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月色の雫
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1
 サラリ。サラリ。
 サラリ。サラリ――。

 俺はじっと天井を見つめていた。
 抱き寄せた牧野の髪を指先で何度も何度も掬いながら。

 サラリ。サラリ。サラリ――……

「ん……」

 ふいに牧野が身じろぎして、先程よりも俺の胸に頬を深く擦り寄せる。口元からは、すうすうと規則正しい寝息。

「……」

 ふっと笑みが零れる。無意識に。
 額にキスをひとつ落とすと、俺は再び髪を梳いた。

 サラリ。サラリ。
 サラリ。サラリ――……

 梳いて掬って指先から零れ落ちる髪。ふわりと、シャンプーのほのかな香りが漂った。



 十二月二十八日深夜。――いや、もう二十九日になったか。
 数時間前に降り始めた雪が未だしんしんと降り続くその夜。
 俺は牧野と二人、馴染みのホテルの一室で時を過ごしていた。
 仲間達とのパーティーはいつもの調子でゆるゆると続き、当然その先には二次会なるものもあった。けれどそれには出なかった。「なんだよ。これから美作邸に乗り込むつもりだったのに」とニタニタ笑う総二郎を「今日は無理。日を改めて来てくれ」とあっさり交わして、俺は牧野を連れ出した。もちろん、牧野の同僚の木下さんを家まで送り届ける手配はしっかりして。「いいの?」と心配そうに俺を見つめる牧野の視線を、深い笑みを湛えた頷きだけで封じ込めて。

 ホテルの部屋に入るや否や、俺は牧野を抱いた。
 扉が背後でパタンと閉まると同時に牧野を腕の中に抱き込み唇を深く合わせながら、一分一秒をも惜しむ勢いで服を脱がせていった。そのままもつれ合うようにベッドに倒れ込んだ時、牧野の身体に残っていたのはすでに下着だけ。さんざんキスを繰り返した後、跨る形で牧野を見下ろしながら、俺はスーツを脱ぎ棄てていった。
 ネクタイを抜き取りシャツのボタンを外しながら「ベルト外して」と囁くように言葉を投げると、牧野はほんの一瞬戸惑いの表情を見せて、けれどおずおずとベルトに手を伸ばした。
 牧野の手が俺のベルトをカチャカチャと音をさせて外していく。そんな要求をしたのはこれが初めてではない。けれど牧野は毎回必ず躊躇いがちな表情を見せ、それが俺を刺激する。まさに今回もそうだった。
 ベルトが完全に外れると同時に、俺は牧野に再び深く口付けた。全てを奪い尽くすように、口内からこの身体の全てを支配するように、深く。深く。
 手は身体中を弄り、残った下着をはぎ取っていく。
 時折、小さな吐息混じりの声が、重なる唇の隙間から零れた。

 いつもよりもずっと余裕のない態度で抱こうとしている俺に、牧野は気付いていたと思う。それでも何も言わずに、全てを受け止めてくれた。
 もしかしたら、何かを思い感じるより先に、俺が無遠慮に刺激し続ける感覚の波間に沈んだのかもしれなかったけれど。
 ただ俺にはそれが酷く愛しくて、欲情するままに牧野を抱き続けた。複雑に絡み合い破裂しそうな程膨らんだ想いの全てを注ぎ込むように。


 もう動けない、と力なく笑った牧野を抱いてバスタブに沈んだ時、ようやく「平常心」と言える程度の状態になっていた。そうなって改めて、感情任せに抱いてしまったことを強く意識した。
 ごめんな、と言うと、何が、といつもと変わらぬ調子で訊き返された。「相当無理を強いただろ?」と言うと「あー恥ずかしいからそれ以上言わないで」と口を尖らせた声が返ってきた。いつもなら「何が、って訊かれたから」なんて笑うけれど、その時はそんな気分でもなく、俺は口を噤む。
 そこに牧野の静かな声が響いた。

「美作さん、そんなに気を使わなくて平気だよ。厭な時は遠慮なく全力で抵抗するんだから、あたしは」

 チャプンと小さく立った水音にさえかき消えそうなほど小さな声で「だから、何も言わなかった時は、その……」と言葉を紡いだ俯く真っ赤な横顔に、俺はどれだけ救われただろう。ぎゅっと抱きしめた腕の中の存在が、愛しくて愛しくてたまらなかった。


 サラリ。サラリ。
 サラリ。サラリ。サラリ――……


 ベッドに入ってすぐに寝息を立て始めた牧野の横で、俺は眠れない時間を過ごす。
 身体は十分疲れていた。精神的にも疲れているはず、なのに一緒に眠りに落ちることは出来なかった。
 原因はわかっていた。
 俺の中に、どんなに自分を疲れさせても消えない鬱々としたものがあるから。

