花は野にあるように
水無きに水を楽しむ庭 続編

「――で、どうするつもりだよ?」

何の前触れもなく背中に真直ぐ投げかけられたその問いに、即答することは出来なかった。
入れ終えたばかりの茶花をじっと見つめ、それからゆっくりと身体ごと向きを変えて、俺をじっと見据えたまま答えを待つあきらと向き合った。
あきらは、どこか優しさの漂ういつもと変わらない表情をしていたが、その瞳は、きっとすべてを見透かしている。
伊達に二十年も親友をやってるわけじゃない。

「どうするんだろうなぁ?」
「おいおい、おまえのことだぞ」
「わかってるさ。でも、俺が聞きたいくらいなんだよ」

俺の言葉が意外だったのか、あきらは片眉をわずかに上げ、「総二郎がねぇ」と呟いた。

「ダセぇ、よなぁ」
「ダセぇ、な」
「この俺が、なぁ」
「女たらし、がな」

しばしの沈黙の後、ふつふつと笑いが込み上げてきて、どちらからともなくぷっと噴き出していた。
何が可笑しかったのかはわからない。いや、分かっていても言葉にならない。
けれど一度こぼれた笑いはすぐに止まることはなく、しばらく二人で笑っていた。





珍しく早く仕事が終わったと言って「これから行ってもいいか?」と連絡をしてきたあきらが家に到着した、ちょうどその頃。
東京に、この冬二度目の雪が降り出した。

東の茶室へ向かって歩きながら、雪のちらつく枯山水の庭に目をやった。

「どうもこの冬は、この家に来ると雪が降るな」
「俺も今それを思っていたんだよ。雪雲引き連れてるのは、あきらか」
「俺かよ」
「あるいは――」
「……ん?」
「いや、なんでもない」

あきらと会うのは、年明けの、牧野が爆弾発言をしたあの雪の日以来だった。
早いもので、あれから二ヶ月が経とうとしている。
あの時、牧野が作った雪だるまは、もうとっくに姿を消した。

「そういや、雪だるまってどれくらい残ってた?」

隣を見るとあきらも庭を見ていて、多分同じことを考えていたのであろうことがわかった。

「日陰に置いてたからな、数日はあったよ。何を思ったか、庭師が毎日のように『今日もまだ溶けてませんよ』って俺に報告してきてたんだよ」
「はははっ。デキた庭師だな。さすが西門家に雇われているだけある」
「別に報告しろなんて言ってないってのに」
「この屋敷の庭で雪だるまを見ることなんて、庭師もさぞや驚いただろうよ」
「まあ、それはそうだ」
「完璧な枯山水に不格好に溶けていく雪だるま。なかなかない光景だ」

本当にその通りで、あの翌日には、家人のほとんどがここで足を止めたらしいことを聞いた。
そして俺も、庭師に報告されるまでもなく、毎日ここで雪だるまを眺めていた。
その数日、それは日常に自然に溶け込んでいて、完全に溶けてなくなった時、物悲しさを覚えたほどだった。

東の茶室へ入ると、あきらに適当に座るように促し、お茶を入れた。

「もしかして、何かやってる途中だった?」

あきらの視線は、茶室の一角に置いた花入れとその傍の花に注がれていた。

「ああ、茶花を入れるところ」
「ふぅん。もしや、まだこれから弟子が来るとか?」
「もう一人だけな」
「じゃあタイミング悪かったな」
「気にしなくていい。でも、これだけ先にやらせてもらう」
「どうぞ」

俺が茶花を入れている間、あきらが口を開くことはなかった。
入れ終わるのを待っての言葉が、あの質問だった。





ひとしきり笑った後、俺はお茶を淹れ直した。
「やっぱりお茶は総二郎に淹れてもらうのが一番だな」と笑みを浮かべるあきらに「当然だろ」と笑みを返し、お茶を一口飲んだ。
沈黙が流れる。
問われたことに対して、笑って誤魔化すつもりはない。
けれど、何をどう話していいのか、自分の気持ちや覚悟も含めていろんなことがまだ曖昧で、うまく言葉にする自信がなかった。
そのせいか、自然と口が重くなっていた。
庭からカコンとししおどしの音が聞こえ、その数回分の沈黙が続いた。

