愛しい落書き
COLORFUL LOVE & DOLCE Little Episode
『美作あきら』
深い意味などなく、ノートの隅っこに書いてみた。
最近、時折、無性に書きたくなる。
『美作あきら』
優しい彼に似合いの、柔らかな響き、柔らかな文字。
彼の名だというだけで、そう思えるから不思議だ。
『美作あきら』
三回書いたところで、彼に会いたくなった。
今、彼はどこにいるのだろう。大学へは来ているだろうか。
もうお昼も近いから、カフェテラスへランチに行ったらいるだろうか。
いつものあの場所、あの高級ソファに。
ノートから顔を上げて、窓の外を見る。
方角は合っているはずだが、ここからではカフェテラスは見えない。
見えるのは、良く晴れた青い空と、風に揺れるたび葉を落とす丸裸寸前の木々。
心がいつもより感傷的になるのは、冬に近づくこの季節特有のもの悲しさのせいか。
それとも、日に日に膨らむこの想いのせいか。
答えはきっとすぐそこにあるけれど、敢えてそれ以上考えるのを放棄して、ただ秋の終わりを眺め続けた。
「俺がどうかした?」
――え?
突然――しかもものすごく至近距離で声がした。
あまりの驚きに肩が竦む。振り向き見上げれば、そこには今まさに考えていた彼。
驚きすぎて声も出ず、おそらく目なんて真ん丸になってるに違いないあたしを見てクスリと微笑むと、あたし以外は人っ子一人いないガランとした教室を見渡しながら口を開いた。
「何してんだよ。もう講義はとっくに終わったんだろ?」
「あ、うん」
その通りだった。ただ終了間際に教授の話したことがとても興味深く思えて、記憶が薄れぬうちに書き留めておこうと残ったのだ。
「なるほど。で、書き終えた?」
「うん。覚えてるかぎりは」
「……で、俺に何か聞きたい?」
「へ?」
「覚えきれない難しい言葉でもあった? 確かに俺も去年これは受講してたから、ある程度は答えられると思うけど」
「……」
「それとも、ほかの何か?」
唐突にそんなこと言う彼の真意がわからなくて、あたしは思わず首を傾げる。
そんなあたしに彼は小さく笑みを浮かべて、変わらぬ口調で、でも先程よりも少しだけゆっくりと問うてきた。
「助け舟、じゃないの?」
「……何に対して?」
「いやわからない。だから訊いてるんだけど」
「……なんで? あたし、なんか言った?」
「言っちゃいないけど」
「けど?」
「ここに」
言葉と共に、彼の長い指があたしのノートをトントンと叩いた。
その指を追うと、そこにあったのはあたしの書いた文字。
『美作あきら』
息が止まるとはこのことを言うのだろうか。
本当に一瞬息が止まって、それから全身の血液が我先にと一気に顔に駆け上がり、燃える程の熱さに眩暈がした。
あたしは咄嗟にガバリと机に突っ伏す。今さら隠したところで単なる悪あがきなのはわかっている。けれど隠さずにいられようものか。
「いや、あのっ」
口は言い訳を吐き出そうとしていた。何か適当な、この場を乗り切る言い訳。
「えっと、これは……」
必死に紡ぎ出そうとするも、適当な言い訳なんてそう簡単に思いつくはずもなく、言葉はまったく続かない。
そして困り果てた沈黙の中で、あたしは気付いてしまった。
無駄に足掻いたりせずに、彼の話に乗るだけでよかったのだと。
――「そうなの。聞き馴染みのない言葉があったから、美作さんに確認したかったの」
たったそれだけだったことに。
けれど、無理だった。
彼に見られてしまったから。
あたしの書いたその文字を。あたしの書いた――しかも三回も書いた、彼自身の名を。
その事実にただただパニックに陥って、顔が熱くて耳まで熱くて、熱すぎて脳みそがすべて蒸発するんじゃないかとさえ危惧する程に、あたしはテンパってしまったのだ。
ここからの軌道修正は可能なのだろうか。いや不可能だろうか。いやもうどうすれば。
延々と同じところを廻り続ける思考の中。
頭上から声が降ってきた。
「もしかして、これから呪いの儀式でも始めようとしてた?」
「……」
「まさか図星!?」
頼むからそれだけはやめてくれよー、なんて真剣な、けれどどこか冗談めかしたその言葉が、しどろもどろのあたしへの助け舟だってこと、もう今はすぐに気付ける。
――だってあたしは、あなたばかりを見てるから。
途端に胸が締め付けられて、今度はさっきまでとは違う理由で言葉が出てこない。
口をぎゅっと結んで伏せ続けるしかできないあたしと、おそらくそんなあたしの態度に困っているだろう彼。
そこに流れる静寂はどこか重苦しくて、でもあたしにとってはどういうわけかこれさえも愛しくて、いつまでたっても胸の熱さが治まらない。
トクトクと、焦りや気まずさとはまた違う理由で、胸は早鐘を打ち続けた。
永遠とも思える静寂が続いた。
時を動かしたのは、ふいに、そっとあたしの頭に乗った、心地良い重みだった。
それが彼の手であることは、見ずとも聞かずとも明白。無意識に身体がピクリと震えて、髪が小さくクシャリと鳴った。
「何はともあれ、とりあえずランチに行こうぜ。腹減った」
「……」
「今日は珍しく全員集合してるから、賑やかなランチになりそうだぞ」
儀式についてはまた今度ゆっくり聞くよ、と笑い交じりの言葉と共に、彼の手が頭で軽く二回弾んで、そして静かに離れていった。
――ねえ、美作さん。その手には、どんな想いがこもってる?
