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踏み出す一歩は雪色に残して
COLORFUL LOVE view of TSUKASA
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「会議が終わったばかりでお疲れのところ申し訳ありませんが、この書類だけ早急に目を通していただけますでしょうか」
「そこに置いてくれ」
「はい。それと、西門様から連絡がありました」
「総二郎か?」
「はい。三十分ほどしたら、こちらにお見えになるようです」
「は? ここに?」
「はい。あの……お約束されているとのことでしたが」
「……」
「されていませんでしたか?」
「してないな。でも、まあいい。この後、予定はなかったよな?」
「はい。明日午前十時に会議が入っておりますが、それまでは空いております」
「わかった。来たら通してくれ」
「承知いたしました」

 秘書が出ていく音を聞きながら胸元から携帯電話を取り出すと、そこには総二郎からの着信が数件と、メールが一件表示されていた。

―――
 これからそっち行くよ。クリスマスパーティーしようぜ。
―――

 会議中に何度か鳴ったことはわかっていた。一度は確認したものの、総二郎からだとわかったので、会議を中断してまで出ることはしなかった。これから折り返そうと思っていたのだが、用件はこれだったか。
 ――ったく、勝手に決めやがって。
 ひとまず眉間に皺を寄せてみるが、無意識のうちに心が弾んで口の端に笑みが浮かぶ。
 椅子から立ち上がり窓辺に立つと、一度は止んだ雪がまた降り出していた。

「ホワイトクリスマス……か」

 一体どこまで積もるのか。あんまり積もり過ぎない程度に、でも世界が真っ白になったらいい。
 そんなことを思いながら、俺は暫くぶりの東京の街並みと、その上に舞い降りる雪を眺めていた。





 *




 日本へ帰ってきたのは、愛する女に会うためだった。
 牧野つくし――庶民で貧乏で、気が強くて頑固で鈍感。育った環境も金銭感覚も、もろもろすべてがあまりにも違うこの女は、扱いづらいことこの上ない。
 けれど、俺の心を掴んで放さない。何年経っても、どれだけ離れていても、どれだけ会わなくても。

 久しぶりに掛けた電話で「別れよう」と告げられたのは、もう一年以上も前のこと。
 あの時。どんなに抵抗しても、どんな言葉を投げかけても、牧野はその結論を曲げようとはしなかった。
 連絡が出来ないと言って、一方的に音信不通になったのは俺。財閥を立て直すために、その気もないのに資産家の娘と婚約発表しようとしたのも俺。それでも別れないと、牧野との婚約も破棄しないと言い張ったのも、俺。 
 多くの事情があった。本当に、どうにもならない事情が山のようにあった。牧野に別れを決断させるだけのことを、散々していることは百も承知だった。
 でも俺の中では、そのすべてが牧野と歩く未来へとつながっていた。
 そこを超えていかなければ望む未来には辿り着けない。そう思ったから、全てを決断して選択していった。
 けれどそれは俺の勝手な事情で、牧野にはそんなものは通用しなかった。――いや、通用していたのかもしれない。通用していて、それでも牧野は、それだからこそ、そんな未来は一緒に歩けないと結論付けたのかもしれない。

 俺と牧野は、別れた。
 正しく言えば。
 牧野は、俺との別れを選んだ。俺は、別れは選ばなかった。
 牧野との未来を手に入れるために、ひとまずその場では牧野の意見を受け入れた。でも俺はその手を離すつもりはなかったし、離したつもりも、なかった。
 そんな言い分は通用しないというかもしれない。けれど俺は、本当にそういう気持ちでいた。

 そこからの日々は、それまで以上に必死に働いた。寝ても覚めても仕事ばかりしていた。プライベートも何もあったもんじゃない。そんなものは、いらなかった。
 とにかく、一日も早く牧野を迎えにいく。
 そればかりを考えていた。
 俺は一番肝心なことを見落としていたのかもしれない。時間は、俺にも牧野にも、平等に動いていくということを。

