01 / 02 / 03
秘色の風
COLORFUL LOVE
1

「美作さん、本ありがとう」
「もう読んだのか?」
「すっごく面白かった。フランス文学はちょっと苦手かもって思っていたんだけど、夢中になっちゃった」
「それは良かった。気に入ったならもっと他に読んでみるか? これが好きなら、他にも気に入りそうな本、いくつか知ってる」
「ホント? わー、嬉しい。ぜひ読んでみたい!」
「じゃあ持ってくるよ」
「楽しみだなー。ねえねえ、この主人公なんだけど――……」


 大学内のカフェテリアでは、つくしとあきらが談笑中。それは特別なことではなく、いつもの光景。
 つくしの大学生活は、三年目に突入していた。二年の終わりから、総二郎の紹介で割の良い家庭教師のバイトを始めたおかげか――総二郎は茶道教室でそういう頼まれ事をちょくちょくされるらしい――、毎日の生活に余裕が出てきて、以前より落ち着いた日々を送っている。
 四年生になったF3は、いよいよ本格的に家業を継ぐ準備に入り始めたようで、大学に来ている時間がないのか、来ても遊んでいる暇がないのか、以前のように皆でうだうだ過ごす時間は少なくなっていた。
 いつか必ずそんな瞬間がやってくるとわかっていた。だからそれなりに心の準備もしていた。それが功を奏したのか、どこか寂しいと感じながらも、つくしはその変化を比較的すんなりと受け入れられたように思う。
 でも一番の要因は、今も目の前にいるあきらではないかと思う。
 美作あきら――言わずと知れた美作商事の御曹司だが、彼だけは今までと何ら変わることなく大学に現れ、今まで通り――いや、むしろ今までよりもずっと真面目に多くの講義を受けていた。学生としては何ら不思議ないのかもしれないが、他の二人とまるで異なる時間を過ごしていることに疑問を感じて訊ねると、「学生の間は学生にしか出来ないことを、が美作家の方針らしい」とあきらは笑った。
 おかげでつくしは、変わりゆく日常に必要以上に感傷的にならずに済んでいた。そして、図らずも、二人でいる時間が劇的に増えた。――いや、実際は、こうなるよりももっと前から少しずつ増えていた。
 つくしと司が別れて以降、元来の性格からか、二人の別れを一番初めに知ることとなった経緯があるからか、あきらは人一倍つくしを心配して、一緒にいることが多かった。
 強烈な個性を放つF4の中において、他と比べると地味だと言われがちなあきらだが、誰よりも細やかで優しい気遣いの出来る人間だと、一緒に居る時間が増える程につくしはそれを強く感じていた。
 そして新たに気付いたこともある。一人で居るあきら――つくしと二人きりで居るあきらは、他の仲間達が居る時よりも、物静かで落ち着いた雰囲気を纏っているということ。
 話す口調はいたって穏やかで声を荒げることはほとんどない。笑う時は唇を緩く上げて優しく微笑むように笑う。アハハと声を出すことだってもちろんあるが、そんな時ですら何とも言えない柔らかさがある。上手く表現するのは難しいが、賑やかとは程遠い空気感を醸し出していた。
 思わず「美作さんて、実はすっごくオトナなのね」と言ったつくしに、「なんだ、それ」と笑ったあきらの表情は、驚くほど優しく柔らかで、思わず見惚れてしまった。
 でも実はそんな表情だけではない。本を読む端正な横顔、カップを口に運ぶ優雅な仕草、髪をかき上げる繊細な指先……今まで何気なく視界に入れていたそれらひとつひとつにドキリとする瞬間が増えていた。
 あきらはそんなつくしに気付いているのかいないのか、そのことに触れられたことはない。あるいは、つくし自身も無意識なのかもしれない。
 ただいつもごく自然に近くにいて、ごく自然に時間を共有した。春の陽だまりの中にいるような、そんな時間が続いていた。
 そしていつの間にか、つくしにとってあきらはとても身近な存在になっていた。 


