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東雲色に漂えば
COLORFUL LOVE
2

 つくしは、ガバッと起き上った。
 記憶の間の靄が一気に晴れた。と、同時に、顔から火が噴いた。その恥ずかしさと言ったら先程とは比べ物にならない。

 ――うわーっ! あたし、何言ってんだろう。もーうっ! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎるっ!

 大慌てのつくしは、今さらながら身なりを確かめる。しっかりパジャマを着ていることがわかると、安堵のため息を吐いて、そしてハッと我に返ったように動きを止めた。
 静まり返る部屋の中。恐る恐る振り返ったつくしと、呆気にとられたようにその様子を見ていたあきらの目が合った。

「……ぶっ! くくくっ、あはははっ!!!」

 もちろん、笑ったのは、あきら。

「おまえ、慌てすぎ。くくくっ」
「だって……」
「くっくっくっ。そんなに慌てなくても大丈夫。抱いてなんていないよ」
「そ、そうだけど。それだけじゃなくて……うー……」

 この恥ずかしさから、どうにか逃れる方法はないものだろうか。
 つくしは頭を抱えて小さくなる。
 散々笑ったあきらは笑顔のままつくしの腕を優しく掴むと、自分のほうへと引き寄せた。バランスを崩したつくしは、うぎゃっ、となんとも色気のない奇声を発して倒れこみ、その温かな腕に包まれた。
 腕に抱え込まれてしまえば、朱に染まる顔を見られることもない。つくしは心の奥底でホッとしながらも、未だ消えない羞恥心に「あー……、うー……」と言葉にならない声を発しながら、その腕の中で、傍から見れば小さく、本人的には盛大に見悶える。

「そんなに恥ずかしがらなくていいだろ」
「恥ずかしいものは恥ずかしい」
「なんで」
「だって」
「俺は、嬉しかったよ」
「……」

 柔らかな声だった。
 あまりにも柔らかなその声に、つくしは思わず押し付けるようにしていたその胸から顔をあげて、あきらの顔を見る。優しい瞳がつくしを捉えて、さらに優しく微笑んだ。

「すごく嬉しかった。俺の部屋がいいって言ってくれたこと」
「み、まさかさん……」
「俺、今夜日本を発つだろ? どんなにスケジュールを調整しても、たっぷり二週間は帰ってこれない。ということは、それだけ牧野に会えないってことだ。そう思ったら、無性に牧野を抱いて眠りたくなって、寝てるおまえに思わず訊いてた。いつもの部屋でいいか、って」
「……うん」

 あきらは、今夜からヨーロッパ出張へ行くことが決まっていた。イギリス、フランス、イタリア……と、半月かけていろいろなところを回るらしい。
 新年会がなければ、二人でゆっくり過ごす予定でいたつくしは、みんなで過ごせることが嬉しい反面、あきらと二人きりで居られないことを、そのすべての時間を二人だけのために使えないことをほんの少し寂しく感じていた。
 だから、夢心地の中であきらに問われた時、思わず「一緒にいたい」と言ったのだろう。
 そして今、そんな寂しさを感じていたのは自分だけじゃないことを知って、言葉に出来ない想いが湧きあがってくるのを感じた。

「たかが二週間。されど二週間、だよな。ここのところ、そんなに長い出張なかったもんな」
「うん……」
「先月のも五日くらいだったし。しかもあれからまだ十日も経っていないし……」
「うん……」
「さすがに、この二週間は長く感じそうだ」
「……」

 たかが二週間の出張。けれどあきらの言うとおり「されど二週間」だと、そう思ったら、じわじわと寂しさが身に沁みた。
 あきらの優しい声と腕の温もりも手伝って、なんだか泣きそうになって、思わずあきらの首に腕をまわして抱きついた。
 そんなつくしを、あきらもぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫か?」
「もーうっ! 大丈夫だったのに! 美作さんがそんなこと言うから、すっごく寂しくなってきちゃったじゃない」
「ごめんごめん。二週間なんてあっという間だよ」
「たった今、されど二週間とか言ったのは誰よ。美作さんのバカっ」
「悪かったよ。連絡ちゃんとするから。時間みつけて電話する。……あー、今度はちゃんと出てくれよ?」

 悪戯めいた声であきらが言うのは、十日ほど前の出張中のことだろう。ケンカというには一方的につくしが感情をぶつけただけだったが、つくしがあきらからの電話を一切拒否したことで、あきらは相当ヤキモキさせられた。

