01 / 02 / 03
茜色が沈んでも
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1

「おはようございます」と挨拶を口にしながら足を踏み入れたオフィスには、まだ誰もいなかった。
それもそのはず。
今日の俺は、本来の就業開始時間よりもはるかに早く出勤している。
しんと静まり返るオフィスを進み自分の席に鞄を置くと、会議の資料だけを手に再び廊下へ出て休憩スペースに向かう。
やっぱりそこにも誰もいなくて、元から広めの休憩スペースがさらに広く感じた。
いくらなんでも早すぎただろうか、と自分以外の誰の姿もないこの状況にチラリとそんなことも思ったが、自販機で紙コップのミルクティを買い一番奥の窓際の席に座った頃には、そんなこともないか、と思い直していた。
テーブルの上に置いた読まなければならない資料は決して少ない量ではない。
短時間で集中して頭に叩き込むには静かなほうがいいのだ。

――ぐずぐずしてたらみんな出勤してくるからな。

ミルクティを一口飲み、俺はさっそく資料を捲った。

 

静寂の中に、自分の手元で資料をめくる小さな音だけが響く。
その内容は決して簡単なものではなかったけれど、読み進める程にするすると頭に入ってきた。
典型的な「調子の良い朝」だ。
こういう時は面白いほど仕事がはかどる。
全てに目を通し終えて時計を見ると、優に一時間はかかると思っていたのに、三十分程度しか経っていなかった。
「お?」と思わず小さく声を発する俺。

――こういう日もあるんだよなあ。

ふうと息を吐き、冷めたミルクティを一口飲んだ。
壁一面のガラス窓からたっぷり射し込む陽の光は先程よりも強さを増したように思う。
階下を見れば出勤してくる人間がちらほらと見える。
高層ビルの多い立地ではあるけれど、上を見れば青空もしっかり見える。

――気持ちいいなあ。

――「いいよね。こんな青空が頭上に広がってると思うだけで気分がいいわ」

心の中で呟いた言葉が、脳裏に響く数時間前に聞いたばかりの牧野の声とリンクした。
たったそれだけのことが嬉しくて愛しくて、自然と笑みが浮かぶ。
そして俺の中は牧野でいっぱいになった。

昨日の夕方、出席する予定だった長丁場必至の会議が今日へと延期になった。
突然の予定変更はままあること。すぐさまスケジュールの組み直しをしたが、前倒し出来るものはそんなに多くなく、結果的にぽっかり予定が空いた。
もちろんやるべき事はいくらでもある。追加分だと渡された会議資料は「束」と言えるほどの厚さだ。これは会議までに目を通さなければならない。他にも午前中にした営業の報告書もまだ提出出来るまでまとまっていないし、小さな雑務は山のようにある。
でも、俺は敢えてその全てをしないことにした。
休める時に休まないと、休めなくなる。――この二ヶ月あまりで厭と言うほどそれを学んだから。
とは言っても、それでも詰め込んでやらなければならない立場であることは重々承知だ。
延期になった会議は、会社の上層部が一同に会するいわゆる「重役会議」。
入社まもない俺が呼ばれた理由は、俺が社長の息子だから。その一点のみ。
数週間前にも一度出席しているのだが、立ち位置的には見学に近いもので、発言権などは与えられない。
ただ「会議の流れや内容を知ること、重役たちの性格や癖を覚えること、どちらも大切なことだから出来るだけ多く出席しなさい」と親父からは言われていて、おそらくその方針は「社長の意向」という形で伝わっているのだろう。今回もしっかりと声がかかり、膨大な資料も手渡された。
それはとても有難いこと。けれど実に厄介なことでもある。
言ってみればそれは、入社一年目の「美作あきら」に与えられる仕事の範囲外のこと。周りの同僚も先輩も誰一人その会議に出席しない。だから俺はその会議の準備を、自分に課せられた仕事を終わらせた上でそれとは別にやらなければならないわけで、正直、決して容易なことではなかった。
けれど何の準備もなしに出席すれば会議にはついていけず、それこそ時間の無駄。
とにかく必死でやるしかないのだ。それだけのものを、俺は背負っているのだから。
がしかし、走り続けるにはエネルギーがいる。当たり前に休息も。
この空いた時間を、俺はそれに充てることにした。
うちの会社はフレックスタイム制を採用しているので帰ることは簡単。
俺は上司や同僚にその旨を伝え、翌日の段取りだけ終わらせて会社を出た。
そしてその足で、俺にエネルギーと休息を同時に与えてくれる大切な大切な恋人――牧野つくしに会いに行った。

大学へ行き、拉致する勢いで牧野を連れ出した。
彼女の顔を見た瞬間、俺がどれだけの安堵と幸せを感じたか、それを言葉にするのは難しい。
俺を見つけて驚くその表情も、理由を知って広げたその笑みも、愛しくて愛しくてたまらなくて、大学の正門という多くの目がある場所であるにも関わらず、いや、そんな場所であるが故に、その場ですぐに引き寄せて抱きしめたい衝動を抑えるのが大変だった。
仕事に奔走する日々、会いたい気持ちは常にあった。
けれどここまで渇望していたなんて、そこまで強い自覚はなかった。
無自覚のうちにギリギリまで来ていたのかと思ったら、来て良かったという想いが込み上げた。

――だってもう、まるっと一週間は声すらまともに聞けてなかったもんな。

たった一週間と笑われるかもしれないが、毎日だって会って抱きしめたいのが本音の俺にはたかが一週間、されど一週間だ。
そして会って実感する。己の自覚以上に日々牧野に救われていることを。

