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雨宿り
お題:雨
1
突然、何の前触れもなしにパラパラと雨が落ちてきた。
あれ、と空を見上げたそばから雨は勢いを増し、あっという間にサーッと音を立てて降り出した。
天気予報は「梅雨の合間の貴重な晴れ、降水確率はゼロパーセント」と記憶していたのだけれど、そうではなかったのだろうか。
ここのところ毎日持ち歩いていた折畳傘を今日に限って会社に置いてきてしまっていた俺は、やれやれ、と溜息を吐いて走り出した。

 
この春に大学を卒業して美作商事に入社した俺は、本社の一社員として外回りに明け暮れる日々を送っていた。
会社はいずれ俺が継ぐことになるだろう。けれど、「まずは社会人として一人前になれ」という親父の方針の元、他の新人社員に交じって奔走する毎日が続いている。
それも、特別待遇は一切なし、だ。
プライベートオフィスや秘書を与えられているわけもなく、それどころか送迎車なし、営業車なし。マイカー通勤したくとも駐車場もなし――駐車場が割り振られるのは三年目からだそうだ――。主なる移動手段は電車と徒歩のみ。
本当に一人の新人社員。それ以下でも以上でもない。
それは今までの俺からは考えられない日々だ。
でもまあそれも経験だ、と俺なりに毎日を楽しんでいる。
そして親父に言われたもう一つの言葉、「誰よりも力強くのし上がってこい」を胸に、誰もが驚く速さで上り詰めてやろうと闘志を燃やしていたりもするのだ。

百メートル程走った先でようやく雨宿り出来そうな場所を見つけた。
小さなオフィスビルの出入り口。先客もいない。
ここしかないと俺は迷わず駆け込んで、ジャケットや鞄の雨粒を一通り払うと、雨空を見上げて大きく息を吐いた。

( まいった……結構しっかり降ってきたな )

午前中いっぱいかかると予想していた商談が、思いの外スムーズにまとまった。
久々に少しゆっくり昼食を食べて、それから会社に戻ろうか。今からなら三駅向こうのあのレストランにも行けそうだけれど、でも、最近行けていないカフェがこの通りにあったな。そこでゆったり過ごすのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた矢先の雨だった。
目的のカフェはもうすぐそこ。走れば五分とかからないところにある。
けれど、傘のないこの状態で走り出せば雨に濡れるのは必至。自分自身はともかく、鞄の中にどうしても濡らしたくない書類が入っている今、そんな無茶をする気には到底なれなかった。

( せめてもう少し小降りになってくれねえかなあ )

何分待てばそんな状態になるだろう。五分、十分……十五分? 
時間的には余裕だが、なんだかそれではどこか悔しい。
二十分経っても今と変わりなかったら、その時は覚悟を決めて飛び出そう。
そう決めてふうと大きく息を吐くと、濡れた髪をくしゃくしゃっと掻き混ぜた。

「……あれ? 美作さん?」

その声は、雨音の隙間からはっきりと飛び込んできた。
俯き気味だった顔を上げると、そこには傘の内から少々驚いた様子で俺を見つめる二つの大きな瞳。

「やっぱり美作さんだ」
「……牧野?」

表情を緩めて「久しぶりだね」と笑ったのは紛れもなく牧野で、あまりに予想外の遭遇に唖然とする俺のことなど気にする風もなく歩み寄ってきた。

「どうしたの? こんなところで……あ、ここのビルで仕事?」
「いや、単なる雨宿り」
「雨宿り? ……あ、突然降ってきたから、」
「そ、まさか降るとは思わなくてな。牧野こそどうしたんだよ」
「あたし? あたしは今日大学が午後からで、午前中もとくにバイト入れてなかったから、」
「バイトって……相変わらずだな、牧野」

くすりと笑うと、面白くなさそうに頬を膨らませた牧野に「なによ」と睨まれた。

「いけない?」
「いや、いけなかないけど、変わんねえなあと思って」
「そんな、ちょっと会わなかったくらいで変わるわけないでしょ?」
「そうは言っても最後に会ったのはゴールデンウィーク明けくらいだったから、二ヶ月は会ってなかっただろ?」

それまで口を尖らせていた牧野が俺の言葉に「え、そんなに?」と目を丸くした。頷くと「そっかあ」と思い耽るように宙を見つめ、けれど数秒後にはハッと我に返りまた口を尖らせた。

