それは桜色の木洩れ日
COLORFUL LOVE

寒い寒い冬がようやく過ぎ去り、暖かな春がやってきた。
三月三十一日。この春一番のポカポカ陽気。
ここのところ、連日バイトと就職活動に奔走して、家には寝るためだけに帰るような毎日を送っていたつくしだが、今日はすべてお休みで、朝から緩々と時間を使っている。
掃除をして、本を読んで、そして今は、陽当たりの良い窓辺に椅子を引き寄せ、開け放った窓から時々吹き込んでくる柔らかな春風を感じながら、桜の咲き始めた景色を眺めていた。

明日から、四月。
明日から、つくしは四年生になり、大学生活最後の一年を迎える。




 *




桜の蕾が色づき始めた三月の穏やかな日。
英徳大の卒業式が行われた。
F3が大学を卒業するという事実がどうもピンとこないつくしは、桜子に連れられて卒業式場へとやってきた。
英徳大の卒業式というからには、庶民のつくしでは到底思いつかない豪華な催し物でもあるのか思えば、卒業生のみ参加の普通の卒業式がひっそりと行われるだけ。ド派手なプロムがあった高校の卒業式のイメージが強かっただけに、つくしは少々拍子抜けしていた。
けれど、式場周辺は「ひっそり」とはいかないようで、キャーキャー叫ぶ女の子たちや、在校生と思われる人たちでごった返していた。
そのあまりの凄まじさに、つくしの足が止まった。

「ねえ、桜子」
「なんですか?」
「普通の卒業式がひっそりと……って言ってたよねえ?」
「はい」
「これが、お金持ちの『ひっそり』なの? どう見ても、お祭り騒ぎ――っていうか、アイドルのコンサート会場って感じがするんだけど。それとも、実は在校生も参加だった?」
「それはないですよ。式は卒業生だけです。多分これは、F3目当てに集まった野次馬ですね」
「は? なんで?」
「なんでって……F3が揃っているところなんて、これが見納めかもしれないじゃないですか。ひと目見たいと思うのがファンの心情ってものです。それに、在校生からしてみたら、お知り合いになれる最後のチャンスかもしれませんからね」
「でも、これ集まりすぎじゃない?」
「そんなことないですよ。最後のチャンスですもの」
「そんなものなの?」
「……今さら何言ってるんですか?F4の人気は、牧野先輩だってよく知っているでしょう? 道明寺さんは海の向こうですけど、F3になっても、その人気に変わりなんてなかったじゃないですか」
「……」

たしかに桜子の言うとおりで、彼らの人気は大学に入ってからも絶大だった。
行動を共にすることの多かったつくしは、常に周りからの視線は感じていたし、厭味なことを言われたりされたりしたことも一度や二度じゃない。
卒業式ともなれば、きっといろんな人が集まってくるんだろうとも思っていた。
けれど、ここまで凄まじいとは思わなかった。
これでは、彼らにたどり着くことは不可能だ。

「桜子、帰ろう」
「は? 何言ってるんですか?」
「無理だって、これじゃあ。こんな中に入れないもん。どう考えても辿り着けないわよ」
「大丈夫ですよ。行きましょう」
「嫌よ。第一どうやって探し出すのよ」
「それこそ簡単じゃないですか。この人だかりのど真ん中ですよ、間違いなく」
「……尚更やめようよ。この状況であの三人と一緒にいたら、あたし達、無傷じゃ帰れないよ」

つくしは、本気でそう思った。
けれど桜子は、そんなつくしを笑い飛ばし、がしっとつくしの腕を掴んだ。

「大丈夫です。牧野先輩、美作さんに来るって言ったんでしょう? 美作さん、きっと今か今かと待ってますよ。あの人達のことですから、静かに会える場所を確保してるはずです」
「いや、そうだけどさ」
「さ、行きますよ」

つくしの抗議など全く受け入れる様子のない桜子に引きずられるようにして、つくしは渋々歩き出した。

人を掻き分けながら中へ中へと進んでいくと、案の定、その中心に彼らがいた。
つくしと桜子を見つけて「よおっ」と手を上げたのは、さすが人だかりが出来るだけある、特有のオーラを纏ったF3。
けれどそれは、言いかえれば、いつもと変わらないF3だった。
「卒業おめでとうございます」と可愛らしく頭を下げた桜子の横で、「本当に卒業できたの?」と疑わしそうな視線を送るつくしに、三人は「当然」と笑った。
手には卒業証書があったけれど、それを見ても、つくしには彼らが卒業したという実感が、やっぱり湧かなかった。
ただ、いつもと変わらないことに、ホッとした。