「で、出るよ! あの時は……その……」

 ごめんなさい、と小さな声で謝るつくしに、あきらはくすりと笑みをこぼし、その頭を優しく撫でた。

「時差があるからなあ。いつ電話出来るかわからないけど……早朝になったらごめんな」
「ううん。いつでもいい。それに、忙しかったら無理しなくていいよ」
「大丈夫だよ。単なる視察だしそこまで忙しくないから、そのくらいの時間、どうにか作る。日本が真夜中だったら、メール入れるよ」
「起こしていいよ」
「起きないだろうが」
「起きるもんっ」
「はいはい」
「あ、信用してない」
「してるよ。でもそんな無理に起こすのは気が引ける」
「平気。起こしていい」
「……はいはい」
「あ、やっぱり起きないと思ってるでしょ」
「あはは」

 耳と身体に直接響くあきらの声が心地良い。小さく笑う振動も。
 寂しさが優しさで、少しずつ色を変えていく。

「試験勉強して待ってるね」
「あー、そうだったな。最後のテストか」
「うん。もうほとんどないんだけどね。卒論も出したから、勉強に集中できる」
「牧野は貪欲に講義受けまくったからな」
「人様のお金だもの。無駄になんて出来ないよ」

 しまった、と思った。
 人様のお金、は司のお金。決して意図的ではないのだけれど、その会話に司を感じたのはたしかで、ほんの僅かに空気が緊張した。
 司とつくしが恋人同士だったのは、もう過去の出来事。あきらもつくしも、司との関係は普通に築いているし、幼馴染の関係も、友達関係も、何一つ変わっていない。それでも、なんとなく――ただなんとなく、まだ特別なのだ。やっぱり。
 こういう時は言葉を重ねれば重ねるほど、不自然になっていく気がして、いつも何も言えない。何も言わずに、空気が和らぐのを待つ。
 こればかりは、まだ、どうしようもない。

「Un ange a passe.」

 少し気まずい沈黙に、異国の言葉が響いた。
 あきらの優しい声に乗ったその言葉は、空気を和らげるのに十分だった。
 つくしの中からも緊張が溶け出る。

「あ。たしか『天使が通る』だったよね?」
「うん。知ってたか」
「前に美作さんが貸してくれたフランス語の本に書いてあった。会話が途切れた時に言うんでしょう?」
「ああ。よく覚えてたな」
「なんか素敵だったから。気まずい沈黙もこの一言があったら生まれ変わるなあって。……あ、でもね。あたし、美作さんとの沈黙、嫌いじゃないよ。むしろ好きかも。なんか、いいんだ」
「俺もだよ。俺も、牧野との沈黙は嫌いじゃない。やっぱり、むしろ好き」
「ほんと?」
「うん。――だから、黙ってもらおうかな」
「え?」

 あきらは体を反転させて、つくしの上に覆いかぶさった。まっすぐ見下ろされたつくしは、息をのむ。
 これから始まる何かの予感に胸を締めつけられ、たまらず彼の名前を口にした。

「美作さ――」
「しーっ。――Un ange a passe.」

 囁きと共に、あきらの口付けがつくしを包む。優しく啄ばむように何度も何度も繰り返される口付けを、ひとつ、またひとつと受け止めていくうちに、つくしの中で想いが膨れてゆく。
 だんだん深く長くなっていく口付けに、胸の奥で膨れた想いに火が灯り、徐々に広がるその感覚に、眩暈にも似た何かがつくしを襲う。
 その時。あきらの唇が離れた。
 目を開けると、すぐ前にいつもと変わらない優しい瞳。
 見つめ合うこと、たっぷり十秒。
 つくしの口がゆっくりと動いた。

「美作さん、止め――」
「止めない。このまま抱くから」
「……え?」
「俺、そう言ったよな? 今すぐ抱きたい、って」
「……」
「抱きたい。――今すぐ」

 最後の言葉は掠れて口付けへと吸い込まれた。再び塞がれた唇は、今度は息継ぎさえも許されない。
 注がれる愛に、熱に、薄闇の世界が白く変わってゆく。


 遮られた言葉は、「止めて」と言いたかったわけではない。多分、「止めないで」と言いたかった。
 本当に言えていたかは、わからないけれど。
 昨夜、「抱きたい」と言ったあきらに、「うん」と答えたのは、つくしなのだから。





 沈黙は、やがて吐息で彩られ、甘く優しく漂うだろう。
 つくしが真っ白な世界で眠る頃。
 天使は空へと昇るだろう。
 やがて訪れる東雲色の空へ。

Fin.
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―― 東雲色(しののめいろ)――
夜明けの東の空の色のような浅い黄赤色。
日本の伝統色の一つ。曙色。
2009.01 東雲色に漂えば
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