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赤き夢より覚める朝
COLORFUL LOVE
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 枕元に投げ出された携帯電話の音と振動が、つくしを眠りの世界から呼び戻そうとしていた。
 心地良く起きるには煩すぎるアラーム音。それを設定した自分自身をちょっぴり恨めしく思いながら、手探りで携帯電話の在り処をつきとめた時、つくしはそれがアラーム音ではなく着信音であることに気付いた。
 なかなか開かない目で半ば無理矢理ディスプレイを確認すると、そこには見知った、けれどこの時間には珍しい名前が表示されていた。

「もしもし……美作さん?」
『悪い、まだ寝てたか?』
「……寝てたよ」
『だよな。俺もこんな早起き、久しぶり』

 つくしの声は寝起きで掠れていて、あきらの声はいつもと変わらず耳障り良くまろやかだった。
 名前を確認した時に視界に入った時刻は、まだ六時。設定したアラームが鳴るまで、あと三十分以上ある。

「……で、そんな久し振りの早起きして、どうしたの?」
『一緒に朝飯食おうと思ってさ。あと十五分くらいでそっち行くから』
「……え!」

 寝不足で、話しながらもまだ半分眠っていた重い頭が、グルンと半回転するような感覚に襲われ、一気に眠気が吹き飛ぶ。つくしはバサリと音を立てて布団を蹴飛ばすように起き上がった。

「ちょっと、それどういうこと?」
『言ったまんま。あー、着いたらすぐに食う必要はないから急がなくていい。でもお湯だけ沸かしてくれると嬉しいかも』
「え、じゃなくってさ」

 つくしが聞きたいのはそんなことではない。

『じゃ、よろしくな』
「よろしくな、じゃなくってさ。待ってよ、美作さん。え、ちょっ――」

 言い募る言葉も虚しく、通話はあっさりと切れた。
 あきらには珍しいひどく一方的なその会話を反芻してみるも、回転不足のつくしの頭では何がなんだか、さっぱりわからない。

 ――えーと……落ち着いて考えるのよ。今のは何? 美作さん、来るって言ったよね。あと十五分とか聞こえたよね。しかも「朝飯食おう」って言った? 言ったよね。

「……はあああああ」

 つくしは盛大にため息をついた。
 一体なんだと言うのだ、まったく解らない。普段から理解できないことの多い人種だが、今は殊更わからない。けれど、とにかく十五分後には、あきらが来るのである。ぐずぐずしてはいられない。

「んーっ! よしっ!」

 思いっきり伸びをして気合いを入れたつくしは、ベッドを飛び出した。




 あきらを迎える最低限の準備を整えて窓を開けると、雲ひとつない青空が飛び込んできて、肌に生温い風を感じた。
 八月ももうすぐ終わり、暦上ではそろそろ秋が来るというのに、まだまだ暑さが抜けない毎日が続いている。今日も暑くなりそうだと景色を眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。
 時刻は、ベッドを飛び出してからちょうど十五分後。

「おはよう」
「おはよう。さっすが美作さん」
「何が?」
「十五分きっかり」
「……ああ」
「入って!」

 あきらを招き入れた部屋のキッチンでは、コンロのやかんがコトコトと音を跳ねさせ始めていた。

「美作さんは絶対きっちり十五分で来るだろうなあって思ってたの。本当は、もうその辺りにいたんでしょう?」
「鋭い。まあ早朝だしな。寝起きに突然じゃ、さすがに悪いと思って」
「やっぱりね。まあ、十五分あっても突然であることに違いはないんだけどさ。でも、あたしに身支度整える時間をくれたんだろうなあ、美作さんらしいなあって思ってたの」

 あきらは「そりゃどうも」とひょいと小さく肩を竦めて見せた。

「あ、適当に座っててよ、今何か作るから。って言っても、簡単なものしか出来ないけど」
「主食となるべきものは、持ってきたんだ」
「え、何?」

 差し出された紙袋を促されるまま開けると、中には淡く綺麗な赤い色をしたマフィンが入っていた。

「うわーっ、おいしそう!」
「おふくろの自信作、トマトマフィン」
「トマトマフィン? え、これトマトの色なの? 初めて見たし、初めて聞いた」
「俺も初めて出された時にはちょっと怪しんだんだけど、食べてみると結構イケるぞ」
「へえええ。すっごくキレイな色。これ、いただいていいの?」
「もちろん」
「すっごく嬉しい。じゃあ、サラダか何か適当に作るね」

