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芽吹く
DOLCE
1
「――どうしよう……」

思わぬ事態――本当に、全く考えていなかった事態に直面した私の頭は、ぴたりと思考停止した。
目の前に突如示されたこの事実を、ただ茫然と見つめる。

( 本当に、本当に、本当? )

何度も自分に確認しながら。




 ***




今朝――
目覚めと同時に感じた胃のムカつきに、思わず顔を顰めた。
二日酔いだ、完全なる。

( はぁ……やっちゃったなぁ )

もぞりと動いたら掛け布団の隙間から熱が逃げて、隣に寄り添う温もりだけがはっきりと感じられた。
覗き見れば、あきらさんがすやすやと眠っている。
同時に、昨夜、彼を待つ途中で眠ってしまったことを思い出した。
寝起きで二日酔いの頭だけれど、眠ってしまった場所がベッドでなかったことは記憶しているから、帰って来た彼が私をここまで運んでくれたことは間違いない。
そっと上半身を起こすと、ソファにスーツが無造作に投げ出されているのが見えた。
それは、几帳面な彼には珍しいこと。
余程疲れていたのか、帰りがとんでもなく遅かったのか。
額にかかった柔らかな髪をそっと梳いても、ピクリともせず、寝息は変わらず規則正しい。
長い睫毛が影を落とす、その整った寝顔に疲れの色は感じられないけれど、深く寝入っているのはたしかなようだ。

( 悪いことしちゃったな )

起きて待っていられなかったばかりか、ベッドへ運ばせてしまったことにも、二日酔いの自分自身にも、苦い気持ちが広がった。
頭痛がしないことだけが救いだと思いながら、音を立てないように静かに寝室を出た。


冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをゴクリと飲むと、身体の中心を冷たい感覚が滑り落ちて、ムカつきも一緒に流されたのか、幾ばかりが気分が良くなった気がした。
と同時に、寒さを覚えてぷるりと身体が震えた。
一月下旬の朝。
空調設備が完璧に整った高級マンションとはいえ、やはりパジャマ一枚では冷えを感じて当然だろう。
何か羽織ってくれば良かったと思いながら、朝日の差し込むリビングのソファに膝を抱え丸まった。

「はぁ……」

それにしても、この気分の悪さはいただけない。
二日酔いの原因は、昨夜の送別会。
寿退社をする主役の同僚が、同じ部署で働く同期だったこともあり、一次会で帰る予定が二次会まで参加してしまった。
二次会前にあきらさんに連絡を入れるとまだ仕事中で、「ゆっくり楽しんでおいで。仕事が終わったら迎えに行くよ」と言ってくれた。
その言葉に甘えて参加した二次会は、同期ばかりが数人集まった小さな会で、それがやたらと楽しかった。
結局、あきらさんの仕事よりも早く終わったのでタクシーで帰ってきたのだけれど、まさかこんな二日酔いに悩まされるとは思ってもいなかった。
会話が弾んだ分、飲むピッチも早かったかもしれない。
でも、タクシーに相乗りした同僚の美穂が途中で眠り始めちゃって、起こして家の玄関まで送り届けるのに相当苦労した記憶はきちんとある。帰宅後シャワーを浴びて、キッチンに立つことだって出来たのだけれど。

( 最後に飲んだワインがいけなかったかなあ )

何とも言えないムカつきとダルさが身体を充満していて、どうにもならない。
少しでも気分を良くしようと大きく息を吐いた。




あきらさんと結婚して三年半。
私達はとても穏やかな日々を送っていた。
その生活スタイルは、結婚当時から変わらず「共働き」で、あきらさんはもちろん、私も毎日それなりに忙しい。
結婚しても仕事を続けたいと言った私を、彼は咎めることなく認めてくれた。
もちろん、美作夫人としての役目を優先させるとか、子供が出来たら辞めるとか、幾つか条件はあるのだけれど、彼はいつでも協力的で、私は結婚前とほとんど変わることなく仕事を出来ている。
しかも、美作商事の子会社に勤める私が、御曹司の妻であることで仕事がやりづらくなってはいけないと、いろいろ便宜を図ってくれた。
おかげで「牧野つくし」のまま――結婚していることは内緒で、彼氏と同棲していることになっている――今まで通り、普通の社員として働いている。
それを知る仲間たち――特に桜子は、事あるごとに「美作さんって本当に心の広い人ですね」と言うけれど、本当にその通りだと思う。
――いずれ訪れる退社の時。
同僚達に真実を告げたら、どんな反応をするだろう。
この私が結婚していた……まではともかく、その相手が「美作あきら」だなんて、信じてもらえないかもしれない。
そして、みんな口を揃えて言うのかな。
「美作あきらは、心の広い人」――。
そんなことを時々考える。
そしてその度、あきらさんの優しさに感謝する。

( それなのに私ってば、二日酔いって…… )

今日は土曜日。
あきらさんも私もお休みで、しかも大切な予定がある。
朝からいろいろとやる事を計画してたのに、二日酔いで起きているのもやっとだなんて、こんな最低な事ってあるだろうか。
そんな自分に呆れるやら悲しいやら、気持ち悪さも手伝って涙が出そうだ。
はああ、と盛大にため息を吐き、頭を抱えた。

