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マンダリンオレンジの夢を見る
COLORFUL LOVE
1
大きなベッドのふかふかの枕に頬を寄せるように眠るつくしの耳に、カタコトと、遠慮気味な、けれど明らかに空気を揺らす音が届いた。
眠りの淵でその音を感じ取ったつくしの意識がゆっくりと引き戻される。
音の正体を捉えようと緩慢な動きで上体を少しだけ起こし音がする方向へと顔を向けると、まだぼんやりとした視界にオフホワイトのワイシャツが飛び込んできた。
ぱちりぱちりと瞬きをしながら、ああ、とすぐに合点がいく。
そこでようやく口を開いた。

「……おはよ、みまさかさん」

起きたばかりのつくしの声は小さく掠れていて、届かないような気がした。
けれどそんな心配は無用だったとすぐにわかる。
チェストの上に並んだ腕時計を選んでいたあきらは、その声に反応してくるりと振り向き、ふわんと笑った。

「おはよう。悪い、うるさかったか?」
「ううん」
「支度を終えたら起こすつもりだったんだけど……」

言いながら数秒腕時計を吟味してそこからひとつ手に取ると、ベッドへと歩み寄ってきた。

「今日は朝から会議でさ、始まる前に資料読み込んでおこうと思って」
「あ、そうだったの?」
「悪いな。昨日すっかり言いそびれちゃって」
「ううん」

首を振るつくしにあきらはふっと笑みを零し、腕時計をはめながらベッドに腰掛けた。
幾度となく目にしたことのある、おそらくあきらお気に入りの腕時計がカチリとその腕にはまる。
それをぼんやり眺めていたその視線を何気なくあきらの顔に向けると、柔らかに細められたその瞳と視線が合い、それからゆっくりと近づいてきた。
鈍感なつくしとて、それがどういう意味を持つかはわかる。
ゆっくり瞳を閉じた次の瞬間、あきらの唇がつくしの唇に重なり、ちゅ、と小さな音を立てて離れた。
そっと目を開ければ、目の前にはあきらの柔らかな笑み。
つられて微笑むつくしだが、自然と頬が赤くなるのを感じた。
耳に直接届く囁くような甘い声。

「もう少し寝るか? ゆっくりしていっていいぞ」
「ううん、起きるよ。美作さん出かけちゃうのにあたしが残るわけにはいかないもん」
「そう? 全然かまわないけど」
「厭よ。ていうかゆっくりさせてもらうのはありがたいけど、なんか、悪いっていうか、恥ずかしいっていうか……」

フェイドアウト気味のつくしの言葉にあきらは笑みを深くした。

 


つくしが大学四年生になって約二ヶ月。
社会人になったあきらとの交際は変わることなく続いていたものの、入社したばかりの彼はとても忙しく、二人で会う時間は激減していた。
もちろん休みは一緒に過ごしていたし会えない時でも電話やメールは頻繁にしていたので、極端に大きな寂しさを抱えたりはしなかった。でも今までとは違うその新たなリズムに慣れるには少し時間が必要で、膝を抱えて過ごした夜もないわけではなかった。
けれど人は変化に順応していく。
それはつくしも例外ではなく、最初は持て余し気味だった一人の時間もなんとか有意義に過ごせるようになってきていた。
大学へ行って講義を受けてカフェテリアでお茶をする。一人で本を広げることもあれば桜子や他の友人と他愛もない話で盛り上がることもある。
大学での時間が終わった後はバイトに行ったり、街をぶらぶらしてみたり。夕飯は何にしようとかあの映画を観てみようかとか、あれこれ考えるだけでも時間は経っていく。
そうして少しずつ少しずつそれがつくしの日常となっていた。

バイトのなかった昨日は大学のカフェエリアで一人ゆっくりと本を読んでいた。
ここ一週間ほど少しずつ読み進めていた本がちょうどクライマックスを迎えていて、今日は最後まで一気に読んでしまおうと心に決めていた。
けれどそんなことは心に決めるまでもなく、読み始めてすぐにその世界に没頭して、意識せずとも気づけば最後まで読み終えていた。
あっという間だったなあと時計を見ると読み始めてから一時間半程の時が経っていた。
そんなに夢中になっていたかしらと驚いたけれど、読み終えた満足感が身体を充満していてひどく心地良い。
そしてまた新たな物語と出会いたい気持ちでいっぱいになり、図書館へ寄ってから帰ろうと荷物をまとめた。
もちろん、ティーカップに僅かに残る、冷めても尚美味しい紅茶をくいっと飲み干して。