「あきらは、あいつらが別れること、少しでも想像してたか?」
「いいや、これっぽっちも」
「だよな」
「でも、牧野がああいう結論に至っても、不思議はないとも思ったかな」
「それは、何で?」

あきらは一瞬目を大きくして、それからふっと笑った。

「男と女の関係なんて、何が起こっても不思議はないだろ? そんなこと、お前が一番良く知ってんじゃないのか?」

百戦錬磨の西門総二郎だろ、と冗談交じりに続いたその言葉は、まさにその通りで、けれどあの二人の関係はそれとは違う次元にある気がして、あいつらだけは違うと思い込んでいた自分がいた。
そしてそんな自分に改めて驚いた。

「俺もまだまだだな」
「そんなの俺も一緒さ」

いろんなことを理由に真剣な恋愛を避けてきたのは確かだった。
理由にあげるいろんなことが己で勝手に作り上げた防御壁であることは、もう心のどこかでとっくにわかっているのに、それを乗り越える術をまだ見つけられずにいた。
それはもしかしたら、あきらも一緒なのかもしれない。
あきらと目が合うと、また笑いが込み上げてきた。
多分、互いに同じようなことを考えている。
「俺達って、青いんだな」「青いな」と笑い合うその空気は、胸の奥に痞える焦燥感を優しく包んでくれた。

しばらくして、パタパタと茶室に近づく足音が聞こえてきた。

「ん? もしや弟子か?」
「そ。あ、でもそのままでいいぞ」
「いや、でも――」 

あきらが立ち上がろうとしたその時、ガラリと勢いよく襖が開いて、今日最後の弟子が顔を出した。

「こんばんわー!」
「あのなぁ。いつも言ってるだろ? 茶室に入る時は座って襖を開ける。ったくおまえは、何でいつも仁王立ちなんだよ」
「いいじゃないのよ。お着物に着替えたらちゃんとやるんだから」
「……なんだ、弟子って牧野か」

そう、約束していた最後の弟子は、牧野だった。

「美作さん、なんだ、は失礼なんじゃないの? 久し振りなのに」
「すまんすまん、久し振りだな」
「お久しぶり。ねえねえ、美作さんって雨男ならぬ雪男なの? この前会った時も雪降ってたじゃない?」
「それはこっちのセリフ――……なるほど。さっき総二郎の言った『あるいは』は、このことね」
「そういうこと」
「どういうことよ?」

俺とあきらの会話の内容が掴めない牧野は、眉間にしわを寄せて俺達の顔を交互に見ていた。
気にするな、と俺が笑うと、つまらなそうに口を尖らせたけれど、すぐにその表情は消えて、茶室の外、ちょうど庭に面するあたりを指差すと大きな瞳をさらに大きくさせた。

「外、雪すごくなってきたよ」
「マジで?」
「うん。みぞれだったのが本格的に雪になったら、なんだかあっという間につもり出して、辺り一面雪景色。結構白く見えるよ」
「うわー、寒そうだなあ。そういや牧野、鼻の頭が赤いぞ」
「え! ほんとに? 寒かったんだよー!」

ごしごしと鼻の頭を擦るその仕草はまるで小さな子供みたいだったが、飾り気のない牧野にはとてもよく似合っていた。
鼻は擦ったことでさらに赤くなり、あきらがそれを指摘すると、恥ずかしそうに笑った。
俺は淹れたてのお茶を牧野の前に置いた。

「ほら牧野、とにかく座ってこれ飲めよ」
「え、いいの? あたし、お稽古の準備しなきゃ」
「急ぐことはない。第一そんな鼻を赤くしてる様じゃ、手だって冷たくてかじかんでるだろ?」
「え? あ、うん」
「まずは身体を暖めて、稽古はそれから。いいな?」
「……はぁい。じゃあ、遠慮なくいただきます」

