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星屑色の降る夜
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1
 誰かを愛しく想うことは、夜空に散らばる無数の星を一つずつ追う行為に似ている気がする。
 ひとつずつは頼りなげな小さな光。でもそのすべての存在を認めたら、それは圧倒的な力を持って降り注いでくる。
 満点の星空を見上げた時、その美しく神秘的な光景に圧倒されて、呼吸をも忘れる瞬間があるように。
 あまりにも大きな感動に、時に心が「恐怖」を感じてしまうことすら、あるように。




 ブーン、ブーン、と机の上の携帯電話がメールの着信を知らせた。読んでいた雑誌から視線を上げて見た掛け時計は、今が夜の十一時過ぎであることを示している。
 ――この時間にメールをしてくるヤツといえば……。
 総二郎か類か、はたまた海の向こうの司か。
 雑誌をローテーブルに置いてソファから立ちあがった俺は、幼馴染み達の顔を思い浮かべながら携帯電話を手に取った。呼び出される覚悟もぼんやりしながら。

「……ん?」

 けれどそこに表示されている名前は、予想外の人物――牧野だった。
 ――牧野からこんな時間にメールって、なんか珍しいな。というか、初めてに近いんじゃないか?
 何時だってどんな些細なことだってかまわない。と何度言っても、なかなか連絡してこない女――牧野つくし。
 そもそも牧野からのメール自体が未だ「日常的」とは言い難い。こっちからの連絡に対してそれを無視するということは滅多にないが――総二郎は頻繁に無視されると言っていたが、それはやつの送る内容に問題があるんだろうと容易に想像できる――自分からしてくるということがほとんどない。しかも時間が「夜」ともなれば、それは皆無といってもよかった。「だって、もう眠ってるかもしれないし、起きてても間が悪い時とか……ほら、いろいろあるでしょ? 特にそこの二人は」と総二郎と俺を一瞥して、ふんと鼻で笑ったのはいつだったか。「まあ、それは一理あるな。牧野にしちゃ気が利く発言じゃねえか」なんて総二郎が言ったもんだから、「やっぱり。さいってーね! 不潔! 変態! 女たらしっ!」とありったけの言葉で罵倒されて、「待て待て、総二郎と一緒にすんなよっ」と割って入った俺の声なんて、多分届きすらしなかった。
 だから、こんなふうにメールがくるのは、本当に本当に珍しいこと。
 ――なんかあったか?
 俺は妙な胸騒ぎさえ覚えて、その名前の表示だけを数秒見つめて思い巡らす。けれど、考えてもわかるわけがないとすぐに気付き――それならメールが来た時点で思い出しているはずだから――早々に諦めてメールを開いた。

――――
 今、何してますか?
――――

「……」

 何かがひっかかった。普段の雰囲気とはちょっと違う、やけに他人行儀な文面。そして、書き記された内容が、たったそれだけであることも。
 牧野のメールはいつだってシンプルだ。けれど、さすがにこれはシンプルすぎる。確実にひっかかりを覚えた。でも、ひとまず返信する。問われたことだけに。

――――
 雑誌を読んでました。
――――

 届いたメールに倣う形で、飾り気なんてまるでない返信をして、このメールの意味するところはなんだろうと考えている間に、再びメールが届いた。

――――
 今、家?
――――

 さらに短い、今度は単語。敬語、なし。さらに大きくひっかかりながらも、再び返信をする。

――――
 家だけど?
――――

 すかさず三通目のメールが届く。

――――
 一人?
――――

 いったいこれは何なのだろう。こうなると、ひっかかりすぎて何がなんだかわからない。

――――
 もちろん一人だよ。
――――

 そして四通目のメール。

――――
 そう。
――――

 ――……降参です。
 完全に白旗を上げた状態の俺は、通話ボタンを押した。
 このペースでは、何十通と交わさなければ核心に辿り着けないだろう。別にいい。どうせ暇なんだから。でも俺は早く知りたかった。四通のメールが意味する何かを。
 ぼんやりとではあるけれど、このやり取りが無意味な暇つぶしではないと感じていた。きっと、感じ取らなければならない何かがあるのだと。でもそれがどうしてもわからなかった。このままでは、小さな引っ掛かりが大きな蟠りへと変化するのは時間の問題だ。だから早く――そんな気持ちが俺を突き動かしていた。
 電話は、コール七つで繋がった。

