01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06-10
エクリュ
COLORFUL LOVE
1
「おはようございます」

 朝一番のオフィスは空気がひんやり冷たくて、放った声が良く通る。いつもなら、聞こえても隣の部署くらいだろうと思われるボリュームの挨拶に、二つ向こうの部署の部長が反応して、「おはよう、随分早いね」と笑った。
 デスクにドカリと座って珈琲を飲んでいるその人は「実はオフィスで寝泊まりしてるんじゃ」と噂されるほど朝が早いことで有名な部長。さすがにその早さには敵わなかったか、と思いつつも、他に誰の姿も見えないことに、つくしは改めてその時間の早さを実感した。

 ひとまずいつもやっている掃除を終わらせようと、ここへ来る途中で手にしていた雑巾で自分の机を拭く。そして隣の同僚――木下美穂の机も。

 オフィスの掃除は、普段は清掃業者が入っているので、特別な来客でもない限りは強要されない。ただ机の上だけは、業者が仕事中――机の上に書類が散乱した状態の時にやってくるので、拭いてもらうことが出来ない。そこで「気になる人間は各自でやるように」と言われている。
 つくしのように毎朝やる人間もいれば、どれだけやっていないんだろうという人間もいる。各人のスペースはパーティーションで区切られていて――と言っても、椅子から立ったら簡単に相手の顔を見れるくらいの高さだけれど――人の机の上の状態はほとんど気にならない。それでも、きっと忙しくてやれていないんだろうなあとか、面倒でついつい後回しにするうちに忘れるんだろうなあとか――まあ、大体は男性陣のことだけれど――、つくしはなんとなくそういうのが気になって、「ついでだから」と拭いてあげることが多かった。

 ちなみに美穂の机は、その「ついで」の一つではない。彼女はいつも自分で拭いているから。
けれど今日は特別。なぜなら――

「つくし、おはよう」

 いつもよりもずっと早い時間に出社したのは、美穂と約束をしたから、だった。

「おはよう」
「ごめんねー。遅くなっちゃた」
「ううん。いつもの美穂を考えたら、相当早いよ」
「いつもとは比べないで」

 笑う美穂に、つくしも笑った。「机拭いたよ」と告げると「助かったー」と美穂は笑い、「お礼に美味しいココア奢るよ」と廊下を指差した。
 廊下の休憩スペースには自動販売機があって、そこのホットココアはつくしのお気に入り。これくらいのことで奢ってもらう必要などないのだが、それが廊下に出ようという合図だとわかったので、つくしは素直に頷いた。



 廊下の片隅にある休憩スペースのソファに、つくしと美穂は並んで座った。
 それなりに空調が効いてはいるものの何となく肌寒く、握られたホットココアの温かさが心地良い――もちろん自分で買う予定でいたつくしだけれど、心優しき同僚が本当に奢ってくれた――。「美味しいねえ」と話しながら、一口二口と口にする。
 ホッと息をついたところで、つくしは改めて口を開いた。

「美穂、昨日はありがとう。突然で随分驚かせちゃったね」
「ええ、そりゃあもう、驚きまくったわよ」
「あはは……だよね」
「ええ、そりゃあもう、ね。でも、ありがとうは私のほうよ。すっかりいろいろご馳走になって。しかも家まで送ってもらっちゃって」
「え、そんなの全然平気だよ。第一、奢ったのも送ったのもあたしじゃないしね」
「あ、それもそうか」

 美穂が笑い、つくしも頷きながら笑う。
 ココアを一口飲んだ後、美穂が感嘆の溜め息を吐いた。

「それにしても驚いた。なんだか今でも、私ってばフワフワした気分なんだよね」
「え? フワフワ?」
「そう。なんていうの? 恋が実った時のような高揚感っていうか」

 美穂は、ぶくく、と堪え切れないといった風に笑い声をこぼし、恥ずかしそうに耳元で囁いた。

「私、昨日の夜、なかなか寝付けなかったんだよ。興奮しちゃって」
「興奮?」
「だって、あんな大企業に入ったのも重役のオフィスに入ったのも、あんなお洒落な高級レストランで食事したのも初めてだったし、それにそれに、ようやく知れたつくしの彼が、あんな素敵な人だなんて……興奮するでしょ、普通」

