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煌めく夏色の彼方に
COLORFUL LOVE
2

 やれやれとため息を吐いてあきらは立ち上がり、ん、とひとつ伸びをした。
 未だクスクスと笑い続けるつくしに「そろそろ行こうか」と声をかける。「そうだね」とつくしも立ち上がり、あきらと同じように伸びをする。思い切り。

「んーーーっ……はああ」
「おまえ全力だな」
「うん! だって、すっごく気持ちいいんだもん。家の窓を開け放ってやるのとは全然違う」
「は? 家の窓!?」

「家の窓と海と比べるとは」と今度はあきらが爆笑して、笑いを残したまま歩き始めた。つられたようにつくしも笑い、歩き出す。

「変わらないなあ、牧野は。一年前も、今も、ずっと変わらない」
「あ、その言い方ちょっと引っかかる。全く成長してないって言いたいの?」
「あはは。そうじゃなくて」
「じゃあなによ」
「どうしようもなく辛い時が山のようにあったはずなのに、いつの間にかちゃんと乗り越えて、変わらずこうして笑ってる」
「……」
「牧野はすごいよ」
「……そんなこと、ないよ」

 つくしは思わず目を伏せた。
 そんなことはない。何度も打ちのめされて、もう立ち上がれないって思った。
 でも、いつも助けてくれる人がいた。どんな時でも見守って、手を差し伸べてくれる人が――あきらがそばに居てくれた。あきらの優しさが、ずっと変わらずあった。
 だから今、こうして笑っていられる。
 あきらが居てくれたから。

 ――美作さんのおかげなんだよ。

 数歩前を歩くあきらの背中にそう言おうと、息を吸った。
 その時。
 波の音に混じって、そのまま溶け込んでしまいそうな程小さな呟きが聞こえた。

「バカだよ、司は」

 それはきっと、不意に出たあきらの独り言。けれど、海風に乗ったのか、つくしの耳にはっきりと届いた。
 つくしの足がピタリと止まった。

 ――……美作さん。

 あきらがどんな気持ちで言ったのか、どんな想いがこもっているのか、その真意はわからない。けれどその言葉から優しさが溢れているように思えた。いや、つくしにはあきらの優しさしか見当たらなかった。
 変わったこと、変わらないこと、全てを見守ってくれたあきらだからこその言葉。
 ずっとこの優しさに支えられてきたんだと思ったら、胸の奥が熱くなった。

 あきらの背中をじっと見つめる。
 二人の距離は、あきらの進む歩数分、徐々に離れていく。でもどんなに離れても、つくしの瞳はあきらの後ろ姿だけを映し出していた。

 ――美作さん、

 心の中であきらを呼べば、自然と言葉が溢れ出す。

 ――あたし……美作さんが、好き。

 心のままの言葉が、自然と溢れ出す。

 ――美作さんを、好きになっちゃったよ。

 いつからと訊かれても困る。なぜと訊かれたらもっと困る。ふと自分の心を覗いたら、その気持ちだけが大きく存在した。
 見て見ぬふりをしようとした。何度も。でも気付いてみれば、認めないわけにはいかないくらい大きな想いになっていた。

 ――あたし、変わったよ。だってこんなにあなたが好き。

 次から次へと想いは溢れる。苦しいほどに。

 ふいにあきらが振り向いた。
 すぐ後ろを歩いているはずのつくしは、そこには居ない。一瞬驚いた顔をして、でもすぐにその姿を捉えると、口元が「どうした?」と動いた。

 ――好きだよ、美作さん。好きで好きでどうしようもないくらい、美作さんが好き。

 言えるわけのない想いが飛び出そうとするのを必死に抑え、「なんでもないよ」と言おうとするけれど、自分の中を渦巻く感情が邪魔をして思うように言葉が出ない。
 どうしよう、どうしよう、と焦りばかりが募る。
 その時。
 あきらが目を細めて笑った。
 柔らかで優しい――つくしの大好きなあきらの笑顔。つくしの鼓動がドクンと跳ねて、視界がぐにゃりと歪んだ。

 ――あ、ヤダ……あたし。

 歪む視界の中、あきらが歩き出したのがわかった。唇の端に笑みを残したまま、一歩ずつ、つくしに向かって。
 少しずつ少しずつ大きくなるあきらの姿。
 その姿をじっと見つめたまま、つくしは唇を強く噛む。

 ――泣いちゃダメ。泣いたら……。

 泣いたら涙のわけを誤解される。それがあきらへの想いだなんて、絶対に伝わらない。伝わるわけがないのだから。
 そう思うから必死に唇を噛みしめるのに、そんなつくしの心とは裏腹に、涙は後から後から流れ落ちた。
 ほろほろと流れる涙は頬を伝い顎を伝い、足元の砂に落ちていく。足元の砂浜が少しずつ色を変えるけれど、つくしはそれを見たりしない。
 本当は隠したい涙を拭う事もしない。――ちがう、出来ない。目の前に迫って来るあきらから視線を逸らすことが、どうしても出来なかった。

