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リンドウ色ワルツ
COLORFUL LOVE
1

 視界いっぱいに広がる秋の色彩に、つくしはひたすら圧倒されていた。
 モミジにカエデにイチョウに、あれはクヌギだろうか。いや、そもそもつくしには、モミジとカエデの区別もつかないし、クヌギに至っては雑誌の受け売りでしかない。
 けれど、つくしにだってわかる。
 折り重なるようにどこまでも続く濃淡さまざまな赤や黄色、時折覗く緑がアクセントとなり、季節の移ろいを否が応でも感じるこの空間は、文句なしに圧巻の絶景だ。

「うわぁ……きれい……」「うわぁ……すごい……」

 ここに降り立った直後から。歩く度、立ち止まる度、見上げる度、つくしの口からは繰り返し同じ言葉が零れ落ちていた。
 それ以外の言葉がこの世に存在することを、忘れてしまっているかの如く。



 
 いつも通りバイトを終えたつくしの元に、あきらから連絡が来た。
 遅くなるけど会いに行く――恋人同士の、何気ない日常のありふれた約束。
 けれど、つくしは大いに心が弾んだ。
 なぜなら、あきらに会うのは、十日ぶりだったから。

 入社から半年以上が経ったあきらは、任せられる仕事量が増え、ついでに国内外の出張も増え、多忙――というより超多忙な日々を送っているようで、夏の暑さが引けた頃から、二人で過ごす時間はじわじわと、けれどわかりやすく減っていた。
 これが平凡な彼氏なら、忙しさにかまけて彼女をほったらかしにした挙句、繰り返される喧嘩さえも面倒で、やがて別れを選ぶことも十分あり得そうなのだが、そこは非凡な――そしてマメな、美作あきら。どんなに超多忙でも愛しの彼女への連絡は忘れない。
 おかげでつくしは、この手の関係にありがちな寂しさや苛立ちをさほど抱え込むこともなく、「社会人と大学生のお付き合いなんてきっとこんなもの」くらいの認識で、ならば自分もと、ここぞとばかりにバイトを詰め込み、日々せっせと働いていた。
 でも、この日々に心から満足しているのかと問われれば、それは多分、違う。
 もっと会いたいし一緒にだっていたい、そうなればもっといい。本音を言えばもちろんそうだ。
 けれどそれは、欲張りというもの。あきらは忙しい中でも、つくしのために精一杯のやりくりをしてくれていることを、つくしなりに感じていた。だから多くは望まない。それが果たして正解なのか――けれど誰かと寄り添うということは、きっとそういうことなのだろうと、自分を納得させている。それだけのこと。

 そんな中での、あきらからの連絡だ。それも「会いに行く」と。
 こんなに嬉しいことはない。
 いつもと変わらぬ歩き慣れた帰り道が、なんだかいつもより輝いて見える。
 あきらと会える、それだけのことでこんなにも高揚する単純な自分が可笑しかった。

 あきらが姿を現したのは、それから数時間後。あと数十分で日付が変わる頃だった。
 朝からこんな時間まで働けば、疲れ切ってボロボロで当然なのに、「ごめん、遅くなった」と玄関に現れたあきらは、ボロボロとは程遠く、スーツをすっきり隙なく着こなし、いつもと何ら変わることのない端正な顔に柔和な笑みを浮かべていた。
 もうとっくに見慣れているはずなのに、毎度のことながらドキリとするのはなぜなのか。

 ――ボロボロじゃなくて惚れ惚れなのよね。

 今回もまたそんなあきらにドキリとして、けれど心の内はおくびにも出さず――そんなつくしをあきらはとっくにお見通しなのは露ほども知らず――「お疲れ様」と出迎えた。
 食事は済ませたと言うので、ならばお茶でもとキッチンに立ったつくしと、上着を脱ぎネクタイを緩めたウエストコート姿でソファに座ったあきら。