 ――もう気にせず寝りゃあいいのに。

 どうせ何をどうしようとも消えないのだ。どんなに想いを巡らせても、考え込んでも。
 わかっているんだから寝ればいい。そう思うのに、気付けばやっぱりそこに意識が戻ってきてしまう俺がいた。

 サラリ。サラリ。

 救いは、腕の中の温もりと、サラサラと指を通る髪。

 サラリ。サラリ。サラリ。

 穏やかな寝息を立てる牧野の顔をそっと覗き見る。ただじっと見つめるだけで、愛しさがどこまでも込み上げて、溢れて流れてすべてを覆い尽くす気がする。

 ――「なんか、言えて良かった。あたし、昔も今も全然素直な女じゃないけど、美作さんの前でだったら、少しだけ素直になれるんだよね、いつでも」

 ふいに思い出したその言葉は、牧野がパーティー会場の隣室を出る時に言ったものだった。
 その後牧野は恥ずかしそうに「だからっていつも素直に、なんてのは絶対無理なんだけど」と笑った。俺を見上げて。
 彼女が言えて良かったと思ったのは、大木百合のこと。その存在を気にする自分がどうしても消えないことを、牧野は俺に伝えてくれた。
 言うように誘導したことは確か。けれどきちんと自分の言葉でその気持ちを形にした牧野は、全てに意地を張って無理矢理にでも自分一人で抱えようとしてた昔とは明らかに違う。
 牧野は着実に前へと進んでいる。様々な魅力を身につけ増やして。
 傍に居てその姿を見てきた俺は、それを誰よりも感じているし、知っている。
 けれど、そんな牧野を知るのは俺だけじゃない。牧野が「美作さんの前だから」と言ったとしても、決してそうではないことを、俺は知っている。
 だから俺は……。

「いつまでも素直になれないのは、俺だよ、牧野」

 声になるかならないかくらいの囁きを落とすと、腕の中の牧野が小さく身じろいだ。もぞもぞと反対側を向き、けれど数秒でまたもぞもぞとこちらを向く。やがてぴたりと動きを止めて、再びすうすうと寝息を立て始めた。
 最初とほとんど変わることのない牧野の定位置。「あー、ここが落ち着く」と呟いたのはいつだったか。今この時、やっぱりこの場所を選び留まった牧野が、たまらなく愛おしい。
 眠りを妨げない程度に深く抱きしめ直し、俺はゆっくりと目を閉じた。
 俺の中では未だ鬱々とした想いがあちらこちらを刺激しているけれど、今なら眠れる気がした。こうして、牧野の髪に顔を埋め、愛しい存在をひたすら感じ続けていたならば。

 サラリ、サラリ、サラリ、サラリ……

 掬った髪が、指から滑り落ちた。





 **





 朝から続いていた「年末の挨拶」目的の来訪は、昼を過ぎたところでピタリと止んだ。

「これでようやく終了か?」
「はい。アポなしがこの後なければ」

 そう答えた松本の顔は「ないとは言えない」と語っていて、俺自身もそうだろうなあと思いながら頷いた。

「納会はもう始まってたよな?」
「はい、少し前に」
「じゃあ、今のうちに顔出してくるか。片付いてない仕事も幾つかあるけど、それを終わらせてるうちにまた来客があったんじゃ、まったく顔を出せずに終わる可能性もあるからな」
「そうですね。ご一緒します」
「今日中に片付けなきゃならない仕事が溜まってるようなら俺一人でもいいぞ? 納会に秘書がいなきゃならん事など何もないから」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私も、納会に顔を出さなければと思っていたところですから」
「そうか。じゃあ行こう」



 十二月二十八日、年内業務最終日の午後は、最上階のカフェテリアでの納会が恒例となっていて、仕事を片付けた社内中の人間がそこへ集う。開始から三十分経ったか経たないくらいで顔を出した俺と松本だが、カフェテリアは既に大勢の社員で賑わっていた。
 俺の存在を知るや否や近寄ってきた部長達と挨拶を交わしたり、同期入社の連中と笑い合ったり、今日初めて顔を見る女性社員に話しかけられたり、俺自身もあちらこちらと移動しながらそれなりに楽しい時間を過ごす。
 そしてあっという間に一時間程が経過した。
 何気なく見た腕時計でその時間の経過を知り、同時にこのあとのスケジューリングが頭に浮かぶ。
 今日中に片付けたい幾つかの仕事と、都内のレストランで催される仲間内のパーティー。

