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この紅茶色が消えるまで
COLORFUL LOVE
1

サワリと風が吹き抜けた。
晴れとも曇りともいえない曖昧な色を広げる空。
パラパラと、雨のような音がする。
「何?」と見上げたつくしの目の前を、音の正体が舞い落ちた。

(……ああ、落ち葉か。)

咲く美しさに心を奪われるのが春ならば、散る美しさに心を震わせるのが秋。
秋の深まりはどの季節よりも迅速で、美しさと切なさがほぼ同時にやってくる。
明日は――否、あと一時間後にさえこれと同じ景色はない。
まるで絨毯のように落ち葉が敷き詰められた道を、つくしは慈しむように歩いていた。

英徳の広大な敷地内には、意識的に足を向けなければ一度も行くことのないまま卒業を迎えてしまう場所が幾つもある。
勝手に入ってはいけない場所はともかく――いわゆるF4専用スペースなどがそうなのだが、そこを思い切り利用しているつくしは、この手の事にはかなり疎い――そうでなくても行かずに済む場所があるなんて、つくしには無駄に広いとしか思えなかった。
けれど、そんな場所はいつでも静かでつくしをホッとさせるのもまた事実。
今つくしが向かっている図書館も、そのひとつだった。

色褪せたレンガが実にお洒落な西洋館――敷地のかなり端に位置するこの図書館は、試験間際には賑わうものの、普段は熱心に調べ物をする学生と教壇に立つ側の人間がいるくらい。
歴史を感じるこの建物が、それを計算されて作られた極めて近代的なものなのだと知った時――しかも、道明寺財閥からの寄付金で作られたとか――つくしは心底驚いた。
「由緒ある図書館ぽいだろ?」とあきらや総二郎は笑っていたけれど、お金持ちは無駄なことをしたがる、とつくしが思ったのは言うまでもない。
大体にしてそこへ辿り着くまでに、森林浴が出来そうな長い小径を抜けなければならないのだから、お金持ちのご子息にはひどく面倒なのかもしれない。
もっと真ん中に建てれば利用者も増えるだろうに、といつも思った。

カツカツとレンガの音を鈍く響かせて重厚な扉の前に立ったつくしは、最小限の力でそっと押し開く。
見た目よりもずっと軽いその扉は、カチャリと遠慮がちな音を立てて開いた。
スルリと体を滑り込ませると、書庫独特の匂いが全身を覆う。
すうっと吸い込んで、それから静かに歩き出した。
見る限りには人影まばらな館内だが、いつもよりもほんの少しだけ賑わいを感じた。
つくしは、どこかで誰かが話しているのだろう、とさほど気にせず中へ中へと進んでいく。
莫大な量の書物が並ぶこの空間において、お目当ての本を自力で探し出すのは、この場所を知り尽くした人間でなければ不可能に近い。
いつもなら迷わずカウンターの司書に話しかけるのだが、この日のつくしはそうしなかった。
キョロキョロと周囲を見渡しながら歩き進む。
そして、お目当ての――柔らかな髪をサラリと揺らした背の高い影を見つけた。
自然と浮かぶ笑みをなんとか抑えながら、その後ろ姿に真っ直ぐと歩み寄る。

「みま――……」

――みまさかさん。
そう響く予定だった。けれどつくしの呼びかけは、途中で音を消した。
あと数メートルのところまで近づいて、気付いたのだ。
あきらは一人でなかった。
あきらと向かい合う形で、一人の女性が笑っている。
それはつくしが初めて見る女性で、でもとても親しく話していることは感じ取れた。
そんなに大きな声ではない、どちらかと言うと抑え気味に続けられる会話。けれど彼女の煌びやかに響く高めの声に、先程感じた賑わいはここだったかとぼんやり思った。
あきらがほんの僅かに体の向きを変えて、その表情が見える。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

(……。)

ズキン、と胸の奥に痛みが走り、気付けばつくしはくるりと背を向け、その場から去っていた。



息を潜めるように図書館を出て、今来たばかりの小径を俯き加減に引き返す。
一歩踏み出すたびに足元の落ち葉がカサカサと鳴って、頭の芯を刺激した。

とても綺麗な女性だった。
英徳の学生――それも上流階級のご息女なのだろう、上品で優雅な雰囲気の漂う、柔らかな笑みを浮かべていた。
それは、優しい笑顔のあきらにぴったりの……。

(……お似合い、ってああいうのを言うんだよね。)

自分で思っておきながら、それはあまりにもズシンと重い現実だった。

あきらが女性と居る所を見るのは、決して初めてではない。
今でこそ落ち着いた風はあるけれど、少し前まではいつだってデートの予定が入っていて、何もなければ総二郎と一緒に遊び歩いていた。
年上のワケあり女性が大好きで、相手の都合に振り回されつつもデートにプレゼントにと、随分マメなことを繰り返していたのを知っている。
年齢の近い女性をターゲットにしていなかったせいか、学園内では見かけないものの、街では女性と歩く姿を何度か目撃したことがある。

