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赤き夢より覚める朝
COLORFUL LOVE
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 沈黙が流れる。
 あきらは何も言わなかった。あまりの驚きで声も出せないでいるのかと思ったが、言った直後に大きく見開かれた瞳がその後すぐに細められたのを見て、そうではなくて、この結末があきらの予想範囲内だったのだと思い直した。

「もっと驚くかと思った」
「驚いたさ。でも、あり得ないことじゃないからな」

 自分のした決断を、誰にも理解されないことほどつらいものはない。けれど、あきらはあり得ないことではないと言ってくれた。それがつくしを少しだけ楽にした。

「最後の連絡から、もう五ヶ月よ。五ヶ月間、何の音沙汰もなかったのに突然連絡してきたかと思ったら『婚約する』だって。だから当然、あたしとの婚約を破棄したいって言うんだろうと覚悟したのに、『約束の四年をあと一、二年延ばしてくれ。婚約はそのままで』って言ったのよ? そんな勝手な話、ある? 冗談じゃないわよ。これ以上振り回されるのはごめんよ。だから別れたの」

 つくしの口調は、至ってサバサバしていた。一切の迷いはない、と主張するように。

「ちょうど良かったのかもしれない。あたしも、付き合っているんだかいないんだか、この関係がわからなくなってたしね。このタイミングに別れることが出来て、むしろ良かったの」

 うん、とひとつ頷いて、つくしは再びあきらに背中を向けた。やかんにお湯を入れ、コンロに置く。勇ましいほどの動作だった。頷きもその動作も、必死に自分を納得させて気持ちを奮い立たせているように見えて、あきらはたまらない気持ちになっていた。
 道明寺財閥の業績不振や、数ヶ月前からつくしとの連絡が途絶えていることは、あきらも知っていた。その世界を知るあきらからすれば、司の身動きが取れない状態を理解するのは容易いことで、司の取った行動は理解できるものだった。

「牧野、余計なことかもしれないけど――」

 そう思っても、言わないわけにはいかない。つくしのため。司のため。「そうか、別れたか」の一言で終わらせるわけにはいかない。

「すべてを知ってるわけじゃないけどさ。俺が聞いたところでは、この婚約は、本当に財閥を立て直すためだけの婚約だぞ。そうすることがあいつにとって、おまえを迎えに来る最短の方法なんだ。だからあいつ、覚悟を決めたんだと思う。きっと、財閥が今の危機を脱したらすぐにでも――」
「婚約は即解消、必ずおまえを迎えにいく」
「……司がそう言ったのか?」
「うん」
「だったら――」
「だったら、何? この婚約には目を瞑れ? 気にするな? 気にするわよ。あんたたちには当たり前なのかもしれないけど、あたしには違うの」

 吐き捨てるようなつくしの口調に、あきらはガツンと頭を殴られたような感覚を覚えた。
 司がニューヨークに旅立って二年半。どんなに離れていても、会えなくても、つくしは司を信じて待っていた。連絡のなくなったこの数ヶ月間も、司の隣に立つ未来のためにと、努力し続けるつくしがいた。
 あきらは、それをよく知っていた。
 なんでもない風に平然と毎日を送るつくしだったが、いつでも司の動向を気にしていたし、心配していたのは明らかだった。「この関係がわからなくなってた」というのが本心だとしても、その関係を信じて大切にしていたのもまた事実なのだ。

「婚約する、なんて……四年の約束を先に延ばす、なんて……そんなに簡単に言わないでよ。そんな簡単なことじゃない」

 つくしの表情は見えないけれど、背中が深く悲しんでいた。痛いほどに。




 *




『別れるなんて、絶対認めねえからな』
「認めてくれなくても結構よ。別れることに変わりはないんだから」
『てめえで勝手に決めてんじゃねえぞ。俺達婚約してんだぞ。婚約ってのは、結婚の約束だぞ? わかってんのか?』
「その婚約は、他の人とこれから大々的にするんでしょう? 勝手に決めたのはどっちよ」
『だからそれは、形だけだって言ってんだろ? 財閥立て直すまでだ』
「立て直せなかったら?」
『絶対に立て直す。何年かかろうがやってやるさ』
「あたしがそう何年も待つとでも思ってるの? そんなの無理。もう別れよう」
『だから別れねえ。何度も言わせるな』
「あんたこそ、何回も言わせないで」

