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亜麻色の心に
COLORFUL LOVE view of SOJIRO
1

「今日は本当にありがとうございました。いろいろと不手際もあったかとは思いますが」
「いえ、楽しい会でしたよ」
「そう言っていただけて何よりです。今回に限らず、第二弾、第三弾と開催したいと思っておりますので、その節はまた」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
「あれ、西門さん?」
「……ん?」

 ホテルのロビーを歩きながら、ビジネスライクな会話を繰り広げていた俺の耳に、俺の名を呼ぶ小さな声が飛び込んできた。聞き馴染みのある、けれど今ここで聞くことは予想していなかった声。聞こえてきた方向に顔を向けると、そこには少々驚きの滲んだ、声から察した予想通りの顔を見つけた。

「すみません。知り合いがいたようなので、ここで」
「あ、そうですか。わかりました。今日は本当にありがとうございました。また改めてお礼させていただきたいので、連絡させていただきます」
「わかりました。それでは」

 簡単に挨拶を済ませ、俺は向かう方向を転換した。
 スタスタと近づき「よお!」と声を発すると、じっと俺を捉え続けていた瞳が、初めて顔から逸れて俺の全身を撫でた。

「お仕事だったの?」
「見ての通り」
「それはお疲れ様。もう終わったの?」
「ああ、あとは帰るだけ。そっちは何やってんだよ、こんなとこで」
「ん? 見ての通りランチよ」

 優雅でしょ、と笑うのは、「友達」よりも「親友」という方がしっくりくる距離に在る友人で、幼馴染の婚約者――牧野つくし。貧乏人から大企業の次期社長夫人へと、確実に玉の輿に乗ったはずなのにどこにもその空気感が漂わない、未だ高級レストランよりもファミレスやファーストフードのほうが落ち着くと言い放つ女。
 けれど、その牧野が今いるのは、高級ホテルの、おいしい食事が出来ると人気のラウンジ。
 今一番親しくしているらしい同僚の美穂ちゃん――えーと、たしか、木下美穂。牧野と同じ庶民だが、牧野よりも数倍玉の輿に乗りそうな匂いのする、計算高いところは確実にありそうだがそれを感じ取らせない賢い女性。今だって俺達の会話を遮ることなく、けれど綺麗に笑ってきちんと俺に頭を下げる。なかなかイイ女。――と、牧野にしては豪勢な料理を囲んでいた。
 言い放った「優雅でしょ」という声から、その言葉の意味に釣り合う感情を感じ取れないのは、心の底からこの状況に馴染めていないからか。牧野のことだから、不釣り合いだとか贅沢すぎるとか、余計なことを思っているのだろう。
 だが、敢えてそれは口にせず、むしろ反対のことを告げる。

「へええ。少しは次期社長夫人ぽいことするようになったんだな」

 脳裏に牧野の反応を思い描くことは容易で、それは決して外れない。

「ち、ちがうよ! そんなんじゃなくて、これは美作さんがあたしの知らないうちにここの予約を入れていて――……」

 ――ほら、予想通り。
 真っ赤な顔で言い訳をべらべらと話し続ける牧野に、俺は思わずにやりと笑みを零した。

「わかったわかった。じゃあ、これはあきらの金で食ってるってことだな」
「そうよ。お支払はしなくていいって――」
「じゃ、俺もご馳走になろうっと」
「……へ?」

 牧野はぽかんと口を開けていたけれど、そんなことは構わず、俺はスタッフを呼んで席と料理を用意するように言った。

「あの、西門さん?」
「なんだよ」
「あたし、美作さんがどういう予約の仕方したのか全然わからないままここにいるんだけど」
「俺の分を追加して大丈夫なのかどうかを気にしてるなら、心配ご無用。どうせあとで自動清算されるんだろ。ここのホテルは美作と無関係じゃないから融通も利くし大丈夫」
「あ、そうなんだ……」
「え、おまえ知らなかったの?」
「うん」
「ここ初めて……じゃないよな。先月の美作のパーティーもここだっただろ?」
「うん……あ、そういうことか」

 牧野は本当に何も気づいていなかったらしい。 だがまあ、牧野が何も知らなくても然程不思議ではない。そんなことは知らずとも何も困らないのだし、元々あきらは余計なことを言うタイプではないのだから。

「というわけだから、ご一緒させていただきますよ、美作夫人」
「ふ……っ、だから、あたしはまだ――」
「美穂ちゃん、俺がいても平気かな?」
「私は全然。私もご馳走になってる身ですから」
「君ならそう言ってくれると思ってたよ」