 やがて、その距離は互いの顔がしっかりと見える位置まで近づいてきた。

「なに止まってんだよ。びっくりし――」

 笑みを浮かべて歩いてきていたあきらの表情が、つくしの涙を認識した途端、サッと変わった。目が見開かれ、言葉が途切れ、ほんの一瞬歩みを止める。
 けれどすぐに、ただこれまでよりも慎重につくしへと歩を進めた。つくしの顔を見つめながら一歩ずつ、一歩ずつ。
 そして、あと二歩で手が届くだろう距離で立ち止まった。

「牧野、……」

 名前を呼び、そのあと何かを言いかけたが、その口から言葉が発せられることはなかった。
 ただじっと、つくしを見つめている。心配と困惑が入り混じった表情、けれどその瞳は深い優しさに満ちていて、つくしは目を反らすことが出来ない。

 ――ねえ、美作さん。

 涙のわけを訊ねてほしい、と思った。
 きっと誤解をしているから。司を想って泣いているのではないと、そう言いたかったから。
 けれど、「なら、どうして?」と訊かれたら。

 ――あなたが好きです、なんて……言える?

 この想いを伝えたら、きっとあきらを困らせる。
 この恋に飛び込んでしまったら、また深い傷を負うことになる。一年前のように。――それ、以上に。
 つくしはそれが怖かった。
 すごく怖くて、踏み出す勇気が持てなかった。
 けれど想いは募っていく。一日、一日、日を追うごとに。今、この瞬間も。

 ――美作さん、あたし……。

 募る想いは涙となって、また一筋流れ出た。
 頬から顎へと流れ伝い落ちる涙が、夕陽に照らされ鈍く光を放った。
 それを見届けたあきらが、サクリと砂を踏みしめて、つくしに一歩近づいた。
 そして。

「……牧野」

 つくしの名を呼ぶ優しい響きと同時に腕が伸びて、指先がつくしの頬に触れた。
 胸がぎゅっと締め付けられて、つくしは思わず目を閉じる。
 あきらの指先は、頬に残る涙の跡を綺麗に拭い取り、それからつくしの頭に乗せられた。
 温もりが、つくしの心に沁みる。
 置かれた手の、優しすぎるその重みと温もりに、つくしはたまらず俯いた。
 あきらは何も言わず、つくしの頭を撫で続ける。ぽん、ぽん、と緩やかなテンポで、まるで子供をあやすように。

 ――……美作さん。

 もう。きっとあきらは、何も言わない。
 黙ってすべてを受け止めて、優しく包み込んで、ずっとそばで見守って。そしてつくしが顔をあげたら、穏やかに微笑む。何も言わずに。
 それが、あきらだから。
 つくしは何度も、そんなあきらに救われている。
 そんなあきらの優しさが、たまらなく愛しい。
 けれど今は、その優しさが苦しい。

 ――……美作さん。……好き。美作さんが、好き。

 迫る夕闇の分だけ、つくしの想いは増していった。





 **

 

 

 あれから、一週間。
 つくしの視界に飛び込んで、その胸を締め付けたのは、見慣れたあきらの車だった。

 いろんな意味で心は正直だと思う。
 あきらに会うのはあの日以来。ほんの僅かな気まずさを感じつつも、顔が自然と綻ぶ。胸が痛いのに、その一方では高鳴りも覚えた。
 トクトクと早まる鼓動に気付かぬふりをして、つくしは素知らぬ顔で歩き出す。
 近づいていくと、運転席の窓が下がった。

「お疲れ様。今日はもうこれで上がり?」
「うん、そうだけど」
「この後の予定は?」
「夕飯の材料買って帰ろうかなって」
「じゃあ、乗って」

 つくしの返事を待つことなく、あきらは助手席のドアを内側から開けた。
 断る隙を与えないスマートで強引な一連の動作に、思わず笑みが零れる。
 乗り込んだつくしがシートベルトを締めるのを確認すると、あきらは静かに車を発進させた。


 滑るように走る車。
 つくしは、あきらの運転がとても好きだと、いつも思う。
 性格そのままの優しい運転で、いつでも振動は最小限。ハンドルを切る仕草も優雅で無駄がなくてかっこいい。
 時々つくしは、そんな姿に見惚れてじっと魅入ってしまう。
 一度だけ、「何見てんの?」と笑いながら問われたことがある。「手さばき」と言ったらなぜか爆笑されて、「乱暴だなって感じたらすぐ言えよ」と言われた。そんな日は一生来ないだろうと思いながら、頷いた。
 それ以来、運転中のあきらをどんなに見ていても、彼は何も言わない。時折目が合ったり、そんなつくしの視線に気づくと、口の端に笑みを浮かべた。