すとんと座った牧野は、嬉しそうに湯呑を両手で包みこむように持って、こくりとお茶を飲んだ。
何を食べさせても飲ませても、牧野ほど美味しそうな顔をする人間は他に知らない。
それを見て思わず笑みが浮かぶ俺だったが、見るとあきらも同じような顔をしていた。

お茶一杯分の時間を三人で他愛もない話をしながら過ごすと、牧野は「ごちそうさま」と立ち上がった。

「身体も暖まったことだし、そろそろ着物に着替えてくるね。今日は美作さんも一緒に参加?」
「いや、俺は帰るよ。おまえが着替えて戻ってくる頃には消えてるさ」
「そっか。帰り道、雪積もってるだろうから気をつけてね」
「サンキュー」
「西門さん、いつもの部屋借りるね。じゃあ美作さん、またね」
「ああ」

あっという間に出て行った牧野の後姿を見送ったあきらは、「さて」と小さく呟いて立ち上がった。

「せっかくだから抹茶も飲んでいけばいいのに」
「いや、今日はやめとくよ。また今度頼むよ」
「いつでも。気をつけて帰れよ」
「ああ。――総二郎」
「ん?」

その改まって名前を呼ぶ声に、湯呑を片付けながら話していた俺は手を止めてあきらを見た。
するとあきらも、まっすぐ俺を見ていた。

「どうした?」
「あのな。午前中に、司から電話が来た」
「――司から?」
「ああ」

思わぬ話の流れだった。
俺達の間で司の名前が出ることは何ら不自然ではないのだが、今ここでこのタイミングで出てくるとは思っていなかった。

「用件は仕事の話だったんだけど、あの司が、仕事の話を終えた後も何かを言い淀んで、いつまでも電話を切ろうとしなくてさ」
「あの司が?」
「ああ。いつもなら、言いたいことだけ言ってこっちの話も聞かずにさっさと切っちまうようなやつなのに」

それはたしかに、いつもの司の行動パターンからするととても不可解だった。
けれど今は、それも納得できる。
何を言い淀んでいるのかも、わかる。

「意味のない会話を数分して、それからようやく話し出したよ」
「――なんて?」
「牧野はどうしてる? って」

司が言い淀む話が牧野のことであることは、きっとあきらだってわかっていたに違いない。
それでも、急かしたりせずに言い出すのを待ってやるところが、実にあきららしいと思った。

「あんまり会ってないけど元気にしてるぞ、って言ったら、そうか、って」
「それだけ?」
「それだけ。――でも」
「ん?」
「……いや、ここからは俺の勝手な推測」
「なんだよ」

あきらはひとつ短く息を吐いた。

「あいつらがニューヨークでどんな話し合いをして、どう納得して別れてきたのかはわかんねえけど、牧野に自分じゃない大切な人が出来たってこと、司は知ってるんだと思う」
「……」
「――たぶん」
「たぶん……?」

庭のししおどしが、カコンとまたひとつ鳴った。
先程よりも少しだけくぐもった音がして、雪が積もっていることを感じさせた。

「――たぶんそれが、総二郎だってことも」

刹那、どくり、と鼓動が脈打った。
どうするつもりだ、と問われた時から、あきらが気付いていることはわかっていたのに、はっきり言葉にされただけで、その事実がズシンと重く感じた。
これから先、自分がどれだけのことをクリアしていかなければならないのか、今まで見て見ぬふりをしてきた様々なことが、一気に目の前に積み上げられていくような気がして、気が遠くなるような感覚さえ覚えた。
きっと俺は、それが厭で、たくさんのことを避けてきた。
けれど――。

「今なら、越えられるんじゃないか?」
「……え?」
「牧野なら、一緒に壁を乗り越える方法を知っているような気がする」

そう、俺もそう思っていた。
牧野なら、何かが変わる。きっと、何かを変えられる。
そして俺も、牧野と一緒なら。

「そもそもあいつは、ただの庶民だ。今も昔もそれに変わりはないのに、俺達との壁をいとも簡単に蹴散らして、今ではすっかり親友だ。類も司も、あいつと関わってずいぶん変わった。あの司が恋に落ちて、婚約までしたんだもんな。しかも最終的に蹴ったのは、牧野だし」