 にっこり笑った俺を「西門さん、前にも言ったけど、美穂に手を出すのは絶対やめてよ」と牧野は眉間に皺を寄せて睨む。はいはいと適当に交わして用意された席に座り――大きめの丸テーブルだったから、用意されたというよりは勝手に座った、と言うべきか――、スタッフがワインを注ぎ終わるのを待つ。ついでにソフトドリンクを飲んでいたらしい二人にもワインを用意させたら、「わー、贅沢」と美穂ちゃんは嬉しそうに笑って、「真っ昼間から」と牧野は呆れたよう笑った。
 グラスを持ち上げ、俺はわざとらしい程の笑みを浮かべる。

「では改めて。この奇跡の出会いと牧野の婚約に、乾杯」

 だから正式な婚約はまだだってば。と頬を真っ赤に染めながら最後までぶつくさ細かなことを言う牧野と、ほんのり頬を染めた美穂ちゃん。反応はいろいろあれど、二人ともグラスを手に取り、俺の勝手な「乾杯」に応えてくれる。
 そうして時間はゆるゆると流れ出した。
 

 二人に会うのは、約一ヶ月ぶり。牧野はともかく、美穂ちゃんとはその一ヶ月前が初めてで、今日が二度目。あの時は挨拶に毛の生えた程度しか話せなかったから、こうしてきちんと向かい合うのは今日が初めて。互いの第一印象だけを頼りに会話を探る間は多少の緊張感が漂うだろうと覚悟していたのだが、予想に反してそれがほとんどなかった。
 必要以上にアピールされるか、必要以上に警戒されるか、という極端な態度を取られることの多い俺からするとそのナチュラルさは少々珍しい。だがおかげで場の空気感は大変良好。豪華なランチ――間違いなく事前にあきらがオーダーしたメニューだろう。金額的に牧野一人じゃ選ばない物ばかり――を食べながら、他愛もない会話で笑顔が溢れる時間が続いた。
 けれどそれは、デザートが運ばれてきた時に生まれた小さな沈黙を挟んで、ガラリと重みを変えることになった。
 話を切り出したのは、牧野だった。

「ねえ、西門さん。ちょっと教えてほしいことがあるの」
「ん?」
「年末のパーティーの時さ、美作さんと何か話した?」

 唐突だった。けれどそれは俺にとってで、牧野にとってはそうではなかったのだろうと、じっと俺を見つめるその顔を見て感じた。

「話したもなにも、普通に話してただろうが」
「いや、そうなんだけどさ。そうなんだけど、そういうことじゃなくて」
「どういうことだよ」
「だからね」

 そこで言葉を止めると、最後の踏ん切りをつけるかのように一つ小さく頷いて、そして続く言葉を吐き出した。

「何か特別な話、した?」

 まだまだ曖昧な、けれど詰まる想いの伝わる言葉。
 意地悪にわからないふりをするのは容易だ。けれど、それは今すべきではないだろう。俺をじっと見つめる牧野の視線を真っ直ぐ受け止め、そして一歩だけ含み込んだ言葉を返す。

「おまえが訊きたいのは、俺があきらと深刻な話をしたか、ってことか? たとえば、あいつの悩みを聞くとか……?」

 牧野は瞳を僅かに大きくし、コクコクと頷いた。大きな期待の込もったその表情に、俺は苦笑を浮かべながらフルフルト首を振った。

「期待に応えられなくて申し訳ないが、何も特別な話はしてねえよ。いつもと一緒。他愛もないことばかりだった」
「……そっか」

 安堵と落胆、確実に後者の感情が多い声で、牧野はその事実を受け止めた。――いや、受け止めようと努めた。
 納得がいかないのではない。何も得られなかったことが少しだけ切ない。その表情は、言葉以上に正直に、彼女の中の複雑な想いを映し出していた。