ゆっくりと、ゆっくりとここを離れる足音が聞こえる。出口に向かう彼の足音。
あと十歩、あと数歩……彼が出口にたどり着いたら、きっと彼ならそこで。――と考えたところで足音が止んだ。
見なくてもわかる。彼は出口で立ち止まり、きっとその辺に寄りかかってあたしを待つ。
彼は、そういう人だから。
こんな小さなことでさえ、思えば想いが込み上げる。
ひとつ大きく息をして、のそりと顔を上げると、ノートの文字が飛び込んできた。
『美作あきら』
やっぱり、いい。
すごく、好き。
湧き上がる愛しさの大きさに泣きたくなるほど胸が震える。
もうこの想いが消える日は、きっとこない。どんなに足掻いても。どんなことになろうとも。
あたしはノートを閉じて、席を立った。
振り向き出口を見ればやはりそこには彼がいて、「そろそろ行けるか?」と笑顔であたしに問いかけた。
――ねえ、美作さん。その優しさには、どんな感情が滲んでる?
そのすべてが、あたしの中にあるものと同じならいい。
願うあたしと、望むあたしと、期待するあたしと。
――あたしはずいぶん欲張りになってるみたいだよ、美作さん。
「すぐ片付ける。先に行ってても――」
「待ってるさ。急いだところで大差ないだろ」
その笑顔が嬉しくて。その優しさが嬉しくて。
それまでの羞恥心も気まずさもきれいさっぱり吹き飛んで、カフェテリアまでの二人の時間を思い描いて心がウキウキと弾み始めた。
***
「うわ! それ、もしかして呪いの儀式か?」
「――え?」
懐かしいノートを前に、思わず片付けの手が止まっていたあたしの背後から、驚きと笑いの混じった声がした。
「……覚えてるの?」
「覚えてるさ。何をそんなに恨まれてるのかとビクビクしたからな」
「ホントにぃ?」
まったく気になりませんて感じだったじゃない、と返しながらパタンと閉じて重ねた紙ゴミの上に積むと、あたしは再び手を動かし始めた。
片付けの最中に手にした懐かしいモノに心を奪われ作業が中断することはこれまでにも幾度となくあったけれど、大学時代の――膨らむばかりの想いに窒息しそうだったあの頃を思い出させる、このノートのようなモノは、とりわけ心が揺すられる。
懐かしさだけではない、感慨深さがあるから。特に今――たくさんの想いとそれに付随する思い出の生まれたこの場所から、彼との暮らしをスタートさせる新居へと移る、今、だから。
引越しは、もう明日だ。
持ち込みたいものはすでにあらかた移動済みで――なにせ、家具などは一切持ち込む余地もないほど完璧に整っている――、あとは残った物を処分するだけなのだが、寝室に設置していた本棚だけがこれまで手付かずになっていた。
元々あまり使わないものばかりを押し込めていたので、やろうやろうと思いながらも毎日の慌ただしさに手を付けるのが後回しになって、結局今日になった。
ひとつずつ確認などしなくても、すべてまとめて「不用品」として淡々とまとめてしまえばいいのかもしれない。実際これまでの作業の中で必要だと判断したものは一つもない。
それでも見ずにいられないのは、性分からか、それともこうした思い出に触れたいからか。
カサカサ、ガサガサと作業の音しかしない、ずいぶんガランとした部屋の中。
「悪い、やっぱりウソ」
再び背後から声がした。
「え?」
思わず振り向いたそこにいるのは、もちろん彼。
あたしが不要と積み上げたものを器用に紐でまとめてくれている、その手を止めることなく、言葉は紡がれた。
「ビクビクなんてしてなかった。あの時」
「……知ってるよそんなの。何よ改まってそんなこと――」
「嬉しかったんだよ、ホントは」
「……え」
「もしかしたら、俺と同じ気持ちを持ってくれてるのかも……って」
「……」
「だから覚えてた」
数年越しに、あの日、心の中でひそかに問いかけた、その答えをもらった気がした。
一瞬で、あの日あの時に戻ったような錯覚に陥って、胸が熱くなる。
言葉など出ず、ただ彼を見つめるしかないあたしを、手を止めた彼が顔を上げて、そしてその目が真っ直ぐにあたしを捉えた。
「あの時の想いの延長に、今があるんだよな。つくしがそのノートに書いたあれは、呪いじゃなくて、魔法だった、てことかな」
優しい笑顔が浮かんで、あたしのすべてを包み込む気がした。
あの頃から、微塵も変わることのない、優しい笑顔。
彼はずっと、その笑顔をあたしにくれる。
あの頃も、今も。そして、これからもずっと。
あの時の想いの延長に、今がある――。
彼の言葉が、あたしの中に沁み込んで、また幸せが増えた気がした。
――今この時も、きっと同じ気持ちだね。あきらさん。
Fin.