「……もしもし」

 決して大きいとは言えない牧野の声が耳元に響く。

「もしもし?」
「あ、こんばんは」

 呑気に律儀に挨拶をするから、俺は思わず溜息を吐いた。呆れたわけではない。少しだけホッとしたのだ。何か大きな問題でも起きたんじゃないかと、心のどこかで心配する俺がいたから。

「こんばんは、じゃなくて。いったい何がどうしたって言うんだよ」
「え、何が」
「何がじゃない。さっきのメールに決まってんだろ?」
「あ、いや、別に。何がどうしたわけでも」
「どうもしなくてこんな時間にこんなメールしてこないだろ、おまえは」

 俺の言葉に、電話の向こうの牧野が「まあ……」と言葉を濁した。やっぱり何かはあるらしい、とわかる返事。
 ――まったくもってわかりやすいヤツ。
  思ったら笑みが浮かんだ。けれどそれを声では感じ取らせない。あくまで淡々と、それまでと同じ調子で言葉を紡ぐ。

「ものすごく暇なのに誰も相手にしてくれなくて時間を持て余してるか、何かあって心がざわついてどうしようもない自分を持て余してるか、どっちかとしか思えないんだけど?」
「……」
「それ以外の何かだったら、ぜひ教えてもらいたいなあ」

 ――さて、どう出てくることやら。
 ちょっと不安に思っていたさっきまでの反動だろうか。牧野が俺に察してほしいのだろう「何か」をもうすぐ知れることに、心の表面が浮ついた。だが、次に聞こえた牧野の声は、そんな浮ついた俺の心を見事に打ち落とした。

「……後者」
「……え?」
「……」

 まさかの答えだった。思わず言葉を失い、沈黙が流れる。けれど聞こえた声ははっきりと耳に残っている。牧野は間違いなく言った。――「後者」だと。
 ――後者って……。
 胸の奥がざわりとした。先程までの引っ掛かりや蟠りなどとは比べ物にならない、はっきりとしたざわつき。少し前に感じていたよりも、もっと大きな不安。途端に、俺の感情が慌て出す。

「何かあったのか?」
「……」
「牧野?」
「……」

 答えは返ってこない。代わりに、車の走り抜ける音が聞こえた。
 ――ん? 家から掛けてきてるんじゃないのか?

「おまえ、今どこ?」
「……」
「外にいるだろ。どこだよ」
「……家の前」
「家? 牧野の住んでるアパート?」
「……美作さんの」
「……は?」

 俺は部屋を飛び出した。繋がったままの携帯電話を握りしめて。

 廊下を走りながら、牧野と最後に会話を交わしたのはいつだったろうと思い返す。
 姿だけなら今日も見かけた。大学のキャンパスを数人の友人と歩いていた。楽しそうに笑いながら。牧野を囲む顔のほとんどに見覚えがあった。牧野が大学にあがってから知り合った、牧野にとっては何にも代えがたい「普通」の友人。金持ちでもなければ牧野に敵対心を抱いたりもしていない。大学から英徳に入ったフラットな心を持つ同級生達だった。
 こういう友達が欲しかったのよ。と嬉しそうに顔をほころばせていたのは、もう二年以上前――牧野が大学一年の頃だったか。まあたしかに、俺達が牧野の中で「普通」と位置付けられないのは致し方無い気がする。「普通」の基準が違い過ぎるから。そして、英徳で未だ名高いF4は、進学組にはもちろん、フラットであるはずの大学入学組にとっても、別次元の「特殊中の特殊な存在」らしい。俺達当人の意思云々とは無関係に。
 そんな俺達が牧野の大切にしている「普通」の友人との輪に踏み込めば、たった一歩で途端に空気が異なってしまうことは解り切っている。だから、牧野がその友人達と過ごしている時は、極力邪魔しないことにしていた。おそらくそれが牧野の望みだろうと、勝手な解釈をして。
 だから今日も、楽しそうなその顔を見ただけで、近づいたり話しかけたりしなかった。本当に、ただ一方的に見かけただけ。でもなんとなく、今日は牧野も俺を見たような、そんな気がした。
 いつもは違うのかと問われれば、「いつも違う」と言い切ることは出来ないけれど、後で「さっき楽しそうにしてたじゃん」と言うと「え、どこかですれ違った? 全然気づかなかったよ」なんて言葉が返ってくることは少なくない。でも今日は、本当になんとなくだが、牧野の視線を感じた気がした。とは言っても、そんな気配を感じて振り返った時には、すでに視界から牧野の姿は消えていたので、確かめてはいないのだが。
 それが今日の午後のこと。
 ――でも、直接話したのは今日でも昨日でも……一昨日でもないよな。
 記憶を辿れば、講義で隣に座った月曜日が最後だという事実が浮かんだ。
 ――……え、嘘だろ。今日金曜だったよな。ってことは、今週は月曜以来ずっと話してなかったのか?
 自分で導き出したその現実に、俺は軽いショックを受けた。
 たしかにここ数日、親父の会社に呼ばれて行ったり総二郎の野暮用に付き合ったりで忙しくしていたこともあり、講義は休みがちで――サボリがち、とも言える――、大学自体にもあんまり行っていなかった。だから牧野と顔を合わせていないのも当然。けれど改めて考えてみれば、ここ数ヶ月でこんなに話さなかったのはこれが初めてだった。