「美作専務、どうかしたの?」

 訊いたのは、美穂ちゃんだった。ああ、牧野はこのことを今まで誰にも話さずにいたんだ。そう思った。そして牧野が美穂ちゃんに向けた、ほんの少し困ったように眉を下げた苦笑気味の表情を見て、それも当たり前か、とも思った。
 何でもないと取り繕うことも、胸に燻る想いを吐露することも、おそらく牧野はその両方ともを上手く出来ないのだ。どう説明していいかがわからないほど、ぼんやりとしたものだから。
 牧野が抱えているのは、人に話すには曖昧すぎる違和感。思い過ごしと片づけるには明瞭すぎて、断定するには曖昧すぎる何か。言葉にするには少し勇気がいって、でもその何かを掴みたいし確かめたい。あきらのことが、好きだから。あきらのことが、大切だから。
 おそらく牧野は、そんな感情を抱えているのだと思う。当たらずとも遠からず。いや多分間違いないだろう。良くも悪くも、俺には思い当たることがあった。
 小さな違和感――そう呼ぶには小さすぎる曖昧なひっかかりは、俺も確実に感じたから。

「あきら、あれからなんかおかしいか?」
「うーん……あれからずっとかって言われたらそれはよくわからない。ただ、あの日はおかしかった」
「どんなふうに?」
「……うまく言えないけど、気持ちがささくれ立ってるっていうかさ」
「あの女が現れて、あんなことになったからじゃなくて?」
「多分それもあるんだろうけど。でもなんか、ね」
「それだけじゃないような?」
「うん。本当になんとなくなんだけどね」
「え、それで、あの日はそうだとしても、そのあともずっとなの?」
「うーん。なんて言っていいかわからないんだけど……いつもより、小さなことにも過敏になってるような、そんな気がする瞬間があってね」
「いつも以上に神経質になってる感じか?」
「そうだね、うん、そんな感じかな。……でも本当のところはわからない」
「そっか」
「あたしが気にしすぎなだけかもしれないし。もしそうなら、そのほうがいいんだけど」
「そうだよね」
「うん……でもなんか気になっちゃって」


 今から一ヶ月程前。
 いつもの仲間が集まって、クリスマスと忘年会を抱き合わせたようなパーティーが開かれた。首謀者は俺と類。場所はあきらに取らせたが、あくまでも首謀者ではない。何故ならそれは、牧野の誕生日と、その牧野とあきらの婚約を祝うためのパーティーでもあったから。だからと言って、特別サプライズな何かを企んだわけでもない。あきらと牧野を祝ってからかって酒の肴に、と思っていただけのことだ。
 けれど、思わぬ事件勃発で、それは予期せぬ幕開けとなってしまった。

 始まりは、あきらの秘書からの一本の電話。パーティー会場の一階のカフェで牧野がピンチに陥っているから助けてほしいと言ってきた。
 話を聞けば、あきらに想いを寄せてるグループ会社の社長令嬢が、牧野の存在を知って直接対決を仕掛けた。けれどあきらは来客中でどうしても会社を抜け出せない。「専務が到着するまでの間、牧野様をお守りいただきたいのです」とあきらの秘書は言い、俺はそれを二つ返事で引き受けた。
 結論から言えば、牧野を守ることには成功したと思う。但し、守ったのは俺ではない。――司だ。
 店の前に着いてすぐに、店内の一番目立つところに真っ赤なロングコートを着た司を見つけた。もちろんその隣には牧野。安堵もしたが、大暴れで大注目となっていないかと不安も膨れたのは言うまでもない。けれど店内に入ってすぐに、何の心配もいらなかったことを悟った。ある程度の注目は浴びていたが必要以上に暴れた形跡もなかったし、言ってることも至極真っ当なことばかり。俺はそれを、たまたま店の前で鉢合わせた類と共にこっそりと聞いていた。司も大人になったんだなあと、昔の暴君な司を思い出して感慨に浸りながら。
 けれどそんな思いに浸っていられたのは多分俺だけ――類はどうだったか知らない――。
 司の怒りは、必死に抑えているだけでマックスに近い状態、破裂寸前だった。そして、すべてが納まりかけたそこへようやく駆けつけてきたあきらの表情は、牧野を心配してることを差し引いても、どこか優れなかった。気にはなったがすぐその場で訊くわけにもいかず、俺は司と一緒に先に二階へと移動した。
 無言で足早に階段を上った司は、上り切ったところで足を止めると、まっすぐ前を向いたまま唐突に「総二郎、あいつら婚約したのか?」と言った。

「随分情報が早いんだな」
「あきらに話があるって言われたんだよ。それしか思いつかねえだろ」
「そりゃそうだ。まあ、そんなとこだ」
「……そうか」
「俺もまだ直接は聞いてねえけど」
「……」

