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秋色より尚、深く
COLORFUL LOVE
2
「牧野」

 どれくらいそうしていたのだろう。
 ふいに、あきらの声がした。

「待たせたな。双子とハーブを邸へ置いてきた。俺達が通って来た道とは別に邸への近道があるんだ。もう無茶を言うやつはいないから安心しろ」

 その言い方がなんだか可笑しくて、つくしはコスモスを見つめたまま、小さく笑った。

「コスモス、堪能できたか?」

 あきらの思いやりの言葉に、つくしは小さく頷いた。

「コスモスって、案外いろんな色があるんだよな。ここにあるのは、おふくろの趣味で集められたものばかりだから、珍しい色が特に多いんだよ。これ、ちょっと匂い嗅いでみろよ」

 あきらの指が触れたのは、しゃがんでいるつくしの左側にある黒紫色の花。
 言われた通りそっと鼻を近づけると、ほのかに甘い香りがした。

「なんか、甘い香りがする。チョコレートみたい」
「そう。これ、チョコレートコスモスって言うんだ」
「……あ」

 さっきの双子の言葉の意味が、今わかった。

「わかっただろ? さっき言ってたのは、このコスモスのこと。これをおまえに見せたかったんだよ、あいつら。匂いのことまで教えなきゃ何のことだかわからないよな」

 チョコレートが食べたいね、とはしゃぐ双子の姿が浮かんで、しかも同じことを思った自分がいて、つくしは思わずくすりと笑った。

「でも、わかる。今あたしも同じこと思った」
「やっぱりな。この花が咲き始まってからあいつらに何度も何度もそれを言われて、その度に、牧野も絶対同じこと言うなって思ってたんだ」
「そうなの?」
「ああ。だからこの秋の間に、この花を見せたいって俺も思ってた。……花が終わる前に見せられて良かった」

 嬉しそうな笑みを浮かべるあきらに、そうだったんだ、と頷きながら、つくしはある疑問を抱いた。
 つくしはこの一ヶ月、毎日のようにここを訪れていた。

 ――なのに、なんで、今日なの?

「ここに、――東屋の前に連れてくるのが躊躇われて、今まで見せられなかった」

 まさかの展開になっちまったけどな、と苦笑い付きで欲しい答えが降ってきた。

「……またお見通し?」
「今度は声に出てた」

 考えていることが実際に声になって出てしまうのは、つくしの癖。こればかりは、いつまでたっても治りそうにない。

「俺、総二郎と一緒に悪ふざけなことしたから。ここは、おまえの中で良い思い出ばかりでもないだろうし、今は特に思い出したくないこともあるかもしれないし……な」

 この人は自分を心底心配している。表情から、言葉から、つくしはそれを強く感じた。

「悪かったな、いろいろ」
「いろいろ、って?」
「双子がわがまま言って引っ張ってきたこと。それを止められなかったこと。ここで一人待たせたこと。それから……あの時のこと」

 バツの悪そうな表情でつくしを見るあきらの瞳があまりにも優しくて、ふいに、胸の奥から何かが込み上げてきた。
 つくしは咄嗟に顔を背けた。涙が、今にも溢れ零れてしまいそうだった。

 司に別れを告げたあの日。
 つくしはあきらの腕の中で思いきり泣いた。泣いて泣いて、瞼が腫れ上がって目が開かなくなるまで泣いて、そしてそれ以来、泣くことはなかった。
 切なくて苦しくて泣きたい時はたくさんあったのに、心が泣いていると感じる瞬間もあったのに、どうしてか涙だけは出なかった。
 常に胸に何かが痞えているような気がして、苦しくてたまらなかった。
 思いきり泣いたら、この痞えは取れるのだろうか。それとも二度と立ち直れなくなってしまうのだろうか。
 根拠も意味もない考えが頭の中をよぎって、やっぱり涙は出なかった。

 それが、今つくしは涙が零れそうになっていた。
 あきらの優しい瞳を見た。それだけなのに。
 戸惑っていた。頭も心も追いつかない。追いつかないまま見える景色だけがぼやけていく。

「どうしよう」
「何が」
「泣きたい。胸に何かが痞えて、苦しい」

 考えるよりも先に、言葉が出ていた。

「どうしよう。どうしたらいいんだろう?」
「なんだ、そんなこと。簡単だろ? 泣けばいい。そしたら楽になる」
「でも二度と立ち直れないかもしれない」
「大丈夫だよ。痞えてるものを出したら軽くなる。そしたら重くて俯いてる頭も上がる。立ち直れないと思うくらい重い心も軽くなるに違いない」
「……無理だよ。立ち上がり方がわかんないんだもん、あたし」
「大丈夫、一人じゃない。――俺が、いる」

 優しい言葉が響いた。

「頑張り過ぎるなよ、牧野。雑草のつくしだって、踏まれたら折れるし、折れたら痛いさ。そんなすぐには起き上がれない。でも、またちゃんと芽を出す」
「……」
「いっぱい泣いたら、また笑える。大丈夫。心配するな。一人で立てなかったら、俺が手を貸すから。もっと頼っていいんだから」

