01 / 02 / 03
雨色に滲む
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1

「ここに置いて、美作さん」
「はいよ」
「ごめんね、ここまで持って来てもらっちゃって」
「大したことじゃないよ」
「すっごく助かっちゃった。……あー、いや、それよりも」
「ん?」
「払ってもらっちゃって……本当にすみませんでした」

牧野はペコンと頭を下げると、申し訳なさそうに遠慮がちに俺を見上げた。
俺はふっと小さく笑って、気にしなくていいよ、と告げる。

「明日、ちゃんと払うからね」
「さっきも言ったけど、別にいいって――」
「さっきも言ったけど、そんなわけにはいかないの!」
「……はい。じゃあ明日いただきます」
「うん。本当に本当に助かりました、ありがとう」

もう一度、今度はもっと深く頭を下げた牧野は、頭をあげるとにこりと笑った。




 ***




今から遡ること数時間前。

俺と牧野は、総二郎の家で夕飯を食べていた。
これから年末に向けて忙しくなる総二郎が、時間があるうちに集まりたいと話を持ちかけてきて、類と俺と牧野、そして総二郎の四人で集まった。
どこかへ出かける話もあったけれど、あいにく外は雨。もしかしたら雪に変わるかもしれないという情報に、類が出かけるのを渋った。
ならばそのまま家にいようと話はまとまり、豪華な懐石料理を堪能することとなった。
他愛もない話をしながら笑い合って、楽しい時間を過ごした。

自分の車で牧野と類を乗せて訪れていた俺は、帰りも同じように二人を乗せて西門邸を後にした。
類を送り届けた後、買い物をしたいという牧野に付き合って、牧野家の近くのスーパーへ立ち寄ったのだが、そこでちょっとした事件が起きた。

慣れた様子で品物を吟味して選んでいった牧野が、お金を払う段階へ来て突然顔色を変えた。
財布を覗いたまま、顔を青くして固まっている。

「う、うそ。どうしよう」
「ん? どうした?」
「……お金、足りない」

どうやら昼間に何かの支払いをして、そのことをすっかり忘れていたらしい。
牧野は肩を落として項垂れたが、すぐに顔を上げて店員を真っ直ぐ見た。

( ああ、やめるつもりなんだな )

すぐにピンときた。

「ごめんなさい。お金が足りないので――」
「これで、払えますか?」

牧野の言葉を遮り、俺はカードを差し出した。
とびきりの笑顔つきで。




 ***




そんなこんなで、無事に買えた品々が詰まった袋を牧野の部屋へと運んで今に至る。
車を走らせてる間中、牧野はありがとうとごめんねを繰り返し、「明日必ず払うから」と言い続けた。
数日分の食料と雑貨を少し買っただけで、別に高い買い物をしたわけではない。お金はいらないと何度も言ったが、それはダメだと言い張った。
こういう時、牧野は決して自分の気持ちを譲らない。
そんなことは当にわかっていることなので、俺も無理強いはせずに最後はいつも通り牧野の気持ちを尊重することにした。

「でもホント、助かった。すんごいびっくりしたよ」
「だろうな。牧野、かなり青くなってたぞ」
「ほんと焦った。何やってんだろうね。ちゃんと確認しなきゃダメよね」

牧野は苦笑いを浮かべて、髪をくしゃくしゃと掻きまぜた。

「あ、良かったら、あがっていかない? お礼に美味しい紅茶淹れるよ。……まあ、茶葉は相変わらず美作さんからの戴きものですけど」
「あはは。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔します」
「どうぞ、どうぞ」


総二郎の家でのこと、夕飯の席で急遽決まった明日のクリスマスパーティーのこと、学校のこと――いろいろと話しながら、テーブルを挟んで向かい合って紅茶を飲んだ。
二杯目を飲み終えると、俺はカチャリとカップを置いて、テーブルの上に出しっぱなしにしていた車の鍵を手に取った。

