01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06-08
水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1
「ありがとう。ごめんね、遠回りさせちゃって」
「いや、こんなの全然。こっちこそ、ちょっと早く出勤させる形になっちゃってごめんな」
「ううん。美作さん、間に合う?」
「もちろん」
「なら良かった」

 牧野は、シートベルトを外しながらにっこりと微笑んだ。
 俺も笑みを返しながら、後部座席に置いたコートとバッグを取り牧野に手渡すと、「ありがとう」といつも通り律儀な返事が返ってきた。
 そのままの流れで車のドアを開けようと手を掛ける牧野の背に声をかける。

「コート、着ないのか? 会社まで少し歩くんだから、ちゃんと着た方がいいぞ」
「あ、うん。降りてから着る。その方がバサって羽織れるし」
「もし早く仕事が終われるようなら迎えにくるよ。予定、昼までにメールするから、牧野の予定も教えて」
「え、迎えにくるって?」

 牧野が俺の言葉に目を丸くする。

「だから、終わったら迎えに来る。そのままの意味」
「そんな、いいよ。行きも帰りもなんて悪いから」
「せっかく自分の車で出勤するんだし、時間が合えば帰りも来るよ」
「でも――」
「ただし、どうやっても仕事が終わらなかったら、その時は電車で帰ってもらうことになる。だから、あんまり期待しないでいて」
「……わかった。でも、あたしのことは気にしないで仕事入れていいからね」
「ああ。そうさせてもらう」

 牧野は笑顔で頷き、今度こそドアを開けて素早く降りると、すぐにドアを閉める。
 俺が窓を開けると、牧野はコートを羽織りながらひょこりと顔を見せた。

「それじゃ、ありがと。気をつけてね」
「ああ。コート、前ちゃんと閉めろよ」
「はーい」
「じゃあな」

 小さく手を上げて、ゆっくりとアクセルを踏む。ミラー越しに、小さく手を振り、それからゆっくりと歩き出した牧野が見えた。
 俺は再び手を上げ、それからアクセルを踏み込んだ。





 クリスマスと重なった三連休明けの月曜日。
 海外出張からの帰国後、今日が初めての出勤となる。
 おそらくやらなければいけない仕事が山のように溜まっているだろうことは予想がついていた。秘書の松本が、俺の姿を見ると同時に次から次へと仕事を差し出すだろうと思い描くだけで、頭の奥がズシンと重くなる気がした。
 ただ、そうは言っても気分は上々。いや、上々以上で、気がつけば鼻歌を歌っていたりする。そしてそんな自分に気付いて、思わず笑みを浮かべてしまうのだ。
 理由は明確。
 ずっとずっと秘かに考えていた牧野へのプロポーズをようやくすることが出来たから。
 ――思い描いてた通り、とはいかなかったけど……。
 まさかこの重要な局面で、あんなにすれ違うなんてことは思ってもいなかった。
 状況を悪くすることは幾つも重なり、俺は牧野を深く傷つけた。
 プロポーズをしようと心に決めた俺の横で、牧野は関係の終わりを考えていた。
 あんなに悲しそうな牧野を見たのは、つきあって初めてだった。
 けれどそれは、初めて見る牧野ではない。過去に一度だけ、見た――そう、司と別れたあの日と同じ顔をしていた。
 あの時込み上げたやるせない気持ちをリアルに思い出した。そして、そんな顔をさせてしまったことを激しく後悔した。
 ただ唯一救いだったのは、俺と牧野の関係が、あの時とは違っていたこと。
 想いのすべてで牧野を抱きしめ、心ごと包み込むことが出来たこと。
 牧野は、俺の想いを理解し、受け止め、そして、笑ってくれた。

 スマートでカッコいい、なんて決して言えない、誤算だらけのプロポーズ。
 でもそれは、もしかしたらどんなプロポーズよりも「俺と牧野」らしかったのかもしれない。
 愛する人と同じ道を同じ空を見つめて歩く約束は、こんなにも心を温かくする。
 そんな柔らかで優しい現実を、ゆっくりと受け止めることが出来たから。





  *





 おふくろの過剰な計らいにより例年より煌めき五倍増しの東屋を出て、二人で歩く未来をたっぷりと思い描きながら車に乗り込んだ時、日付はすでにクリスマスイヴへと変わっていた。

