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ここから始まる未来の僕へ
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of HIRANO)
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「では戻ります。吉田社長、平野部長、いろいろご面倒かけますが、よろしくお願いします」

 牧野さんは一礼して出口へと向かった。
 そのまま出て行くだろうと思った俺は、意識を美作専務に向けた。
 その時、「あ、」と小さな声がした気がした。それは、何かの物音を聞き間違えたのではないかと思えるほどの小さな声だった。けれど美作専務がいち早く反応した。

「牧野、どうした?」

 そこで初めて、やっぱり聞き間違いではなかったんだ、と思った俺は、反応が鈍すぎるだろうか。いや、隣の社長も同じようなものだったから、美作専務がひどく早かったのだと思う。
 俺も社長も牧野さんの背中を見つめる。彼女は振り向き照れ笑いを浮かべて、なんでもないと言った。プライベートなことを思い出しただけだと。
 なんだそうか、と俺はそれだけを思ったけれど、美作専務は違った。

「すみません、ちょっと失礼します」

 俺達に一言断りを入れて、すっとソファを立つとそのまま牧野さんの元へと歩いていった。
 そうして二人が話をするその光景を、俺と社長は見守る形となった。
 何も気にせず知らん顔でいることも、俺と社長で何気ない会話を交わすことももちろん出来たはず。けれどどうしても意識はそちらへ向いてしまい、離れてはくれなかった。
 ひそひそと話す二人の小さな声が時折漏れ聞こえてくる。
 聞いていいのか、いけないのか……迷う心とは裏腹に、耳はその声を捉えた。

「……ちょっと前に類がメール……夜パーティー……」
「……くくくっ。おまえ……な」
「だ、だから言ったじゃん!」
「くくくっ。……俺はまた……心配が……」
「……」
「いや、いい。……ずっといい。………類からの……だけ?」
「……予定を空ける……。……総二郎に……って書いて……。なんであたしに………」
「……プレッシャーだよ。何が何でも……。……牧野を介した方がより……」
「……まったくもう……やって」
「いや……。さすが……。……者は総二郎かもし……」

 ぴくり、ぴくりと隣の社長が反応しているのは、おそらく時折漏れ聞こえる名前だろう。「類」やら「総二郎」やら……先程まで四人でしていた会話の中で道明寺財閥の御曹司の名前が出てきたくらいだから、その状況とこの社長の様子から察するに、今登場している名前も相当な大物なのだろう。
 俺がその名前から思い当たるのは、西門総二郎という茶道の次期家元くらいなのだが――先日読んだ雑誌でたまたま特集が組まれていた――……もし会話に登場する人物がその人なら、これまたとんでもないことだ。確かに年齢は専務くらいだった気がするから、あり得なくもないのだけれど。
 ただ俺はそうした名の知れた大物に詳しくない。だからそれよりもむしろ、二人の放つ雰囲気に呑まれていた。
 美作専務の、牧野さんの声に反応して近づいていく後ろ姿。目や表情をきちんと見て話を聞こうと小さく背を丸めて彼女を見下ろす姿。その会話に楽しそうに笑う横顔。
 全てが眩しいくらいに輝いて見えた。
 その視線の先の牧野さんは、表情をコロコロ変えながら活き活きと話している。首を傾げたり口を尖らせたり、笑顔じゃない表情や仕草でさえも、幸せが滲み出ているように思えた。

 ――二人は、たくさんの時間をああして共有して、関係を深めてきたんだな。

 胸の奥がじんと熱くなるような感覚をはっきりと感じて、更にその奥にある俺自身の傷が痛かった。

 やがて二人は話を終えて、美作専務は「お待たせしました」と言いながら戻ってきた。
 再びソファに座った専務は、席を立つ前よりも遥かに柔らかい雰囲気を身に纏っていた。
 牧野さんと普段通りの会話をした、その余韻だろうか。
 そう思った途端に、二人の関係がリアルなものとして心の内側に浸透していく気がした。
 今俺の目の前にいるのは、本社専務ではなく、美作あきらという一人の男性なんだ。
 そのことを強く強く感じた。

