「おはようございます。牧野です」
「おはようございます」
「朝早くからすみません。松本さん、あの――」
「もしかして、専務の居所……ですか?」
「あ、えーと……はい。その通りです」
「そろそろ連絡が来るのでは、と思っておりました。専務は会社の執務室で仮眠を取っておられますよ」
「……ああ、やっぱり」
一泊二日の小旅行を約束していた。ずっと忙しかった仕事がようやく一区切りつきそうだから、と。
明日の朝迎えに行くから用意しておいて。と言われたのが昨夜。どこへ行くとも何時に行くとも言わずに切れた電話に、まだまだ仕事が片付いていないことが窺えた。それでも彼が行くと言ってるのだから必ず行くのだろうと、それなりに準備を整えて朝を迎えたのだけれど、それきり「仕事が終わった」とも「これから会社を出る」とも、うんともすんとも連絡がない。普段の彼ならば、必ず連絡をくれるはずなのに。
メールをしてみたけれど返信はなし。電話を鳴らしてみたけれど応答もなし。いよいよ心配になってお邸に電話をしたら昨日は戻らなかったと言う。
こうなったら、あとはもう彼の秘書に訊いてみるほかはないと思った。――これがビンゴだった。
――そんなに大変なら無理することないのに。
思わず零れ落ちた溜息に、電話の向こうの空気が小さく揺れた。
「あの、もしかして笑ってます?」
「すみません。牧野様のお気持ちが手に取るようにわかってしまったもので」
「ああ、そうですよね。すみません」
「いえ。でもわかってさしあげてくださいね」
「はい?」
「専務は牧野様と過ごしたくて必死なだけなんです。約束したからとかそんなことではなくて、ただ専務ご自身が牧野様とお過ごしになりたいんです。一秒でも早く」
ここのところ立て続けに大きな案件があって心休まることなかったでしょうから。と続いた言葉に、何週間も見続けた彼の疲れた顔が浮かんで、胸の奥がきゅっと痛くなった。
彼がなにかとてつもなく大きなものを抱えて日々走り続けていることはなんとなく気付いていた。それでも三日と開けずに会いに来てくれた。余計なことは一切言わなかった。ただ会うとすぐにあたしをぎゅっと抱きしめて「あーほっとした」と、彼はそれだけを繰り返した。大丈夫かと訊いても大丈夫だと言うだけ。疲れてないかと問うてもまだまだ平気だと答えるだけ。それ以上は無駄な詮索な気がして、敢えてそれをしなかった。
どうしようもない時にはそう言ってくれるはず。あれこれ訊き出したところで結局力になんてなれないのだから。――もはやそう思うことであたしは無理やり自分を納得させたといってもいいのかもしれない。きっときっと大変なんだと、それだけを胸に。
そんな自分を悔いたりはしてない。それ以上何も出来なかったことに変わりはないと、今だってそう思うから。でも、彼の重圧や疲労度は想像していたよりも遥かに大きかったのだと思ったら、もっときちんと見つめて気付いてあげたかったとそれだけは悔しかった。
もっと彼の心の内を感じられるようになりたい。彼を支えらえる人間になりたい。そうならなければ。
胸の奥が熱く揺れて、ぎしぎしと音を立てた。
「それで、仕事は無事に?」
「はい。全て終わりました。ほんの一時間ほど前に」
「え、じゃあ美作さんは一時間前に眠り始めたばかりですか? もしかして、松本さんも徹夜ですか?」
「いえ、申し訳なくも私は先に仮眠を取らさせていただいたので……」
「そうですか。良かったです」
「いえとんでもありません。本来なら専務に先にお休みいただきたかったのですが」
「美作さんがそうしろと言ったんですね?」
「はい。自分は全ての仕事が片付いてから仮眠を取る。その時に起こしてもらいたいから……と」
「なるほど」
「あと三十分ほどしたら声をかけることになっています。ですので牧野様もあと少しだけ――」
「あ、なら――」
ブーン……ブーン……――
あれから二時間。握りしめていた携帯電話が着信を告げた時、あたしは長い廊下の上質な絨毯を歩いていた。ディスプレイには彼の名前。
「もしもし」
「もしもし、俺。――悪い」
「おはよう。今お目覚めですか?」
「……ごめん。その通り」
その声は、寝起きだからというだけでは説明できない程に低く沈んでくぐもっていた。
「朝から出かけようなんて言っておきながらそれきり連絡いれてないよな、俺」
「まあ、そうだね」
「ほんっと、ごめん」
「忙しかったんでしょ?」
「そうだけど」
「なら仕方ないじゃない」
「でもごめん。連絡入れたつもりでいたのにメールが送られてなかった」
「ああ、書くだけは書いたのに送る前に寝ちゃったってやつ?」
「……みたいだな。あーでもそんなの言い訳にならない」
本当にごめん、と再び彼は言う。暗く沈んだ声で、後悔の滲む声色で。
彼はいつだって誠実な人――そのわかりきった事実がじんわりと広がって、あたしの胸を温かくする。
「十分言い訳にはなると思うけど?」
「いや、ならないよ」
「誰だってそんなことあるもん。あたしにもあるわ」
「いやだけど、それだけじゃなくて、ホントはもっと早く起きて――」
まだまだ彼の懺悔が続きそうなそのタイミングで、あたしは目的の扉の前に辿り着いた。足を止めて、扉を叩く。
コンコン――
一呼吸の沈黙の後、耳元で「あ、ちょっと待って」と彼の声がした。そして扉の向こうで「はい」と、これまた声がする。あたしはゆっくり扉を開けて、そしてゆっくりと中を覗き込んだ。
「……え?」