「さて、そろそろ帰るよ」
「……うん、そうだね」

立ち上がって玄関へと向かう俺に、牧野も後に続いた。

先月、レポートの資料を持って訪れた夜を境に、かなりの頻度で二人きりの時間を過ごすようになっていた。
牧野を送って来た時は大概「お茶でもどう?」と牧野が訊いた。
俺はその誘いにいつでも頷いた。
二人きりの牧野の部屋には、いつも同じ、どこかフワフワとした空気が流れた。
それは時間が経つほどに甘さを増して、手放し難くなる。
けれどそれではいつまでも終わらないから、いつも二杯目の紅茶を飲み終えたと同時に、帰ると告げることにしていた。
牧野はいつも、俺の言葉にゆっくりと瞬きをして、それから笑みを浮かべて頷いた。
お互いに、その時間を終わらせる自分なりの方法を決めていたのだと思う。

そんな時間を共有するようになってから、俺の中にまだ言葉にしていない感情があるように、牧野の中にもおそらく言葉にしていない感情があるのだと、感じるようになった。
心のどこかに薄っすらと感じていたことが色を深めるようにはっきりと見え始めた。
曝け出して答え合わせをしたら、多分それはイコールなのではないかと思う。
けれどそれには、一度この空間を壊す勇気が必要で、きっかけや衝撃が必要で。
近い将来にきっといつか来るのだろうと感じながら、今はまだ踏み出せない俺がいた。

「明日はイヴかあ。午前中から講義とは、英徳の風潮にそぐわない教授がいたもんだ」
「やっぱりそうだよね。どう考えても欠席率高いだろうし、最初から休講のところがほとんどでしょ?」
「当然だと思うけどな。パーティー入ってるやつだっていっぱいいるだろうし。俺達も休むって方法があるぞ?」

靴を履き終えて振り返ると、牧野は眉間に皺を寄せて考えているようだった。
けれどそれはすぐに笑顔に変わった。

「でも、あたしは出るよ。もったいないし」
「ははは。言うと思った」
「西門さんも学校に来るって言ってたね。講義はないはずなのに何でだろ? デートかな」
「いや、あいつはイベント当日にデートはしないよ。その日選んだ相手に特別だと思われると困るからな」
「……西門さんらしい発想ね」

心底厭そうに顔を顰める牧野に、俺は笑った。

「じゃあ、明日ひとまず学校で。特に用がなければそのままうちに直行するから」
「うん。でもいいの? パーティーしようなんて突然決めちゃったけど、美作さんのお家の予定だってあるでしょう?」
「大丈夫。うちには連絡しておいたから。きっと気合いの入った料理がわんさか出てくるぞ」
「ブッシュ・ド・ノエルも?」
「そう。総二郎推薦のブッシュ・ド・ノエルも」
「なんだかいつも申し訳ない気がするけど、でもすっごく楽しみ。絵夢ちゃん芽夢ちゃんやお母さんにも会えるかな」
「乱入間違いなしだな、特に双子」
「あははは。それも楽しみ!」

牧野はキラキラと瞳を輝かせて満面の笑みを浮かべる。
類が「パーティーしようよ」なんて珍しいことを言い出して、総二郎が「美作邸のブッシュ・ド・ノエルを食べないとクリスマスじゃないよな」と笑った時には、牧野と二人で食事をしようと計画していた俺の邪魔する気かよ、と少しだけ恨めしい思いだった。
けれど、「楽しそう!やろうよ!」と嬉しそうに笑った牧野を見て、こんな牧野を見れるならみんなでパーティーも悪くない、とむしろ乗り気になってる俺がいた。
あまりにも単純な自分に呆れるが、そんな感情も悪くない。

「泊りのつもりで来いよ。どうせ朝まで飲んで騒ぐことになるんだから」
「はーい。お世話になります」
「じゃあ、また明日」

おやすみ、と挨拶を交わして俺は牧野の部屋を出た。
来た時に小降りだった雨はいつの間にか止んでいたが、冷たい空気が張り詰めて一段と寒くなったようだった。
今晩もう一度雨が降り出したら今度は雪に変わるかもしれないと思いながら、肩を竦めて歩き出した。

部屋にあがるようになってから、アパートの前の狭い道に長く駐車するのは迷惑だろうと、少し歩いたところにあるコインパーキングに車を停めるようにしていた。
それは、そこへ車を停めた時はその後時間があるという牧野への合図に近い感覚もあった。
実際に牧野は、俺が家の前で車を停めた時には誘ってこない。
断るのも断られるのも心に一抹の寂しさが残るから、この方法は今の関係に合っていた。