「明日バイト?」
「ううん、お休み。美作さんは?」
「俺も休み。危うく休日出勤になるところだったけど」
「免れたんだ。良かったねー」

 他愛もない会話を交わしながら、淹れ終えた紅茶を手に振り返ると、ぼんやり寛いでいるかと思っていたあきらは、なにやら熱心に手にした冊子を捲っていた。
 よくよく見れば、それはあきらを待つ間、つくしが何気なく開いていた雑誌。
 そういえばテーブルに開きっぱなしだったと思いながら、何か彼の興味を惹くようなことでも載っていただろうかと考え始めた矢先、あきらが顔を上げた。

「紅葉、見に行く?」
「へ?」
「紅葉特集、見てたんだろ?」

 たしかに開いていた。紅葉特集とデカデカ書かれたそのページを。
 深い意味はなかった。

「行く?」
「いつ?」
「明日」

 深い意味はなかった。けれど、きっと綺麗だろうなと思っていた。

「行けるの?」
「牧野はバイトが休み。俺は会社が休み。これ以上の好条件、ある?」

 きっと綺麗だろうなと思っていた。
 二人で観たら、きっともっと綺麗だろうなと思っていた。

「行く?」
「――うん!行く!」

 つくしの全力の返事に、あきらが嬉しそうに笑った。

 どこへ行こうかと並んで雑誌を捲ったが、あきらが「いい場所を知ってる」と言い出して、そこへ行くことにした。
 興奮してなかなか寝付けないつくしだったけれど、「早起きするんだから早く寝なさい」とあきらに諭され、何とか眠った。

 目覚めと共に開けたカーテンの向こうには、天晴れと叫びたくなるような秋晴れが広がっていた。
 あきらの着替えのために美作邸に立ち寄ると、「朝食にどうぞ」とお弁当を渡された。
 走り出した車の中でさっそく広げるつくしを見て、あきらはゲラゲラ笑った。

「うちのシェフは牧野の心を掴みにきてるなー。いや、この場合は胃袋か?」
「すごく美味しそうな匂いしてるよ。……わあっ、おにぎり! 美作さんのところのシェフのおにぎり、初めてかも!」

「いただきまーす」と食べ始めるつくしに、「ほら、思うツボ」とあきらはまた笑った。

 仲良くお弁当を平らげ、他愛もない話に盛り上がっていた車中は、時間の経過と共に徐々に静寂を増やしていった。
 窓の外に広がる風景に目が奪われ始めたつくしの口数が減ったのだ。
 やがて目的地に到着して、あきらに促されるまま車から降りたその頃にはもう、目も心も完全に奪われて、感嘆詞――それと、わずかな形容詞――以外の言葉を失っていた。




 それから数十分、つくしは目の前に広がる秋の絶景を心ゆくまで堪能した。
 進めば進むほど、見渡せば見渡すほど深まる満足感に、もう何度目かもわからない溜め息が零れる。

「はああ……」
「どう? 気に入った?」

 その声に振り向くと、あきらが笑顔でつくしを見つめていた。

「うん。とっても」

 言わずもがな、聞かずもがな。
 けれどこの満足感と多幸感を余すことなく伝えるべく満面の笑みで頷けば、その思いを受け取ったあきらもまた満面の笑みで頷いて、「それはよかった」と、つくしに手を差し出した。
 おいで、なんて言葉はいらない。
 想像を絶する景色にすっかり魅了されてしまったけれど、本当の目的は、一緒に過ごすことだから。
 つくしが静かに手を重ねて、どちらからともなく握り合う。
 そして二人は踏み出した。