 つくしは声を弾ませ、準備に取り掛かった。

 二十分後、出来上がったサラダとトマトマフィン、そしてこれまた以前あきらがくれた茶葉で淹れた紅茶をテーブルに並べ、二人は向かい合って朝食を食べ始めた。
 つくしが手にしたマフィンはほんのり温かくて、口に入れるとふんわりトマトの風味が広がった。

「うわー、このマフィン、美味しーいっ」
「だろ?」
「美作さんのお母さん、料理上手なんだね。すっごく美味しいよ」
「気に入ってもらえたみたいで良かった」
「え、しかもこれ出来立てだよね?」
「そう。あの人は料理上手っていうより凝り性なんだよ。気が向くと信じられないくらい行動力があって、早起きだろうがなんでも気にならない。今日はこれを作りたくて早起きしたみたいだな。まあ、その分夜も早く寝てるんだけどさ。双子と一緒に」
「へええ。健康的な生活があの若さの秘密かしら」
「さあな。考えたこともない」
「あはは。それもそうね」

 食事中の会話は、他愛のないものばかりだった。つくしは美味しそうにマフィンを何個も頬張ったし、あきらはそれを呆れるように見て笑った。なんとも普通の、ほのぼのとした朝食だった。
 ただそれが、事前に約束をしていたわけでもない朝、しかもブランチではなく完全にモーニングの時間の出来事で、さらに場所はつくしの家で、一緒に食べているのがあきらであるというその事実は、どう妥協してみても普通とは言い難かった。


 粗方食べ終わった頃、つくしは紅茶を淹れ直すためにキッチンに立った。あきらはその後姿を何気なく視界に留めながら、小さく欠伸をした。

「しかし、こんな早起きすると、さすがに眠いな」
「美作さん、昨日も夜遅くまで遊び歩いてたんじゃないの?」
「そんなことしてねえよ」
「ほんとにー?」
「本当だって。というか、何もしなくたってこんな早起きすりゃ眠いだろ。じゃあ牧野は眠くないのかよ」
「眠い」
「一緒じゃん」
「でもいつもはここまで眠くないよ。今日はただ寝不足なだけ」
「ふーん。なんで?」

 つくしは明らかに寝不足だった。寝不足と言うよりも、ほとんど寝ていなかったに近いだろう。
 ちゃんと理由は、あった。けれど、口に出す気になれなかった。

「……なんとなく」

 ふーん、と小さく呟くあきらの視線を背中に感じた。その視線は、寝不足の理由を探っている。でもつくしは、今は気付かぬふりで無視することにした。

「美作さんの電話の後の十五分はホントあっという間だったけど、テキパキ動いたら頭がシャキっとしたよ。きっとダラダラしてたら、いつまでもぼーっとしたままだったと思うな」

 無視することにしたくせに、つくしは明らかに動揺していた。いつもよりも言葉数が多くなっている自分がいて、それを冷静に見ている自分もいた。

「美作さん、そこまで計算して十五分って言ったの?」

 頭の中は寝不足の理由がぐるぐると廻り始めていた。なんとかその思考をストップさせようと、必要以上にカチャカチャと音を立てて紅茶の準備をしてみてはいるものの、それは一向に止まる気配はなく、つくしの口もまた、休もうとはしない。
 話し続ける必要は全然ないのに。そんなことわかっているのに。