 財閥が少しずつ持ち直し、先の見通しが立ってきたとほんの少し実感が持てるようになった頃。日本から送られてくる牧野の様子が記された報告書で、あいつもまた、少しずつ変化を遂げていることに気付かされた。
 牧野のことは、ずっと定期的に調べさせていた。
 そんな事をしていたと知られたら激怒されることは百も承知だが、キョトキョトしてばかりいるあいつを何年も放っておくことは、俺にはどうしても出来なかった。あいつの動向すべてを知ろうとは思わない。ただ、あいつが笑っているかどうかを知りたかった。そして、手の届かないところへ行って欲しくはなかった。
 報告される内容をさらりと流すなら、牧野は全く変わっていなかった。相変わらず貧乏で、バイトしながら大学へ通って、時々仲間たちと遊んで。
 俺がいなくても何も変わらないという事実は、俺に安堵を与えたり、若干の寂しさを覚えさせたりはしたが、それはさほど問題ではなかった。
 問題なのは、牧野が行動を共にする人間。
 最初はあまり気にとめていなかったのだが、ふと気がつけば、必ずと言っていいほど一緒にいる男がいた。
 美作あきら――日本有数の総合商社、美作商事の子息。俺の幼馴染で、親友。 気配り上手で、面倒見が良くて、心優しい男。
 年上のワケあり女ばかりをターゲットにしていたはずのあきらが、常に牧野と一緒にいた。
 最初は、俺の代わりに見張ってくれているのかと思っていた。
 今更、面と向かって礼を言うなんてのは照れ臭いし、今までだってそんなことはしていないから――あるかもしれないが、思い出せない――、今回も何も言わずにいたが、心の中では感謝さえしていた。
 けれど徐々に、そうではないと感じるようになった。
 報告書にあきらの名前が出てくることが多くなり、必ず出てくるようになり、いつでも牧野のそばに居て気遣っている様子が克明に記されるようになった。
 明らかに、その距離は縮まっていた。そして距離が縮まれば縮まるほど、牧野の様子が変わっていくことも読み取れるようになってきていた。
 ――あきらは、牧野に惚れてるのか? そして牧野も、あきらを……?
 その事実に思い当ってしまった時。一瞬頭が真っ白になり、全身から汗が噴き出し、手が震えた。
 何度も何度も自分の考えを否定した。そんなわけはない、そんなことはありえない、と何度も何度も自分に言い聞かせた。
 けれど何度報告書を読み直しても、どんなに否定的な気持ちで読んでも、一度浮かんでしまった猜疑心を消すことは出来なかった。
 類や総二郎に電話をして確かめようと、携帯電話を手にした。けれど結局、かけることはしなかった。
 真実を知るのが怖かった。知ったところで、現実問題として俺は一歩も動けない。「何やってんだ、てめえ」と殴りかかりたいと思っても、日本に行く余裕もなければ、行っても解決するだけの時間もない。牧野に「キョトキョトしてんじゃねえ」と釘を刺すにしても、今の関係では単なる外野の戯言だ。
 自ら調べさせた現実が、俺をどこまでも苦しめる。グツグツに煮えたぎるように蠢く負の感情に、拳を握りしめ、歯を食いしばって耐えるしかない。
 最悪だった。
 俺は、ギリギリのところで自分を押し留め、ベクトルのすべてを仕事に向けた。

 けれど人の心は、そんなに簡単に割り切れるものではない。
 定期的に報告書があがってくる度、現実を目の当たりにする。不安はどんどん膨らみ、あきらと牧野の抱える想いは、もはや俺の中で確信に変わりつつあった。
 ――俺が切り開こうとしている未来は、掴もうと必死になっているものは、いったい何なんだ?
 こうと決めたら、どこまでも突き進んでいけるだけの強さは持っているつもりだった。精神力の強さやタフさは、そうそう負けないと思っていた。
 でも、その時の俺は、自分の歩むべき道を見失いそうになる程ぐちゃぐちゃになっていた。
 そんな中では、何に対しても全力で向き合う事が出来ず、順調に進んでいた仕事さえもその勢いを失くし始め、このままではすべてが悪循環に陥る予感がした。

 ――もうダメだ。このまま見て見ぬふりをすることは、俺には無理だ。
 限界に達した俺は、あきらをニューヨークに呼び出した。何も悟られないように、いつも通りに電話をしてニューヨークへ来るように告げると、あいつが来てくれることだけを祈って、待った。
 もし断ったなら、俺の勘は当たっている。
 もし来たならば、勘が外れている可能性もある。
 それは、小さくて大きな掛けだった。

 電話をした翌日。あきらは、やってきた。
 俺の強引で一方的な呼び出しにも関わらず。断ることも無視することも、可能なのに。
 あいつは、やってきた。
 あきらが来たことを知らされた時。俺の勘は外れていたかと、安堵した。
 そして、直接顔を見た時。俺の勘はやっぱり当たっていたかと、落胆した。
 牧野の話を振った瞬間に、あきらの表情が変わった。固くなった、空気が張り詰めた――それだけじゃない。瞳の奥が優しく揺れた。
 それだけで充分だった。もうそれだけで、すべてがわかった。