 夏の終わりに司と別れた牧野は、一時期ものすごく塞ぎ込んでいた。いつだってなんだって美味そうに食べる牧野が、どんな料理を前にしても数口しか口に運ばず「あんまり食欲が湧かないの」と痩せていったり、いつも大口開けて心底楽しそうに笑っていたのに、周囲を安心させるための笑顔しか浮かべなくなっていたり、いろいろ心配なことが多かった。なんとか元気を取り戻して司と別れる以前の牧野に戻ってほしいと、仲間の誰もが心配して、それぞれが出来る範囲で彼女のそばにいた。
 俺もその一人だ。牧野が司と別れた翌朝に一緒にいたこともあり、誰よりも牧野の様子が気がかりだった。俺自身にある程度の自由が利いたこと、それから彼女が俺の家に来ること――おふくろや妹達と交わることやうちに泊まることを拒まず、ある程度受け入れて楽しんでくれたこともあって、自然と俺と牧野が一緒にいる時間は多くなった。
 計算も何もない――もちろん、あまり一人にしない、という思惑は俺の中にはあったが――、それは自然な流れで……改めて考えてみたら三日と開けずに一緒に過ごしてきていたのだ。それが今週は月曜に話したっきり――言うならば、突然過ぎる離脱だ。
 ――あー、なんかしくじった。メールの真意云々の前にそのことを気にかけるべきだった。「久しぶり」とか「元気だったか?」とか、なんかあっただろうが。
 俺自身が忙しかったこともある。でもそれだけじゃなくて、牧野が元気になってきていたからいろいろ油断していた。なんだかやけに自分が薄情者に思えて、嫌気がさす。自分自身にチッと小さく舌打ちして、階段を一気に駆け降りた。

 玄関扉を勢いよく開けた途端、容赦なく冷気が襲ってきた。

「さむっ」

 思わず独り言が口をついて出る。
 ――そうだ、もう十二月になってたんだっけ。
 寒さに身を竦めながら、改めてそんな初歩的かつ根本的なことを思い出し、、ますます牧野のことが心配になった。
 ――そういやあいつ、いつから外にいるんだ?
 なんで電話の時点で気付かないんだろうと、自分のバカさ加減にホトホト呆れる。でも今の今までそのことに考えが及ばなかったのは事実で、それどころか、俺自身外に出るまで忘れてたとか、本当にどうかしてるとしか思えない。
 ――俺、どうしちゃったわけ?
 なんだかやけに動揺しきっている己が不思議でならないけれど、今は悠長に考えている暇などない。急ごう、と改めて思った。

 玄関から続くペーブメントを一気に駆け抜けて門の外へ出る。右へ左へと視線を流し、そしてあまり光の届かないそこに、立ち尽くすひとつの影を見つけた。多分こっちを見てるだろうその陰に、俺は小さく声をかけた。

「牧野……?」
「……あ、えっと……こんばんは」

 さっきも聞いた律儀な挨拶が闇に溶け込む。聞こえた声は小さかったが、それはたしかに牧野だった。胸に小さな安堵感が広がる。

「悪い、遅くなった」

 遅くなんかない。多分最短だ。わかっているのに、不思議なくらいするりと言葉が零れ落ちた。俺は上がった息を整えるように大きく息を吐く。

「何やってんだよ。ここにいるなんて思いもしなかった」
「……ごめんね、突然」
「いや、別にいいんだけどさ。でも、ここにいるなら最初からそう言えばいいのに」

 言いながら近づく俺。

「っていうかむしろ、メールや電話じゃなくて直接そこのインターフォン――」

 そしてあと二歩ですぐ目の前、というところで気がついた。
 牧野は、泣き腫らした顔をしていた。
 思わず足が止まり、続く言葉が胸の奥へと滑り落ちた。代わりに不安が這い上がる。