耳元と目の前で同じ声がして、目の前ではまるで狐につままれたような表情の彼が、あたしをじっと見つめている。そしてそれきり時が止まる。やがて彼の口が「なんで……?」と動いたのを見届けて、あたしの口元はゆるりと弧を描いた。携帯電話をぷつりと切って彼の元へと歩み寄る。
「美作さんが寝過ごしたのは誰のせいでもないよ。強いて言うならあたしのせい」
「……どういうこと?」
未だ携帯電話を耳元にあてたままの彼がやけに愛しい。
「松本さんに聞いたの。美作さんがようやく仕事を終えて仮眠取ってるって。だから起こさないであげてほしいって言ったの、あたしが。まあ条件付けられたけど」
「条件?」
「何で起こさなかったんだって責められては困るので、直接起こしてあげてください――って」
「……」
「そんなわけで。おはよう、美作さん」
にっこり笑うと、彼は眩しそうに目を細め、そして盛大に溜息を吐いてようやく携帯電話を机に置いた。聡い彼は、ここまででその全てを把握したのだろう。がしがしと髪を混ぜて掻き上げて、そして再び謝罪を口にした。
「ごめん。ほんっとにごめん」
「もーう、そんなに謝らないでよ。別に怒ってもないし責めてもない。ちょっと心配はしたけど、こうして無事な姿も確認できたしもう十分なんだから」
「そうかもしれないけど、でも」
それでも彼の気分は浮上しないのか、やっぱりどこか切なげな色を湛えた瞳を向ける。
「いいじゃない、仕事終わったんでしょう?」
「そうだけど」
「小旅行だって今から予定組み直せばいいでしょう?」
「それもそうなんだけど」
「それともなあに? 当初の予定通りじゃない旅行になんて行きたくない?」
「そんなことは思ってないよ」
「疲れすぎて旅行に行く気力がなくなった?」
「そんなこともない」
「あたしは別に今日じゃなくたっていいんだよ。疲れてるなら家に帰って寝てもいいんだし」
「いや、これくらい大丈夫だよ」
「無理することないよ。疲れてるなら」
「本当に大丈夫だから」
「無理してる気がするけど?」
「してないよ」
珍しく意固地になっている気のする目の前の彼。眉間に皺を寄せるその険しい表情も美しいけれど、それはあたしの望むものじゃない。
「今日は休んでまた今度っていう手もあるよ? この先だってあたし達にはまだまだ時間はたっぷりあるんだから」
「だけど今日行く」
「もう、何でそんなにこだわるのよ?」
「この仕事が終わったらつくしと出かけようって決めてたから」
「いやそうかもしれないけどさ。あ、もう予約とかいろいろしててキャンセルできない? キャンセル料発生しちゃう?」
「そんなのはどうでもいい」
「……そか。……あ、もしかして、これはお別れ旅行? あたし、とうとう愛想尽かされちゃったかな?」
ぐふぐふと笑いが漏れそうなほどの冗談交じりの言葉。
彼に笑ってほしかった。何言ってんだよ、って呆れたように。力の抜けた笑顔で。
けれど目の前に広がったのは、望むそれとはまったく異なる痛々しいほどに歪んだ表情だった。
「何だよそれ。そんなことあるわけないだろ」
放たれた言葉が鋭く尖り、その瞳は悲しそうに揺れて視線が逸らされる。
「やだ、そんな顔しないでよ。冗談だよ」
「冗談でもやめろよ」
小さく零れた彼の声に、あたしの笑顔は引っ込んだ。
「……ごめん」
――あー。やっちゃった。
多分あたしは失敗した。彼を笑わせる手段を、言葉選びを、完全に間違えた。
「えーと美作さん。もしかして……相当落ち込んでる?」
「……落ち込んでる」
「連絡もせずに寝ちゃってたから?」
「こんなはずじゃなかったから」
「どのへんが?」
「すべてにおいて」
あたしは読み違えたのだ。彼の心を。彼は激しく落ち込んでいる。あたしが思っているよりもずーっと、ずーっと。たやすく冗談なんて言ってはいけないほどに。
――あーあ。あたしってばダメねえ。
小さく息を吐いて、そして彼の手を取った。そっと握ると、逸らされていた彼の視線が戻ってくる。その瞳を捉えてあたしは言う。
「あたしはこうしていられるだけで嬉しいよ?」
今度は間違えない。絶対に。
「二人でお昼寝するだけでも、散歩にいくだけでも、一緒に部屋でごろごろするだけでも。あたしは美作さんと一緒に居られたらそれだけで嬉しい」
「……」
「ごめんね、変なこと言って。もう言わない。だからそんな悲しい顔しないで。あたしは美作さんに会えて嬉しいんだから」
「……」
「美作さんは、嬉しくない? あたし、来ないほうがよかった?」
「嬉しいよ。すごく嬉しい」
「なら、落ち込むのはもうやめて、いつもみたいにぎゅって抱き締めてほしいな」
「……」
「抱き締めて、キスしてほしいな」
何を言ってるんだろうと思う。顔から火が噴き出そうだとも思う。だけど。
「ダメ?」
「……ダメじゃない」
だけど彼の笑顔が見たいから。だからあたしは頑張れる。
つないだ手がそっと引かれて、もう片方の腕が伸びてきて。そうしてあたしを包み込んだ。最初はそっと、存在を確かめるように。それからぎゅっと、ぎゅっとぎゅうっと、もう離さないと訴えるように。
「ありがとう」
耳元に囁かれた声は、柔らかな、あたしの大好きな彼の声色だった。
ねえ美作さん。
午後から行こうよ。美作さんの頭の中にある予定通りの小旅行。さっき空を見上げたらね、月が見えたの。昼間の月って綺麗よね。それを見ながらゆっくり出かけようよ。
二人なら、どこで何をするのもすごく楽しいよね。すっごくすっごく幸せだよね。