 あきらはつくしの両肩を支えて立ち上がらせるとそのまま引き寄せて、つくしの頭を自分の胸にコツンとつけた。「ほらな? 支えられたら簡単に立てるだろ?」とあきらが言った。
 刹那、あきらの纏う香水が鼻を掠め、あきらの言葉と共につくしの中にするりと入り込んだ。
 あの時も、そうだった。司と別れた、あの時も。
 抱きしめられていないまでも、今もつくしはあきらの腕の中にいて、あきらの胸に頭を預けるかたちになっている。
 あの時と同じ、驚きよりも、居場所のある安心感をつくしに与えた。

「ほら、泣いていいぞ」
「そんなこと言われても泣けないよ」

 本当は、もう涙が零れていた。声が僅かに震えていたから、あきらにはわかってしまったかもしれない。
 でも、強がりたかった。

「じゃあ、笑うか?」
「笑う?」
「ああ。がんばったなあ。って」
「……」
「真剣な恋愛、頑張ったなあってさ」
「……あの時もそう言ってくれたよね。がんばった、って」
「本当にそう思うから。少なくとも、多分俺のしたことのない真剣な恋愛してたよ、おまえ達。よくやるよなあって言いながら、ちょっと羨ましく思ってた、実は」
「……」
「よく頑張ったよ。だから、自信持って笑っていいんだぞ」

 あきらの腕の中、胸に預けている頭に直接響くその声は、とても暖かくて優しかった。
 ほのかに感じるあきらに似合いの甘くて優しい香りに包まれて、切なさでいっぱいだった心が癒されていく。

「……美作さん」
「笑う気になったか?」
「ううん、泣きたい」
「……うん」

 もう、強がる必要はどこにもなかった。





 泣きやんだつくしが顔を上げた時、コスモスの秋色は、闇に色を深めていた。
 そろそろ戻るか、と言ったあきらに、つくしはうんと頷いた。
 驚くほどつくしの心は軽くなっていて、表情からそれがわかったのか、あきらは微笑み、邸に向かって歩き出した。
 つくしはその後ろを歩きながら、目の前の背中に言葉を投げかける。

「美作さんは、真剣な恋愛しないの?」
「俺? 真剣な恋愛、ねえ……」

 こんなに優しい人だ。きっと相手を大切にするだろう。ワケアリばかりじゃなく、きちんと恋愛したらいいのに、と思った。
 この世界のどこかに、あきらの優しさを待ってる人がいて、あきらの優しさで格別な幸せを掴める人がいるはずなのに。あきらならば、絶対絶対幸せに出来るのに、と思った。

「好きで好きでたまらなくて、その気持ちが溢れて抑えられなくなったら」
「うん……?」
「それが、真剣に恋してるってことだよな」
「うん、そうだね」
「もし、俺にそんな時がきたら……」
「そんな時が来たら?」
「そしたら、溢れる全ての想いを相手に注いでみるよ」
「今まで、そんな出会いがなかったってこと?」
「どうかな」

 あきらは小さくやんわりと笑って言葉を続けた。

「でも次に感じた時は、きちんと向き合うことにする。逃げずに、な」
「それは、真剣な恋愛、するってこと?」
「……ああ」

 真摯な答えだった。心のどこかで適当に交わされるかと思っていたつくしは、自分で訊いておきながら、そんなあきらに少し驚いた。

「おまえも、またしろよ」
「あたし? ……出来るかな」
「できるさ」
「本当に?」
「ああ。牧野なら、絶対出来る」

 何の根拠もないその言葉がつくしの中で広がって、根拠のない自信に変わるのは何故だろう。

「そしたらあたしも、相手に注げばいいんだよね」
「そうだな」
「出来るかなあ」
「そうだなあ。おまえはそういうのが下手くそだからな」
「……美作さんだって、そうなんじゃないの? いつも相手のことばっかり考えて」
「……そうかも。――でも」

 立ち止まりくるりと振り返ったあきらは、まっすぐつくしを見た。

「これからは、そういう気持ちは譲らない。今、そう決めた」

 ゆっくりと浮かぶ笑みがとても綺麗で、思わず見惚れた。
 再び歩き出した背中を見ながら、あきらに真剣に愛される女性の幸せを思った。

 ――きっと、溢れるほどの幸せを感じるんだろうな。

 勝手な想像なのに、羨ましく思った。
 そんな自分が可笑しくて、ぷっと噴き出した。

「何一人で笑ってんだよ。ほら、行くぞ」
「はーい」

 まだ完全に立ち直れてはいないかもしれない。また落ち込むかもしれない。
 けれど確実に何かを乗り越えたつくしが、いた。


 秋の闇に揺れたのは、歩き出したつくしに移る甘くて優しい残り香だった。
Fin.
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2009.02 秋色より尚、深く
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