「でもたった二ヶ月じゃない!」
「でも俺達が知り合ってからこんなに会わなかったのは初めてだろう?」
「まあ、それは確かにね。……って、何、この会話」
「ん? 久しぶりに会えた牧野が何も変わってなくて嬉しいよ、って話」
「ぶっ、そんな話だったっけ?」
「違ったっけ?」
「違った気がするけど、」
「そうか?」
「そうよ」

「なんか可笑しい」と笑う牧野は本当に何も変わっていなくて、俺はそのことにどういうわけか安堵した。

「えっと何の話だっけ? あ、そうそう何でここにいるのかって話だよね」

ひとしきり笑った牧野は「美作さんが途中でヘンなこと言い出すから」と自ら話を戻す。

「買い物に来たの。まあ別にこれといって目当てのものがあったわけじゃないからブラブラ見て歩いてただけなんだけど」
「ああ、ウィンドウショッピングか」
「うん。それでこのままどこかでランチでもしようかなあって」

牧野が口にしたそれは誰もが極々普通にすることで、特に珍しい行動ではなかった。
ただ、それを牧野がするとなると話は違ってくる。

「牧野がウィンドウショッピングにランチねえ……」
「珍しいって思ってるんでしょう?」

「まあな」と答えれば「自分でもそう思う」と肩を竦めた。

「でもなんとなくそういう気分だったの。先週バイト代が入ったからかな」
「あーなるほど、リッチな気分てやつか」
「そ。ま、美作さんにしたら爪先程だと思うけど」

一見どこか卑屈とも思えるその言葉が実はまったくそうでないとわかるのは、つき合いの長さゆえか。
笑顔の牧野に俺も笑顔で頷いた。

「で、この通りにどこか買い物できるところなんてあったか? オフィスビルばっかだろ?」
「さっきまで大通りの向こう側にいたのよ。なんとなく探索してみたくなってこっちに来てみたの。そしたら突然雨が降ってきて、」

と牧野はそこで言葉を止め、まじまじと俺を見た。
顔だけでなく全身をじろじろ見る牧野に、「なんだよ」と顔を顰めると、牧野は「ああ、ごめん」と謝って、それからどこか楽しそうに笑みを浮かべた。

「いやあ、よくよく考えてみたら美作さんがこんなところでこうやって雨宿りしてる姿ってレアだなあと思ってさ」
「失礼だな、俺だって雨宿りくらいするさ」
「いやいや、別に悪い意味じゃないよ。美作さんもすっかり大人になったんだなあと思って」

「まあ美作さんは昔から大人だけどね」とフォローになるようなならないような言葉を紡ぐ牧野。
たった一歳ではあるけれど曲がりなりにも年上の俺に向かってなんたる言い草だろうと思う――厳密なことを言ってしまえば早生まれの俺は牧野と同い年なのだけれど、ここは一学年上であることを強く主張したい――。
けれど幸か不幸か言わんとすることはわかってしまう。
俺は小さく息を吐いて肩を竦めた。

「まったくな。雨に降られて足止めをくらうなんて、昔は電話一本で解決してたってのに」
「今だってその解決策は有効でしょう?」
「でも仕事中はしないって決めてるもんでね」
「……へえ。やっぱり大人になったよね。それ以前に、実に美作さんらしい」

やっぱり牧野は楽しそうに笑った。

( 俺らしいって、なんだ? )

思わないわけではないが、貶されているわけではないことだけはわかるから、それ以上言い募るのは止めた。
口を噤めば、雨の音が耳に響く。

「これっていつまで降るのかねえ。というか今日降るなんて言ってたか?」

牧野はクスリと笑って首をフルフルと横に振る。

「言ってなかったよね。でもこの時期ってホントわかんないのよ。だからどんなに降らないって言っても傘は必須よ」
「ふーん」
「美作さん外回り多いなら、天気予報に関係なく傘は鞄に入れておいたほうが、」

言いながらハッとしたような表情を浮かべた牧野は中途半端に止めた言葉もそのままに、突然スタスタと俺の隣に並ぶとパタンと傘を閉じた。
雨は弱まるどころか徐々に勢いを増していた。
屋根のあるところに牧野が入ってきても不思議なことなど何もないのだが、なんだかその動きが唐突過ぎる。
少々戸惑う俺はただじっと牧野を見つめる。
その視線の先で、牧野はバッグを開き小さなタオルを出すと俺に差し出した。