「なんか、ここだけ葉の色が濃いな」
「どこ? あ、ほんとだ。同じ枝なのにね」
「な。陽の当たり方かな」

「うわーっ、池の水面に映る紅葉て、こんなに綺麗なんだね」
「すごいな、これは。立派な芸術作品だ」
「ほんとに。水だなんて信じられない。鏡みたい」


 並んで歩き出せばすぐに、世界がもっと輝くのがわかった。
 交わす会話は他愛もない。時には賑やかに、時には黙して、でもそのどちらにもひとかけらの無理もなく、心地良さだけが続いている。
 この素晴らしい景色の中を、こうして歩ける悦びを、つくしもあきらも、心の底から感じていた。




 目も心も十分に満たされた頃、「そろそろ休憩しようか」とあきらがつくしに声をかけた。

「ここを抜けて少し行った先に茶屋があるんだ。美味い日本茶が飲める」

 嬉しくて楽しくて美しくて、すっかり満たされていたおかげで忘れていたが、思えばたしかに喉の渇きを感じる。ついでに少々小腹も、と思った矢先。
 
「あと、たしか和菓子も、あ――」
「行こう!」

 まるで心を読んだかのようなあきらの誘い文句を、遮る勢いで一も二もなく賛成したつくしは、盛大に噴き出したあきらの手を引いて、はりきって歩き出した。


 あきらの言った通り、少し歩いた先に茶屋はあった。
 街中ではあまり見ることのない昔ながらの店がまえに、つくしのテンションが自然と上がる。
 店先には、非毛氈(ひもうせん)が掛けられた長椅子と、赤い野点傘(のだてがさ)が置かれている。店内にも飲食スペースはあるのだが、つくしは迷うことなく「外がいい!」と目を輝かせた。 

 日本茶と、さんざん悩んで注文したあんみつが運ばれてくると、ますます目を輝かせて、日本茶を一口飲んで「はああ、おいしーい」と染み入るような声を上げ、あんみつを一口食べて「なにこれ、すっごく美味しいっ」と感極まったような声を上げ、しまいにはあきらが注文した――つくしがあんみつと最後まで迷った――葛餅を一口もらって「うーん、これは……美味しい」と唸るような声を上げた。
 そのあまりにも素直な反応に、「連れてきた甲斐があるよ」とあきらは心底楽しそうに笑った。

 美作邸で渡されたお弁当を――おそらく、あきらよりも多めに――食べてから数時間しか経っていないにも関わらず、つくしはここでもよく食べた。あんみつと葛餅の次に気になった抹茶水羊羹もやっぱり食べておこうと追加する。これまた絶品で、悶えながら食べ終えると、日本茶のお代わりをもらったところで、ようやく手を止めた。

「それにしても、美作さん、こんなところよく知ってたね」
「ん? ……ああ」
「さては昔、女の子たち連れて遊びにきたことあるんでしょう? どうせ、西門さんも一緒に」

 疑わし気に、というよりは、確信を持って見つめてくるつくしに、あきらは苦笑を洩らしながら湯呑を傾ける。

「正解?」
「まあ、正解かな」
「まあ、って。今更そこ濁さなくても」
「いや、そんなつもりはないけど」
「けど?」
「多分、牧野の想像とはちょっと違うかな、って」
「そう?」
「ここ、総二郎の家の所有地なんだよ」

 その言葉に、つくしがパチクリと音がしそうな瞬きをした。「へ?」と少々間抜けな声付きで。

「……どこが?」
「さっき俺たちが見て回ったところ」
「……あそこ全部?」
「遥か遠くに見えた山は違うと思うけど」
「じゃなくて! あの、池があったり、小川が流れてたり、あたり一面落ち葉の絨毯、みたいな、あの、ひろーい場所、全部?」
「そう。俺たち以外、誰もいなかっただろ?」