 今日も懲りずにその手元を見ていると、過去に類の運転でひどい目にあった事を思い出した。あれはひどかったなぁと思ったら、ぷっと笑いが漏れてしまった。その破裂音は、静かな車内に予想以上に響いた。

「何、どうした?」
「あ、ごめん。思い出し笑い」
「何か面白いことでも?」
「類の運転を思い出してたの。初めて乗ったのは高校生の時で、類は免許取り立てでさ」
「知ってる。ジェットコースターよりスリルがあるって総二郎が言ってた、あれだろ?」
「スリルなんてかわいいもんじゃないよ。リアルにギュイーンて音をさせて走る車なんて、普通に生活してたらそうそうないでしょ。類の運転はそういう音がするの」
「……無理。俺そんな車にだけは乗りたくない。まして類と心中なんて、絶対ゴメンだ」

 心底厭そうに顔を顰めるあきらに、つくしは爆笑した。

「たしかあの時も、美作さんは乗らなかったよね。エスパーだって西門さんが言ってたの覚えてる」
「だって考えただけでわかるだろ。類だぞ? 安全運転のわけがない。信号だってきちんと見ているかどうか微妙だし」
「でも、少しずつはまともになってるんだよ」
「え? そんなに何回も乗ってるのか?」
「あれで類って運転がとても気に入っているらしくて、時々ドライブに誘われるの。まあ、どんなにまともになってもジェットコースターの気分は変わらないんだけど」
「……牧野、勇気あるな」
「だって、あたし以外に誰も乗ってくれないってぼやくんだもん」
「そんなジェットコースターみたいな運転するからだろ?」
「あの運転は変わらないのかしらね」
「変わってくれないと困るなぁ」

 心底願うようなため息交じりのあきらの言葉に、つくしはまた爆笑した。

 ――あー、楽しいなあ。

 笑いながら、そんな極々普通のことを心の底から嬉しく思った。
 あきらもまた、爆笑するつくしを横目に捉えて、ひそかに安堵していた。


 数分前。
 和菓子屋の裏口から出てきたつくしは、なんとなく覇気がないように思えた。
 車を見つけた瞬間も、近寄って来るその足取りも、その表情に硬さが見え隠れしていて、どこかいつものつくしと違って見えた。
 どうした、とすぐにでも声をかけたくなったけれど、ひとまずその言葉を呑み込んだ。深い意味はない、ただいつもどおりにすることのほうが正しい気がした。
 結果的に、その選択は間違いではなかったと思う。
 それでも尚どこか気がかりなのは、海での記憶が色濃く残るからだろうか。
 今隣に居るつくしが笑顔でいたならそれでいいと思っているのに、覇気なく感じたつくしの残像が消えなくて、そのわけを知りたいと願ってしまうあきらがいた。


「牧野、ちゃんと食ってるか?」

 あきらがそう口にしたのは、和菓子屋がこの夏から売っている新商品について話し終えた直後だった。

「え、和菓子?」
「じゃなくて、メシ。この前会った時より痩せただろ」

 突然の問いかけに、つくしは思わず運転するあきらの横顔を凝視する。その視線に気付いたからか、あきらはちらりとつくしを見て、「気のせいか?」と続けた。
 つくしは「……さあ」とだけ呟いて曖昧な笑みを浮かべ、窓の外に視線を移した。

 海へ行ったあの日から今日まで。
 海での出来事を思い出しては胸がいっぱいになる事が多くて、いつもよりも食欲がなかった。
 つくしの家には体重計がないので、本当に痩せたかどうかはわからない。けれど、もしかしたら痩せたのかもしれない。でももしそうだとしても、本当に僅かな変化だろう。
 だって誰にもそんなこと言われていない。バイト先の和菓子屋の店主にも、一週間に一度は必ずやってくる馴染みの常連客にも、それこそ、数日前に久しぶりに会った総二郎にも。

「なんで?」
「ん?」
「あたし、そんなに痩せた?」
「いや、パッと見じゃわからない程度だけど」
「じゃあ、なんで?」
「え?」
「わからない程度なのに、なんでわかるの?」
「うーん。……いつも見てるから?」

