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秋色より尚、深く
COLORFUL LOVE
1

「お姉ちゃま、お夕食、食べていくでしょう?」
「お姉ちゃま。一緒に食べましょうよ」

 廊下のど真ん中。
 左手を絵夢、右手を芽夢にぐいぐい引っ張られているつくしは、少々困り顔であきらを見た。助けを乞うその視線、――いや、「助けて」ではなく「どうしよう」の意味合いが強いそれを受け止めたあきらは、小さく微笑んだ。

「いいんじゃないか? 食っていけよ、夕飯」
「え。でも」
「家に帰っても、一人で作って一人で食うだけだろ?」
「そうだけど」
「だったらここで食っていけば、食費も浮くぞ」
「うーん。でも、いいのかなぁ……」

 美作邸の美味しい料理が脳裏に浮かび、口内の感覚を占領し始めた時点で、つくしの心は決まったも同然だったのだが、それでも歯切れ悪い言葉を繰り返すのにはそれなりの理由があった。


 *


 今日、つくしが美作邸にやってきたのは、午前中のこと。連れてきたのは、つくしが大学の門を潜って数分後、まるで待ち構えていたかのように近づいてきたF3だった。

「履修届け、出しに来たのか?」
「出す努力をしに来たの。まだ全部決められてない」
「じゃあ、あきらの家で考えようぜ。俺たちがアドバイスしてやるよ」
「なんで美作さんの家なのよ。アドバイスならここでして」
「おふくろが朝からケーキ焼いてたから食ってやってくれよ。それともこの後バイト?」
「ううん、今日はない。――って、そうじゃなくてさ」
「ねえあきら、タルトあった? 俺、フルーツタルトが食べたい」

 こんな調子の彼らに逆らっても時間の無駄だと、つくしは早々に諦めて、連れられるままやってきた。
 美作邸には、本当にたくさんのケーキが用意されていて、どれを食べても美味しかった。心ゆくまで堪能した後には、きちんと履修のアドバイスもしてくれて、履修届けは明日にも出せる状態になった。あとは、適当に話をして笑って、大学のカフェテリアで過ごすのと同じような時間を過ごした。
 そうこうしていたら、いつの間にかランチが用意されていた。それがまたとても美味しいサンドイッチで、「あんなにケーキ食った人間とは思えない」と呆れられながらも、つくしはパクパク食べた。食後、またゆるゆると時間を過ごしていたら、あきらの双子の妹が小学校から帰ってきて、今度は彼女達と一緒に遊び、おやつに出されたクッキーを食べた。
 ちょうどその頃、類と総二郎は用事があるからと帰っていった。つくしも一緒に帰ろうと思ったのだが、双子はそれを頑として許さなかった。

「お姉ちゃまも帰っちゃうの? もっと一緒に遊びましょうよ」
「いいでしょう? お姉ちゃま。一緒に遊んで」

 かわいい二人のお願いを無碍に断ることもできず、つくしは美作邸に残ることにした。あきらがソファで本を読むリビングの片隅で、つくしは双子と遊んだ。二人の実に子供らしい突飛な発想や可愛らしい仕草に驚いたり笑ったり、緩やかで楽しい時間を過ごした。


 *


 そして、今に至っている。
 つまりつくしは、午前中からずーっとここに居続けて、おやつだ食事だと上げ膳据え膳状態、ついでに言えば、明らかに食べ過ぎ。もちろん、つくしが気にしているのは食べ過ぎなことではなく、上げ膳据え膳状態のほうで、このまま夕飯までご馳走になるというのはどうも気が引けたのだ。だからと言って、「何か作りますからキッチン貸してください」というわけにもいかない。ここにはきちんとシェフがいるのだし、自分の作るビンボー食を――いや、普通の家庭料理だけど、このレベルの食事を毎日食べている人たちには、一般の家庭料理なんて通用しないだろう――「さあ、どうぞ」と出すのは、むしろ迷惑だろう。
 ――でも、さすがに悪いわよね。
 なんだかんだと一日中ここの住人のようにお世話になってしまっていることが申し訳なくて、ついつい返事を躊躇ってしまうのだった。

「一日中居座ってることを気にしてるなら、そんなの今さらだと思うぞ?」

 あきらの言葉は、つくしの頭の中を覗き込んだように的確だった。

「ねえ、なんでわかるの? そんなにわかりやすいかな、あたし」
「ある意味単純、ある意味複雑」
「なに、それ」
「目を瞑ってでもわかる時と、逆立ちしてもわからない時と、ある。どちらの牧野も、実に牧野らしい」
「ふうん。それ、褒めてる? 貶してる?」
「もちろん、褒めてる」
「ふうううん。なんか、褒められてる感じがしない」
「はははっ。難しく考える必要はない。今回は前者だった。それだけさ」