「紅葉シーズン真っ只中なのに」と続いたあきらの言葉に、つくしは唖然とした。
 けれど言われてみればたしかにそうだ。
 雑誌の紅葉特集には「見頃の時期には混雑も予想される」とあったのに、あの絶景を堪能している間、庭師や警備員らしき影は何人かみかけたけれど、いわゆる「観光客」という類の人々の姿を見た記憶は一切ない。
 自分達以外の誰かがいることを意識したのはこの茶屋の近くへ来てからだ。事実、この茶屋はとても繁盛していて、周りには観光客が大勢いる。
 改めて見渡せば、その観光客たちは二人が歩いてきた方向とは逆側から現れていて、またそちらへと帰っていく。
 ということは、つくしにはどこが境目なのか明確にはわからないけれど、ここへ来る道のどこかまでが総二郎のところの所有地で、この辺りは公有地ということなのだろう。

「つまり、あそこは、普段は誰も入れないってこと?」
「そう。まだ近くを通ってないから気づかなかったかもしれないけど、敷地内に茶室があるんだよ。そこでお茶会があったり、催し物があったり、そういう時だけ解放される」
「……じゃあ、今日あたしたちが入れたのは」
「総二郎のおかげ」

 どこへ行こうかと相談したあの時に、あきらはここを思い出して、今朝、邸に戻った時に総二郎に連絡を取ったのだ。二つ返事で承諾してくれたが、面白がって「茶を点てに行こうか」とさんざんからかわれた。
「来なくていいって説得するのに苦労した」とあきらは笑ったけれど、つくしは未だ驚きが抜けず、唖然とするしかない。
 
「お金持ちってほんとにすごいよね」
「ん?」
「随分慣れたつもりだったけど……いやー、ほんとにすごい。絶景まで独り占めできるんだもんね」
「俺もいたけど?」
「いいの、美作さんは」

 いやーすごい、と湯呑を傾け、あー美味しい、と溜め息を洩らす。
 あきらはクスリと笑って、そこから見える景色に目を向けた。

「でも正直、俺も驚いた」
「何に?」
「こんなに綺麗だとは思わなかった」
「前にも来たことあるのに?」
「うん」

 ここへ来たのは初めてではない。けれど記憶に残る景色と、今日見ている景色は、まるで別物に思える。

「前は総二郎に誘われてきたんだ。お茶会だったか何かがあったんだけど、終わったら遊ぼうってことになっててさ。総二郎目当てに参加してた女の子を何人か連れて、この辺も歩いたと思うんだけど、こんなに綺麗だって感じた記憶がないんだよ」

 晴れ渡る空に、色とりどりの葉を揺らす木々。
 目の前に広がる景色は変わらなかったはずなのに。

「総二郎が、この景色に彩を足せない女以外は案内するだけ無駄とかなんとか言って、結局すぐに街に出たんだ。でも俺もそれに賛同したんだよな。せっかくこんなところまで来てこの景色を堪能しないのはもったいないとは思ったけど、引き止めるだけの理由にはならなかった」

 そのあと街へ出ていつも通り遊んで、それからどうしたのか、全く記憶にない。
 時間を無駄に使っていたような気もするし、あの頃はあれで良かったような気もする。
 でも今は、今のあきらには、こうしてこの景色を堪能することのほうが、よほど有意義に感じられた。

「こんな日が来るとはなあ……」
「それは、今日は堪能したってことだよね?」
「存分に」
「ならよかったじゃん。大人になった、てことだよ」

 言ってつくしは悪戯っぽく微笑んだ。
 仮にもあきらはつくしよりも一つ年上で、年下のつくしにそんなことを言われるのはいささか問題があるような気もするのだが、まるで嫌な気はしない。
 つくしがそれをわかって言っているのは明白で、むしろ本当にその通りなのだ。
 ただなんとなく日々をやり過ごしていたあの頃と今ではまるで違う。様々な変化があきらを成長させ、心境にも変化をもたらした。
 そして、その変化の大半は、つくしの存在があってこそ。
 愛しい人が隣にいて、見つめる景色が色付かない理由(わけ)などない。

 ――牧野が一緒なら、この先、目にする景色はどこだって絶景だよ。

 心の中で囁きながら、あきらは「そうだな」と笑みを返した。

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2018.11 リンドウ色ワルツ
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