とんでもない女だ。
言い放つあきらは、司に同情するような表情を浮かべながらもどこか楽しげで、心から牧野を認めているのが伝わってきた。
間違いなくあきらも、牧野によって何かが変わった一人だ。

「俺は、いいと思うぞ。俺らの中で一番高くて複雑な壁を持ってるのは多分おまえだからな。牧野くらい凄まじい女じゃなきゃ無理だろ。乗り越えられない時にはバカ力でぶち壊してくれるくらいの女じゃなきゃ、な」
「なんだよ、それ」
「ま、ゆっくりやれよ。いつでも力になるから」

微笑むあきらに、俺もなんとか笑みを返した。
けれど、目の前の親友が掬ってみせてくれた気持ちと、これからの覚悟やたくさんの想いで、本当は泣きそうなくらい胸がいっぱいになっていた。

「あきら」
「ん?」
「サンキュー」
「ああ」

進展したら教えろよー、とからかい交じりの言葉を残してあきらは帰っていった。




稽古の準備をしながら、俺はこれからのことを考えていた。
そして、準備が整った時、すっきりと心は決まっていた。

 ( 明日、司と類に電話をしよう )

牧野に対する自分の気持ちを、はっきり告げておこう。
きっとあいつらは「だから何だ?」と言うだろう。
「ふざけるな」と怒るかもしれない。「勝手にすれば?」と呆れるかもしれない。
けれどこれは、俺のけじめ。
自分の気持ちにまっすぐ向き合うための、あいつらとこの先もずっと親友で居るための、そのためのケジメだ。
そして、牧野にも――。

「失礼します」

襖の向こうから声がして、するりと音も立てずに襖が開かれた。
着物姿の牧野が、静かに入ってきて座った。
その立ち居振舞いは、教えをきちんと守った綺麗なものだった。

「ずいぶん自然にできるようになったな」
「ホント? ずいぶん厳しく教えられたからね」
「そうだったな」

そのまま余計なことは何も話さず、稽古に専念した。



すべてを終えて最後の礼をした後、牧野はふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。
それを見ながら、俺は初雪の日のことを思い出していた。


あの日。
牧野を抱きしめる腕を緩めた俺は、「大丈夫か?」と声をかける以外、特別なことは何も言えなかった。
顔をあげた牧野もまた、「うん、大丈夫」と言った以外、特別なことは何も言わなかった。
いつも通り家まで送って、いつも通り別れの挨拶をした。
茶室での時間は、まるで夢の中だったかのような、いつも通りの俺達だった。
そのまま、いつも通り次の稽古の日を迎えて、いつも通りの時間を過ごしたら、あの時間は本当に夢の中の出来事になったかもしれない。
けれど、そうはしたくない。そう思った。
それは、牧野も同じだったのかもしれない。
その日の夜中、迷って迷って、俺は一通のメールを牧野に送った。


――――

件名:
本文:あの約束、有効でいいか?

――――


まるで同じタイミングにメールを送り合ったのではないかと思えるほど、送リ終わった途端、牧野からメールが届いた。


――――

件名:
本文:あの約束、有効だと思っていい?

――――


返信はしなかった。牧野からも、返信はなかった。
けれど俺達は、あの約束を、あの茶室での時間を、現実として繋ぎ止めあったのだ。その一通ずつのメールで。


そして今日まで、それ以上のことは何もない。
けれど、気付けば自分の気持ちと向き合っている時間が多くなった。
おかげで漠然としていたものが、少しずつ明確になってきていた。
自信も覚悟も、あの時とは比べ物にならない。
ただ、今はまだ何一つ現実になっていない。

「この梅の花、ここの庭で咲いたの?」

牧野は今日まで、何を思ってきただろうか。
目の前で茶花をじっくり眺める牧野は、今日も、今日までも、至っていつも通りに見えた。

「ああ。雪が降る少し前に庭から持ってきて、さっきあきらがいる時に入れたばかり」
「綺麗だねえ。もう梅の季節なんだ。春も近いね」
「この雪じゃあ、実感湧かないけどな」

