まるで、俺の心が見えていたかのようなその言葉に、今度は俺がじっと専務を見つめる。
その視線を受け止めて、専務は俺の顔を見た。真っ直ぐに。
「燻っている気持ちがあるなら、伝えたほうがいいんじゃないですか? 結論は変わらなくても、平野部長のこれからは変わるんじゃないかな」
「俺の、これから……?」
「伝えられなかった気持ちは、きっとずっと残ります。それでふとした瞬間に思い出す。次の恋愛の妨げになったり、次に愛した人を傷つけるきっかけになるかもしれない。そんなの悲しいじゃないですか」
「……」
「自分の中で完全に消化できるならそれでいいですけど、もしそうでないなら、伝える選択肢もありだと思いますよ」
専務の声はとても柔らかで穏やかで優しくて、心にすっと溶け込むようだった。
けれど俺は、それに対してすぐに頷くことは出来なかった。
「でも、もう彼女は新しい道を歩き出してるんです。俺の想いなんて、いまさら迷惑なだけですよ」
「そんなことはないと思いますけどね」
「どうしてですか?」
「それを迷惑と思うくらい心が離れていたら、何も言わずに出て行きますよ。平野部長が居ない間にこっそりとね」
それではまるで、夜逃げのようだと思った。
香奈美がそうして俺の元から居なくなる――そんなことは想像したこともなかったけれど、想像してみたら、とても恐ろしい気がした。
「止められたくない時はこっそりと姿を消すっていうのが常套手段でしょう。牧野はあのパーティーの夜、俺に何一つ知らせずに会場から姿を消してましたよ。はっきり言って、絶望でしたよ」
「あ……」
「でも、平野部長は違ったわけでしょう? 帰りを待っていてくれたんだから、彼女は平野部長と話したかったんじゃないかと、俺はそう思いますよ」
「……」
「どういう話をしたかったのかは、俺にはわかりませんけど」
――「肇ちゃん、私を責めないの? 私を、怒らないの?」
またしてもあの言葉が浮かんだ。
今の今まで気付かなかったけれど、もしかして香奈美は――香奈美は、俺の言葉を待っていたのだろうか。
「俺は平野部長が特別情けないなんて思いません。みんな同じですよ。上手くいかなくて悩んでばかり。俺も牧野のことは何度も傷つけて何度も泣かせてる。きっとこれからもそうです」
「……」
「その度に、悩んで後悔して、自分の不甲斐なさを痛感して……でも、一番近くで見続けたいから、やっぱり必死になる。俺ってバカだなあなんて思いながら」
「好きな女のこととなると、男はみんな大バカ者ですよね」と専務は笑った。それはとても温かな、気遣いに溢れる笑顔だった。
もう一度、きちんと話してみたい。香奈美と。
その想いは自然と溢れ出て、胸全体に広がる。
専務が改めてふわりと笑って頷いた。まるで、俺の心が見えたように。
胸の奥が熱かった。
「美作専務、ありがとうございます」
香奈美を想う心、失った悲しみ、手を放した後悔……その真ん中に立ち尽くすしかなかった俺が、今ならほんの少し前へ進めるような気がした。それらすべてを受け止めた上で。
「俺は何もしてません。生意気なことを言っただけです。すみません、偉そうに」
「いいえ。こうして話していなかったら、いつまでも立ち止まったままでした。今なら前へ進めそうです」
「なら、良かったです」
専務はにこりと微笑んだ。
それは男の俺から見ても、とても綺麗な微笑みだった。
それから俺と美作専務は、他愛もない話をしながらグラスを傾け続けた。語り合い笑い合ううちに、本社専務という肩書きは何処かに吹き飛んで、いつしか友人と話しているような気持ちになった。
それがいいのか悪いのか、そこの判断は曖昧だ。けれど、それは本当に楽しい時間で、俺は美作あきらという男をとても好きになった。
そろそろ戻りましょうか、と専務が腕時計を見た時、この時間が終わってしまうことを少し残念に感じ、それと同時に、大切な話がまだだったことを思い出した。
「専務、実はひとつ謝らなければならないことがあります」
椅子から立とうとしていた専務の視線が真っ直ぐに俺に向けられる。