「卒業式が退屈で疲れたから、卒業記念に一番陽当たりの良い場所で昼寝がしたい」という類に、呆れたり笑ったりしながらも、結局みんなで不揃いな芝生に座った。
桜子の言うとおり、彼らは敷地内の半分ほどを貸し切っていて、そこはさっきまでのあの騒ぎが嘘のように静かだった。

「なんだか寂しくなりますね」
「まあな」
「もっと遊びたかったなあ」
「たっぷり遊んでたと思いますけど? 西門さん」
「おまえ、結局何人の女と付き合ったんだよ?」
「さあな……って、類はもう寝てるのか?」
「……みたいですね」

寝転んだり座ったりしながら他愛もない話をする様子は、本当にいつも通りで、何一つ変わらない日常のままだった。
けれど、もうここで彼らを見かけることはないのだと思うと、心の奥にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。
いつも一緒にいたわけじゃない。一人の時だってたくさんあった。
でも、いつも一人だったわけじゃない。彼らと一緒の時がたくさん、たくさんあった。
だから多分、いや、絶対に寂しく感じるだろう。
司がニューヨークへ行ってしまった、あの春のように。

 ( あの頃は、いつも類が居てくれたんだっけ。 )

転寝する類を見ながら、本当にたくさん助けてもらったと、何年も前の出来事をしみじみ思った。
でもあの寂しさは、つくしが司と付き合っていたからで、ニューヨークというとても遠いところに行ってしまったからで、今とは状況が違うということもわかっていた。

「牧野」

声のほうを振りかえると、あきらが心配そうにつくしを見ていた。

あの頃と今とは、全然違う。
つき合っているあきらは、すぐ傍にいる。
きちんと日本にいて、会いたいと思えば会うことだって出来る。

「どうかしたか?」
「なんでもない。もう春なんだなあって思って」
「そうだな。でもまだ風は冷たいな。類のやつ、よく寝られるよ、こんなとこで」

あきらの視線を追って同じところを見れば、そこには類が横になっていた。
すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきそうな程、気持ち良さそうな顔をして。

「類も四月から働くのよね。仕事中に寝ないといいけど」
「ホントだよな。たまに電話きて起きてるか確認したほうがいいかなあ」
「うん。ぜひそうしてあげて」

二人はクスクスと笑う。
笑いながら、つくしはあきらの顔をそっと見る。
そこにはいつでも変わらない、穏やかで優しい笑みが浮かんでいる。

「美作さん」
「ん?」
「卒業、おめでとう」
「……ありがとう」

柔らかにその瞳が細められた。

「これから忙しくなるね」
「そうだなあ。でも、だからどうだってこともないんだけどな」
「覚悟の上、だから?」
「まあそれもあるし」
「……あるし?」

次の言葉を待つつくし。
あきらはそっと囁くように言った。

「牧野との時間が変わるわけじゃないからな。俺にとっては何も変わらないのと一緒さ」

 ( ほら、全然違う。 )

あの春とは、全然違う。
「身体冷やすなよ」とマフラーを巻き直してくれるあきらは、こうして目の前にいる。
頬をかすめたその指に触れたいと思えば、触れて確かめることも出来る。

 ( 全然違うよ、あの頃とは。 )

それはつくしの中に小さな安堵をもたらす。
――けれど、どういうわけか心はあまり軽くならなくて、ぽっかりと開いた穴は、塞がりそうにもない。
卒業して社会人になっても何も変わらない。
それはきっとそうであるに違いないのに。
それでもこの場所からあきらがいなくなる。類と総二郎がいなくなる。
彼らの卒業に実感が湧かないつくしもいるけれど、じわじわと押し寄せる寂しさを感じるつくしもいて、そんな自分に戸惑った。





翌日、あきらはイギリスへ旅立った。
美作商事の新入社員は全員、東京の本社で入社前研修を受けるのだが、あきらだけは違うのだと言っていた。

「同期入社になる連中は俺を『特別扱いしてる』って言うかもしれないけど、優遇じゃなくてむしろ逆だよ。何にも知らない御曹司をガッツンガッツン叩いてしごいてやろうっていう魂胆。まぁ、親父が決めたことなんだけどさ。いずれ会社を背負って立つわけだから、みんなと同じで良いわけがないもんな」