「使って」
「ん?」
「髪、濡れてるよ。それから、服も」

「ごめん、気付くのが遅くて」と少々バツの悪そうな表情を浮かべる牧野。
俺はようやくその唐突な行動に合点がいき、笑みを零した。

「いや大丈夫。これくらいすぐ乾くよ」
「そうかもしれないけど、拭いたほうがもっと早く乾くでしょ?」

「それに少し涼しくなってきたから、」と言葉を続けた牧野の瞳に心配の色が見て取れた。
牧野は本気で俺のことを気にかけてくれているようだった。
全然平気なのにと思いつつもその表情に負けた俺は「ありがとう」とタオルを受け取った。
そうして俺は初めて気付く。
雨に濡れたことで思いの外身体が冷えていたことを。
牧野から受け取ったタオルがやけにふうわり温かくて心地良かった。
ちょっと驚いて牧野を見ると、牧野は安堵の笑みを浮かべていた。


「で、美作さんこれからどこへ行くの?」
「ん?」

髪を拭いていた俺がその声に視線を移すと、牧野は雨を落とし続けている空を見上げていた。

「この感じだともうしばらく降り続く気がするよ。移動しちゃったほうがいいと思う。休日でブラブラしてるならともかく仕事中なんだし、時間だって限られてるでしょう?」
「そりゃあまあ。ただあんまり濡らしたくないんだよな、鞄」
「あーそうねえ。美作さんのことだから、すっごく高い鞄使ってるんだろうしねえ」
「……あ、いや、」

思いもかけない返答に俺は一瞬言葉を詰まらせるが、何の疑問も抱いていない牧野は「ん?」とただ不思議そうに俺を見るだけ。

「いやそうじゃなくて、中に書類が入ってんだよ。さっきようやく話をまとめた取り立てほやほやの契約書」
「……ああ、そういう意味か。ごめん、あたしはまた、鞄がめちゃくちゃ高くて濡らしたら大変なのかと思った」

自分の勘違いが可笑しかったのか牧野はくすくすと笑う。
あまりにも可笑しそうに笑うから俺まで小さな笑いが零れてしまう。
高い鞄使ってるんだろうと予測はしても、持ってる鞄が一つのわけがないとか、駄目になっても幾らだって買えるというところまで予測しないところがいかにも牧野らしい。
だから牧野はいい――ツボに入ったのかいつまでも笑っている牧野を見ながらそんな風に思う俺がいて、なんだか心が温かい。

( ――ん? 心が温かい? )

紛れもなく俺の感情ではあるけれど、そんな風に感じてる自分がなんとなく不思議で、もやりとした何かが胸を過った。

「まあ立派な鞄だし、そのまま飛び出して長時間濡らしたりしない限りは大丈夫だよ。てことで早速ここから脱出しよう。さて、どっち向かえばいい?」
「え?」

牧野はバサッと傘を広げて笑顔を向けてきた。
ふいに湧いた感情の収めどころがいまいち定まらないせいか完全に面食らう俺。

「右でも左でもいいけど、この傘で持ちこたえられるくらいの距離にしてね?」
「……えーと牧野、それは、俺の行きたいところまで傘に入れていってくれるってこと?」
「ん? そうよ。これも折畳だしそんなに大きくないけど、何もないよりは全然マシでしょ? 大事な鞄はしっかり抱えてて。スーツは多少濡れるかもしれないけどそれは許してね」
「いやそんなのはいいけど……距離云々ていうよりこの中を傘一本で歩いたら、どんなにくっついても濡れるぞ? いいのか牧野? あと時間も、」
「あたし? あたしはぜーんぜん。午後の講義にさえ間に合えば問題なしだよ。それにこんな服、濡れたって大したことないもん。美作さんのスーツより乾くのもずっと早いよ、きっと」
「……」
「……なに、どうしたの?」
「あ、いや、」
「あーっもしかして、あたしが傘がなくて困ってる友人残して一人でスタスタ行っちゃうような人間だと思ってた?」

「心外だなあ。そんなに冷たくありませーんっ」と小さく頬を膨らませる牧野がどうしようもなく愛しく思えたことを今この場で言ったら、牧野はどう思うだろうか。どんな反応するだろうか。照れて顔を真っ赤にして「からかうならもう知らない」と怒るだろうか。
そんな牧野も見てみたいと思う俺がいて、思えば思うほど頬が緩む。
でも本当に怒らせてしまうのは不本意だから、今はそんな思いに蓋をする。
俺は緩む頬を出来る限り引き締めて、そして言葉を放った。