(そうよ、いつだって美作さんの周りには綺麗な女の人がいたじゃない。)

判り切っている現実を何度も言い聞かせるように思うのに、自分でも驚くほどショックが広がっていく。
あの頃は「よくやるわね」と呆れるくらいで、その他の感情なんて湧かなかったのに。
ここが学園内で、あきらの隣にいたのが年上マダムではない、自分と同じ学生だったからなのか。
それとも、誤魔化しきれない程大きくなった恋心のせいなのか。
そのどちらもが、つくしの闇を広げる。
数分前に見たあきらの笑顔が浮かぶだけで、つくしの中の深いところからドクドクと血が流れるような気がした。

頭の芯に響く落ち葉の音が疎ましい。
葉が舞い落ちる様子がひどく寂しい。
あんなに美しいと感じた景色が、今は切なくて。
泣きたくなるほど悲しかった。

 

「――きの、牧野」
「え……うわっ!」

突然、つくしの目の前に黒い影が現れた。
ぶつかる、と咄嗟に目を閉じ身体を固くしたところで両肩を掴まれた。
そっと目を開くと、そこには見慣れた顔があった。

「……類」
「大丈夫?」
「……びっくりしたーっ」
「それはこっちのセリフ」
「へ?」
「結構前から声掛けてたのに気付かないし、どんどん迫ってるのに無反応。俺の前にも何人かぶつかりそうになってたよ」

気付けばそこは校門付近で、何人もの学生が行き来している。
どれだけぼうっと歩いてきたのかと、つくしはそんな自分に呆れた。

「ああ、ごめん。考え事してた」
「牧野に似たロボットかもって思ったくらいの深い考え事?」
「……あのね、私に似たロボットなんているわけないし、第一ロボットがこんなとこにいたら可笑しいでしょ」
「でもいたら欲しいかも。おもしろそう」

想像してぶくくと笑っている類に、つくしは呆れて思わず噴き出した。
言ってることは突飛で意味不明だけれど、なんだかホッとする。

「類、なんか久しぶりだね」
「うん。大学も牧野も久しぶり。仕事ばっかりなんだもん」
「仕方ないじゃない。自分でやろうと思ってやってるんでしょ?」
「そうだけどさ。こんなに面倒だとは」
「わかってたくせに」
「寝る時間が少なくなるのが許せないよ」
「そこなの?」
「そこだよ」

「ここなら邪魔されずに寝れるかなって来たんだけど」とあくびをする類。
相変わらず、本当に何一つ変わらないその様子に、冷え切っていた心が温かくなる。
思わず、ふうと安堵の息が漏れた。
類はそんなつくしをじっと見つめて、小さく首を傾げた。

「それで、牧野はどうしたの?」
「ん?」
「何かあったんでしょ?」

そう言って覗き込んできた類の眼差しも声もひどく優しくて、何も話していないのに全てを理解して包まれているような気がした。

「何もないよ――なんて、通用しないよね、類には」
「そうだね」
「……」
「……あきらと、何かあった?」

あまりにも的確な類につくしは一瞬目を瞠って、それからくしゃりと顔を歪めて髪を掻きまぜた。
いつだって類はそうだ、と思ったら、鼻の奥がツンとした。

「なんで、わかっちゃうのかな」
「うーん、いつも牧野を観察してるから」
「だって会ったの久しぶりだよ」
「そんなの関係ないよ」

「昨日や今日知り合ったわけじゃないもん」と笑う類は、いつだってつくしの良き理解者で良き相談相手で、安心できて安心できない存在だった。
少しでも気を抜くと、つくしの深いところにまで平気で手が届いてしまうから。
自分でも見て見ぬふりをしたい感情まで、すべて掴んで見逃してはくれない。
とても心強くて、とても手厳しい。
そんな類だから、誤魔化しは通用しない。

「……ごめん。話せない」
「俺には言えないこと?」
「そうじゃなくて。――言葉にしたくないの、今は」

胸に痞えているものを声にしたら、泣いてしまいそうだから。
言葉にした途端、涙は止まらなくなるだろう。
あきらの事を想う時、つくしの涙腺はいつもよりずっと感情に敏感なのだ。

「ごめんね、類。心配してくれてるのに」
「別に謝らなくて良いよ」
「うん」
「困ったら言ってよ? いつだって牧野の味方なんだから」

優しく微笑む類。
「ありがとう」と伝えると、さらに優しく微笑んだ。

「じゃあ、あたし行くね」
「バイト?」
「ううん。今日はなし。家に帰ってレポート書くの」
「じゃあ俺も帰ろうかな。送るよ」
「え、いいよ。来たばっかりでしょ?」
「牧野に会えるかなって思って来ただけだし」
「もう、そんなことばっかり言って」

クスクス笑うつくしに、ホントなのに、と類は心の中で呟いた。
口には出さない。
言ったところで、本気にされないか困った顔をされるか、そのどちらかだとわかるから。
牧野の困った顔は嫌いじゃないけど、時には見たくなるけど、でも今は見たくない。