 着いたらすぐに食事が出来るようにとホテルに電話を入れる。通話を終えた携帯電話を胸元に戻しながら、俺は助手席の牧野を見た。

「ホントに他に食べたい物ないのか?」
「うん」

 牧野がリクエストしたのは、温かなスープだけだった。
 他には、と訊くと「時間も随分遅くなったし、いろいろあり過ぎたせいかお腹の空き具合がうまく把握出来ない」と笑った牧野の気持ちは、確かに俺にも理解出来た。
 それでも二人ともあまりまともな食事をしていないのは事実で、おそらく目の前に美味しそうな料理が並んでしまえば、それなりに食べることは出来てしまうだろう。但し、そんな時ほど気付けば食べ過ぎ、なんてことがよくある。
 牧野が気にしたのは、そのあたりだろうか……いや、違う。牧野が気にしたのは、この時間から調理するシェフの労力のほうだろう。本当にこんな時間にルームサービスが可能なのかと、電話する前にも数度確かめられたから。
 そんなことは気にしなくていいと、どんなに言ったところで、やっぱり気にしてしまうのが牧野。
 それは彼女のいささか面倒なところでもあり、とても可愛いところでもある。

「腹減って寝れない、とか言うなよ?」
「あはは。大丈夫よ。そんなことで寝れなくなるほど柔な作りではありません。むしろ、朝ご飯たっぷり食べられてラッキーかも」

 くふふ、と決して上品とは言い難い笑い声を零した牧野はやっぱりとても可愛くて、自然と俺も笑顔になった。

「じゃ、行きますか」
「はあい」

 そうして俺は、ゆっくりと車を発進させた。


 車中はとても静かで、時折ぽつりぽつりと短い会話が響いた。けれどそこに漂う沈黙は、邸に向かう時とは色が違って思えた。
 窓の外を眺める牧野の横顔が、柔らかで穏やかだったから。
 左手の薬指に、誓いの証が輝いているから。
 自然と口の端が上がってしまうような喜びを秘かに噛みしめながら、俺は緩やかに車を走らせた。

 



 ホテルに着いてフロントへ――正確には、その脇にあるエレベーターホールに、だが――近づいていくと、おかえりなさいませ、とすぐに声が掛けられた。ルームキーはカードなので胸ポケットに入れたまま。特にフロントに寄る用事はないのだが、せっかくなので後で部屋から電話で伝えようと思っていたことを話す。

「さっき電話で頼んだルームサービス、すぐに用意してもらえるかな」
「かしこまりました。すぐにご用意させていただきます」

 じゃあよろしく、とそのままエレベーターホールへ足を向ける。
 けれど背後から、美作様、と呼び止められた。その声の主は、フロントの奥から出てきたらしい、フロント支配人だった。
 にこやかな笑顔を向けて近づいてくる彼に、俺達は足を止める。

「おかえりなさいませ、美作様。牧野様」

 丁寧な挨拶は隣の牧野にも向けられ、彼女はぴょこんと頭を下げた。

「美作様、本日はパーティーでご利用いただきましてありがとうございました」
「ああ。いろいろ世話になったね。何時頃に終わった? 酔っ払って暴れた客とかいなかった?」
「いえ、おりません。陽気になられてる方は数人お見かけしましたが、その程度です。パーティーは十時頃に終わって、全員お帰りになったのは十一時過ぎだったかと思います」
「へえ。結構遅かったな」
「そうですね。美作社長様と専務様がお見えになったので、例年より盛り上がったのでしょうね」
「ははは。俺は途中で抜けたけど」

 存じております、とフロント支配人は微笑み、言葉を続けた。

「美作様に伝言をお預かりしております」
「伝言? ……ああ、うちの会社の連中?」
「はい。お仕事のことかと……」

 何かが引っかかった。その言葉や表情に、何か不自然さを感じた。
 それはごく僅かなものだったけれど、確実に感じ取ってしまった。
 おそらく、隣にいる牧野は何も気付いていない。
 一瞬考えて、俺は牧野を見た。