 話の内容が内容なだけに、常に周囲を気にしているので声は小さいのだが、それでもその興奮はそのままつくしに伝わってくる。

「昨日ここを出る時は、この結末はさすがに予想してなかったなあ。……ホント、夢のような現実が降ってきた気分だわ」

 宙を見つめてうっとりと話す美穂に、つくしはなんだかとても恥ずかしくなってしまって、思わず髪をクシャリと混ぜた。

 学生時代から付き合っている一つ年上のエリートサラリーマン。
 その情報が全てだったつくしの恋人に突然会うことになり、しかもその相手が自分の勤める会社の親会社の若き専務、美作あきらだという事実に、美穂がどれだけ驚いたか。つくしには容易に、そして正確に想像がついていた。
 つくし自身だって夢の中の出来事に思えることがあるくらいだ。突然知らされた美穂には、それはもう夢の中でも起きないような、本当に驚愕の事実だっただろう。

 会いに行く前に訪れたカフェで、つくしはそのすべてを美穂に伝えた。ドクンと鼓動がひとつ早まるような緊張とふうわりと包み込まれるような優しさが同居したカフェでの時間が、つくしの脳裏にふいに浮かんだ。





 *





 つくしの恋人に会いに行く、という予定を決めた後、当初の予定通り、会社の近くにオープンしたカフェに向かったつくしと美穂だったが、歩きながら話したのは他愛もない話ばかりだった。
 つくしは、いつ何を訊かれるだろうかと覚悟半分不安半分でいたのだが、美穂は何も言わない。こっそり様子を窺っているうちにあっという間にカフェについてしまった。

 真新しいカフェは、ちょうどランチタイムが終わったところだったようで、思っていたよりも空いていた。窓際の席に案内された二人はカフェラテを注文すると、キョロキョロと店内を見回して、感想を述べ合った。
 華美な装飾は何もない自然色で統一された店内はとても落ち着いていて居心地が良い。「ランチタイムに一度来てみたいね」という美穂に、つくしも大きく頷いた。
 やがて、注文したカフェラテが運ばれてきた。丁寧に描かれたラテアートにひとしきり感動して、それからそっと一口飲むと、ほんわり優しい味がした。

「かわいいラテアートって、飲むのがもったいなくなっちゃうよね」
「わかるー。でもこれ、すっごく美味しい」
「ホントね。会社のカフェテリアより美味しいかも、とか思っちゃった。すっごく気に入った。つくし、絶対ランチに来ようよ。席の予約とか出来るかなぁ。店員さんに訊いてみようかしら」
「うん、そうだね」

 話しながら、一口二口とカフェラテを飲む。
 交わされる会話は本当に他愛もないことばかり。

 ――美穂、何も訊いてこないのかなあ。

 会話を楽しみながらも、つくしは頭の片隅で、これから向かう先が美作商事で会わせる相手があきらであることが気になっていた。
 何も告げずに連れて行けばとんでもない衝撃を与えることになる。さすがに心の準備は必要だろうから話したほうがいいだろうと思うのだけれど、きっといろいろ訊いて来るだろうと思っていた美穂が何も言わないものだから、どういうタイミングで告げたらいいのかわからなくなっていた。
 どうしようかと考えているせいで自然と口数が少なくなる。そんなつくしを見て、美穂はクスリと笑った。

「つくし、どうしたの? 恋人を私に会わせるのがそんなに緊張する?」
「え? あ、いや、まあ……そうだね」
「あはは。そんなに緊張することないって。むしろ、本来緊張するのは私でしょう? あまりにもつくしが緊張してるから、私の緊張が逃げたよ」
「あはは……」

 カラリと笑う美穂、そして渇いた笑いを零すつくし。美穂は再びクスリと笑って「なんだか様子が変よ」と言った。
 たしかに変だろう。それはつくしだって認識している。そしてそれはきっと、さらに時間を追うごとに増していくに違いない。

 ――ここは思い切るしかないか……。

 つくしはカフェラテをゴクンと飲み、おずおずと口を開いた。

「あのさ、美穂」
「ん?」
「……気に、ならないの?」
「何が?」
「これからどこへ向かうとか、誰に会うとか……」

 恐る恐る訊くつくしに、美穂はキョトンとした表情を浮かべる。

「そりゃあ気になるけど。……もう、訊いてもいいの?」

 言われてつくしはハッとした。
 つくしが今まであまり語ろうとしなかった相手だ。紹介すると言われた途端にあれこれ訊いていいものだろうかと、美穂が躊躇するのは当たり前だった。
 気さくで人懐っこい美穂は、誰とでもすぐに仲良くなるけれど、相手の内にズカズカ踏み込む人間ではない。だからこそつくしだって美穂を信頼しているし、とてもとても好きなのだ。