 どんなに話しても、二人は平行線のままだった。つくしはもうこんな会話を繰り返すのは厭だった。終わりにしたかった。何をどう話し合ってもその結論を変えることはないのだから。
 話し始めてから数度目の溜め息を吐き、つくしは携帯電話を握り直した。

「ねえ、道明寺」
『なんだよ』
「あんたには、未来が見えるの?」
『未来? なんのだよ』
「何年先になるかもわからない、この先どうなるかも見当もつかないような、あたしとの未来、きちんと見えてるの?」
『当たり前だ。見失ったことなんか一度もねえ』
「こんなに会えなくて、連絡も取れなくて、財閥は危機的状況で、立て直すために婚約発表しなきゃならないっていうのに?」
『それがどうした。関係ねえ。俺にはおまえとの未来しか見えてねえ。昔も今もだ』

 つくしの胸が打ち震えた。
 どんな状況にあろうと、司は司で、充ち溢れるほどの自信はいつだって輝いていた。司の真っ直ぐな心が、折れない強さが、心から好きだった。羨ましかった。
 自分にその強さがあったなら、そんな心があったなら、きっと二人で同じ未来を見続けることも出来ただろう。ただ前だけを見て進んでいけただろう。

 ――あたし、道明寺のそういうところ、好きだよ。あたしも、あんたのように未来を見続けたかったよ。

 それは、まぎれもない事実だった。
 胸が熱くなるのと反比例するかのように指先が冷たくなるのを感じて、ぎゅっと握りしめると、然して長くもない爪が掌にくい込んで痛かった。

「やっぱりあたしたちは、無理だよ。あたしはあんたと別れる」




 *




 コンロのやかんが、しゅんしゅんと鳴り踊っていた。つまみをカチリと捻ると急速に音は弱まり、ジリジリとした余韻を残した。チチ……チチ……、と今にも止みそうな名残だけが響く。
 その一部始終をじっと見つめていたつくしが、ようやく口を開く。

「あたしじゃ、ダメなの。あたしはあいつの役に立てない。悔しいけど、これが現実」

 婚約が司の望むものでないことくらいわかっている。でも財閥のため、先へ進むため、司はそれを選んだ。けれどもしかしたら、あの道明寺財閥なら、司なら、婚約なんてしなくても時間さえかけたら立て直すことも可能なのかもしれない。でもそれでは、時間がかかり過ぎてしまうだろう。今の司には、それだけの余裕がなくて、どんなことをしてでも急ぐ必要があった。
 それは、日本で司を待っている婚約者――つくし、がいるから。
 自分の存在が、司を焦らせている。
 司と話したつくしは、そう感じた。その婚約の本当の意図だったり、司本人や周囲がそれをどう解釈しているかは、つくしには正直わからない。世界が明らかに違うと思われるその核心部分については、わからないことが多すぎる。
 けれどつくしは、わからないから従おう、とは思えなかった。自分が司の足枷になっている気がして仕方がなかった。
 そう思ってしまったら、このまま自分が司と付き合い続けるのは、何か違うと感じた。司の言うままに待ち続けるのは、司にとっては意味のある時間でも、つくしにとってはまるで意味のない時間になってしまうように思えて、それは自分の選ぶべき未来ではないと、強く確信してしまった。このまま進んでも、こんなふうにしかこの場を乗り切れなかった自分を、きっとあとから後悔する。
 それだけは、嫌だった。




 *




『おまえに会いたい。今すぐ迎えに行きたい。ニューヨークにいても、どこにいても、おまえのことを考えてる。おまえとの未来を思ってる。俺は間違ってたか? おまえの気持ちを置き去りにしてたか? おまえには、もう俺との未来が見えることはないのか?』

 絞り出すように言葉を紡いだその声には、司の愛が溢れんばかりに詰まっていた。会えない時間も、途絶えた連絡も、婚約も、そのすべてはつくしへの愛にまっすぐ向かっている。

