのか。俺は、自分の未熟さや不甲斐なさに対する痛みやほろ苦さまで伴うというのに。

「おまえ、ずいぶん楽しそうだな。俺、そんなに楽しく思い出せないんだけど」

 どちらかというと、思い出したくない部類だ。眉をひそめて言う俺に、つくしは笑顔で言った。

「あたしにとってあのケンカは、大事な大事な思い出だよ」
「大事な思い出?」

 ますます眉をひそめる俺に、変わらぬ笑顔のつくし。

「だって、美作さんの気持ちがたくさん、たくさんわかったから」

 ……俺の、気持ち?

「あの時の美作さんってば、すごかったよ。いつも優しくていつも大人で、どんな時でも安定感があるのに、あの時はそうじゃなかった。すごいこともいっぱい言ってたしね。俺はそんなに大人じゃない。とか、俺だけを見て俺だけを想って、ずっと……――ああっ、ダメ! 思い出すだけで恥ずかしくて顔から火が噴きそうだよ」

 言いながら恥ずかしさが甦ったのか、俺から視線をそらして、目の前に広がる闇を見つめた。そして、闇に向かって言った。

「そんな独占欲丸出しの言葉、美作さんの口から聞けたんだよ。最大級の愛の告白だった。あれは」

 冷静になって思い返すには、恥ずかしすぎるけどね、あたしには。
 闇に溶けていくような響きだった。その響きが俺の中で広がって、俺をいっぱいにした。
 俺は、ダメな自分ばかりを思い出していた。あのケンカが俺達にとって必要なものだったことは間違いない。でも、やっぱり一番に思い出すのは情けない俺で、つくしもそうなんじゃないかと、勝手に思っていた。つくしに「最大級の愛の告白」と言われるなんて、思いもしなかった。
 胸がいっぱいで、俺はつくしを見つめるだけで、言葉が出なかった。
 つくしは、腕の中でくるっと身体ごと振り返って俺を見ると、ドキッとするほどきれいに笑った。

「嬉しかったの。最大級の愛の告白。美作さんの不安とか躊躇いとか……そういうのも知れて、ほんと、嬉しかっ――んっ」

 ――言葉を最後まで聞くより先に、つくしの唇に噛みつくようにキスをした。身体の奥底から愛しい気持ちが込み上げて、どうしようもないほどに俺を支配する。触れ合えば、甘い唇の感触にその想いがさらに膨らんで、止め処なく押し寄せた。
 心のままに熱を貪り、ようやく唇を離した俺は、つくしをきつく抱きしめる。「愛してる」と囁くと、腕の中で「もうっ。突然なんだから」と甘い抗議の声がした。

 抑えられなかったんだよ。
 キスも愛の言葉も、今こそ必要だったんだよ。もっともっと強く抱きしめて、もっともっとキスをして、込み上げてあふれる想いのすべてを注ぎ込みたいくらいだよ。何回も何十回も何百回も「愛してる」を注ぎ込みたいよ。
 でも、それを言葉にはしなかった。俺の背中にそっと回された腕が、嬉しかったから。その腕から、つくしの想いが流れ込んできたから。


「……くしゅんっ」

 腕の中から、小さなくしゃみがした。
 あたりは完全に夜の闇に支配され、それと同時に気温もさらに下がってきていた。

「つくし、部屋に入ろう。マジで風邪ひく」
「うん」

 抱きしめる腕をゆるめると、そのままつくしの腰に手を回し、歩を促した。

「これから毎日、こんな素敵な景色を見れるんだね。朝焼けも、夕焼けも、もちろん青空も」

 歩きながら、「楽しみができちゃった」と笑うつくしに、俺も自然と顔がほころぶ。

「良かっただろ? ここにして」
「うん、良かった」

 二人の新居にと購入したマンション。最初こそ「立派すぎて、気後れする」とどこか落ち着かない様子だったけれど、足を運ぶたびに、ひとつ、またひとつと自分のものを増やし、使い勝手のいいように微調整していくうちに、自分のテリトリーとして馴染んだのだろう。今では、どこよりも落ち着く場所となっているようで、「ここは、ただいまって言葉がしっくりくるのよね」と言っているつくし。
 来週、つくしは正式にここの住人となり、二人の同棲生活が始まる。