 笑うあきらに、なんとなく納得してしまうつくし。

「夕飯、食っていけよ。な?」
「……じゃあ、ご馳走になります」

 あきらの言葉には、そのすべてを理解しなくても、棘なくするりと入り込む滑らかさがある。 結局つくしは言われるまま、素直に頷いていた。

「わーい! じゃあ、お姉ちゃまのお食事も用意するように行ってくるね!」
「あ、絵夢待って! 芽夢も行くー!」

 歓びはしゃぐ双子は、先を争うようにあっという間に走っていった。あきらはそれを見ながら苦笑して、「牧野、すっかり気に入られてるな」と呟き、つくしもまた、同じように苦笑した。

「あいつら、結構鋭いとこあるからな。おまえがいつでもちゃんと相手をしてくれて邪険にされないことを知ってるから、あんなに懐いているんだよ」
「まあ……ここのところ、頻繁にお邪魔してるから」

 そうなのだ。最近、つくしは頻繁に美作邸に出入りしていた。

 八月の終わり、つくしは司との関係にピリオドを打った。「別れよう」と言ったのは、つくしだった。
 やむを得ない事情を突き付けられた時、このままの関係でいるのはどこか違うと感じる自分がいて、つくしは別れることを決めた。その決定に司はもちろん反対し抵抗したけれど、「やむを得ない事情」は司のほうにあったから、最終的にはそれを受け入れた。でもそれは、「はい、これで終わり」とすぐに気持ちを切り替えられるほど簡単なことではなかった。
 つくしにとって、生まれて初めての大恋愛。司を嫌いになったわけでも、遠距離恋愛が嫌になったわけでもない。曲がりなりにも――二人だけの約束だったかもしれないけれど、婚約までしていて、いつか現実になればいいと、本気で描く未来がそこにあったのだ。自分で決めた結末だったけれど、つくしは深く落ち込んだ。そして、とてつもない寂しさに襲われた。
 司がニューヨークに行った後、二人が会ったのは二年半で三度だけ。電話も最後に会った春からは数えられるほどで、五ヶ月ぶりに掛って来た電話が最後の電話となった。別れる前からそんな状態だったのだから今さら寂しいも何もないはずなのに、何故かどうしようもなく寂しくて、一人で居てはおかしくなりそうなこともあった。
 そんなつくしを心配した友人たちは、毎日のように連絡を取り、家に押し掛けたり家から連れ出したりした。ドライブ、食事、ショッピング、お泊まり会。振り返ってみれば、ほぼ毎日友人の誰かと一緒にいたような気がする。
 中でも一番頻度が高いのがあきらで、一番お世話になったのが美作邸だった。類も総二郎も同じように心配して連絡もくれたし一緒に出かけたりもしたけれど、卒業後に向けて少しずつ動き出していた彼らは東京にいないことも多く、気づけばあきらといる時間がとても長くなっていた。

「もうすぐテストなんだから、この際、うちで合宿するか」
「おふくろが新しいお菓子を作ったから味見してほしいって言ってる」
「妹達と遊んでくれ。出来れば朝飯も一緒に食ってくれると助かるんだけど」

 理由は様々だったけれど、あきらはつくしの家やバイト先に迎えにきては、自分の家へと誘い、夜遅くなれば当たり前に邸に泊まらせた。双子の遊び相手は結構大変で、一緒に走り回る時間は無心になれた。あきらの母親は、いつでもつくしを歓迎してくれた。本当に母親なのかと疑いたくなるほど若々しくて――子供っぽいというか、少女みたいというか――可愛らしくて、とても優しかった。あきらの家は楽しいことがいっぱいで、F4の他の三人の家とは明らかに違う温かさがあった。それをあきらに告げると「これからずっとあの三人の相手してくれてもいいんだぞ」と笑った。

 そんなこんなで一ヶ月が経った今、つくしの心はいつの間にか浮上していて、精神的ショックも寂しさも、少しずつ和らいできていた。そうしたら途端に、あきらやあきらの家にとんでもなく迷惑をかけている気がした。
 ――よく考えると、あたし、ほとんどここでお世話になってるよね。それでいいわけ……ないじゃん! 何してんの、あたし。

「あたし、やっぱり帰るよ」
「は? 何言ってんだよ」
「だってさ。あたし、相当迷惑かけてるよね」
「何が?」
「ほらさっき、美作さん『今さら』って言ったでしょう? そうなのよ、今さらなのよ。ずーっとお世話になりっぱなしなのよ。こんなに甘えちゃって、とんでもないよね、あたし」