「吉田社長も平野部長も、どうもすみませんでした。突然のことで驚くばかりですよね」

 柔らかな笑みと共に投げかけられたその言葉は、俺と社長の心をそのまま映し出していた。
 だからと言ってそれに素直に頷いていいものか迷った俺は、思わず社長の顔を見る。社長も複雑な笑みを浮かべていて、それを見た専務が再び柔らかに「いいんですよ。驚かれるのは当然ですから」と言った。
 その表情と声はとても穏やかで、「何の遠慮もいらない」とこちらに近づいてきてくれているようだった。
 きっとそんな専務の気持ちを社長はしっかり受け止めたのだろう。「それならば」と言うように口を開いた。

「余計なことを伺うようですが、美作社長にはいつ?」
「結婚の意思表示と了承は先週です。今月半ばからロサンゼルスに出張していたんですが、そのまま父の居るロンドンに行きまして、そこで。まあ正確には、『プロポーズするから、うまくいったら会ってくれ』って宣言をしただけなんですが」
「そうでしたか。……もしかして、それで美作社長は突然日本に戻られたんですか?」
「おっしゃる通りです。あー……これは謝罪しなければならないことですが。パーティーに突然招待したのも、一刻も早く牧野に会いたかった父が仕組んだことでして」

 申し訳なさそうな専務に、社長と俺は「あー、なるほど」と大きく頷いた。

「牧野との交際自体は随分前から知られていて、会わせてほしいって言われていたんです。でもずっと会わせていなくて……プロポーズすると告げたことで我慢も限界に達したようです」
「そうでしたか」
「ええ。ただ、私は招待したことを知らされていなかったもので、いろいろ予想外のトラブルに見舞われましたが」
「……もしかして、大木社長のお嬢さんの件ですか?」

 専務はバツの悪そうな表情を浮かべて頷き、くしゃりと髪を掻きあげた。「こんな話をするのはお恥ずかしいかぎりなんですが」と断った上で、見舞われた予想外のトラブルについて話してくれた。
 牧野さんの存在を知らずに大木社長の娘さんをエスコートしてしまい、牧野さんをひどく傷つけてしまったこと。携帯電話の故障というトラブルも重なって二人の間がギクシャクしたこと。

「連絡が途絶えて不安になってるところへ全然知らない女をエスコートして現れたわけですからね。どれだけ深く傷つけたか……。プロポーズどころか最悪の方向へ進むんじゃないかと、正直焦りました」
「でも、誤解は解けたんですよね?」
「はい。私の話をきちんと理解してくれて、結果的にはプロポーズも受けてくれましたけど……でも、すぐにその傷の全てが癒えるわけではありませんから」

「全ては私の責任なのですが、彼女が会場にいる理由を知った瞬間は、思わず父を責めましたよ」と小さく笑みを零す美作専務は、牧野さんを本当に大切に想っている。
それがダイレクトに伝わってきて、その姿勢がやけに男らしく格好良く思えた。

「すみません。すっかりプライベート過ぎる話になってしまいました。この話、牧野には内緒にしておいてください。そんなことまで話したと知れたらきっと怒るので」

 苦笑交じりに言い、俺達が頷くのを見ると小さく頭を下げた美作専務は、足元に置かれた鞄からファイルを取り出し、俺達の前へと差し出した。

「わかる範囲での今後の私のスケジュールです。牧野が関係するだろうものには印をつけてあります。もちろん更に増えて行くとは思いますが」

 社長は数秒そのファイルをじっと見つめ、それからゆっくりと手を伸ばした。そして開く前に「拝見してもいいんですか?」と訊く。そのために出してくれていることはわかっているのだが、本当に見てもいいのだろうかと今一度確認してしまう社長の気持ちが、俺にはよくわかる。
 本社専務のスケジュールを見ることなど普通ではあり得ない、かなり異例なことだから。
 専務はもちろん頷いて、「信頼してますから」と笑った。
 それは、大きな信頼感と重い責任感を与えるもので、身の引き締まる思いがした。
「では拝見します」とまずは社長がファイルを開く。パラパラと捲りながら「お忙しいですね」と呟くように言うと、専務は小さく肩を竦め、涼やかに笑みを浮かべた。