 ――そうよ、私からしっかり話さなきゃ。

 事前に知らせたいなら自ら話し出すしかなかったことに今更ながら気付いたつくしは、やっぱりすごく緊張していて、うまく頭が働いていなかったのかもしれない。

「ごめん美穂、気が廻らなくて。もう訊いてもらって大丈夫。紹介だけして詳しい事は何も話しません、なんて……そんなこと言うつもりないから。というか、あたしから話すべきだったよね。……あのね、これから会う人なんだけど……」
「うん?」
「……美穂が知ってる人なの」
「え? 知ってる人?」

 美穂は驚きに目を大きくする。けれどそれはほんの一瞬。その後すぐに考えを巡らすように瞳を小さく動かして、それからつくしを見た。

「知ってるっていうのは、会ったことがあるってこと?」
「うん。そう」

 つくしは緊張していた。早く言ってしまえ、と急かす心となかなか開こうとしない口。真意はどちらなのか、自分が自分でわからなくなる。
 確かなのは、握りしめた掌が汗でしっとり濡れていて、心臓の鼓動はワンテンポ早さを増していること。

 ――言ってしまえ、言ってしまえ。

 思ったところでやっぱりすぐには言葉にならないのに、呟くように何度も思うつくしが居た。やがて慎重な面持ちで口を開いたのは、つくしではなく、そんな彼女をじっと見ていた美穂だった。

「もしかして、つくしの彼って美作商事の人?」

 それはまさに、衝撃だった。
 先程の美穂よりも何倍も目を大きくするつくしに、美穂は「やっぱりそうか」と小さく笑う。
 笑い事じゃないのはつくしだ。あまりの驚きに一瞬にして喉がカラカラに乾き呼吸さえも苦しい気がした。
 目の前にあるカフェラテではなく、テーブルの端に寄せていた水の入ったコップに手を伸ばすと、ゴクゴクと半分ほど一気に飲んでふうっと一つ深く長い息を吐き、そしてようやく声を発した。

「あの、美穂……なんで、わかったの?」
「うーん……ちょっとした推理」
「推理?」
「うん。学生の頃からつき合ってるきちんとした彼氏なのに、それを話さない理由ってなんだろうって考えたの」

 何を話すのだろうと食い入るように見つめるつくしの視線など気にした様子もなく、美穂はゆったりとカフェラテを飲み、それからゆっくりと話し出した。

「つくしが秘密主義者ならそれで全ては終わりなんだけど、そうではない。――ほら、家族のこととか住んでるアパートのこととか、そういうのは平気で話すもんね。そこで、別の理由を考えてみたの。学生時代の付き合いが社会人になったら終わるって例も少なくないから、それを見越した上で話さないのかなあとか。でもそれも違うなって思って……きっと話すに話せない理由があるんだろうって思ったの。――例えば、相手が既婚者とか」

 美穂はサラリと言ったけれど、つくしは大いに慌てた。

「ちょっ、何言い出すの! ないない! それはないよ」
「わかってるよ。あくまで可能性の一つっていうだけよ。最初、もしかしてって勝手に考えてたの。でもいろいろ話を聞いてるうちに違うって思った。第一、既婚者ならこの連休をずっと一緒に過ごすなんて無理だもんね。既婚者はイベント毎では家族を優先するって聞くし」

 平然と言い切る美穂に、つくしは思わず深い息を吐く。不倫なんてあり得ないのだが、何も話さずにいるというのはそういう憶測を呼ぶ場合もあるのかと思ったら、ドキドキした。
 それにしても、そんなことをサラリと流すように話す美穂は、一体過去にどんな恋愛をしてきたのだろうかと、小さな興味が湧いた。機会があったら訊いてみたいと思うけれど、そこに何が待ち受けているのか、ほんの少し怖いような気もした。
 美穂の話はそんなつくしの心模様とは関係なくどんどん先へと進んでいく。

「それでね。真っ当な恋愛なのに公にしたくないってどんな相手かなあって考えてみた。それで、言ったら面倒なことになるような相手とつき合ってるのかなって思いついたの。周囲が黙って見過ごせない、それこそ大騒ぎになっちゃうような、ね。真っ先に社内恋愛を考えたんだけど、うちの会社にはそこまで海外飛び回っている人はいないから却下。でもきっとそれに近いはずだって思ったのよ。だって誰も知らない普通の人なら、騒がれたりしないもんね」

 頭にぎゅうぎゅうに詰まっていた考えを端から整理していくように次から次へと言葉を吐き出す目の前の同僚につくしは何も言葉が出ず、ただ話を聞いているしかなかった。
 じわじわと――本当にじわじわと、その真実に近づいていると感じながら。
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2010.12 エクリュ
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