「じゃあお言葉に甘えて少しだけ付き合ってもらおうかな」
「うんうん。さあ、どっち行く?」
「右。歩いて五分くらいのところにカフェがあるんだ」
「カフェ? ああ、たしかにあった! 今その前を通ってきたのよ。あれでしょ? 大きな木の……」
「そう、そこ。そこまでいいか?」
「うんうん、もちろんいいよ」
「で、そこに着いたら俺とランチな」
「うんうん……え! あたしも?」
「そう。美味しいランチご馳走するよ」
「え、あたしそんなランチご馳走になる気なんて――」
「この俺が、立ち往生を余儀なくされて困り果ててたところを助けてくれた友人を、ありがとうの一言だけで返すような男だと思うか?」
「いや、まあそう言われちゃうとそうじゃないとは思うんだけど、だけどそんな、」
「さあ行こう。あ、そうだ。俺の鞄抱えてて」
「え、ちょっ――」

驚いた表情で俺を見つめる牧野の手からショッピングバッグと傘を奪い取ると俺の鞄を押し付けて、極上の笑みを浮かべた。

「俺のほうが背が高いんだから、この方がいいだろう?」




 
「美作さんて不思議」
「ん?」
「ものすごく強引ってわけじゃないのに、断る隙がどこにもないのよね」

カフェに着いて席に座ると同時に牧野が言った。

「それ褒め言葉?」
「お好きなように」
「……じゃあ、お褒めにあずかり光栄です」

ほんの少し畏まって小さく頭をさげた俺に牧野は笑い、「それにしても」とぐるりと店内を見渡した。

「とっても素敵だけど、ここって普通のカフェよね」
「うん。意外か? 俺がこういうところに来るのが」
「うーん、ちょっとね。こういうところは入らないのかなと思ってたから」

「高級レストラン的イメージのほうが強いのよね」と牧野は言う。

「そういうほうが良かった?」
「ううん。あたしはこっちのほうが断然いい」
「だと思った」

それでも尚、牧野は何やら思案顔で店内を見渡していて、そうして再び口を開く。

「もしかして、こういうお店のほうが好きな女性ともお付き合いしてるの?」
「は?」
「いやだから、美作さんがおつきあいしてる人の中に、高級レストランよりもこういうところのほうが似合う人がいるのかなーって」
「……」

よもやそんなことを考えているとは思いもしなかった俺はしばし呆然。
そして苦笑いが漏れた。

「俺ってそんなに遊び人のイメージ?」
「え? あーまあ、それなりには。西門さんに比べたらぜーんぜんだけどね」
「ふうん。まあ否定はしないけどさ、」

牧野は過去の俺を知っている。
清く正しいイメージを抱けと言ったところで無理だろうし、そんなイメージは俺も望んではいない。
だが、しかし。

「でももうあの頃のように遊んでたりはしてないんだけどなあ」
「そうなの?」
「ここに女を連れてきたのだって、牧野が初めてなんだけど?」
「うっそー。それはないでしょ」
「あのなぁ――」
「本当ですよ」

ふいに話に割り込む声がした。
俺と牧野がその声に顔を向けると、そこにはこのカフェのマスターがいた。

「突然話に加わってしまってすみません。なにやらあきらくんがピンチみたいだったので」
「あ、えっと」
「マスター、紹介するよ。学生時代の後輩の――」
「牧野つくしです。はじめまして」
「はじまして、木下です。彼、嘘は言っていませんから信じてあげてくださいね」

にこやかに言ったマスターは、テーブルに水の入ったコップを置く。メニューも一緒に。

「な? 嘘じゃないだろ? それどころかここに誰かを連れてきたのだって初めてなんだから」
「……え、そうなの?」
「それも本当ですよ。あきらくんが初めて来てくれたのが三年前だったかな。それ以来月に一度か二度は来てくれてるのに、なぜかいつも一人でね」
「へええ」
「きっと郁美が大喜びするだろうなあ」

「うちの奥さん。今ちょっと買い物に出ているんですけどね」とマスターは笑みを浮かべる。
このカフェが、マスターとその奥さんの郁美さんと二人でやっていることを牧野に説明すると、納得したように頷いて、そして「あ、ひょっとして」と楽しげな表情でマスターを見た。

「お二人で美作さんがいつどんな女性を連れてくるだろうって楽しみにしてたとか……?」
「大当たり」
「やっぱりー!」
「……なにそれ、そうなの?」

初耳だった俺が問うと、マスターは満面の笑みで頷いた。

「郁美がいつも言ってただろう? 誰か連れていらっしゃいよ、って」
「そりゃ言われてたけど……でもそんなに興味あるもんかなあ?」
「そりゃあるよ。美作さん、誰がどう見たってイケメンだもん。それも相当レベルが高いほうのね。そういう人がどんな女性を連れて歩くかってなかなか興味深いものよ」