 あきらは牧野に惚れている。
 強く、強く。
 それはもしかしたら、かつて類から感じ取った想いよりも強いかもしれない。
 あきらの本気が、漏れ出している気がした。

 二人の事が知りたくて、類に会った。類は、真っ向から問い質す俺を目の前にしても、少しも表情を変えることなく、淡々といつもの調子で言い切った。

「俺は何も聞いてないよ。例えば二人から何かを感じ取っていたにしても、それは俺が勝手に感じただけ。あきらも牧野も何も言わない」

 肯定はしないけれど、決して否定はしない言葉。
 現実を突きつけられたと感じた。「おまえはそれでいいのかよ」と思わず声を荒げた俺に、類は笑みを浮かべた。

「良いも悪いも、俺に何が言えるの? 俺にしておきなよ、とでも言えばいい? 牧野が不幸になるってわかってることなら何がなんでもどんな手を使っても止めるよ。でも、そうじゃないでしょ。相手は、あきらなんだよ?」

 確かにその通りだった。
 今の状況では、あきらが牧野に惚れようが、牧野があきらに惚れようが、俺には何を言う権利もない。しかも、どこの馬の骨ともわからないような男じゃなくて、美作あきらなのだ。
 どんな男よりも信頼がおける。――おけてしまう。
 それでも俺の気持ちはそう簡単に割り切れるものでもなく、とてもじゃないけれど、あきらだったら仕方ない、なんて思えなかった。
 類は、そんな俺の気持ちを理解していたと思う。理解していながらも敢えて、「わかるよ」とは言わなかった。
 かわりに、優しい穏やかな顔で言った。

「俺は司の味方もあきらの味方もしない。俺はいつだって牧野の味方だから。牧野が幸せだと感じて笑っていられる空間を守るだけ。ただ、それだけだよ。それが俺の隣だって言えば、俺は牧野を誰よりも幸せにしてみせるけどね」

 そう言って笑う類は、しなやかで強かった。正直、そんな類が羨ましいと思った。


 それから数ヶ月。
 どんなに複雑な感情が胸の奥に渦巻こうとも、平常心が打ち負けてしまいそうになろうとも、とにかく仕事以外のことはシャットアウトし続けた。すべてを置き去りに、仕事だけに没頭した。
 そして、ニューヨークでやるべきことを粗方終わらせた。
 ――これで、日本に帰ることが出来る。牧野を迎えに行ける。
 疲労感よりも達成感に満ちていて、気分は最高に良かった。
 すぐに手筈と整えて、日本へと向かった。

 飛行機の中で、受け取るだけで読まずにいた報告書を読んだ。
 そこには、手を取り合う寸前の、あきらと牧野が、いた。




 *




 プルルルル――
 想いに耽っていた俺を現実に引き戻したのは、内線電話の音だった。ふう、とため息を吐き窓辺から離れると、机の脇に立ち通話ボタンを押す。

「なんだ」
『西門様がお見えになりました』
「わかった。隣の応接室に通してくれ」

 それだけ言って通話を切ると、俺は椅子に座り机に向かった。秘書が置いて行った急ぎの書類を手に取る。
――ひとまず、これを片付けないとな。
 先程までの思考を完全に遮断して、俺は書類に神経を集中させた。
 秘書が入ってきたのは、最後の書類にサインをしている時だった。

「失礼します。応接室に西門様と花沢様をお通ししました」
「ん? 類もいるのか?」
「はい。お二人でお見えになっております。シャンパンとケーキをお持ちのようでしたので、グラスなど必要なものをすぐに用意するように手配しました」
「そうか。じゃあ、軽い食事も用意してくれ。クリスマスパーティーらしいから」
「承知いたしました。すぐに用意してお持ちいたします」
「書類はすべてサインしたから。特に問題はないから後は頼む」
「お預かりします」
「この後の予定に変更は? 明日は午前十時の会議でいいか?」
「はい。変更はございません」
「なら、今日はもう帰っていい。俺はあいつらとパーティーするだけだから」
「いえ、ですが――」
「次いつ休めるかわかんねえし、たまにはいいだろ。俺も、非公式で帰って来てるわけだし」
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ」