タイミングよく、カコン、とししおどしが鳴ったけれど、その音はかなり鈍かった。
これは先ほどよりも、かなり雪が積もっていそうだ。

「梅の木にも、雪が積もってるよね」
「積もってるだろ、そりゃ」
「大丈夫なのかな。せっかく咲いたのに」
「大丈夫だよ。明日の朝には庭師がまた手入れするし、この雪も一晩中続いたりはしないだろ」
「雪化粧の梅って、見たことないな。綺麗なんだろうなあ」
「そうだな。また一味違った良さがあると思うぞ」
「見たいなあ。ねえねえ、梅の木って廊下から見える?」
「いや、かなり奥にあるから、歩いていかないと無理」
「そっか。……見に行けないよね?」
「行ってもいいけど、そもそも暗過ぎるだろ、この時間じゃ」
「……それもそうだね」

残念、と呟いた牧野は、言葉通り本当に残念そうな顔をしていて、どこか寂しそうにも見えた。

「まだしばらく綺麗に咲いてるだろうから、いつでも見に来いよ。明日の昼間でもいつでもいいぞ。まだ就職してないんだから、自由は利くだろ?」
「その言い方ってなんか傷つくんだけど。これでも結構真面目に就職探してるんだよ? あたし」
「知ってるさ。でも、類やあきらがいろいろ紹介してくれてるんだろ?それをことごとく断ってるだろ、おまえ」
「だって、あの二人の紹介してくれるところって、どこもみんな超一流なんだもん、そんなとこ無理だよ」

あたしに勤まるわけないじゃん、と口を尖らせてぶつぶつ言う牧野に、俺は思わず笑みをこぼした。
大学での四年間、その学費を払ったのが司だったこともあって、「一円分も無駄にするわけにはいかない」と牧野は誰よりも真面目に勉強していた。おかげで相当いろんなことを身につけている。
類もあきらも、いくら相手が牧野だからといって出来もしない仕事を紹介するほど馬鹿じゃない。
牧野なら間違いなくやれると思うから紹介しているのだが、当の本人はその事実に気付いていない。

「わかってないねえ、おまえは」
「何がよ」
「自分の価値とか、能力とか」
「わかり過ぎるくらいわかってるわよ。だから無理だって言ってるのっ」

謙遜でもなんでもなく本当に無理だと思っているところが、実に牧野らしかった。

「まあ、ゆっくり探せよ。そんな焦ることもないんだし。でも困ったらすぐに言えよ」
「うん。ありがとう」

再び茶花を見つめるその横顔は、とても穏やかで柔らかく、そこに春の匂いが漂うのを感じた。
利休の教えが、頭を過った。

( 「花は野にあるように」――か。 )





牧野を家まで送るために車を走らせていると、徐々に雪は雨へと変化していった。
車の中は、時々思い出したように世間話をする程度で、あとはとても静かだった。
そして、あっという間に家の前に着いた。

「今日はありがとう」
「どういたしまして」

いつもと同じ別れの挨拶。
いつもここで車を降りる牧野は、今日はなぜか降りようとしない。
それは不自然な流れなのだけれど、今の俺達には自然な気がした。
車の中には、俺と牧野と、ほんの少し緊張感を保った沈黙。
もしここに、あと一つ何かを加えるとするならば、それはこの覚悟を現実に変える瞬間。
牧野にきちんと、俺の覚悟を――

「なあ、まき――」
「もし――」

タイミングが重なった。
いつもよりも意気込んで話し出す時に限って、こうなるから不思議だ。

「なんだよ?」
「西門さんこそ、なに?」
「おまえから言えよ」
「西門さんからどうぞ」
「いいから。もし、なんだ?」
「……

うん」

牧野はひとつ頷いて、すうっと息を吸った。

「もし、明日の朝になって、まだ雪が残っていたら」
「うーん、もう雨に変わってるし、溶けちゃうかもな」
「だから、もしも」
「はいはい。もしもね。もしも雪が残っていたら?」
「そしたら、本当に梅の木を見に行ってもいい?」