「たしかに暇ではないですね。でも吉田社長だってお忙しいじゃないですか」
「いえ、私なんて専務に比べたら全然。あれやれこれやれと好き勝手言っているだけですから」

「な、平野部長?」という言葉と共にファイルを渡された俺は、まさかここで振られると思っていなかったので瞬時には言葉が出ず、「え、いえ、そんなことは」と、なんとも気の利かない在り来たりな言葉を並べることしか出来ない。
 おそらくそうなるだろうことを予想していたであろう吉田社長はニヤニヤと笑い、美作専務は相変わらず爽やかな笑みを浮かべて「それが社長の仕事ですから。うちもそうですよ」と言った。
 何ともさりげない、けれど的確なフォローで、俺は救われた思いがした。
 その感謝も込めて小さく頭を下げ、それから手渡されたファイルを開く。ざっと全体を見ただけで、社長が呟いた「お忙しいですね」の言葉の意味が良くわかる。
 そこには一年先までのスケジュールが記されていた。細かく見て行けば、そんな先のこんな予定が今から決まっているのか、ということもあったりして、驚きは増すばかり。
 更にここに日々の細かなスケジュールが加わるかと思うと、彼が日頃どれだけ忙しくしているのかを容易に想像出来る。――いや、容易なのは「忙しいだろう」と想像することだけで、その度合いはどんなに想像しても想像しきれないのだけれど。
 そして何よりも驚くべきは、このスケジュールをこなしながら牧野さんとの関係を深めてきたという事実だ。

 ――一体いつ会うというんだ、こんな中で。

 専務という肩書を背負ってはいるけれど、彼は入社してまだ二年足らずの人間だ。慣れない仕事や慣れない環境に必要以上に緊張して必要以上の疲労を蓄積させる、という新入社員なら誰でも通る道を彼も通ってきたはずだ。
 一年が経ち、ようやく流れを掴めたであろうその春に、彼は課長に昇進している。そしてそれから半年で専務になった。
 異例の出世の理由は、彼が美作商事の後継者だということはもちろんあるのだが、それ以上に、その能力を認められての出世だと聞いている。

「彼は凄いよ。名前だけのボンクラな跡継ぎだったら面倒臭いだけだと思ってたんだけど、取り越し苦労だったよ。謙虚だし勉強熱心だし、他の同年代の社員達とは土台も姿勢も全然違う」

 仕事を通して親しくなった本社の社員がそう言っていた。
 もちろん、後継者としての教育を受けているということもあるのだろうけれど、見えないところでも相当努力してるはずだ、と。
 きっとその通りだと思う。彼は常に努力を重ねている。努力して努力して、今の肩書を懸命に背負っている。
 このスケジュールに反映されないところでも、きっと相当な時間を仕事に費やしているに違いない。
 そんな中で――いや、その上で、彼は牧野さんと寄り添って来た。

 ――どうやって?

 俺は、仕事に懸命になるあまり、それ以外のことが疎かになってしまった。誰よりも大切に思っていたはずの香奈美を傷つけて、その傷に気付いてやることも出来なかった。
 人と比べてもどうなるものでもないけれど、でも専務と比べたら、ずっと時間はあったはずなのに。

「専務と牧野さんは、同棲されてたりするんですか?」
「え?」

 ハッとして顔を上げると、こちらを見つめる専務と目が合った。
 その言葉は意識的に吐いたものではなく、ポロリと出てしまったものだった。

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