 あきらはふわりと笑った。あまりにも綺麗に、柔らかに。

 ――……何よそれ。そんなふうに、言わないでよ。

 途端に、胸の奥が鷲掴みされたように痛くなって、泣きそうになった。
 その一言、そのたった一言で、つくしの心に大波が押し寄せて、ぐらんぐらんとつくしを揺らす。ぶつかって跳ねた飛沫が外へ飛び出してしまいそうなほど。
 飛び出したら、飛び出してしまったら、その感情は口をついて出るしかないのに。それはまだ、出してはいけない感情に違いないのに。
 冷静にならなければ。
 つくしはぐっと拳を握った。
 きっとあきらは冗談で言ったのだ。つくしが些細な事にしつこく食い下がったから、話を濁したのだ。
 仮にあきらの本心が含まれていたとしても、それは友人としてのもの。そこにほかの何かを感じたのなら、それはつくしの勘違いだ。特別な意味なんて、ないはずだ。
 わかっている。わかっているけれど、それならば。
 いつも見てるから――そんなことは、言わないでほしい。その言葉の意味を深読みして、ないはずの想いを探してしまうから。勝手に期待して、「好き」が溢れそうになってしまうから。
 膨らむ想いは、なかなかつくしに冷静さを取り戻させてはくれない。それどころか、気持ちがぐちゃぐちゃに絡み合って、涙となって込み上げる。

 ――ダメ。泣いたら、ダメ。

 思えば思うほど、涙はぶわりと膨らんだ。
 でも泣いたら、ダメなのだ。

 ――また誤解されちゃうよ。

 あの海の、あの時のように。

 

 

 *

 

 

 あの日。
 帰りの車中は、行きと変わらない空気が流れていた。
 運転は終始穏やかで、話す会話もいつも通り。ただつくしは、あきらの運転を一度も眺めなかった。
 言葉を交わす時も、黙っている時も、窓の外ばかりを見ていた。時折、気遣うようなあきらの視線を感じながら。
 結局、最後まであきらは何も訊かなかった。

 アパートの前に車が止まると、つくしは「ありがとう」とだけ告げて急くように車を降りた。
 顔もまともに見ず、逃げる勢いでその場を去ろうとするつくしの背に、あきらの声が響いた。

「いつでも電話してこいよ! 朝早くても、真夜中でも、いつでも構わないからな!」

 それでも振り返らない自分は、どれだけ不義理な冷たい人間なんだろうと、厭気がさした。けれどどうしても振り返れなかった。
 足早に階段を上り廊下を進み部屋の前に辿り着く。乱暴に玄関ドアを開け、駆け込むと同時に、つくしはその場にしゃがみこんで、咽び泣いた。
 やっぱり誤解されている、と思った。
 やっぱり、どうしようもなく好き、と思った。

 

 

 *

 

 

 また、あの日のように誤解されてしまったら。
 今度こそひどく落ち込んで、今度こそ、何もかもぶちまけてしまうかもしれない。
 そうなってしまったら、そこに待つのは最悪の結末だけだ。そんなのは、辛すぎるし、ひどすぎる。
 絶対に泣くまいと、つくしは俯きぎゅっと目を瞑った。

「牧野?」
「……」
「牧野、もしかして車に酔った? 具合悪い?」
「……」

 運転荒かったかな、と呟くあきらの声が、つくしの胸をますます痛くする。

 ――優しすぎるよ、美作さん。

 駐車スペースを探しているのだろう、「停められるところあったかな」と零れた独り言を耳にした瞬間、つくしの口は勝手に動いていた。

「そのまま走らせて」
「え、でも具合悪いなら停めたほうが楽になるだろ。遠慮す――」
「してない」

 あきらが言葉を呑む気配が、空気から伝わった。

「遠慮なんてしてないから、お願いだからそのまま走らせて」

 心配してくれる彼に対して、何て言い草だろうと思う。でもこれ以上言葉を重ねたら、今度こそ涙が止まらなくなる。きっと、余計な事まで言ってしまう。
 だからつくしは、口を噤む。窓の外の流れる景色を見るふりをして。顔を見られないようにして。

「……なんかあったら、すぐ言えよ。遠慮すんなよ」

 あきらの声が静かに響いて、それきり車内は沈黙に包まれた。

 運転するあきら、窓の外を見続けるつくし。
 一瞬たりともあきらに目をやったりしないのに、それでもつくしの脳裏には、僅かな物音で運転するその様子がはっきり浮かぶ。
 気遣うように緩やかに踏まれるブレーキ。ゆっくりとハンドルを切る手元。
 鮮やかに浮かんでしまう彼の姿に胸は締め付けられて、崩壊寸前の涙腺を刺激する。
 つくしは唇を噛んで、きつくきつく噛んで、溢れそうな涙と込み上げる想いをぐっと堪えていた。

 沈黙は続く。どこまでも。

 胸の奥に沈んだ涙は、どこへ流れていくだろう。
 押し込められた募る想いは、どこで眠るのだろう。
 この先、どこへ向かっていくのだろう。
 今はまだ、何もかもがわからない。

 ただ、わかるのは。

 この想いが苦しくて。
 この想いが切なくて。
 この想いが、愛しいこと。

Fin.
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2009.10 煌めく夏色の彼方に
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