 ――えーと、あれとあれに一時間かかったとして、最後のやつはもっと時間が必要か……五時には会社を出たいから、そこから逆算すると……。

 幾通りかのシュミレーションをして、そろそろ執務室に戻って仕事に取り掛かるべきとの結論に達した俺は、目の前の社員に軽く挨拶をしてその場を離れた。
 出口へ向かい始めてすぐ、別行動していた松本がやってきて、再び二人でカフェテリアを後にした。
 執務室に戻った俺は松本と軽く打ち合わせをして、そして仕事に取り掛かった。

 内線電話が鳴ったのは、片付けるべき仕事を一通り終わらせて一息吐いた、その時だった。

「はい」
『松本です。お客様がお見えになりました』

 相手は古くからつき合いのある会社の社長。とはいえ俺はほとんど面識がないのだが、社長不在の為、俺に挨拶をしたいと言う。執務室に通すようにと松本に指示をして、俺は脱いでいたジャケットを着た。
 今日、俺が受けている挨拶は、ほとんどが社長である親父の代理。親父は朝から外出していて――親父は親父で挨拶に回りたいところがあるらしい――、本来ならば副社長や他の馴染みの役員に会って帰るだろう客が、その挨拶を済ませた上で俺のところにも寄っている。
 それはまさに、俺が親父の息子で、いずれこの会社を継ぐと思われているからだ。
 おそらくその通りになるだろうし、俺もそのつもりでいるから、今から多くの顔を知っておくのも悪くない、と出来る限り会っている。
 もしかしたら、親父はこれが目的でワザと外出しているのかもしれないと思ったりもしている。もちろん真相は親父に訊かなければわからないのだけれど。もしそうだとしても違ったとしても、俺はこの機会を与えてもらえたことに感謝していた。

 客はすぐにやってきた。一通りの挨拶を済ませ、世間話をする。とても気さくな良い人で、この先の付き合いがとても楽しみになった。

 ――今日は意義深い出会いが多いな。

 挨拶を済ませて帰っていく客に礼をしながら、そんなことを思っていると、背後で再び内線電話が鳴った。
 俺は決して現実逃避をしているつもりはなかった。けれど結果的には、見て見ぬふりをしていた部分があったのかもしれない。この電話が、後にそれを俺に実感させ、心の内をぐちゃぐちゃに掻き乱されることになるなんて、この時の俺はもちろん思ってもいなかった。
 出入り口近くに居た俺は、スタスタと机に戻ると内線電話をとった。

「はい」
『松本です。お客様がお帰りになったばかりのところ申し訳ありません。もうお一方、お客様がお見えです』
「ああ、そうなんだ。通してもらってかまわないけど、誰?」
『大木社長です』
「……」

 ついに来た。――やっぱり来た、のほうが表現方法としてはあっているのかもしれない。
 娘の百合がやってきて、俺の気持ちを伝えたのはほんの数日前。どんなに他言無用と言ったところで父親である大木社長には伝わるだろうと思っていた。だから絶対に、近いうちにやってくるだろうと。けれどその一方で、今日のこの時間まで何の音沙汰もなかったから、今年はこのまま持ち越して、来年早々攻め立てられるのではないかと、そんな風にも思っていた。
 ――そんなに甘くはなかったか。
 俺は小さく溜め息を吐き、それから電話の向こうの松本に言った。

「わかった。通してくれ。話は例のことだろう。お茶はいらない。それと、これ以降の来客は断ってくれるか? 電話も急ぎ以外は繋がないでくれ」
『承知しました。ではすぐにお通しします』

 電話を切るとすぐに、俺は部屋に常備しているティーセットで紅茶の準備を始めた。
 親しい人間が来た時はもちろん、他の人間に部屋を出入りしてほしくない時にもこうして自分でお茶を淹れる。今回は後者だ。大木社長との話が何であるかがわかるが故に、今はまだ誰にも聞かせたくない。
 ――さて、大木社長はどこから切り込んでくることやら。
 あれこれ考えを廻らせながら、俺はティーポットに湯を注いだ。

 茶葉が十分に開いた頃、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。はいと返事をすると同時にガチャリと扉が開き、大木社長が姿を現した。

「突然すまんね、あきら君」

 執務室に入ってきた大木社長の口調は、いつものビジネスモードではなく、完全にプライベートな用件で来たのだということを主張していた。
 俺の反応を待たずに応接セットへとずんずん進んでいくその姿に、俺は聞こえないように小さな溜め息を吐き、紅茶をティーカップに注ぐ。

「いえ。午後は納会だけで他に具体的な予定は特にありませんでしたから」
「それなら良かった。……じゃあ、たまには二人で食事でもどうだい?」
「お誘いありがとうございます。せっかくですが、この後プライベートな予定がありまして。食事はまたの機会にさせてください」

