片側想い
お題:カタオモイ
バタンと玄関のドアが閉まると同時にぶわりと溢れ出した涙が、行き場を失い頬を伝った。
ポタリポタリと伝い落ちた涙が床にシミを作る。それをぼんやり霞む視界で睨むように見つめながら、つくしは指先が白くなる程きつく拳を握りしめていた。

真剣に好きかどうかなんて考えたこともなかった。ただ、その人懐っこい笑顔を見るとホッとした。
普通の話を普通に出来る、そんな同じ感覚を持つその人に惹かれた。
たまたま心理学の講義で隣になっただけの人。
けれど何度か見かけるうちに、何度か会話を交わすうちに、講義が待ち遠しくなっている自分がいた。
ウキウキと心浮き立つ、こんな気分は久しぶりで、ドキリと胸が高鳴る度に僅かに抱える痛みさえ、なぜかやけに嬉しかった。

道明寺との遠距離恋愛は、残りあと一年というところで終わりを迎えた。
どちらがどう悪いわけでもないと思う。強いて言うなら、お互いに疲れていた。
「またいつか向き合った時にお互いがまた始めたいと思ったら、その時もう一度始めようよ」
その瞬間、出逢ってからの長くて短い年月の中で、一番心が寄り添った気がした。
その事実のなんと切ないことか。けれどそれが真実だと感じた。
後悔は微塵もなかった。ただ、寂しかった。
やっぱり好きだったんだと、わかりきったそのことを頭と心の芯で感じて、恋はもう当分出来ないと思った。

けれどあれから数ヶ月で、つくしに心躍る瞬間が訪れた。
なんて薄情なやつなんだろうと、おまえの「当分」は「たった数ヶ月」なのかよ、とつくしはそんな自分に呆れた。でもどう足掻いてみても、頬は自然と緩んで胸の内は温かかった。

あれから一ヶ月。たった一ヶ月で、つくしはその温度を失った。
彼に、彼女が出来た。
待ち遠しかった心理学の講義で顔を合わせた彼はいつも以上に人懐っこい笑顔で言った。
「牧野さん、聞いて。俺、彼女が出来たんだよ。三回目の告白でようやく――……」
ほんの少し親しくなっただけのつくしに、大好きな人懐っこい笑顔で自ら進んで彼女との馴れ初めを話す彼を、つくしは誰よりも誰よりも酷い男だと思った。

真剣に好きかどうかなんて考えたこともなかった。ただ、その人懐っこい笑顔を見るとホッとした。
それだけの人。
だけど涙が止まらない。

「……バカ、みたい。」

アパートの狭い玄関で靴も脱がずに蹲ったつくしは、膝にぐっと唇を押し当てて嗚咽を殺して泣いた。
失った温度がせつなくて、掴み切れなかった恋が悲しくて、今更気付いた想いの大きさに戸惑って……涙の零れる理由は、自分でもよくわからなかった。
けれど、涙は溢れ続けた。



――ピンポーン

その音が響いたのは、どれくらい後だっただろうか。
つくしはまだ蹲ったままだったけれど、もう涙は止まっていた。
でも人に会う気分じゃないし、それ以前に会える顔じゃない、と無視を決め込む。

――ピンポーン

二度目の音にも動かない。じっとしていれば諦めて帰るはずだから。

――コンコン、コンコン

けれどそんなつくしの思惑は外れて、今度は扉をノックする音が響いた。
二度、三度……思ったよりもしつこいそれに、「もう、なんなのよ」と八つ当たり気味の怒りを覚えて、つくしはのっそり立ち上がった。
「どなたですか? 今手が離せないので」
そう言ってやろうと息を吸い込んだその時、ドアの向こうから声がした。

「牧野、いるんだろ? 俺……美作。」
「……え。」

意外すぎる程意外な訪問者につくしは心底驚いて、今の今まで泣いていた自分の顔がどんなに酷いかも忘れて、思わずドアを開けていた。
向かい合った次の瞬間、あきらの表情がほんの一瞬だけ痛々しげに歪み、けれどすぐに綺麗で繊細そうないつも笑みにすり替わる。

「よぉ」

いつも通りだけどいつも通りじゃないその状況に、つくしは思わずドアの向こうを見渡すけれど、彼以外の姿は見えない。

「一人?」
「一人」
「……どうしたの?」
「失恋した牧野の様子を見に来た」

すうっと心の内の何かが冷めていく。その一言で。
一体なんだと言うのだろう。
類や総二郎と一緒ならともかく、一人でここへ来るなんて今まで一度もなかったこの人が、なぜこのタイミングにたった一人で訪ねてくるのか。しかも、誰にも言っていないはずのつくしの淡い恋心と見事な失恋を、知っていて当然のような顔をして。
けれど彼の――彼らの情報網の広さはつくしなんかでは想像もつかず、どこでなんで知ったかを訊いたところで何にもなりゃしないと思ったつくしは、ただムッと口を尖らせた。