 秘書は、一礼してその場を去った。
 俺はネクタイを緩めると、ひとつ大きく息を吐いて、椅子から立ち上がった。
 総二郎は、クリスマスパーティーをしようなどとメールをしてきたが、本当の目的はわかりきっていた。昼間にあった事を詳しく訊きたいのだろう。

「ったく。最初からそう言って来りゃあいいのに」

 それがあいつらなりの優しさだと知りながらも、一人ごちて、隣の応接室へと続く内ドアを開けた。ガチャリとドアの開く音に、二人の視線が同時に俺へと向いた。

「悪いな、司。突然押し掛けて」

 いち早く反応した総二郎は、笑いながら俺に近づいてきた。悪いなんてこれっぽっちも思っていないことは、顔を見ればすぐにわかる。

「こっちから電話するまで待っていられなかったのかよ」
「だってもう出ちゃってたしさ」

 悪い悪い、と全く悪びれなく言う総二郎に、ふんっと鼻で笑う。すると、ソファに座っていた類が、くすりと笑った。

「なんだよ、類」
「総二郎、来てよかったね。司、嬉しそうだよ」
「ちょっと待て。俺のどこが嬉しそうなんだ?」
「全部」
「はあ? 俺のどこを見てそう思うんだよ。わけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ」
「だって、そう思ったんだから仕方ないじゃん」
「あのなあ類。てめえ、久しぶりに会って――」
「まあまあ。落ち着けって。類もわざと怒らせるようなこと言うなよ」
「別にわざとなんて言ってないよ。それよりさ、早くケーキ食べようよ」
「そ、そうだな! ケーキ食べるか。司もどうだ?」
「俺、生クリームはいらないんだけど、中に入ってるフルーツが食べたいんだよね」
「……類、ならケーキ買うことなかったんじゃねえの?」
「でも、クリスマスだし、やっぱりケーキじゃないと――……」

 総二郎と類の会話は、実に他愛ない。それはもう、くだらないとさえ言える。けれど、相変わらずな二人の様子が懐かしくて、自然と唇の端が上がる俺がいた。

「ったく、おまえら全然かわんねえな」
「司だって全然変わってないだろ?」
「一緒にするな。俺様はビッグになっただろうが」
「そうか? 類、気付いてた?」
「全然」
「おまえらな――」
「それより、久しぶりだね、司」
「類、それは今更すぎる。それを言うなら司がここに入って来た時に言えよ」
「忘れてた。言わなくても良かったんだけどね。一応」
「一応とか言うな、一応とか」

 でも一応だったから、とまだブツブツと独り言のように繰り返す類に笑っているところへ、軽食などが運ばれてきた。俺達はシャンパンをあけて乾杯をして、他愛もない話をした。どこにも力を入れる必要のない時間は、本当に本当に久しぶりだった。
 やっぱり、この空間は落ち着く。物心ついた頃からいつでも一緒にいたのだから、それが当たり前なのかもしれない。バカなことやって、つまんねえことで言い争って。基本的には個人主義なのに、なぜか一緒にいたくなる。俺と類と総二郎と――そして、あきら。
 ふいに、あきらの顔が脳裏に浮かんだ。そして、まるでそんな俺の頭の中が見えたかのように、類が口を開いた。

「そういえば、司。牧野にプロポーズしたんだって?」

 総二郎と一緒に現れた類が、今日起きたことの全てを知ってるだろうことは予想していた。けれど、まさかそこから突っ込んでくるとは思わなかったし、そんな話は俺と総二郎の間ではしていなかった。
 思わず総二郎を見ると、総二郎はひょいと肩を竦めた。

「悪い。牧野から聞いたんだ。それで、類に話した」
「ったく、牧野のやつ、ほいほい話しやがって」

 怒ってなどいない。ただなんとなくバツが悪くて、思わず口をついて出た。
 そんな俺のことなどわかりきっているようで、さらりと流した総二郎は言葉を続けた。

「で、あきらに何を言ったんだ?」

 さっきはそこまで話せなかったからな。と俺を見るその目は真剣そのものだった。総二郎だけでなく、隣に座る類も。
 そこにあるのは好奇心ではない。相手があきらだからこそ発生する、親友としての気遣いだ。
 そして、そこに関係する女は、牧野なのだから。
 俺はひとつため息を吐いて、グラスを手に取った。

「大したことは言ってねえ。ただちょっと、グズグズしてるあきらの背中を叩くつもりだったというか……まあ結局、そこまでの事が出来たかって言われると、かなり中途半端に終わっちまったんだけど……」
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2010.3.10 踏み出す一歩は雪色に残して
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