空港まで見送りに行ったつくしの横を歩きながら、あきらは至極当然とばかりにさらりと言って、「頑張るさ。早く一人前にならないとな」と笑った。
その言葉も表情もあまりにも自然で、つくしは一人取り残されたような気分になった。
そんな自分に違和感を覚えて、ただ曖昧に笑みを浮かべるしかなかった。




飛行機が轟音を響かせて次から次へと飛んでゆく。
つくしは、しばらく呆然と立ち尽くし、なんとなくそれを見上げていた。
あきらの乗る飛行機がどれなのか、どう探してもわかりそうにもないけれど、この飛び立つ飛行機のどれかに乗っている、そう思ったら、突然寂しさが押し寄せてきた。

入社式までには必ず帰って来ると言っていたから、日数にしたら十日足らずだろう。時間を見つけて連絡するとも言っていたから、音信不通になるわけでもない。春休み中は、バイトの予定もたくさん入れてある。就職活動だってしなきゃならない。十日なんて、あっという間だ。
頭ではそう思うのに、心は寂しくてたまらなかった。

あきらと付き合って三ヶ月。
その日々は、つくしが想像していたものとはかなり違っていた。
いつも全力疾走だった司との日々が、恋愛経験のすべてだったつくしにとって、あきらとのそれは、散歩をするような緩いテンポで、ともすれば、恋愛中であることを忘れそうなほど自然なものだった。
思ったよりつまらない男だった、とか、思ったほど夢中になれない、とか、そういうことでは全くない。
あきらは、それまでの友人関係の中で知り得た以上に深い優しさを持っていて、いつでも絶妙な距離感で傍にいた。
甘やかされているわけでも、放り出されているわけでもなく、本当に心地良い自然な距離感だった。
あまりにも自然で、本当に本当に自然な優しさで――。

 ( ああ、そっか。だから……。――あたし、大バカ者だ。 )

つくしは、とても大切なことをわからずにいた。
今、それに気付いた。

あきらとの三ヶ月は、とても緩やかだったけれど、そこには溢れるほどの優しさがつまっていた。
いつでも傍にいて、いつでも守られていた。 気付かぬうちに、つくしはいつだってあきらの優しさに包まれていた。優しさしか、存在しなかった。
――それが、あきらの愛で、愛し方だった。
この三ヶ月間、今までと何ら変わることのない日常の延長にあきらとの日々があったから、あまりにも自然に傍にいたから、たくさんの変化やたくさんの大切なことに気付かずにいた。
今気付いたことに、今まで気付かなかったことに、頭と心がくらくらした。

 ( あたし、こんなにこんなに美作さんに嵌まってる。 )

だから、あきらが隣にいないというだけで、こんなにも寂しくて、心細いのだ。
十日でも、いや、きっとそれが五日でも三日でも、もしかしたら一日でも、同じように寂しいだろう。
それは、つくしがあきらを愛しているから、あきらがつくしをいつも傍で愛してくれていたから。与えられていた優しさのすべてが、あきらの愛だったから。

ようやく気付いたその事実に、つくしは胸がいっぱいになった。
息を深く吸い込むと、心の奥底にスーッと柔らかな風が流れ込んだ気がした。
感情が揺すられて、涙となって溢れそうだった。


空を見上げて、飛び立つ飛行機に思い切り手を伸ばしてみる。
頭上高くを飛んでゆく飛行機なのに、今にも手が届きそうだ。
でも、現実には、絶対に届かない。
それが今のつくしには、ひどくもどかしい。

――「早く一人前にならないとな」――

あきらの言葉が頭の中で再び響いた。
早く一人前になってどうすると言うのだろう。
それが聞いた時のつくしの率直な気持ちだった。
そう言ったあきらがとても遠く感じられて、言葉を胸に痞(つか)えさせたまま、曖昧に笑うしか出来なかった。
でも今なら、ほんのちょっとだけ、「もしかして」と思い当たることがある。
なぜ、早く一人前になろうとしているのか。なぜ、あんなに強く自然に前を見ていられるのか。
それを確かめる勇気は、まだまだつくしにはないけれど。