 けれど、ある時突然、そんな穏やかな日々に波風が立った。つくしにとっては、台風上陸並みの。



 その日も、いつものようにつくしはあきらと一緒にいた。
 カフェテリアにやってきた桜子も交えて三人で昼食を食べ、つくしは午後の講義へと向かった。
 大学は、高校までに比べると外部入学率が高く、その結果、つくしにも同じ感覚を持つ友人が数人出来た――ハイソな世界の人ではなく一般庶民、という意味での「同じ感覚」であって、F4や他の人達がおかしいという意味ではない――。だからと言って、同じ講義を選択しているかと言えばそんなこともなく、あきらと同じ講義でもなければ、つくしは一人のことも多かった。
 この日もそうだった。
 教室をぐるりと見渡すも友人は見当たらなかったので、空いている席に適当に座り、講義開始まであきらに借りた本を読もうと開いた。「多分、気に入ると思う」と渡された時の彼の笑顔を思い出し、期待を胸に頁を開いた、その時だった。

「ねえねえ、カフェテリアにいた美作さん、見た?」
「もちろんよ。今日も素敵だったわ。あの優しそうな横顔が堪らないのよね」
「今日、三条さんと一緒だったでしょう? とってもお似合いよね」
「やっぱり美作さんの隣には、美人が似合うわ」
「いつもは、あの女だもんね」
「ああ、牧野つくしね。納得いかないわよね、あんな貧乏人が一緒だなんて」
「今日も途中まで一緒だったでしょう?」
「そうだった? あの二人しか目に入らなかった」

 その話し声は、つくしがここにいることを知ってか知らずか、やけにはっきりと聞こえてきた。またか、とつくしは小さくため息を吐く。
 司と別れた後、その事実は尾ひれどころか腹びれと尻びれもつけて、学園中に広まった。ようやく司の目が覚めた。手切れ金に一億円もらった。学費と就職先確保が条件だった。――いくつもの噂が飛び交ったが、「司とつくしが別れた」という根本的なこと以外はデタラメばかり。自分から終わらせた恋愛とは言え、そのダメージからなかなか立ち直り切れずにいたつくしは、傷口を抉られるような毎日を送った。この学園にいるのがつらいと、久々に思った秋だった。
 それでも、F3や桜子といった仲間に支えられ守られながら耳を塞ぐように毎日を送るうち、噂は徐々に消えていった。
 ようやく落ち着いて毎日を送れると思い始めた冬の始め、今度はF3との関係を噂され始めた。特に、あきらとはかなり噂された。良くしてくれるあきらに迷惑をかけたくなくて、「一緒にいない方がいい」と言ったこともあったが、当然あきらは受け入れなかった。
「噂は噂。真実を知っている俺達が噂に遠慮してどうするんだよ」
 大丈夫だよ、と笑ったあきらにつくしは救われて、それからは噂をいちいち気に留めることを止めた。
 ――ああ、また言われてる。桜子、黙っていれば可愛いもんなあ。たしかに美作さんとお似合いかも。
 見た目だけでは想像出来ない桜子の毒舌っぷりを思い出して、思わず口の端に笑みが浮かんでしまう。噂を聞き流すことに慣れてきたつくしは、それくらい余裕だったのだ。
 けれどその話は、思いもしない方向へと進み始めた。

「牧野つくしって、身の程知らずよね」
「本当よね。F3の皆さん……っていうか、美作さん、良く付き合ってるわね」
「美作さんは人が良すぎなのよ。引き留められても無視しちゃえばいいのに」
「仕事を始めたいのに始められないなんて、最悪よね」

 本を捲るつくしの指が、ぴたりと止まった。
 ――え……なに、それ……。
 話が理解できない。でも、いつものように聞き流してはいけないような気がするその内容に、つくしの全神経が集中する。

「お気の毒よね。他の二人が巻き込まれないようにって美作さんが一人で相手してるんでしょう?」
「会社からは本格的に動き始めてくれないと、このままでは困るって散々小言を言われてるって話じゃない? 美作商事の業績不振は、それが原因なのかしら?」
「跡取りのやる気がない、って会社の評判ガタ落ちみたいね」
「道明寺財閥の業績不振も、道明寺さんが彼女に振り回されてたのが原因って言われてたものね」
「別れてから回復してきてるから、本当にそうだったんじゃない? とんでもない疫病神よね」
「本当に、どこまで最低なのかしら」