「……からかいに来たわけ?」
「別にからかおうとは思ってないけど」

なんだかヤケに頭に来る。何がどうだと明確に説明出来るものではないけれど。

「ずいぶん派手に泣いたな」
「いいでしょ、別に」
「ま、泣かずに溜め込むよりはずっといい」
「……」
「あとできちんと冷やしたほうがいいと思うけど」

「温めるって方法もあるぞ?」なんて言葉を重ねるあきら。けれどそれが彼の優しさだと気づくにはつくしの心が傷つきすぎていて、クシャクシャと丸まった気持ちは広がらない。

「余計なお世話です」

刺々しく言い返すつくしに、あきらはひょいと肩を竦めて一つ息を吐くと、何の脈絡もなしに紙袋を押し付けてきた。

「え、なによ」
「お見舞い品」
「……いらないわよ」
「いいから受け取れよ」
「いらないって」

「受け取れ」「いらない」と押し問答は果てしなく続く。
頑なに拒むつくしにあきらはもう一つ息を吐き、焦れたようにぐっとつくしの手を取った。
思ったよりも冷たいあきらの体温にドキリとして思わず固まったその隙に、紙袋が乗せられる。

「いらなきゃ捨てていいから。ひとまず受け取れ」
「……」

( 出来るわけないじゃない。捨てるなんて )

つくしの性格をわかった上で言ってるだろうことがわかるから、余計に頭に来る。
紙袋を見つめながら思わず不満げに尖ってしまうつくしの口。きっと酷い顔をしてるだろうと自分で思うけれどどうにもならない。
そこへふいに頭上でクスリと笑う気配がした。
「何がおかしいのよ」と見上げてやろうとした次の瞬間、ポンと頭に手を乗せられた。
ドキリとして動きが止まる。ゆっくりそうっと顔を上げると、そこには想像よりもずっと優しい笑顔があって、さらにドキリとした。

「……あの、」
「気晴らしが必要ならいつでも言えよ。どこにでも好きなところに連れて行ってやるから」
「……」

その声と表情は、予想以上に優しすぎた。
ドキリと跳ねた鼓動がおさまらないうちに次のドキドキがやってきて、つくしは言葉が返せない。
けれどあきらはつくしの言葉を期待してなんていないのだろう。黙りこくって立ち尽くすつくしの頭をポンポンと撫でて「じゃあな」と帰って行った。

コツコツとあきらの靴の音が遠ざかる。
立ち尽くしていたつくしはハッと我に返り、結局受け取ってしまった紙袋をそっと開いた。

「……あ、」

そこに入っていたのは、つくしが以前その美味しさに感動した美作邸のサンドイッチ。

( 嘘。なんで……? )

刹那、考えるよりも先に足が動き出していた。
消え入る足音を追うようにアパートの階段を駆け下りる。そのままの勢いで路上に出ると、颯爽と歩いていく長身の後ろ姿が視界に入った。

「美作さん!」

足を止め振り返った彼に、つくしは問う。

「これ、わざわざ作ってくれたの?」
「作ったのは俺じゃない」
「でも、美作さんが頼んでくれたんでしょう?」
「まあな」
「……あたしの、ために?」

うぬぼれた質問だと思いながらも止まらない。
あきらはふうわりと笑う。

「俺しか知らないから、牧野の失恋」
「……え?」
「総二郎はお前が恋してたことすら気付いてないし、類は気づいてたみたいだけど、そこまで真剣だとは思ってない」
「……」
「だから俺が来た。おまえの好きなサンドイッチ持って」

「好きだったよな?」と既に答えを知っている問い掛けをしてくるあきらの笑顔はどこまでも優しくて、つくしの胸がきゅうんと熱くなる。
止まったはずの涙が、別の熱を持って再び溢れそうだった。
ふいに先程あきらが放った「いらなきゃ捨てていいから」という言葉が脳裏を過った。
くさくさしていたとは言え、傷ついた自分のことで手一杯だったとは言え、こうして来てくれたあきらに対して自分はなんて子供じみた態度をとっていたのだろうと、つくしは罪悪感でいっぱいになった。

「あの……ありがとう。美味しくいただきます」

心の籠ったその言葉にあきらはにこりと笑うと、「じゃあな」と小さく手を上げた。
去っていくその後ろ姿につくしは叫ぶ。

「今度、何かお礼するね!」

再び振り向いたあきらは、今度は足を止めずに笑顔で言う。

「じゃあまたうちに来て、妹たちと遊んでやってくれよ」
「……うん! 喜んで!」



暮れゆく空の下、歩き去るあきらの背中を見つめるつくしの心に先程までの重苦しさはない。
あるのは、ふうわりと笑ったあきらの優しい笑顔だけ。
そんな自分を不思議に思うこともなく、つくしは長く伸びるあきらの影をいつまでもいつまでも見つめていた。
Fin.
【そんなニブい君が好き。】 お題:カタオモイ
司との恋愛を終わらせたつくしは普通の恋をするのです。お金持ちでもイケメンでもない普通の人と。
誰にも言わずにそっと始まった恋心に何故あきらと類だけが気づいていたのか。その恋が終わったことを何故あきらだけが気付いたのか。
もっとしっかり考えてみるべきよ、つくしちゃん。
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2011.09.10 片側想い
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