 それきり司は口を開かなかった。沈黙が続けば続く程、司の想いの強さを感じる気がした。司は今でも牧野が好きで、多分その想いはこれっぽっちも減っていなくて、むしろ膨れる一方で――もしかしたら、そのことに司自身が一番戸惑っているんじゃないかと、そう思えてならなかった。
 現実は厳しい。どんなに愛したところで司の想いが報われる日はもうこないだろう。そして、愛した女は幼馴染みで親友の手によって幸せになる。牧野もあきらも、司にとっては大切な存在で、その大切な二人の願ってやまない幸せが、結果的に自分を傷つけるのだから。
 ――まあ、それでも司は司で、決して折れちゃいなさそうだけど。
 ポンと肩に手を乗せた俺を振り返ったその顔には微塵の迷いも浮かんでいない。その瞳にも強さがある。強がりを差し引いても、決して後ろを向いてなどいなかった。
 むしろ気になったのは、やっぱりあきらのほう。牧野が気にしている通り、あの日のあきらはどこかおかしかった。それは、あきら自身をきちんと観察しなければ気付かないほどの小さな違和感。だからそれに気付いた人間はごくわずかだろう。
 現に、牧野の数倍は観察眼が鋭いだろう美穂ちゃんは何も気付いていなかったようだ。当然だろう。たしかあの日、プライベートであきらと会うのは二度目だと言っていた。おそらく、桜子や滋だって何も気付いちゃいない。気付いている人間がいるとしたら、あとは類くらいだろう。ただ類の場合は、よほどのことがない限りは最初から最後まで見て見ぬふりだ。牧野にもあきらにも変化を見せない。当然俺にも。
 でも俺は、動かずにはいられなかった。そうしなければ、あきらは自分一人で抱えてしまうから。

 パーティの中盤、部屋の隅に設置されたバーカウンターで背の高いフルート型のシャンパングラスを受け取るあきらが視界に入った。周りを見ればそれぞれ自由に楽しんでいる。今がチャンスか、と俺はあきらに近づいた。

 
 **


「それは、キール・ロワイヤルか?」

 その声に振り向いて俺の姿を確認したあきらは、「総二郎も飲むか?」と口元を緩めた。頷くと、目の前のバーテンダーの手が動き出す。

「さっきの美人とは、話は無事着いたのか?」
「美人……」
「間違いなく美人だっただろ?」
「……まあな。話はついたよ。無事かどうかは微妙なところだけど」
「わかってもらえなかったのか?」
「いや、理解はしてると思う。それなりに賢い部分はある人だから」
「美人で賢い。なかなかじゃねえか」

 あきらが俺の言葉にうんざりした表情を浮かべるのと同時に、俺の分のカクテルが出来上がった。それを受け取ると俺達は窓際へと移動する。
 一口、二口と飲みながら部屋を見渡すと、仲間たちの明るい笑顔が見えた。
 優紀ちゃんと話していた牧野がすっとその場を離れ、ソファで寛ぐ司と類のもとへ行った。類に笑顔を向けた後、司と短い言葉を交わしたところで牧野の頬が膨らんだ。本気で怒っているわけではない、けれど何かを抗議する表情。類が楽しそうに笑みを零し、つられるように牧野も笑った。司はそれを見て面白くなさそうに眉間の皺を深くしたが、やがてその表情を緩めて、二人と同じように笑みを零した。

「あいつら、なんか――」

 ――楽しそうだな。言おうとあきらの顔を見て、俺は言葉を飲み込んだ。
 あきらは俺の隣で、たしかに俺と同じ光景を見つめている。けれどその表情は、抱える感情は、おそらく俺とは全然違っていた。
 あきらは、とても愛おしそうに、けれどどこかやるせない表情で、その光景を――おそらく、牧野を見つめていた。ほんの数日前にプロポーズしたばかりの愛しい女を見つめるにしてはあまりにも切なげで、見ているだけでこっちの胸の奥がじんわりと痛くなるようだった。
 未来の約束を交わしたあきらは、今誰よりも幸せな顔をしているはずなのに。呆れるくらい甘やかな空気が漏れ出ていてもおかしくない程に満ち足りているはずなのに。でも隣に立つあきらの表情はどちらからも程遠くて、ただ痛いほどの愛が溢れていることだけは感じ取れた。

「あきら、なんかあったのか?」

 思わず訊いてしまった俺にフルフルと首を振った。僅かな間を置いて。いつもと変わらない優しげな笑みを湛えて。

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2011.11 亜麻色の心に
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