( 早く治れ、早く治れ…… )

念じるように何度も何度も呟いていると、突然肌寒さが消えた。
ほわんと香る馴染みの匂いに顔を上げると、私はブランケットに包まれていて、目の前にはあきらさんが立っていた。

「あ……おはよう」
「おはよう。……顔色、相当悪いな。大丈夫か?」
「あー、うん」

本当は全然大丈夫じゃないのに無理矢理浮かべた笑顔で曖昧に頷いてしまう私を、彼が見逃すはずがない。
苦笑気味にため息を吐きながら隣に座ると、私の肩をそっと抱き寄せた。

「二日酔い?」
「どうやらその様です。スミマセン」
「なーに謝ってんだよ。同期の送別会で二次会まで参加して、二日酔いにならない程度にセーブして飲むなんて、まず不可能だよ」
「うー、スミマセン」
「だから、謝ることないって。それが普通。しかもおまえは酒が強いわけじゃないんだし。だから迎えに行こうと思っていたんだけど……ごめんな、行けなくて」
「そんなの全然。私のほうこそごめんなさい。起きて待っているつもりだったのに」
「寝ててくれて良かったよ。……あー、でも。今度からは、待つにしてもベッドで待ってろよ。ソファじゃ風邪ひくぞ」
「うー……スミマセン」

「また謝った」とあきらさんは笑って、私の髪をゆっくり梳いた。
撫でるように梳く、その指先の感触がとても心地良くて、されるがまま彼に身をまかせていると、ダルさも気持ち悪さも消え去った気がした。
でも、「治ったかも」と思った次の瞬間にムカつきが襲ってきて、「やっぱり治っていなかった」とガッカリした。

「二日酔いってどれくらいで治ったっけ?」
「程度によるけど、半日くらいかな」
「は、半日? まだまだじゃん」
「まあ、たまにはそんなこともあるさ。治るまでゆっくり横になってたら?」
「いや、そんなわけにはいかないのよ」
「あー、今日の準備のこと?」

その通り。それが一番気になっている。
今日の予定は、本当に大事なものだった。
何ヶ月も前から計画して、ようやく休みを合わせる事の出来た仲間たちが、我が家で集まるのだ。
午後にはみんながやって来る。
それどころか、あと二時間もしないうちに、一緒に準備を手伝うと言っていた桜子が来る予定。
いや、それより前に、美作のお邸から使用人も何人か来るはず。
今すぐにでも身支度をして、最低限のことはしておかなければならない。
あきらさんの朝食だって用意しなくては。
本当にやることはいっぱいあるのだ。
それが頭の片隅にあったから、昨日の送別会だって、私なりにアルコールはかなりセーブしたつもりだった。

( なのに、なんで二日酔いなのよ! )

それだけに、叫び出したいくらいの気分だった。

「つくし?」
「……え?」

名前を呼ばれて我に帰ると、私の顔を覗き込むように見るあきらさんと目が合った。

「あんまり考え込むなって」
「あ……また口に出てた?」
「ちょっとだけな」

あきらさんは小さく笑った。

「俺の朝飯の心配はしなくていい。会社へ行かないといけないんだ」
「え? そうなの?」

「仕事が終わらなくてな」とほんの一瞬疲れた顔をした。
そういえば、帰りが遅かったと言っていたけれど、何時に帰って来たのか聞いていない。
部屋を出る前にソファのスーツを手にした時、なんとなく温もりが残っているような気がした――でも、そんなわけはないから、空調のせいということにしたけれど――あれは、本当にそうだったのだろうか。
自分のことで精一杯で彼のことがすべて後回しになっていることに、今更ながら気がついた。

「あきらさん、帰りは何時だったの?」
「うーんと、四時くらいかな」
「え? 四時って……まだ二時間くらいしか経っていないじゃない! そんなに遅かったの? 大丈夫?」
「大丈夫さ。これくらいは慣れてる。でもまさか終わらないなんてなぁ」

どうやら仕事が終わらなかったことが悔しくて仕方がないらしい。
顔を顰めるあきらさんに「遅くまでお疲れ様でした」と告げる。
優しい笑顔が戻ってきて、私の頭にポンと手を置くと、髪をくしゃくしゃと撫でた。

「そんなわけで、これから行って来るよ。やつらが来るまでには何とか帰って来たいと思ってる」
「うん。でも無理しないでね」
「おまえこそ、無理しないでゆっくりしてろよ。早く来るのは桜子だけだろ? なんなら電話して午後から来てもらったら?」
「でも、準備しなきゃ――」
「邸に電話して、使用人を少し増やしてもらうよ。掃除や客室の準備は全部やってくれるだろうし、料理はもともとコックに頼んであるんだから、全部任せておけばいい。類が手料理を食べたいって煩そうだけど、気分が良くなったら作ってやればいいさ」