異変に気付いたのは正門まであと十数メートルというところだった。
学生の往来で日頃からそれなりの賑わいを感じる場所ではあったが、それとは少し異なるざわめきを感じた。
そこにいる誰もが突発的な何かに出くわして浮き足立っているような、そんな雰囲気。
なんだろうと様子を窺えば、どうやらそこに居る人間の視線のほとんどが正門へと注がれている。
英徳の広い敷地の端の端に位置する図書館へ向かう為に通り掛かっただけのつくしだったが、その雰囲気につられるように視線を正門へと移した。
歩きながら、本当に何気なく。――が、つくしの足はぴたりと止まった。
「……え? なんで?」
そんな声が漏れてしまったのは、つくしに独り言を言う癖があるからではない。多分誰もがこの状況では同じように呟いてしまうだろう。
視界に飛び込んできたのは、仕立てのいいスーツを纏い穏やかな表情で正門に背を預けて立つあきらだったのだから。
二度三度と瞬きをしながら頭をフル回転させる。
仕事中のはずのあきらがなぜここに? 昨日も今日も仕事が山積みだとメールが来ていたのに。
それよりも何よりも、その穏やかな表情と美しい立ち姿に目が奪われる。
卒業しても尚根強い人気継続中のF4の美作あきら。
就職して一歩未来へ踏み出したことでさらに人気急上昇中なんだと語っていたのは桜子だったか。
たしかに最近のあきらは、学生だったその頃よりも魅力が増したように思う。それがなんなのかと言われると、言葉になんてとても出来そうにないのだけれど。
でもそれもまた、周囲が彼に惹かれる訳とも違うのだろうし、冷静な判断なんてとても出来てはいない、とつくしは思う。思ってそして、とても恥ずかしい気持ちになるのだった。
その時、ぴたりとあきらと目が合った。
何かを感じたのか偶然なのか、あきらの視線がつくしを捉え、ハッと我に返って小さく慌てるつくしを見て、くしゃりと笑った。
それは外ではあまり見ることのないあきらの笑顔。
周囲の人間がその笑顔にばたばたと倒れんばかりの勢いで骨抜きにされていたことを、おそらくつくしは知らない。
つくしはただただ恥ずかしさに頬を染めて、小走りにあきらの元へと駆け寄った。
「どうしたのよ、美作さん」
大声で言う寸前だったその言葉をぶつけるために。
でも実はそんなことは問うまでもなかったのだと、つくしはすぐに知ることになる。
「夕方やるはずだった会議が急遽明日になったんだ。だから今日はもう帰ってきた。ここのところ忙しすぎて牧野不足だから」と微笑むあきらは、つくしに会いに来たのだ。当たり前に。
つくし以外の誰かとの待ち合わせにこんな場所を選ぶわけもなく、つくしに会う以外の目的があって訪れたのならこんなところに佇んでいるわけがない。
問うまでもないのだ、そんなこと。
そう思ったら、自然と笑みが広がった。
「ああ、嬉しい」――それは隠しようもない自然な感情だった。
そんなつくしをこれ以上ないほどに優しく見つめるあきらがいたことも、そんなあきらの表情にさらにばたばた倒れそうなギャラリーがいたことも、やっぱりつくしは知らない。

あきらの運転する車で他愛もないことを話しながら街を走る。
実はつくしが正門に現れる五分ほど前にあきらはつくしにメールしていたこと。きっとカフェテラスにいるだろうと予測はしていたのでそのまま行こうかとも思ったけれどなんとなく待ってみたくなったこと。
上機嫌に話すあきらが嬉しくて、つくしはにこにこと話を聞く。
つくしが話してあきらが聞くというのがスタイル的には多いので、いつもと逆だなーと思いながら。
なんとなくおかしくなってくすくす笑えば「何かおかしい?」と柔らかな笑みで訊いてくるあきら。思ったことをそのまま言うと「仕事が早く終わったのが嬉しくてテンションがあがるのを抑えられないんだよ」とこれまた笑顔で答えがかえってくる。
それはつくしだって同じだと思ったら、なんだか何もかも嬉しくて楽しくてさらに笑顔になる。
車の中の二人は、――いや、車を降りて街をぶらぶらしている時も、レストランで食事をしている時も、そのあと再び車を走らせてあきらの家へ向かう時も、ずっとずっと笑みが絶えなかった。

あきらの双子の妹が寝静まった頃に美作邸に帰り着いた二人は、そのままあきらの部屋へと直行した。
十分ほど経った後、使用人がワインとチーズを持って現れた。
あきらが自分の車で帰ってきたことを把握している使用人が気を利かせてくれたのだろうとすぐに思った。
二人はそれを食しながらゆったりとした時間を過ごし、やがてベッドに入った。
口づけを繰り返し、見つめ合いながら高まる心を感じ合う。
「電気、消して」と羞恥に頬を染めるつくしにあきらは緩やかに微笑み、望み通り明かりを落とした。
薄闇の中に二人分の熱い吐息が広がる。
シーツが作る波も、絡み合う体温も、二人だけのもの。
最初こそあきらの家族や使用人のいる美作邸でこのような行為に及ぶことに強い抵抗のあったつくしだが、自分の住んでいるアパートはもちろんのこと、下手なホテルなんかよりもずっとしっかり作られているあきらの部屋は、ある意味とても安心できる場所なのだと知った。
音が漏れる心配も無闇に邪魔の入る心配もない。内ドアで行き来できるバスルームもあるしこれ以上ない完璧な空間なのだ。
でも、それでもつくしの羞恥心がすっきり消えるはずもなく、なんだかんだと抵抗を試みてしまうのだが、あきらはすべてを理解した上でつくしを導き愛してくれた。
そしてつくしはその空間に溺れてゆく。
頭で深く理解するよりも先に、いつだって心が先に解放された。

 


――そして朝がやってきた。
夢と現実をいくつも行き来しながらここへ辿り着いたような気もするが、今はまだすべてが曖昧。
ただひとつのたしかな現実は、今この時、目の前に綺麗に笑うあきらがいること。

「ではそろそろ支度を始めましょうか? 朝食の準備は整っていますよ、お嬢様」
「誰がお嬢様よ。お坊ちゃまはそっちでしょう?」

にこにこ笑うあきらにつくしも笑い返し、それから「十五分だけ待ってね」とベッドから飛び出した。
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2012.03.10 マンダリンオレンジの夢を見る
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