「あたし、電話くれただけでも美作さんらしいなって思ったのに、もしそうだったとしたら尊敬しちゃうよ」

 それでも言葉は、止まらない。

「牧野」
「美作さんて、本当に気配りが出来る人だよね。これが類だったら、時間なんてアテにならないし、西門さんは玄関前で電話してきそう。道明寺だったら――っ……」

 つくしは息を呑み、言葉は止まった。
 自分の発した一言で。

 ドウミョウジ ダッタラ――

 なぜ口をついて出てしまったのか。本当は、今一番避けていた――避けたかった名前だったのに。頭の中の思考が、言葉の波に攫われたような感覚だった。

「牧野」

 沈黙に、あきらの声が優しく響いた。
 言葉を続けなければ、と思うのに、今度は何かが痞えたようになかなか声にならない。それでもつくしは、詰まる言葉を声にした。

「道明寺だったら……電話もしてこないで、突然押し掛けてくるね。――きっと」

 そう広くない部屋にいる二人の間でもギリギリ聞き取れるかどうかの、力ない掠れた声だった。
 室内はしんと静まり返り、つくしはあきらに背中を向けたまま。振り向く気配のないその背中に、あきらは問いかける。

「昨日、司から電話なかったか?」

 つくしの背中がほんの僅かにぴくりと動いた。答えは返ってこない。けれど、沈黙は肯定。「あったんだな」とあきらは小さく呟いた。つくしは一瞬きゅっと唇を結ぶと、口を開いた。

「うん。電話来たよ。美作さん、何で知ってるのよ。ジュニアの情報網ってやつ? それとも、うちに盗聴器でもつけてるの?」

 軽い口調で、なんともない風に言い切ったつくしだけれど、振り向くことはしない。
 あきらは再びその背中に問いかける。今度はもっと慎重に。

「司が、どこかの令嬢と婚約するって話、おまえ、その――」
「うん、そうみたい」

 早口でさらりとした返事だった。けれど、心のうちはさらりとなんてしていないと、表情を変えないはずの背中から、あきらはしっかり感じ取った。それは、つくしの未来を変える大きな事実だったから。




 *




 昨日の夜。正確には日付が変わっていたから、今日になる。
 つくしがいつもより少し遅めにベッドへ潜り込んですぐに携帯電話が鳴った。それは、数ヶ月ぶりに鳴り響く司専用の着信音だった。

 司とつくしは、今年の春、春休みに入ってすぐに「婚約まがい」のことをした。類の優しい企みで、つくしの指にはミラノで一番大きいらしいダイヤの指輪がはまった。
 その婚約は、司とつくしの間だけのもので、道明寺家に認めてもらえたわけでもなかったし、正式に発表されたものでもなかったけれど、離れている二人にとって、高校生だったあの頃に約束した「四年後の未来」をリアルなカタチとして捉えるきっかけとしては、十分だった。
 つくしは、素直に嬉しかった。
 帰りをただ待っているのではダメだ、自分も出来る範囲で頑張ろうと考え始めた矢先。司から「ちょっとゴタついてる。しばらく連絡出来そうにない」と連絡がきて、以来ぱったりと連絡がなくなった。
 最初の一週間は、こんなことはよくあること、と気にも留めなかった。
 二週間が過ぎると、いつになったら連絡できるようになるんだろう、と考え始めた。
 一ヶ月が経った頃、雑誌やテレビで道明寺財閥の業績不振が報じられるようになった。ゴタついている原因はこれかと、妙に納得した。やっぱり自分には何も出来ないのだと思い知らされ、ますます頑張らなければと思うようになった。大学の講義はすべて真剣に受け、バイトも続けながら、F3に協力してもらって英会話や茶道、社交界のマナーなども学び始めた。
 二ヶ月が過ぎ、やり始めた様々なことに慣れ始めてもまだ連絡はなかった。
 こちらから連絡をしていいものか、迷いに迷って一通だけメールを送った。


――――
元気ですか?
――――


 たったそれだけのメール。
 返事はなかった。そして気づけば、連絡がなくなって五ヶ月が経とうとしていた。
 ――もう、このまま終わっちゃうのかな。もしかしたら、もう終わっているのかもしれない。
 つくしの中に、諦めにも似た思いがよぎることが多くなっていた。けれど、その度にそれを打ち消し、がむしゃらに前を向く日々だった。

 携帯電話を握りしめながら、つくしは戸惑っていた。
 連絡出来ない状況が解消されたのか、それとも、もっと更なる最悪の状況になったのか。
 どちらに転んでもおかしくないと覚悟はしている。それでもどうにも嫌な考えばかりが頭をよぎり、出るのを躊躇ってしまい、待ち望んでいたはずの電話なのに、出たくないと心のどこかで思っている自分がいる。
 一体何がしたいのか、何を望んでいるのか、何もかもが、曖昧なまま宙を彷徨っていた。そんなつくしの心を知ってか知らずか、手の中の携帯電話は鳴り続ける。じっと見つめ、それから、えいっと気合を入れて通話ボタンを押した。