牧野は至極当然だと言わんばかりに鼻息荒く言い切る。
そんな牧野にマスターは微笑んで、「そんなわけで、牧野さん」と話しかけた。

「あなたはあきらくんの初めてのお連れ様です。ようこそいらっしゃいました」
「あーえーと……はい。あっ、でもあたしはただの友人ですから。誤解しないでくださいね」
「おや、そうなんですか?」
「そうです。今日はたまたまこの近くで美作さんと遭遇しただけなんです。美作さんが普段連れて歩いてる女性は美人な大人の女性ばかりですから。あ、もちろんこんな素敵なカフェに連れてきてもらえてとっても嬉しいんですけどね」

慌てたように照れたようにただの友人であることをことさら主張する牧野。
その態度は実に牧野らしいのだけれど、そんなに誤解されたくないのだろうか、誤解されては困るのだろうか、なんてことを思ってしまう俺がいて、そんな自分に気付いて小さく息を吐いた。

「牧野、何頼む?」
「あ、そうだった。えーと何にしようかなあ。」

( 誤解されたら困るに決まってるよな。牧野には司がいるんだから。 )

唐突にメニューを渡した俺を不審がることもなくあれこれ選び出す牧野を見ながら、分かりきった事実を再度胸に刻む俺がいて、そんな自分にやっぱり溜息が零れた。



「はー、しあわせ。どれもすっごく美味しかった。お腹がいっぱい」
「それはよかった」
「しかもこの紅茶もすっごく美味しい」

「さすが美作さんよね。いいお店知ってるわ」と感心したように言いながら、紅茶を一口飲んだ牧野は、再び「はー、しあわせ」と溜息交じりに言って、そして窓の外に視線を移した。

頼んだ料理が運ばれてくるまで、ポツリポツリと会話を交わす以外、牧野はそのほとんどの時間、窓から外を眺めていた。
沈黙に対する気まずさも気づまりもなく、それは俺だけでなく彼女からも感じなくて、ただ時間だけが静かに流れた。
牧野は窓の外に視線を固定したまま何かをじっと考えている風で、それを隠そうともしない。
司のことかな、と思うのにそれを口にしたくない気持ちが俺の中にあって――その理由だけがはっきりしなかったけれど、それを深く考えることはしなかった。
ただ一緒に来て良かったと思った。
目に映る横顔が、俺が知るどの牧野よりも大人びていて、そんな彼女を知れたことがぼんやりと嬉しかったから。
しばらく続いたその静寂を破ったのは、店内に響いたカランという入口のドアの開く音だった。
入ってきたのは、マスターの奥さん、郁美さん。
俺を見た途端――いや、正確には、俺を見つけて、その向かいに牧野が座っていることに気付いた途端、満面の笑みが広がった。
そして空気が動き出した。
笑顔で近づいてきた彼女は牧野に挨拶をして、それから俺に「あきらくんありがとう。なんだかとっても嬉しいわ」と目を細めた。
「あきらくんがどんな女性を連れてくるのか楽しみで仕方なかったの」と声を弾ませる郁美さんに、「第一号があたしなんかですみません」と申し訳なさそうに笑う牧野。
デジャブのようでデジャブじゃないその盛り上がりに、他に数組いる客に迷惑なんじゃないかと思いながらも、俺は溜息を吐くだけでただの傍観者を決め込んだ。
何分もしないうちにマスターが料理を運んできて、その盛り上がりは終息した。
「ごゆっくり」と郁美さんの残した笑みにはたくさんの意味が込められていそうだったけれど、あえて触れずに食べ始めた。
食事を始めると、牧野は先程までとはまるで別人のようにキラキラと瞳を輝かせて「美味しい」を連呼した。
牧野との食事は楽しい。学生だったあの頃からずっと。
牧野はいつだってちょっと羨ましくなるくらい美味そうに食事をする。人の食べかけが欲しくなるなんて皆無なこの俺が「ちょっと食べさせて」と手を伸ばしたくなるくらいに。
だから牧野との食事は楽しくて美味しい。
変わらないその事実に胸が温かくなった。
粗方食べ尽くしたところで紅茶が運ばれてきて、一口飲んだ牧野は「あー、美味しい」と目を細めた。

――そして今に至る。
窓の外をじっと見つめる牧野に再び食事前の静寂が広がりそうな気配を感じながら、それもまたいい、と俺は一口紅茶を飲んで、同じように窓の外を見つめた。
雨はまだしとしとと降り続いていた。
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