雪化粧の梅の木を見たがったあの時の牧野は、俺が思ったよりもずっと真剣だったんだと、その時気付いた。

「そんなに見たかったのか?」
「うん」
「なんだよ、じゃあさっき言えば連れて行ったのに」
「そうだけど、なんか悪いかなと思って」
「何が?」
「だって、行くとしたら一人じゃいけないから、西門さんも一緒でしょう? 雪降ってて寒いし、積もった雪の上歩くんじゃ足元だって濡れちゃう。せっかく綺麗な庭を汚しちゃうのも気が引けるし、それにそれに、良く考えたら暗かったし……だから、明日。ね?」

実に牧野らしかった。
些細なことを気にして、小さなわがままさえも通せない。

「ったく、おまえは」
「だってね、あのお茶花、すごく綺麗だった」
「そりゃ、一応俺が入れたんだから」
「花は野にあるようように」
「……ん?」
「たしか、そういう教えだったよね」
「ちゃんと覚えてたか」
「うん。あの梅を見てたら、庭に咲く梅の木が浮かんだの。雪なんてどこにもついていなかったし濡れてだっていなかったのに、雪が積もってるように見えた。そしたら、ものすごく見たくなったの。西門さんの入れたお茶花の梅、きっと庭に咲くそのままなんだろうなって思ったら、どうしても」

まるで庭の梅の木を見ているような表情で紡がれるその言葉のひとつひとつが、俺にとって最高の褒め言葉だった。
嬉しかった。心から。
嬉しくて、どこか恥ずかしかった。

「雪が残ってなくても、来いよ」
「え?」
「梅の木、今が一番綺麗に花を咲かせてる。だから、見に来いよ」
「いいの?」
「もちろん。明日の朝、迎えにくる」
「え、いいよ。自分で行ける」
「いいから」

牧野は少し迷った顔をして、それからうんと頷いた。

「牧野もずいぶんお茶の心がわかるようになったんだな」
「え?」
「さっきのは、最高の褒め言葉だ」
「うーん、それは西門さんの腕が良いからだよ。あたしじゃなくても誰でもそう思う」
「それは確かにそうだけど」
「うわー、自分で言って許されるからムカつくのよねぇ」

眉間に皺を寄せる牧野に、俺は思わず笑った。
牧野は頬を膨らませて、何がおかしいのよ、と俺を睨んだけれど、それが余計に俺を笑わせた。
別に牧野の顔がおかしかったとか、言った言葉がどうだとか、そういうことではなかった。
そうじゃなくて――

「もうっ! いつまで笑ってるのよっ」

牧野は拳を振り上げて、俺に向かって振り下ろす。
俺はその拳を受け止めて、そのままその手を握りしめた。

「牧野」

無償に愛しさがこみあげた。
眉間に皺を寄せた顔も、頬を膨らませるその表情も、小さなわがままも自分の中にしまい込んでしまうところも、すべてがいつも通りの牧野。
すべてが俺の良く知る牧野なのに、そんな牧野が愛しくてたまらない自分が、そのすべてを見逃したくないと思っている自分が、可笑しかった。
可笑しくて愛しくて、たまらなかった。

「あの、西門さん?」

手を握ったまま何も言わない俺を、牧野は不思議そうに見つめている。

「梅の木も稽古も、理由なんてそんなの関係なく、いつでもこいよ」
「……え?」
「おまえが好きな時に、うちに来い」
「……西門さん」
「俺も、おまえに会いに来る」
「……」

俺は牧野を抱き寄せる。
腕の中で、牧野は息を呑んで、身体を固くした。

「約束、有効だって言ったよな?」
「うん」
「だから」
「だから?」

この覚悟を、現実に。

「――好きだ」

花は野にあるように。
想いは、心にあるように。

ゆるゆると牧野の身体から力が抜けた。
俺は牧野をきつく抱きしめる。
あの日よりも、もっとしっかりと。
しっかりとした、意思を持って。
ゆるぎない、愛を持って。

「だから、ずっと俺のそばに――」
「……うん」

2009.03.08 花は野にあるように―水無きに水を楽しむ庭 続編―
  After Word ―ほら、ハジメの一歩で季節は廻る―
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