「今日、専務がお帰りになられた後、牧野さんと話をしたんです。私の勝手な判断で、私と吉田社長に話してくださった専務の気持ちを牧野さんに伝えました」
「……ああ、あの話を」
「はい。全てが動き出す前に牧野さんに知ってほしいと思いました。その上で、もう一度仕事をする意味を考えてほしいと。そうしなければ後で牧野さんが後悔してしまう気がしたので」
専務はふっと笑い、くしゃくしゃっと髪を掻きまぜた。
「本当にすみません。余計なことだと思いつつも、どうしても言わずにはいられなくて」
「牧野の事を考えて話して下さったことですから。謝らないで下さい。むしろ感謝しなければならないくらいです。ただ……」
そう言って、専務はもう一度小さく笑い、髪を掻きあげる。
「ちょっと恥ずかしいですね。さらっと彼女の望みを叶えるつもりだったので」
「……申し訳ない」
「いえ、いいんです。――それで」
専務はすっと真剣な眼差しを俺に向けた。
「牧野は、何か言ってましたか?」
「あー……泣いてました」
きっと、その答えは専務の中に予想としてあったのだろう。ほんの少し眉を下げて微笑んだだけで、それ以外に目立った反応はしなかった。
「専務が牧野さんを大切されているのと同じように、牧野さんも専務を大切に想っているんだなあって……それがダイレクトに伝わってきて」
大粒の涙を流す牧野さんが脳裏に浮かぶ。
「目の前でポロポロと泣いてる姿を見て、何をどうしてあげたらいいのか……困り果てて、思わず木下を呼んでしまいました」
「木下さんですか?」
「私では完全に役不足で」
専務は俺をじっと見つめて、それから小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「いえ、迷惑をかけているのは、むしろ私のほうです」
「平野部長が、ですか?」
俺は頷く。
「私が口出しする必要なんてなかったんです。時間が経てば経つ程、そう思います」
「……」
「二人の間できちんと成り立っているものに私が手を加えてしまったんです。牧野さんを必要以上に悩ませてしまいましたし……余計なことをしました、本当に」
後で後悔してほしくない、なんて感情は、後悔だらけの俺基準で、二人の基準でなかったのに。
二人の歩もうとしている道は俺なんかでは想像し尽くせないくらい険しくて、それでも懸命に進んできた彼らなのに。そしてこの先も、懸命に進もうとしている彼らがいるのに。
「だからといって今更取り消すことも出来ませんから、牧野さんをお願いします、と頭を下げるしかないのですが……私がそんなことをお願いするのさえ、なんかおかしなことですよね。……本当にすみません」
謝る俺に、専務はふっと笑みを零した。
「だから、謝らないでください、平野部長。謝られるようなこと、何もないですから」
「……」
「たしかに牧野は今悩んでいるかもしれません。でも、いずれ悩まなければならないことです。今悩むか、後で悩むか。それだけのことなんです」
「でも、今悩まなくてもいいと思ったから話してなかったんですよね?」
「まあもちろんそうですけど……あと半分は、格好つけたかったのかもしれません。君の望みは何でも叶えるよ、ってね」
美作専務はおどけたように笑う。
「大丈夫です。牧野はきちんと浮上するし、彼女なりの答えに辿り着きます。あいつはそういうやつです。しかも牧野は一人じゃない。――今日これから、牧野と会います」
「……」
「だから、大丈夫です」
美作専務は優しい。でもそれだけではなく、絶対に大丈夫という自信もきちんと持っている。どこまでも深く確かな愛情と、信頼関係がそこにはある。
だから俺は心から安堵してもいいのだろう。本当に本当に、大丈夫なのだろうから。――それでも、一つだけ確かめておきたかった。
「もし牧野さんが、やっぱり仕事は辞めると言ったら……?」
専務は微笑んで、言った。
「それが本心かそうでないかを見極めます。それだけです」
――この男には敵わない。
それがわからなくて多くの苦労をするというのに。
それをさらりと言ってのける美作あきらは、腹が立つくらい格好良い。
行きましょうか、と席を立ったその背を見ながら、感動にも似た想いを抱えた。