駐車場は、アパートから数十メートル歩いた角を曲がってすぐにあった。
その近さが気に入っているのだが、こんな寒い夜はその距離さえも遠い。
早く車に乗ろうと足を早めて角を曲がったところで、ふと忘れ物をしたことに気付いた。
部屋に入った時に外したストールを、ソファの足元に置いたままだ。

( 道理で寒いよな。……って防寒のつもりでしてたわけじゃないけど。 )

足を止めて、一瞬考える。
今すぐ必要なものではないのだから、電話をして明日持って来てもらってもいいし、次に来た時でも構わない。
でも牧野のことだから、きっとすぐに気付くだろう。
そうしたら、走って持ってくるのではないか。
そんな気がして仕方なかった。
こんな寒い中へ薄着で飛び出してくるだろう姿を想像してしまったら、足は自然と来た道を戻っていた。

半分程の距離を戻ったところで、カンカンとアパートの階段を駆け降りる音が聞こえた。
おそらく牧野に間違いないその音に、俺は足を早める。

その時、だった。

アパートの前にするりと一台の高級車が停まった。

( ……え? )

見覚えのあるその車に僅かな戸惑いを覚えてじっと見ていると、運転手が開けた後部ドアから長身の男が降り立った。
それと同時に、階段の音がピタリと止んだ。
男が一歩二歩と足を踏み出して、それと同時に階段が再び音を響かせた。
でもその音は先程の足早に駆け下りてきたのとは違う、遠慮がちなゆっくりとした小さな響きだった。
その音が止むと、アパートの前に一つだけ灯る街灯の下に牧野の姿が浮かび上がった。
部屋に居た恰好にショールを一枚ぐるりと巻いただけの薄着で、手には俺のストールらしきものが抱えられていた。

( やっぱり持ってきたんだ。 )

思ったけれど、俺は動けなかった。
もう一人、灯りの下に浮かび上がったのは、俺の良く知る人物だったから。

( ……え、司……? )

それは間違いなく、ニューヨークに居るはずの、司だった。

おそらく牧野も驚いたのだろう。
暫く呆然と司を見つめていた。
それから二人は何か言葉を交わすと、アパートの階段へと姿を消した。
二人の階段を登る音が重く小さく響く。
俺はそれを聞きながら、その場に立ち尽くすしかなかった。




それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
ニ十分、いや、三十分……もっと経っているかもしれない。
止んでいた雨が再び降り出して、それはすぐに雪へと変わり、今も降り続いている。
俺は立ち尽くしたその場所から一歩も動けず、牧野の部屋から漏れる灯りを見つめていた。
頭の先から足の先まで身体全体が冷え切ってガタガタと震えが来るほどだったけれど、それでも俺は居続けた。

( いったい何をやっているんだろう。 )

自分のことながらその格好悪さに苦笑いが零れる。
けれど、どうしても気になった。

道明寺財閥の重要なポストに立つ司が帰国する時にはいつも、なんらかの情報が飛び交った。
けれど今回はそんな話は耳に入ってきていない。
でもその司が今ここにいるということは、プライベートで極秘に帰国したということ。
牧野と約束していたとは到底考えられない。
突然、いったい何のために牧野に会いに来たのか。
何か話があって訪れたに違いなくて、でも世間話のはずもなくて。

( 今更何を? )

気になって仕方なかった。

電話をしてみればいいんだ。
直接部屋に行ってもいい。
こんなにも気になるのなら、本当はそうするべきなのだ。
眼と鼻の先に牧野の部屋があって、そこに二人はいるのだから。
――でも。
俺に何の権利があると言うのだろう。
別れたとは言え、過去には婚約までしていて結婚間近と思われた二人。
別れて以来初めて会う二人が何を話していても、それを邪魔する権利などあるわけがない。
俺と司は幼馴染で親友で、俺と牧野も親友で。
――俺達の関係は、それだけなのだから。

「……最高に、カッコわりぃ」

思わず漏れた声は、震えてひきつった響きを放った。
それでも、俺はそこから動かなかった。



音もなく降り続く雪が、雨で濡れた景色を少しずつ覆い、薄っすらとその白さを主張し始める。
俺は半ば感覚のなくなりつつある身体でただじっと立ち続ける。
あまりの寒さに動くこともままならない。

( もう、帰ろう。 )

