Prologue / 01-05 / 06-10 / 11 / Epilogue
春よ、来い
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of MOE)
Epilogue
「それにしてもよく降りますねえ」
「どうしたの、突然」
「もう三日も雨が続いてるんですよ? せっかく春になったっていうのに」
「春の長雨って言うからねえ」
「たしかに言いますけど。もう桜も咲きそうなのに、この雨じゃすぐに散っちゃいそう」
「あー、それは嫌ね」
「早くカラッと晴れないかなあ。五月晴れが待ち遠しい」
「でも、そしたらあっという間に梅雨の季節が来るわよ?」
「うわー、そうでした。ますます嫌ですね、ジメジメして。こうなったら、早く夏が来ちゃえばいいのに」
「……そういう意味じゃなかったんだけどな」
「え?」
「うーん。だってほら、梅雨が来て夏が来るってことは、その頃にはもう――」
「やだなあ、涼子さん。もうとっくに覚悟は出来てますよ、というか、今さらそんなことで悶々としたところでどうにかなるわけもないし。そんなのずーっと前に気持ち切り替えてますよ」
「……萌ちゃん、大人になったのねえ」
「そうですよ。だって私、秘書課だってもう三年目になったんですから」
「そっか早いねえ。……てことは私もう八年目?」
「えーっと、あ、そうですね」
「うわー。八年だって。あっという間。まさか八年目の春もここに座れてるなんて」
「たしかに。でも良かったですね。涼子さん、ここに座るのが一番好きって言ってましたよね」
「うん。だから嬉しいよ」
「やっぱりこれって、美作専務がそうしてくれたんですかね」
「秘書課長にははっきり教えてもらえなかったんだけど、多分間違いないと思う」
「良かったですね、涼子さん。食事会のたびに専務に言い続けた甲斐があったってもんじゃないですか」
「たかが食事会、されど食事会ってことよね。まあ、美作専務じゃなきゃ動いてくれなかっただろうけど……っと、この話はまたあとで」
「え? ……あっ」



 私には、かけがえのない日常がある。

「「おかえりなさいませ」」
「お疲れ様」

 頭を下げたその頭上に響く声。立ち止まることなく歩き去る影。その気配をきっちり感じ取ってゆっくり頭を上げる。そこに広がるのは、普段通りの光景と空気を揺らした彼に似合いの甘い残り香。
 ――でもその日常に、今は時折変化が生じる。

「いらっしゃいませ、牧野様」
「こんにちは。いつも仕事中にお邪魔してすみません」
「いえ、とんでもありません」

 私達が顔を上げるのを律儀に待っていただろう彼女がにこりと微笑んで、そして手に持っていた大きな袋を両手でカウンターに置いた。

「これ、今食事してきたレストランのケーキなんですけど、よかったらおやつにでも」
「え、私達にですか?」
「はい、秘書課の皆さんで」
「わあ、ありがとうございます」
「すっごく小さいケーキなんですけど、四十個入ってます。……足りますよね?」
「足りないわけないだろ? 俺が数を指定したんだから」

 立ち止まらずに少し先まで歩を進めていた彼が、足を止めてこちらを振り向きそう告げた。その言葉に「そうでした」と笑う彼女。

「今日初めて店頭に並べた新作だそうです。ここのケーキはハズレがないので、きっとこれも美味しいと思います。実はあたしもまだ食べてなくて、あとでおやつに――あ、そうだ、ちょっと失礼します」

 彼女は言いながら、カウンターに置いた大きな袋の中から小さな箱を取り出して、「あたしの分も一緒に買ってもらっちゃいました」と嬉しそうに抱える。「味は保証できちゃうんですけど、すっごく小さいので皆さん一つずつじゃ物足りないだろうなあって、それだけが気掛かりで」とほんの少し眉を寄せた時、再び彼の声。

「ほらつくし、行くぞ」
「あ、はーい」

 彼女は私達に「では、しばらくお世話になります」と頭を下げて、そしてパタパタと駆けていき――実際には上質な絨毯が敷き詰められているので、音などしないが――、あっという間に彼の隣に並んだ。

「ねえねえ、この箱には何個入れてもらった?」
「たしか、四個。四種類を一個ずつ」
「あきらさんはどれがいい?」
「どれでもいい。というより結局つくしが全部食べることになる」
「え、あきらさんは?」
「俺はほんの一口でいい。さっきのランチで満腹だしな」
「うっそ。相変わらず食が細いなあ。そんなんじゃすぐスタミナ切れになっちゃうよ?」
「あのなあ、何度も言ってるけど俺は普通――……」

 私達が腰を下ろすのとほぼ同時に、少しずつ遠ざかっていた二人の楽しげな声が扉の向こうに完全に消えた。そこに残り香などはないけれど、代わりにどこか暖かな風が吹き抜ける。


 美作くんが選んだ「牧野つくし」という女性は、これといった特徴のない、どこまでも自然体な本当に普通の一般女性だった。一見それは非難めいて聞こえるかもしれないが、そんな想いは全くない。むしろそれこそが何よりも凄いことなのだと、最近しみじみ感じている。
 普通であるがゆえに普通の痛みを知っている。普通であるがゆえに普通の喜びを知っている。ここにいる誰よりも平等で、誰よりも一人ひとりに親切で優しい。
 なぜ彼が彼女を選んだのか。なぜ彼には彼女でなければならなかったのか。
 美作くんが一般人の彼女を選んだ事実は、この秘書課でこそ最初からある一定の理解を得られていたが、この会社に関わる全ての人間、誰もが諸手を上げて喜べることではなかった。あちこちから懐疑的な声が上がり、真正面から反対する人達や、なんとか破談にしようと躍起になった人達もいた。私が知るかぎりにおいても、美作くんはその対応にずいぶん悩み、藻掻いていたと思う。それでも美作くんは――二人は決して互いを離さなかった。どんな時も共に寄り添い、立ち続けた。
 今はもう、二人の決断に疑問を呈するような人間はいない。美作あきらという人間を形成するすべてにおいて、彼女の存在が必要不可欠だとわかるから。


「もうすぐなのね、美作専務と牧野様の結婚式」
「そうですね。あっという間に来ますね」

 桜が咲き、木々に葉が生い茂り、雨の季節が来る。
 美作くんと牧野様は正式に夫婦となり、もう「牧野様」と呼ぶことのない日々がやってくる。
 それでも、私の日常は変わることなく続いていく。変わることなく、かけがえのない日常が。

「ねえ萌ちゃん」
「はい」
「今でも好き? 美作専務のこと」
「……はい、好きです。特別な存在です。今でも」

 美作くんと呼んでいたあの頃も、美作専務と呼ぶ今も。彼が独身でも既婚でも、その気持ちがなくなることなどきっとない。

「でも、」
「でも?」

 私はすっと息を吸って言葉を吐き出す。

「この気持ちは、憧れです。前と同じじゃありません。だって私、大切だと感じられる人、他にちゃんといますから」
「え、それってもしかして――」
「まだ秘密です。でも、いつかきちんと話します。その時は聞いてくださいね」
「……大人になったねえ、萌ちゃん」

 目を細めて私を見る涼子さんに、「ケーキ、冷蔵庫に入れてきますね」と笑顔を向けて私は席を離れた。


 いつか――いつか私にも春が来る。
 穏やかな幸せが。光り輝く幸せが。
 それまでひたすら前進あるのみ。変わることない、けれどかけがえのない毎日を、笑顔で前へ進むのみ。


 春よ、来い。
 この日常を進む先のどこかに、私だけの満開の花が咲き誇りますように。
Fin.
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2013.04 春よ、来い
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