「もしもし」
『よぉ』

 それは、本当に久しぶりに聞く司の声だった。その声を「変わらない」と判断するにはあまりにも久し振りすぎて、どんな声だったかと思い返す自分に驚き、少し切なくなった。

『元気か?』
「元気よ。道明寺は相変わらず?」
『ああ。相変わらず、厭になる程忙しい』
「そう」
『ああ』

 久し振りに話す恋人同士の電話なのに、沈黙ばかりが目立っていた。
 連絡を取らずにいたこの五ヶ月余り、つくしにも司にもたくさんのことがあったはずで、それを端から話していけば沈黙が流れることなんてないはずなのに、今のつくしには、その出来事のたったひとつをも思い出すことが出来ず、話すことが出来なかった。
 それは胸がいっぱいだったからか――いや、それならもっと甘い沈黙になるはずだ。この沈黙は、ただ重苦しさしか感じられない。
 わかっていた。司が突然電話してきたのは、話さなければならないことがあるから。良くも悪くも転がる展開の、前者でないことは、この司のテンションから用意し察せられる。このまま沈黙を続けていても、いつかはそのことに触れなければならない。
 嫌な予感だけがじわじわ増え続ける中、つくしは、思い切って口を開いた。

「道明寺。何か話があるんじゃないの?」
『……まあな』
「だったら早く話したら? 忙しいんでしょ? タイムオーバーになっちゃうよ」
『ああ』

 でも言葉は続かない。再び沈黙が流れ、それは時間が経つ程に重苦しさを増していた。
 もう一度促してみようかと口を開きかけた、その時。

『牧野』

 道明寺のつくしを呼ぶ声が、ぽつりと落ちて、沈黙を破った。

『牧野。俺……――俺、近いうちに、婚約発表、しなきゃなんねえ』





 *




 数ヶ月前から一人暮らしをしているつくしの部屋に、あきらが一人で訪ねてくるのは初めてだった。しかもここでこうして二人きりでご飯を食べるなんて、想像したこともなかった。しかもこんな早朝だ。相手があきらじゃなくても、普通はあり得ない。――類以外は。
 朝までどこかで遊んでいた帰りの寄り道でないことは、母親の作ったマフィンを持ってきたことからも明白。だからつくしには、あきらが司の婚約の話をどこかで耳にして、自分を心配して来てくれたんだと、すぐにわかった。

「それで、司はなんて?」

 つくしはその問いに、聞こえていないかの如く無反応だった。
 沈黙が長くなるにつれて、あきらは次にかける言葉を失くしていく気がした。やがて、こうして自分が聞くこと自体、間違っているのではないかと思えてきた。
 あきらもつくし同様、玄関先でつくしの顔を見た瞬間に、自分の掴んだ情報がデマではなく、しかもそれがつくしに伝わっていることを悟った。まだ本当にごく一部の人間しか知らないであろうこの情報を、何のコネも情報網も持たないつくしが知り得た理由はただ一つ。司本人が連絡をしてきたに違いない。そして恐らく、その話は良好な結末には至っていないことを察した。
 司もつくしも大切な友人――親友だからこそ、あきらは心配でたまらないのだが、どんなにそう思っていたところで、これは二人の問題なのだ。

「牧野、別に無理して答えろって言ってるんじゃないから。司とおまえの問題だもんな。俺が詮索するようなことじゃないんだ」

 悪かったな、とあきらが言い終えるのとほぼ同時に、つくしの首がフルフルと横に振られた。
 つくしは、詮索されているなんて思っていなかった。あきらが面白がっているわけでないことは、よくわかっていたから。ただ少し、覚悟が必要だった。これからあきらに告げようとしている結末は、つくしにとってとても大きな決断だったから。
 つくしは意を決して、くるりと振り返り、あきらを真っ直ぐ見た。

「あたし」
「……ん?」
「あたし、道明寺と別れた」

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2009.04.18 赤き夢より覚める朝
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