 つくしにとっては一大事。改めて考えると、さーっと血の気が引くくらいのことだった。突然慌てたつくしに、あきらは、小さく笑う。

「ほんと、今さらだな、おまえ。別にいいんだって。俺が好きで連れてきてるんだから」
「いや、でもさ。改めて考えてみたら、この一ヶ月、たぶん半分くらい泊まらせてもらってるよね」
「別に部屋には不自由してない」
「でも、ご飯だって――」
「飯も同じ。寧ろ、なんでも美味そうによく食うからシェフたちも作り甲斐がある。しかも、絵夢も芽夢もおふくろも、とても喜んでる」
「いやでも、やっぱり――」
「前にも言ったけど、俺はおまえが三人の相手をしてくれて相当助かってる。親父に言ったらバイト代が出るぞ、きっと。でもおまえは受け取らないだろう?」
「当たり前でしょ!」
「だったら、飯食うのも泊まるのも、バイト代の代わりだと思って気にせずにいろよ」

 やっぱりあきらの言葉は、するりと入り込んでくるのだ。つくしは何も言えなかった。

「そんなふうに考えられるようになったのは、元気になってきた証拠だな」

 あきらは、良かった、と頬笑みながら、ぽんぽんっとつくしの頭に手を置いた。最近あきらによくされるその行為。妹達にしているような自然さで、されるたびにいつも、子供扱いされたかしらと一瞬思うのだが、不快感は微塵もなく、それどころかなぜか安心感が湧いて、そんな自分に驚いていた。
 そこへ、廊下の向こうから、パタパタという慌ただしい足音が近づいてきた。

「お、戻ってきたな」
「絵夢ちゃんと芽夢ちゃんね。足音ですぐにわかる。かわいいよね」
「そうか? 毎日だと疲れるぞ」

 本当に疲れた顔をするあきらに、つくしは思わずぷっと噴き出した。「笑い事じゃないっ!」と怒られたが、ちょうどそこへ、足音の主たちの甲高い声が届いた。

「お兄ちゃまー! お姉ちゃまー!」
「どこにいるのー!?」

 つくしが「こっちだよー」と言うと、廊下の角からぴょこんと二人が顔を出した。パタパタと走り寄りながら、満面の笑みを浮かべている。

「お姉ちゃま、お食事どうぞ、だって」
「ありがとう。絵夢ちゃん、芽夢ちゃん」
「お兄ちゃま、東屋にハーブを摘みに行きましょう」
「……東屋?」

 パフンとあきらの腕に飛び込んだ芽夢の言葉に、あきらは動きを止めた。その隣でつくしも同じように動きを止めた。そんな様子などお構いなしの二人は、瞳をキラキラさせている。

「あのね、夕食にハーブを使うんだって。これから摘みに行くって言うから、芽夢たちが行ってくるって言ったの。ほら、紙に書いてもらってきたわ」
「お手伝いよ。お兄ちゃまと一緒だったら行っていいって言われたの。だから行きましょう。お姉ちゃまも一緒に行きましょうね」
「え? あ……」

 つくしは、咄嗟に言葉が出ない。あきらはそれを見逃さなかった。

「わかった。じゃあ今日は俺が行ってくるよ。芽夢、紙見せて」
「見せるのはいいけど、芽夢たちも一緒に行くのよ」
「今日はやめておけ。もう外も暗くなってきたし、危ないだろ」
「嫌よ。お兄ちゃまが一緒ならいいって言われたもん」
「……じゃあ、三人で行こう。牧野、おまえリビングで待ってろよ」
「なんでお姉ちゃまも一緒じゃないの? お姉ちゃまも一緒に行くの」
「そうよ。四人で行くって言ってきたもの」
「別に四人で行く事ないだろう?」
「あるのー! お姉ちゃまに見せてあげたいお花があるんだから」
「そんなの明日でもいいだろう? もう暗いんだから」
「ダメダメ、絶対ダメ―ー!」

 こうなると、もう誰が何を言っても無駄。あきらは小さく舌を打ち、つくしに向き直ると、慎重に言葉をかける。

「おまえも一緒じゃないと駄目なんだと。……一緒に行くか?」

 その表情はとても優しくて、つくしを気遣っているのがわかった。正直、気乗りはしない。でも、ここでつくしが嫌だと言うとあきらを困らせてしまう。それはしてはいけないことだと思った。

「うん。行く」

 途端に「きゃあ、やったー!」と歓声をあげた絵夢と芽夢は、あきらとつくしの腕をぐいぐい引っ張り、意気揚々と玄関へ歩き出した。「牧野、スマン」と謝るあきらに、つくしは笑みを浮かべて、気にしないで、と小さく首を振った。