「あ、美作さんだ!」

 突然声をあげるつくしに、何事かとその視線を追うと、見上げた空には三日月が浮かんでいた。

「あのなぁ……三日月見るたびに俺の名前を言うなよ」
「簡単には切り離せないよ。連想ゲームみたいなものだしね」

 苦笑いを浮かべ、「なんだよ、それ」とため息まじりに言う俺に、嬉しそうにつくしは笑う。

「じゃあ、おまえも三日月だな?」
「なんであたしが?」
「おまえだって、もうすぐ『美作』だろ?」
「そ、それはっ……そうなんだけど」

 途端に頬を染め、そうだけど、そうじゃないっていうか……と、小さな声でごにょごにょ言う。
 結婚という現実は、式の日取りが決まり、招待客も決まり、招待状発送の手筈もほぼ整いつつあるほど具現化していて、ここ最近はそれに関する話を耳にしない日はないほどなのに、同じ名字になるという現実にはいつまでもウブな反応を見せるつくしを、深いところで愛しいと思う。
 ――そうだ。ならばつくしに、ひとつ提案をしてみよう。

「俺が三日月で、おまえが違うって言うなら」
「言うなら、何?」
「おまえが『美作さん』っていう呼び方を変えたらいいんだよ」

 きょとんと俺を見つめるその瞳に、微笑んで。

「そろそろ『あきら』って呼べばいいんだよ。つくし」

 つくしの頬が見る見る染まり、暗闇でもわかるほど赤くなった。

「どっちにする? 三日月を見るたびに『美作さん』と言うのをやめるか。俺を『美作さん』と言うのをやめるか」

 前にそんな話をした時には「無理」と即答された俺としては、今度は後者を選んでほしいけれど、ここはつくしにまかせよう。
 ゆるりと笑う俺に、つくしは「えーっ」と困り顔をして、俺と三日月を交互に見た。
 そして、一瞬の沈黙ののち。

「決めた!」

 叫んでぴたっと立ち止まったつくしは、息をすうっと吸い込んだ。その口から紡がれた言葉に、俺は完全にヤラれた。






 夜の闇はさらに深く、月明かりだけが支配する夜空をじっと見上げる。
 ルーフバルコニーには、俺一人。
 ミイラ取りがミイラになった、ってこのことだな。

 とんでもない言葉を放ったつくしは、真っ赤な顔をして言い逃げとばかりに部屋の中へと駆け込んだ。あまりのことに思考回路が完全にストップしてしまった俺は、つくしを追うこともできず、気づけば一人呆然と立ち尽くしていた。

 ――さて、どうしたものか。

 慌てるつくしが見れる予定だった俺からの提案に、俺が翻弄されている。
 高校時代の淡き光が、まさかここで輝こうとは……。

「これっぽっちも予想してなかったぞ。マジで」

 思わずこぼれる独り言と、どうにも抑えきれない喜びと。そわそわ浮き立つ俺がいる。

 ――さてさて、どうしたものか。

 夜の闇はさらに深く、浮かぶ三日月だけが俺を見ている。
 俺はそれを見つめ続ける。じっと、じっと……三日月と心が一つになるほどに。

「よし。決めた」

 僅かに気合いの滲む言葉を口にする。
 部屋に戻ろう。いつもどおりの俺で、いつもどおりの態度で、つくしの作る夕飯を食べよう。そして、教えてやろう。

 ――『あの三日月が、満月になったらね。あきらさん』

 つくしの声が耳に残る、今宵のうちに。たくさんのキスと愛の言葉を身体中に降らせながら。



 向かう窓からは温かな灯りが漏れている。一歩、一歩と近づきながら、愛しい彼女の笑顔を思い描く。
 俺の言葉に、おまえはまた顔を赤くするのかな。照れたように目を反らして、それでも嬉しそうに、幸せそうに微笑んでくれるのかな。

 愛しい想いが溢れ出て、月明かりに煌めいた。

 俺はもう、三日月じゃない。おまえがいるから。

Fin.
After Word ―俺を満月にするキミに
2008.12 夕闇色の恋歌
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