「牧野、あそこのソファで待ってて」

 俺の指し示したロビーラウンジのソファを見遣った牧野は、わかった、と笑顔で頷き歩いて行った。
 その後ろ姿を見送って、俺はフロント支配人に向き直る。

「お気遣いありがとうございます。助かりました」

 それが牧野をロビーラウンジへ行かせたことを言ってるだろうことは、すぐに理解出来た。

「いない間に何かあった?」
「美作社長様からのご伝言で、何時でもかまわないから連絡を入れてほしいとのことです」
「親父? 何時になってもいいって?」
「はい。今日はおそらく朝方まで起きているから、と伝えてほしいと」
「朝方? ……親父って、何時に帰ったかわかる?」
「社長様は、まだホテル内におられます」
「え、そうなの?」
「はい。本社の社員の皆様と最上階のバーでお楽しみに」
「……なるほど。それで朝方まで、ね。わかった、ありがとう」
「それと……」

 フロント支配人は、そこまで言って言葉を切ると、ちらりとソファに座る牧野の姿を確認し、それから手にしていたバインダーを開くと、一枚の紙を取り出した。

「大木社長様のお嬢様……たしか、百合様だったかと記憶しておりますが――」
「ああ、うん。大木百合だけど」
「こちらをお預かりしました」

 差し出されたのは、三つ折りにされたホテルの便箋だった。
 受け取った俺は、封蝋で留められたそれをじっと見つめる。
 中に書かれていることは、なんとなく予想がついた。おそらく、彼女の電話番号か何かだろう。今日のエスコートの礼と、もしかしたら、次の機会にも是非、と言うような趣旨のこともあるかもしれない。
 ――勘違いさせたようだな、完全に。
 思わず小さなため息を吐く。
 おそらくそれが聞こえたであろうフロント支配人が、今までよりも抑えた声で、まるで耳打ちでもするかのように言葉を紡いだ。

「実は、大木様は当初、美作様のお帰りを部屋で待たせてほしいとおっしゃられまして」
「部屋って? 彼女、部屋取ったの?」
「いえ、美作様のお部屋です」
「……は? 俺の?」

 俄かに信じられない話に、思わず眉間に皺が寄る。

「大木様がおっしゃるには、美作様とパーティー後の約束をしているから、とのことでした」

 ――約束? なんだそれは……。
 眉間の皺が深くなるのが自分でもわかった。

「ただ、ルームキーは美作様にお渡ししておりましたし、スペアキーで部屋へお通しすることは指示があれば可能ですが、今回は何も伺っておりませんでしたので、私の判断でお断りさせていただきました」

 確認もせずに申し訳ありません、と小さく頭を下げた支配人に、俺は小さく手をかざした。

「いや、それで正解」
「美作様は牧野様とお過ごしになられるのだと、私も他のスタッフも認識しておりましたので」

 小さく微笑まれ告げられたその言葉に、強張ってしまっていた顔から自然と緊張が解ける。
 ロビーラウンジに視線を流すと、ちょこんとソファに座った牧野が、薬指に輝くエンゲージリングを眺めていた。その姿に、思わず口元が緩む。
 ――部屋に入ったら思いっきり抱き締めよう。
 そんな想いがぶわりと俺の心を支配する。
 俺はフロント支配人を真っ直ぐ見つめると、笑みを浮かべて言った。

「ここのスタッフは気が利く優秀な人間ばかりだから安心だよ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほう。その話、牧野の前でしないでもらえて助かったよ。ありがとう」

 フロント支配人は微笑み、お役に立てて何よりです、と頭を下げた。
 他に伝言がないことを確認した俺は、ルームサービスお願いしてるからよろしく、とだけ告げて、牧野の元へと歩き出した。
 ごゆっくりお過ごしくださいませ、という声を背に受けながら。


 ロビーラウンジに入ると、コツコツと鳴る靴の音が聞こえたのか、俯いていた牧野がすっと顔を上げた。

「待たせたな」
「あ、終わった? もういいの?」
「ああ。さ、行こう」
「うん」

 立ち上がった牧野はトコトコと俺の元へと駆け寄ってくる。
 隣に並んだ彼女の背中にそっと手を回し、今度こそ部屋へ向かった。







 部屋は、今月初めに宿泊したのと同じ部屋だった。
 相変わらず広い部屋よねー、と感嘆のため息を吐きながら、牧野はベッドルームへと足を進め、クローゼットを開けてコートを掛け始めた。
 俺がそっとその背後に近付いていくと、牧野はクローゼットの方を向いたままコートを掛ける手を止めることなく話しかけてきた。