 庭に出ると、辺りは薄闇に包まれていて、空気は僅かに冷えている。十月に入って残暑は鳴りをひそめ、秋本番を迎えていた。
 双子が飛び跳ねるように歩いていくその後ろを、あきらとつくしが歩いていく。きゃっきゃとはしゃいだ声を発する双子の後ろで、あきらとつくしは黙ったままだった。

 つくしが東屋に行くのは、あれ以来――司と一緒に閉じ込められた、あの時以来だった。
 つくしは「東屋」という言葉を聞いた時から胸がざわつき、何かを話す余裕などなかった。ひどく緊張していて、心臓がバクバク言っているのがわかる。どうにか落ち着こうと手を強く握り締めてみるけれどあまり効果はなかった。
 あきらは、そんなつくしを心配そうに見遣りながら、黙って横を歩いた。

「お姉ちゃま、見て!」
「見て! 綺麗でしょう?」

 つくしはハッとして足を止めた。気付けば数メートル先を歩いていた絵夢と芽夢が足を止めて同じ花を指差し、つくしのほうを振り返っている。双子が指差す花、それは、コスモスだった。

「コスモスね」
「うん。綺麗でしょう?」
「これをお姉ちゃまに見せてあげたかったの」

 秋の薔薇が咲き始めた庭の片隅。己を強く主張することなく静やかに、けれど秋の主役に相応しく綺麗に咲き誇るコスモス。その姿はとても凛々しく、自信に満ちて見えた。

「うん、とっても綺麗だね」

 つくしの言葉に、絵夢と芽夢は顔を見合わせ、満足そうに微笑んだ。そして、「チョコレートが食べたいね」「ほんとねえ」と言い合いながら、また駆け出した。つくしには二人の言う意味がわからず、思わず二人の姿を目で追う。

「ねえ――」

 どうしてチョコレート、と聞きたかった。けれどその言葉は、続かなかった。駆け出した二人の先に、薄闇に浮かぶ東屋があった。それが視界に入った途端、つくしの心臓がドクンと跳ねた。ずっと感じていた胸のざわつきとは比べ物にならない大きな感情の波がつくしを襲い、気付けば東屋から目を逸らしていた。どうしてか、見ることが出来ない。胸が痛い。ドクンドクンと、鼓動が煩い。

「牧野、ここでコスモス見てろよ。あいつら連れて行ってくるから」

 背中にあきらの声がして、返事を待たず歩いていく足音が聞こえた。その足音が徐々に遠ざかると、つくしは思わずコスモスの前にしゃがみ込んだ。

 思い出は、こんなに色褪せないものなのだろうか。
 つくしの中に今はっきりと、数年前のあの日のことが浮かぶ。
 総二郎とあきらに連れてこられた東屋。外から鍵を閉められ何事かと思ったら、椅子に縛り付けられた司がいた。閉じ込められたその状況でも、いつものように言い合いになってケンカになって、けれどそのケンカも最後までは出来ず、最終的には追ってきた護衛から逃れるため、つくしは司によってバスルームの窓から脱出させられた。逃げ帰りながら、常に見張られ追いかけられ、ケンカも最後まで出来ないなんて、いったい何をやってるんだと、なんて疲れるんだと、思った。
 なんともお粗末で格好の悪い思い出。
 でも……。

 ――でも、ケンカもしたけど、キスもしたんだよ、あたしたち。

 戸惑って怖がってばかりで、その関係をみんなに言う勇気の出ないつくしだったけれど、本当にこそこそとした付き合いだったけれど、つくしは司をどんどん好きになっていた。
 あれは、その最中(さなか)の出来事だった。

 ――なんでこんなにはっきり思い出せるんだろう。もう何年も前のことなのに。もう忘れていいことなのに。 あたしから別れたのに。決めたのは、あたしなのに。

 たくさん落ち込んだけれど、ようやく立ち直れたような気がしていた。
 それが、思い出だけでこんなに心が揺れている。

 全然立ち直れていない自分に気付いてしまったつくしは、途方に暮れた。
 目の前のコスモスが、小さく揺れる。桜色よりも濃い秋色の花は薄闇に映えて、「秋桜」の名に相応しく今この時を必死に咲いている。こんなに細い茎の先に花を開いているのに、秋風に揺れる姿はとてもしなやかで、つくしはそんなコスモスに揺るぎない強さを感じた。
 こんな強さがあったら、こんなにも心が痛くなることはなかったのだろうか。

 ――あたしは雑草のつくしなのに、踏まれたまま、起き上がれないでいるよ。

 わかっていても、どうしたら起き上がれるのか、どうしたら立ち直れるのか、つくしにはそれがわからなかった。

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2009.02.06 秋色より尚、深く
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