「そうしよう?」とあきらさんは私の目を覗き込んだ。
出来る限りは自分でやりたいと思っている私の気持ちを理解しながらも、無理があればさりげなくフォローしてくれる。
気負い過ぎずに毎日を送れるのは、そんな彼のおかげだ。
あきらさんには本当に敵わない、といつも思う。
変な意地を張らずにきちんと受け止めることが、彼の優しさに応えることになると気付いたのはいつだったか。
「そうね。そうする」と頷いた私に、あきらさんは目を細めて頬笑み、それからふんわりと抱きしめてくれた。







「先輩、その顔色は相当キテますね」
「濃い目にファンデーション塗ったんだけど――」
「無駄な努力ってやつかもしれません」

ハハハ、と苦笑する私に、桜子はため息を吐いた。


あきらさんが出かけた後、桜子に電話をして具合が悪いことを話した。
詳しく聞きたがるから、状態をそのまま説明すると、「効きそうな薬を持って早めにお邪魔させていただきますね。気遣いなど不要ですから、どうぞゆっくり横になっていて下さい」と電話は切れた。
そんなわけにはいかないのよ、と思いながらなんとか身支度は整えたのだが、結局あまりの気分の悪さに横になっているしかなかった。

「電話で訊けば良かったんですけど、まだ薬は何も飲んでないですか? もちろん常備薬はありますよね?」
「あるけど飲んでない。私、二日酔いで薬なんて飲んだことないから、何飲んでいいのかがわからなくってさ。一応は見たんだけどやめちゃった」
「なるほど。結果的に、その選択は賢明だったかもしれませんね」

何が賢明なのかさっぱり意味がわからない。
「どういうこと?」と片眉をあげると、桜子は黙って鞄の中から細長い箱を取り出した。
はい、と手渡されたそれは、あまりにも馴染みのない――でも確実に知っている物。
あまりの驚きに私は固まり、そして一気に顔が熱くなった。

「さ、桜子。これって、これって――」
「見ての通り、妊娠検査薬です」

「美作家の紅茶は、いつも本当に美味しい」と優雅にティーカップを傾けて微笑む桜子。
普段なら「絵になるなぁ」なんてのんびり見惚れてしまうところだけれど、今ばかりはそんな状況ではなく、私は慌てて周囲を見渡した。
桜子よりも一足先に来ている使用人たちは、すでに準備に取り掛かってくれている。
リビングには私達以外に誰もいないとわかっているのに、思わず小声になってしまう。

「ちょっと、桜子! な、なんなのよ。なんで――」
「先輩、妊娠してるんじゃありません?」
「……え?」
「心当たり……は、聞くだけ野暮ですわね」
「いや、あの、これは昨日飲みすぎて――」
「私の勘では、それは二日酔いじゃないと思いますよ」

きっぱりと言い切る桜子に、私は言葉が出ない。

( 私が、妊娠? )

たしかに……たしかに、ここ数ヶ月を振り返ると、生理が来ていない。
でもそれは、単なる体調不良に思えた。
年末は仕事が忙しい上に、あきらさんと一緒にパーティーに出る機会も多くて、ゆっくりする時間があまりなかったから。
おかげで食欲もイマイチで、常に疲れが残っていた。
だから不順になっているんだと――……そう、思っていたのだけれど。
私の話を聞いた桜子は、確信を持ったとばかりに頷いた。

「ますます調べてみたほうが良さそうですね」
「そうなのかな? でも私、全然そんな気がしないんだけど」
「でも、絶対にないとは言い切れないでしょう?」
「それはそうなんだけど……」
「違っていたら、それはそれ。その時には二日酔いの薬を飲めばいいんです。すごく効くものを持ってきたんですけど、今のまま渡す気にはちょっとなれませんね」
「……そんなに、疑わしい?」
「はい。少なくとも私には、そう見えます」

冷静な桜子の意見は、とても正しいように思えた。
私はもともと自分の体調に疎い。
風邪を引いて熱を出したりしても、人に指摘されてから気付くことがあるくらいだ。
そんな私が自分勝手に「絶対ない」と決めつけるのは、そっちの方が問題だろう。
本当に妊娠しているかどうかはともかく、絶対にないと否定は出来ないのだから、確かめてみるのが一番いいのかもしれない。
具合が悪いせいか、いつもならもっと抵抗しそうなことが素直に受け入れられた。

「わかった。じゃあ、やってみる」
「使い方わかります? 中に説明書があると思いますけど――」
「あの……今すぐ、だよね?」
「……みんなが集まったところでやりたいですか?」
「え、遠慮しておきます!」
「じゃあ、早く行って来てください」
「う、うん」

返事をすると同時に、背中を押される勢いでリビングから追い出された。


トイレに入り一人になった私は、再び検査薬を見つめる。
はたして本当に妊娠しているのだろうか。
目の前の鏡に映る自分を見つめても、どこも変化しているようには思えない。
顔も、身体も。
――でも。

( ……やるだけ、やってみるか )

どうせ違うだろうという気持ちと、もしかしたらと思ってしまう程の体調の悪さを感じながら、ガサリと箱を開けた。
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2009.08.28 芽吹く(45678リク作品)
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