【キミの想い出はボクの想い出】
ペットボトル片手に戻ると、ガランとした部屋のど真ん中に立った彼女が、感慨深げにあちこちを見渡していた。
「ずいぶん広く感じるな」
「……あ、おかえり」
入りながら声をかければ、彼女はいつもどおりの笑顔を見せた。
部屋にあった家具や不用品は一時間前に業者が引き取っていき、もうここにあるのは、これから新居に持ち込むものが詰まった箱とバッグがひとつずつ、のみ。
掃除も終わり、あとは鍵を返せばここは彼女の部屋ではなくなる。
不動産屋はおそらくもう現れる。
「ここはね……」
俺が渡したペットボトルを手に、彼女は窓辺に立ち、そう切り出した。
「類が紹介してくれた物件だったんだけど」
「ああ、そうだったな」
「一番最初にここに立った時、この窓から見える景色がすごく綺麗でね……」
よく晴れた日だったからかな、ここから見える景色がキラキラ輝いて見えたの。どこかからピアノの音が小さく聞こえて、子供の遊ぶ声も聞こえた。なんかそれがすごく心地よく思えてさ。
彼女の記憶はまるで昨日のことを語るように鮮明で、そこに立ち会ったわけではない俺にまで、その時の情景が浮かぶようだった。
「類のおかげで本来よりも安く貸してもらえるって話も魅力だったけど、それよりなにより、ここからの景色が気に入って住み始めたの。あの時の直感は正しかったなー。ここにして良かった。住み心地も良かったし……」
彼女はそこで言葉を止め、窓の外をただじっと見つめた。
そうしてしばらくの沈黙のあと、やがて彼女はゆっくりと口を開いた。
「ここからの景色は、いろんな場面であたしを救ってくれたの。たくさんのことを乗り越えてこれたのは、この景色があったからかもって。なんかそう思う」
愛し気に、けれどどこか寂し気に、窓の外を見続ける彼女の横顔を見ながら、俺は彼女がここに住んだ年月を振り返る。
最初にやってきたのは、彼女がここへ越してすぐの頃、仲間たちと大勢で、だった。
本人がさほど乗り気でないのを感じつつ、強引に引越し祝いをした。
それから、時には類と、時には総二郎と、何度もここを訪れた。
一人でここへやってきたのは、彼女が司と別れた朝だった。
たびたび訪れるようになったのは、それから一年以上も後のこと。
昨日、片付けの最中に出てきたあの懐かしいノート。あの出来事が、ちょうどその頃だった。
あの頃からずっと。俺は、この窓辺に立つ彼女を、誰よりも多く見つめてきた。
部屋の中から、アパートの階下から。
いろんな場面で、ここに立つ彼女を、様々な表情を浮かべた彼女を、俺はずっと見つめてきた。
そして今、この窓辺に立つ最後の彼女を、俺は見つめている。
もう間もなく、彼女はここの住人ではなくなる。
一人暮らしにピリオドを打ち、俺と二人の生活をスタートさせる。
その日々の中で、彼女がこの窓辺を思い出す時、彼女がここからの景色を思い出す時、その横で俺は、ここに立つ彼女の姿を思い出す。
形や記憶の残り方は違えど、共に抱える思い出が増えていくことを嬉しく思う。
ノートの落書きがそうであったように。
今この時が、そうであるように。
2019.07.22 愛しい落書き