「……どうしたんだよ」
「……」
「……牧野?」

 見つめる先で、牧野の顔に笑顔が浮かんだ。痛々しげに。

「牧野、何かあっ――」
「なんかもう、自分でもよくわかんない」
「え?」
「なにもかもが、嫌になっちゃった」
「……牧野?」
「……なんか……もう、疲れた」

 僅かに震える掠れ気味の小さな声が響いて、そこで途切れると、その続きを語るかのように、その瞳から涙が零れ落ちた。

「まき――」
「みまさかさん……助けてほしい」
「……」
「たすけて」

 それが耳に届いた途端、考えるよりも先に身体が動いた。唇を震わせる牧野に大きく一歩近づいてその腕を掴むと、ぐっと引いてそのまま胸に抱き寄せた。その瞬間、ハッと息を飲むような声にならない小さな悲鳴が聞こえた。けれど牧野は、俺の胸を押し返すことも、身を捩って抵抗することもなく、そのまま俺の腕の中におさまった。そんな牧野を、俺はぎゅっと抱きしめる。ひんやりとしたその存在を、決して逃がさないように。
 何があったかはわからない。けれど「たすけて」と俺を求めた彼女を抱きしめる以外、俺は取るべき行動が思いつかなかった。

「助けるさ。牧野が望むならいくらでも」
「……」
「だから、一人で抱えなくていい」
「……」
「だから……」

 そこに続く言葉はなんだろう。俺は、何を言おうとしているんだろう。
 自分でもよくわからない。
 ただ、胸の奥に今まで感じたことのない大きな大きな感情が広がっていた。ただ、俺の腕の中で肩を震わせる牧野が、心から愛おしかった。




 どれくらいそうしていただろう。腕の中で牧野がふるりと身を震わせて、それと同時に俺も寒さに身体が震えた。
 季節は冬。しかも闇の広がる夜。コートも羽織らず飛び出してきた俺は寒くて当然だったが、コートを着てる牧野だって、俺よりもはるかに長く外にいるのだから、身体は冷え切っているだろう。
 ――いつまでもこんなとこにいたらまずいな。
 俺は牧野を抱きしめる腕を緩め、声をかけた。

「少しは落ち着いたか?」
「……うん。ごめんね、もう大丈夫」
「謝ることなんてないさ。とりあえず中に入ろう。ここはさすがに寒すぎる。中でお茶でも飲もうぜ」
「ありがとう。……でも、今日は帰るよ」
「なんで?」
「もう時間も遅いし……あたしも、泣いたらなんだかすっきりしたから。もう、大丈夫」

 そこで牧野が顔を上げた。泣き腫らした痛々しい顔。でも、彼女の言うとおり、少しすっきりしたその表情と柔らかくなった空気感に、心の奥で安堵した。

「すっきりしたなら良かった。でもそれがお茶も飲めない理由にはならないだろ?」
「そうだけど」
「身体だけ温めていけよ。それとも、このあと何か用事でもあるのか?」
「そんなの、何もないよ」
「だったら」
「でも、こんな時間にお邪魔するのはやっぱり迷惑だから」

 牧野は案の定なことを口にする。俺は小さく笑って片眉を上げた。

「常識的心遣いは感心するけど、うちには不必要だって、おまえ知ってるだろ?」

ここ最近じゃ誰よりも頻繁に来てたんだから。と続けた俺の言葉に、牧野は再び「そうだけど」と小さく呟いて視線を外した。

「おふくろも双子もとっくに寝てる。起きてるのは俺と使用人が数人だけだ。他に客もいないし、空いてる部屋も腐るほどあるし、防音も完璧」
「それは知ってるけど」
「今までだってさんざん深夜にバカ騒ぎしてきただろ? あのやかましい連中と」
「それもそうなんだけど……」

 それでも躊躇う態度を見せる牧野。こういうやりとりは、どうにもまどろっこしい。でもいかにも牧野らしい。俺はひとつ息を吐いて、それから言った。

「家に帰りたければ後で送るから。だからとりあえず入っていけよ。このままじゃ風邪ひくから。ていうか、頼む。入ってお茶だけ飲んでいってくれ。俺が寒くて耐えきれん」

 その言葉にハッとしたように俺を見て――おそらくそこで俺がコートを着ていないことに気付いたと思う――、そしてようやく頷いた。俺は笑顔で頷き返し、「よし決まり」と牧野の肩をそっと押して歩を促した。躊躇いがちに、でも確実に牧野の足が動き出したのを感じて、俺もゆっくりと歩き出した。邸の中へと。
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2013.05 星屑色の降る夜
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