 容赦なく放たれるその言葉達に、つくしの指先が震え出し、心臓は早鐘を打つ。両手をぎゅっと握り締めて胸に押し当て、ただ、その痛みに耐えるしかなかった。







「はぁぁぁぁ……」

 つくしの住むアパート近くの小さな公園。
 ベンチに座って空を見上げるつくしは、深く大きなため息を吐いた。
 五月晴れの空は、時間の経過と共に柔らかな夕空へと変化を遂げていく。言葉では言い尽くせないほど綺麗で、見ているだけで心が満たされてゆく。
 ――もっと、もっと綺麗なんだろうな。……これさえなければ。
 どんなに綺麗な景色も、つくしの抱える痛みを忘れさせてはくれないことが、少しだけ悔しかった。


 あの後、講義も受けずに大学から逃げ帰ったつくしは、鬱々とした気持ちを抱えたまま、ただひたすら膝を抱えていた。
 ベッドに入って寝ようとしてもあの話ばかりが頭を過ぎり、結局一睡もできないまま。空が白やんで来たのを確認すると、寝ることを諦めて窓辺に座り込んだ。何を考えるわけでも何を思うわけでもなく、ただ流れる景色に視線を彷徨わせ続けた。
 夜が完全に姿を消し、街全体が動き出した頃、一通のメッセージを着信した。
 あきらからだった。

――
 おはよう。突然なんだけど、会社に行く用事が出来てしまったので、大学は休みます。
 約束してた本、明日持って行くよ。ごめんな。
――

 あきららしい、本当に彼らしい内容だった。
 たしかに昨日、カフェテリアで新しい本を借りる約束をした。けれどそれは、いつでもいい約束だった。それなのに、こうして連絡をしてくる――それはあきらの優しさで、生真面目さ。いつものつくしなら、そんな彼らしさに笑みをこぼして、すぐに「了解」と返事を打つだろう。けれど今日は――。
 ――「会社に行く用事」って何だろう。やっぱり何か困ったことになっているのかな。それってやっぱり、あたしが原因?
 悪いことばかりが頭を過ぎって胸が苦しくなるばかり。つくしは耐えきれずに、携帯電話の電源を落とした。

 ふと、お腹が空いたと感じたのは、陽が傾き始めた頃だった。朝も昼も食べていないのだからそう感じても不思議はないけれど、ついさっきまでは何も喉を通らない気がしていた。それが突然空腹を感じ、それと同時に気分が少しだけスッキリしていることに気付いた。
 どうやら、窓辺で呆けたように居た時間が、つくしの複雑に絡み合った感情を整理してくれたようだ。
 つくしに必要だったのは、時間をかけて落ち着くことだったのだろう。
 ――美作さんに訊いてみよう。
 整理されたつくしの中に、実にシンプルで、でも一番大事な結論が残った。


 コンビニの袋をぶら下げて何気なく立ち寄った公園で、つくしは夕空を見上げながら、何度も同じ言葉を自分に繰り返していた。
 ――明日は大学に行こう。そして美作さんに確かめよう。
 何度も繰り返してしまうのは、あと少しの勇気が足りないからだろう。
 あきらに直接訊くということは、どんな真実が待っていてもきちんと受け入れるということ。それはやっぱり、つくしにとっては怖いことだった。でも、逃げていてはダメなのだ。

「……がんばるぞ」

 もう一度、夕空を見上げる。今度はため息を零さないように、キュッと口を結んだ。

「牧野」

 突然、名前を呼ばれたつくしはハッとして、視線を下ろす。
 ――……え、なんで……?
 つくしは、あまりの驚きに声が出ず、眼を見開いたまま固まった。
 声の先に立っていたは、あきらだった。その顔には、心配と安堵と、その両方が浮かんでいた。

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2009.07.01 秘色(ひそく)の風
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