何度自分に言ったかわからない言葉を、おそらく実効性の欠片もないとわかりつつももう一度心の中で繰り返した。

その時。

カンカンと音が響いた。
俺はハッと顔を上げる。
街灯の下に司が現れて、すぐさま降りてきた運転手が車のドアを開けた。
けれど司は、すぐには乗りこまなかった。
その場に立ち止まり、牧野の部屋を見上げる。
おそらく、数十秒だっただろう。
やがて司は車の中に姿を消し、間もなく車が走り出した。
咄嗟に背を向けた俺の横を、車は滑るように走り抜けて行った。

車の音が遠くへ消えていくと、辺りは静寂を取り戻す。
俺はゆっくりと牧野のアパートへと近づき、部屋の灯りを見上げた。
司が階段を降りてきた時も、立ち止まって見上げていたその間も、車が走り去った時もその後も、そして今も。
牧野は窓から姿を見せなかった。

今、どんな気持ちでいるのだろう。
あの窓ガラスの、カーテンの向こうで、どんな顔をしているだろう。
いったい何を話して、何を思ったのだろう。
司と牧野は、何か変わっただろうか。
俺と牧野は、何か変わっていくのだろうか。

今はどの答えもわからない。
このまま牧野の部屋を訪れたら何かがわかるかもしれない。
凍えきった俺に牧野はきっと驚いて、でも部屋の中へと招き入れてくれる。
理由を話したら呆れるかもしれない。バカじゃないの、と怒るかもしれない。カッコ悪いと、笑うかもしれない。
でも、きっと知りたい答えがそこにある。

――何やってんのよ。美作さんらしくないなあ。

呆れられても、怒られても、笑われても。
牧野のその言葉が訊けるなら、今すぐ階段を駆け上がりたいと思った。



でも、結局俺は、そうしなかった。
それ以上牧野のアパートへ近づくことなく、凍えきった身体を引きずるように車へと向かった。
今度こそ、家へ帰るために。

牧野の部屋を訪れなかった理由は、たったひとつ。
自分の中を渦巻く感情を、コントロールできる自信がなかったから。
今会ったなら、抑えきれない感情が飛び出してしまいそうで怖かったから。
何もかもを知りたい俺と、目の前のものを壊す勇気の持てない俺と。

( ……こんなカッコ悪い事って、ないな。 )

半ば自分に失望しながら、俺はその場を立ち去った。


いつしか雪は止んでいた。







凍えきった身体に熱いシャワーを浴びる。
あまりの温度差に、身体中が痛くてたまらない。
それでもシャワーを浴び続ける。

車中の暖房を全開にして、完全に感覚がなくなるまで悴んでしまった手と震えの止まらない足を誤魔化しながら、なんとか家まで辿り着いた。
すぐに出てきた使用人は、全身ずぶ濡れで震える俺を見て悲鳴にも近い声をあげると、慌ててお袋を呼びに行こうとしたので、その必要はないと止めた。
雨や雪に濡れて寒いだけで、双子と一緒に寝入っているであろうお袋を起こすようなことではない。
こんな時でも状況をきちんと説明している自分に呆れて嫌気がさす。
関わる人間が増えれば増えるほど口にしなければならない言葉は増えて、残念ながら、俺にはそれらすべてを無視する大胆な開き直りは出来ない。
だから今は、何もなかったように見て見ぬふりをしてほしかった。
大丈夫だと何度も繰り返して半ば強引に下がらせると、俺はバスルームへ向かった。

シャワーヘッドから勢いよく出る湯に頭からずっぷりと濡れていくけれど、いつまで経っても身体は温まらない。
――わかっている。
冷え切ってるのは身体だけじゃなくて、心もだ。
だから身体がどんなに温まったところで、温まった気がしないのだ。

眼を閉じれば頭に響き渡るのは、カンカンとなる階段の音。
瞼の裏に浮かぶのは、街灯の下で見つめ合う司と牧野の姿。階段へと消えて行った二人の影。
どんなに頭を振ったところで、消えることはない。

頭が痛い。
身体が――心が、寒くて仕方ない。

( 何も考えずに、ひとまず寝よう。すべては明日。明日だ。 )

出来るわけもない事を自分に言い聞かせて、俺はシャワーを止めた。

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2010.01.01 雨色に滲む
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