無造作にポケットに突っ込んだ携帯電話を出して開く。
そこには電源を切る寸前に送ったであろうあきらからのメールが表示されている。


――――

差出人:美作さん
件名:いってきます
本文:帰ったら、真っ先に会いに行くから。待ってろよ。

――――


その優しさが今更胸に沁みて、目の奥が熱くなる。
心がもやもやしていて返信しなかったことを悔やんでも、もう遅い。
あきらは、空の上にいる。

今返信したら、イギリスで読んでくれるだろうか。それとも、いろいろ考えさせて心配させるだけだろうか。
閉じた携帯電話を握りしめながらどんなに空を見上げても、その答えが出ることはない。
見上げた分だけ、伝えたい言葉が降ってくるだけだった。

この、ぽっかりと穴が開いたような寂しい気持ちは、あきらが帰ってくるまで晴れることはないだろう。
でも、自分らしく待つことは、出来そうな気がした。
バイトをして、就職活動をして。忙しい毎日を送りながら、やるべきことをやりながら。

「がんばれ、つくし! ……よしっ」

つくしは再び携帯電話を開いて一通のメールを送信すると、前を向いて歩き出した。


――――

宛先:美作さん
件名:いってらっしゃい
本文:美作さんが帰ってくるの、楽しみに待ってるね。

――――




 *




桜色に染まりつつある見慣れた景色。
きっと近くの桜の木からだろう、時折花びらが風に乗って舞ってくる。
なんて穏やかなんだろう、と思わずやわらかな溜息が零れる。



あきらは、約束通りイギリスから連絡をくれた。
最初の電話は、着いたばかりの空港からだった。

『電話が無理な日は、メール送るよ。あ、でも、何かあったらいつでも掛けてこいよ。遠慮はいらないからな』

その声があまりにも優しくて、つくしは涙が出そうになった。
「寂しいだけでも電話していいの?」なんて思ってしまったそんな自分が少し恥ずかしくて、誤魔化すように、「何かあったらって、何があるの?」と言うと、『寂しくてたまらない、とか、声が聞きたい、とか。』なんて、まるで心を読まれたような言葉が返ってきて、余計に涙が出そうになった。

本当にすごく忙しいようで、電話はあまり掛ってこなかったけれど、メールは毎日届いた。
時には写真付きで、オフィスの窓や外出中の車窓から見えるイギリスの街並みが届けられた。
そのどれもが、あきらの優しさでいっぱいだった。
離れていても、その優しさに包まれているんだと感じた。


『三十一日に帰るよ。入社式ギリギリになっちゃったな、結局』と連絡が来たのは二日前。
「家で待ってる」と言うつくしに、『何時の飛行機で帰れるか俺にもわからないから、着いたら連絡するよ。バイトとかあるだろ?』と言うから、「何もないよ」と答えた。
「本当は空港で一日中待っていたいくらいだよ」と思ったけれど、さすがにそれは言えなかった。
でもあきらは、そんなつくしの心を読んだように、言った。

『じゃあ、家で待ってて。着いたらまっすぐ向かうから。必ず、家に居ろよ』

やっぱり、涙が出そうになった。



何日か前に総二郎に会った。
その時、しみじみ言っていたことがある。

「あきらの優しさは、誰にも真似できねえ。生まれ持った才能だからな、あれは。離れるとわかるだろ? どれだけあいつが優しいか。普段は当然のように思ってるけど、そうじゃないんだよな」

本当にその通りで、つくしは黙って深く頷いた。

帰り道に通った早咲きの桜の下で、つくしは思わず佇んだ。
満開の花の間から差し込む木洩れ日が、あきらの優しさによく似ていた。



こんなに穏やかな気持ちでいられるのは、あきらのおかげだ。
寂しさや心細さに押し潰されずに、やってきた春を、咲き始めた桜を、こんなふうに緩やかに眺めていられるのは、あきらの優しさがいつでも傍にあるから。

 ( 早く、会いたいな。 )

桜色の春風に、つくしの想いが舞い乗った。
ふわりふわりと、愛しい人に届けばいい。



ピンポーン――

玄関のチャイムが鳴リ響き、来客を告げた。
刹那、もしかしてあきらだろうか、と思ったけれど、こんなに早いわけはないとすぐに思い直した。

 ( そう言えば、ママが荷物送るって言ってたっけ? )

印鑑持って出なきゃ、と思いながらつくしは椅子から立ち上がり「はーい」と返事をする。
ドアの向こうからそれに応えるように声がした。


「俺。……ただいま。」

Fin.
After Word ―春の景色は緩々と
2009.01 それは桜色の木洩れ日
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