「美作さんもコート掛けるでしょう? あ、着替えもするよね。ルームサービス来る前に着替えっ――」

 後ろから抱き締めると、牧野の身体が一瞬びくりと跳ね、言葉が止まった。

「もう、驚かさないで。びっくりしたよ」
「なんだ。話しかけてきたから、気付いているのかと思った」
「全然気付いてなかったよ。ほら、ここのカーペットすごく立派だから全然足音しないし。リビングにいるとばっかり思ってたもん」

 本当は、そうだろうことは声の大きさと様子からなんとなくわかっていた。
 別にそれで良かった。どちらかと言えば、驚かせたかったのかもしれない。
 牧野は「あー、びっくりした」ともう一度繰り返し、それから肩の力を抜いた。

「ね、美作さんのコートは?」
「リビング」
「掛けるから持ってきて」
「うん」
「あと、着替えもしなきゃいけないでしょう?」
「うん」
「……返事ばかりで、全然動こうとしてないんですケド?」
「うん」

 早くしないとルームサービス来ちゃうよー、と笑いを含んだ牧野の言葉を、俺はその小さな振動ごと抱き締めながら、ただじっと聞いていた。
 牧野の声が途切れると、部屋はしんと静まり返る。
 数秒の沈黙の後、今度はおずおずとした様子で牧野が再び口を開いた。

「……あの、美作さん? どうかした?」
「どうもしないよ。ただ、」
「ただ?」
「コート掛けることより着替えることより、その前に牧野を抱き締めたかっただけ」
「……なによ、それ」

 抱き締める腕にさらに力を込め、「ダメ?」と耳元に囁くと、俺の腕に牧野の手が触れた。

「ダメじゃないけど」

 言葉は、甘く柔らかに響いた。
 牧野がダメだなんて思っていないことは、余計な力を抜いてそっと寄り掛かってくれるその様子からもわかる。それでも訊いたのは、柔らかく紡がれるその声が聞きたかったから。
 おそらくそんな単純な理由。
 腕を緩め牧野の身体を反転させて真正面から向かい合うと、そっと顔を近づけた。
 あとほんの数センチで唇が重なるところで、牧野が言葉を発した。

「ねえ」
「ん?」
「着替え、いいの?」
「後でいいよ」
「でも」
「でも?」
「ルームサービス、来ちゃうよ?」
「来たら着替える」
「じゃあ、それまでは?」
「もちろん、キスする」

 俺は最後の言葉を吐息交じりに吐き出し、唇を重ねた。

 発した言葉に深い意味はなく、決して抗議とならないことを牧野はわかっている。そして、それを承知で牧野が言葉を発したことを、俺はわかっている。
 おそらく牧野も、俺と一緒。深い意味の持たない言葉を投げかけるのは、俺の声を響かせたかったから。
 それだけで、空間が甘く彩られることを、俺も牧野も知っている。

「…んっ……」

 角度を変える度に牧野の口から吐息が漏れ、それが俺を徐々に煽り、口づけを深くさせる。やがて牧野の身体から力が抜け、俺はその身体を支えながら、さらに深く彼女を求めた。
 背中を支えるその手をゆっくりと動かし背骨に沿って這わせると、ピクンと牧野の身体が小さく跳ねる。服の上からゆっくりゆっくり身体を弄れば、俺の肩に置かれた彼女の手が、縋るようにギュッと服を掴んできて、漏れる吐息の温度が上がった気がした。
 ますます煽られた俺は、直接肌に触れたくて服の中に手を差し入れた。

「……あっ」

 肌に指を這わせ、ゆっくりと撫でていく。その動きに牧野が吐息交じりの声を発した。
 
 ――その時。
 甘い空気を裂くように、部屋のチャイムが鳴った。

「……まさかここでタイムオーバー?」

 思わず離した唇から洩らした言葉に、牧野は熱を帯びて潤んだ瞳を細めてくすりと笑った。

「そうみたいだね」
「タイミング悪すぎない?」
「仕方ないよ、お願いしたのはあたし達なんだから」
「また後で持ってきてもらおうか?」
「ダメよ。そんなの悪い」
「……言うと思った」

 俺は短くため息を吐くと小さく肩を竦めた。

「受け取ってくるから待ってて」
「うん」

 額に小さくキスを落とすと、俺はベッドルームを出た。 
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2010.10 水色に浮かぶ雲
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