 ティーカップを乗せたトレイを手に応接セットへ近づく俺に、大木社長はじろりと鋭い視線を向けた。けれどそれを一瞬で消し、「それは残念」と笑顔を浮かべる。俺も外向けの笑顔で「すみません」と笑うと、ティーカップを彼の前に置き、向かい側に座った。

 大木社長が何の目的でここに現れたのかは訊かずともわかっているから、彼の鋭い視線の意味もわかる。それは誘いをあっさり断ったことに対するものではなく、おそらくはその予定そのものを探るもの。わかっていて尚、俺はその視線を徹底的に無視すると決めていた。

「それで、今日はどのような用件でしょうか」
「まあそう急かさんでくれよ。まずはこの紅茶を堪能させてもらうよ」

 大木社長はそう言って、目の前のティーカップを手にすると、ゆっくりと一口飲み、「美味いねえ」と呟いた。

「君は本当に美味い紅茶を淹れるな」
「ありがとうございます」
「昔、うちに来た時にも淹れてくれたことがあったね。あの時も私がそう言ったの覚えているかい?」
「ええ、覚えてます」
「そうか。あれから益々腕があがったんじゃないか?」
「どうでしょうか。腕が上がったかはわかりませんけど、俺自身が紅茶好きなんで、茶葉もそうですけど、淹れ方もいろいろ試して少しずつ進化させてはいるかもしれません」
「なるほどな。そうそう、この前イギリスに行った時に気に入った紅茶があってね。たしか――……」

 そうして大木社長は紅茶について滔々と話し出した。それは五分、十分と続き、終わったかと思うと次の話題へ移り、また十分、二十分、と時間が経っていく。
 この他愛もない話は一体どこまで続くのか、この人は一体何をしに来たんだと苛立ちが募り始めた俺は、「紅茶を淹れ直しましょう」と空になっていたティーカップをトレイに乗せて席を立った。

 ――全く何を考えているんだか。
 新しいカップを用意して茶葉が開くのを待ちながら、胸の内で盛大に溜め息を吐いて、胸ポケットに手を突っ込んだ。話の途中で胸ポケットの携帯電話が振るえたことに気付いたが、取り出すことが出来ずにいたのだ。席を立ったのは、このためでもあった。
 ディスプレイには牧野からのメッセージ受信を示す文字。
 ――あー、やっぱり牧野だったか。
 受信して、既に一時間弱が経過しようとしていた。


――――
お疲れ様。こちらは納会真っ只中です。美作さんも納会出てますか? 美穂が本社の納会ってどんな感じなのか知りたがってたから、今度教えてあげてね。
ところで、美作さんは何時頃パーティーに行く? あたしの方はもう何時でも抜け出せそうなんだけど。
もし時間がはっきりしてるようなら教えてくださーい。
――――


 脳裏に牧野の顔が浮かび、同時に、まるで目の前で話しているかのようにその声までもがはっきりと響いた。
 携帯電話の振動を感じ取った時点で、おそらくパーティーに参加する誰かからだろうと思っていた。牧野からの可能性が一番高いとも。
 そう思っていながらすぐに開かなかった自分自身が腹立たしくて、思わず小さく舌打ちした。
 ソファをちらりと見れば、大木社長も携帯電話を取り出し見ている。
 返信をするなら今だ。俺は大木社長に声をかけた。

「すみません。ちょっとメールの返信だけさせてもらいますね」
「ああ、どうぞ」



 再びティーカップを乗せたトレイを持って応接セットへ戻った俺は、先程よりも少しだけ強い口調で切り出した。

「大木社長、そろそろ本題に入ってもらえませんか?」

 牧野のメールから、「もし可能なら一緒に」という彼女の気持ちが読み取れた。きっとすぐに返信がいかないことで、俺が忙しくしていると感じ取り、自分一人で行くことにしたか、他の誰かに連絡を取ったことだろう。
 仲間内のパーティーだし、そもそも俺がいないと動けないなんていうタイプでもないから、さほど心配することはないけれど、それでも早く行ってやりたいと思った。――いや、俺が早く牧野の顔を見たいと思った。

「急かして申し訳ありませんが、私もこの後予定がありますので」

 俺の言葉に、大木社長はあからさまに不機嫌そうな顔つきで眉を顰める。そして「仕方ない」とでも言いたげな様子で口を開いた。

「少々妙な話を耳にしてね」
「妙な話ですか?」
「ああ。それがあまりに突拍子もない話だったもんだから、気になってね」
「どんな話ですか?」
 
 大木社長は俺をじっと見つめたまま、ゆっくりと言った。

「近いうちに、君が一般女性と婚約するという話だよ」

 ――やっぱりそのことか。

 予想通り故に今更驚きやしない。俺は表情を変えずにじっと大木社長を見つめ返した。
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2011.08.19 月色の雫
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