会った牧野は、よく食べよく笑いよく話す、何一つ変わらないいつもの牧野だった。
そんな当たり前のことが俺を癒す。
そしてやっぱり変わらず、羞恥と緊張に身体を震わせ肌を朱に染めながら、俺を奥深くまで飲み込んだ。
満たされた夜を過ごして、満たされた朝を迎えた。
目が覚めて隣に眠る牧野の規則正しい寝息を感じて、自然と笑みが浮かんだ。
もし時間が許されるならばもう一度抱きたい。そんな衝動を抑えるのは、なかなか至難の業だった。
一晩中抱けばよかったと、そんなことを思ったなんて、とても牧野には言えないけれどそれが俺の本音だった。

早出の俺と一緒に出た牧野をアパートまで送る車中、彼女はいつもよりずっと静かだった。
そっと様子を窺うと、窓の外を見つめたまま何やら考えている様子。
一体どうしたのだろうか。
最初は少し心配だったりしたのだが、なんとなく、本当になんとなく、その表情や雰囲気からその頭の中が見えた気がした。
――もしかして、思い出してるのか? 初めての、あの日のこと。
言えば「エスパーなのか」と驚かれそうだが、生憎エスパーでもなんでもない。
ただの直感。
でもそう思ったのだ。
なぜなら俺も、同じことを思い出していたから。

きっかけは、車に乗ってすぐにかけた一言。

「牧野」
「ん?」
「身体、きつくないか?」
「え? あ……うん」

純粋な心配と、素直な返事。
牧野の返事に無理は微塵も感じなかったから、だから俺は「ああ、もうそれだけの回数を重ねたんだな」なんて思った。
俺はホッとして笑みを浮かべたし、牧野は照れくさそうに顔を赤くした。
それを見てたら思い出した。
最初は随分キツい思いさせたよな。――と。

 

牧野を初めて抱いたのは、入社式の前日。研修先のイギリスから帰国したその日だった。
あの時の感動は、未だにどう表現していいのかわからない。
「牧野を抱きたい」という気持ちは、つき合い始めた時からずっと持っていたもので、でもずっと抑えていたものだったから。

愛する女を抱きたい。
男なら誰もが持っている感情だと思う。
性的欲求のみのえげつない話をしてしまえば、恋愛感情抜きでも女を抱きたくなることがあるくらいだ。好きな女――それも惚れ込んでる相手なら尚のこと抱きたい。
けれど俺は、いつになく慎重だった。
それは相手が「牧野つくし」だったから。

牧野には、司と付き合っていた過去がある。
それも、子供の恋愛ごっこの延長にあるような「両想い」ではなくて、一線を越えても何の不思議もない深い付き合いをしていた。
なぜなら二人は婚約までしていたのだから。
けれど二人は、越えなかったのだ。いつ超えてもおかしくなかったその一線を。
昔――まだ恋人ではなかった牧野に訊いたことがある。どうしてそうならなかったのかと。
その時牧野は、照れくさそうに言っていた。
――「タイミングが合わなかったんだろうね。あたしとあいつの。」
それを聞いたとき思ったのだ。
牧野が奥手すぎてひたすら拒んでいたわけではなく、心の準備があったんだ。タイミングさえ合えば、そうなっても良かったんだ、と。ならば次に誰かと付き合った時には――それが俺であってもなくても、タイミングが合えば今度はすぐにでも踏み出せるのかも。……と。
けれどそれが机上の空論だったことに、彼女を想い見つめる中で気付いた。
高校生だったあの頃よりずっと大人になってはいたけれど、それでも彼女は純粋で奥手で、いつでも誰とでも踏み出せる状態になんてなっていなかった。
牧野はやっぱりどこまでも牧野だったのだ。
勝気で威勢が良くていつだって強気にどんなこともスッパリ決断して前へ進んでいくように見えるけれど、本当の牧野はそうであってそうではないから。すごく臆病だったり泣き虫だったり、迷って悩んでなかなか踏み出せなかったり。それでも懸命に前を向く。それが、牧野つくしだから。

抱き締めることも、キスすることも、そこから前へ進むことも、一つずつを大切にしていかなければ、と思った。――俺自身が、そうしたかった。
一方的な昂ぶりで前へ前へと進んでいかないように、牧野の気持ちを置き去りにしないように、キスも抱擁も、お互いが求め合って想いを分け合えるように、俺は牧野と寄り添った。
そしてその先で、もっと深く愛し合いたいと思い合えたら、そうなりたいと牧野が望んでくれたら、それが俺達のベストなタイミングだろう。
俺はそれを、待った。

けれどそれは、決して簡単なことではなかった。
抱きたいものは、抱きたいのだ。
好きだから、大切だから、愛しいから。
その想いは、寄り添えば寄り添うほどに強まり、いつしか苦しいほどに膨れていた。
そして、付き合い始めて三ヶ月。
研修先のイギリスからかけた電話で、俺は牧野に告げた。

――「決めた。帰ったら思い切り抱き締める。朝までずーっと。……もう、抑えが利きそうにない」
――「……」
――「イヤとは言わせないぞ?」
――「そ、そんなこと言わないもん」
――「そりゃありがたい」

それはひとつの賭けだった。
でも何の根拠もない一か八かの賭けではない。
今なら受け入れられる。今なら、俺も牧野も同じ気持ちで求め合える。――そんな気がしたのだ。
そしてその直感は間違っていなかったと思う。
その想いの大きさや重さには差があったかもしれない。俺は思い詰めていたと言ってもいい程に強く握りしめていたし、牧野はそれをぼんやりと受け止めた。
おそらく事実はそんなところだ。
でも、そんなことは問題ではない。
それをきっかけに、俺と牧野はその一線を越えることが出来た。
俺達のベストなタイミングは、そこにあったのだから。

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2012.10.01 茜色が沈んでも
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