「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう。じゃあね」

つくしは小さく手を振り、そして歩き去っていく。
その後ろ姿を見送っていた類は、その肩あたりからふと何かが落ちたことに気付いた。

「あ、牧野。何か――」

言葉は車道を通り過ぎた車の音にかき消される。
聞こえていないのだろう、つくしは振り返らない。
けれど類も、再び声をかけることはしなかった。
つくしから落ちたそれを目で追う途中で、つくしにとって不要なものだと気付いたから。
けれど類の中で何かがざわめく。
なんとなく気になって、つくしから落ちたそれを拾い上げた。
そこに散らばる仲間とは、少しだけ異なる秋の色。
指先でくるりと回し、小さくなるつくしの姿をじっと見つめた。





アパートに着いた途端、どっと力が抜けた気がした。
つくしはフラフラと部屋へ入り、そのままドサリとソファに腰を降ろした。
肩から鞄を降ろして、足元に落とす。

(ストールはずさなきゃ。ジャケットも脱いでハンガーにかけて、それから……)

当たり前にやるべきことがあるのに、そのどれに対しても身体は動こうとしない。
何かが痞えたように苦しい胸を楽にしたくてひとつ大きく息を吐くと、なぜかポロリと涙が零れた。
咄嗟に拭った指先が濡れて、室内の弱い光を反射する。

(え、……やだ、もう。)

外よりもほんのり温かな部屋に気持ちが緩んだのだろうか。
拭っても拭っても涙は次から次へと頬を伝った。
脳裏には、図書館での光景ばかりが浮かんでくる。
胸が締め付けられるように痛くて、無性に悲しかった。
悲しくて悲しくて、思うほどに涙が零れた。

「……っ………っく……」

口を塞いでも、震える手の隙間から嗚咽が漏れる。
ならばいっそ、今は心のままに。

(泣いても、いいよね。)

つくしは、思い切り泣いた。
自分を抱きしめるようにソファに丸まって。





はっと気付いて目を開けると部屋は薄闇に包まれていた。
腫れぼったく重い瞼をそっと擦りながらぼんやりとした頭を廻らせる。

(……はあ、寝ちゃったのか。)

大きなため息と共に起き上がり、立ち上がって電気を点けると、灯りが泣き腫らした目に沁みた。

思い切り泣いたおかげか、気分が少しだけマシになっていた。
すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

今日見た出来事は、夢ではなく現実だった。
けれど、偶然見かけてしまった日常の一部だと、ほんのちょっと納得できた。
それによって想いがぶれるわけでも、その関係性が変わるわけでもない。

(……うん。今もきちんと好きだもん。悔しいくらい。)

その想いはきちんと継続しているのだから。
それ以上の思考は抑え込んで、今やらなければならないことを思い描いてみる。

(顔を洗って、レポート書いて、ごはんも食べなきゃ。)

やるべきことはきちんとある。
ひとつずつ片付けるうちに、今日の出来事も片付いているはずだ。
きちんと気持ちの整理がついた気がした。
「よしっ」と気合いを入れて一歩踏み出した時、鞄の中の携帯電話が鳴り出した。
手に取って見ると、あきらからの着信だった。

(……。)

納めた心がまたざわつき、トクトクと心臓が早鐘を打ち始める。
数秒の躊躇の後、つくしは通話ボタンを押した。

「もしもし」
「……あ、えーと……牧野、だよな?」
「うん、そうだけど」
「良かった。なんか声が違うから間違えたかと思った」

泣いたせいか、寝起きだからか、つくしの声は確かにいつもよりも掠れて低かった。

「ごめん。寝てたから」
「あ、悪い。起こしちゃったか?」
「ううん。ちょうど起きたところだった」
「そっか」
「うん。……で、なに?」
「あー……これから行ってもいいか? もし、迷惑でなければ」
「え?」
「今、アパートの前なんだ」

つくしは咄嗟にカーテンを閉め切った窓に目をやった。
下を見下ろせば、きっとあきらの車が見えるのだろう。
いつものつくしなら、迷うことなくそうしている。
けれど今日はしなかった。する余裕がなかった。
混乱してぐるんぐるんと廻り続ける頭。

(ちょっと待って。あたし、この顔で会える? ていうか帰ってきてそのまんまで何もしてない……)

身体は硬直したまま動かないのに頭の中はアタフタと混乱状態で。
「牧野」ともう一度呼びかけられて、ようやく言葉を発することが出来るところに落ち着いた。

(ここで逃げたら、ダメよね)

覚悟を決めて、ふうと息を吐く。

「じゃあ……五分だけ待ってもらっていい?」
「もちろん。十分経ったら行くよ」

当たり前に与えられたあと五分の猶予は、あきらの優しさ。
切れた電話からさえも滲み出して、途端に心が温まるつくしがいた。

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2009.12.4 この紅茶色が消えるまで
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