『なあ、牧野――』
「道明寺は間違ってない。あたしだって……」

 それは、つくしとて同じだった。全部わかっているからこそ、その未来は交わらない。

「ごめんね。今のあたしには、もう、道明寺との未来は見えないの」




 *




 部屋は沈黙に包まれ、どこからかセミの鳴き声が聞こえた。窓からの日差しが部屋の温度を徐々に上げる。

「司は納得したのか?」
「わかんない。でも、わかったとは言ってた」
「……そうか」

 おそらく納得していないだろうと、あきらは思った。でも、そう言うしかない。そこへたどり着かせてしまったのは、自分の婚約話なのだから。
 きっと、落ち込んでいるに違いない。いくらニューヨークに行って少しは大人になったとはいえ、司は司だ、荒れ狂っている可能性も無いとは言えない。あきらは、「わかった」と電話を切った司の心を思うと、胸に痛みが走った。

「本当にいいのか?」
「うん。こういう日がくるかもしれないことは、心のどこかでいつも覚悟してたから」

 つくしらしい、さっぱりとした声だった。

「でも婚約してたんだからさ」
「あたしたちの婚約は口約束だもん」
「でも、バカでかい指輪もらっただろ?」
「……うん、もらった。ほんと、バカみたいにでっかいダイヤがついたやつ。――あれは正直、嬉しかったな」

 つくしらしい、さっぱりとした、でも、今まで聞いたことのない柔らかさを感じる声だった。

「ああ、でもね。あの時あたしが一番嬉しかったのは、あいつに会えたことだったんだ」
「……」
「ほら、ちょっと転んで脳震盪起こしただけだったのに、あいつ慌てて昼休みに抜けてきたとか言って、ミラノから来たでしょう? ミラノからだよ? 驚いたし呆れたけど、本当に嬉しかった。そう言えばあの頃、キミコがどうのとかバカなこと言ってたっけ、あいつ。しかも、日本に指輪忘れて行ったんだよね。ほんと、バカ。バカすぎて……」

 ふいに、つくしの声が途切れた。背中が、小さく震えている。
 落ち込んでいるのは司だけじゃない。傷ついているのは、つらい想いを抱えているのは、つくしも同じ。この結末は、愛し合う者にしか出せない、重いもの。
 あきらは静かに近づいて、項垂れたつくしの頭に、ぽんと手を乗せた。

「牧野、今までよく頑張ったな」

 それはあまりにも優しくて、温かな響きを持っていた。

「……みまさかさんの、ばか」

 詰まり途切れる声で吐き出すと、堪えていた涙が一気に溢れ出した。拭っても拭っても涙は後から後から溢れてくる。
 ――どうしよう、止まらない……。
 つくしはぎゅっと唇を噛んだ。

 刹那。
 ふわりと甘く優しい匂いを感じたつくしは、あきらの腕の中にいた。
 抱きしめられている事実にとても驚き、でもそれ以上に、凍りつきそうだった心が一瞬にして溶かされた。
 その温もりに、今度こそ、涙を止める術はなかった。
 つくしは、泣いた。嗚咽をもらして、心のままに。
 あきらはただ黙って、泣きじゃくるつくしをそっと抱きしめ、頭を撫でていた。まるで妹にするような仕草だったが、今のつくしにはベストだった。
 つくしの心に司との日々が浮かんで、そしてひとつずつふわりと消えた。




 *




『牧野、もし――……』
「なに?」
『いや、なんでもねえ。……そろそろ行くわ』
「あ、うん。……道明寺」
『ん?』
「あたし、あんたのこと応援してるから」
『……ああ。おまえもあんま無理しねーで、ほどほどに頑張れよ』
「それはこっちのセリフよ」
『そうか。……じゃ』
「うん、じゃあね」

 また明日にでも掛ってきそうなほどあっさり切れた電話を、つくしはしばらく握ったまま、ただ呆然としていた。
 自分から終止符を打ったのに、終わったことが信じられない気持ちだった。
 ふいに握ったままの携帯電話が短く震えて、メールの受信を知らせた。
 あまり力の入らない指でメールを開く。

「……」

 ぽたり、ぽたりとディスプレイに涙が落ちた。

「……ほんと、どうしようもない、バカ――っ……」

 ――道明寺、あたしはあんたが好きだった。たしかにあんたを愛してたよ。あんたとの日々は、夢のような現実だったよ。あたしはあたしらしく、未来をみつける。ありがとう、道明寺。


――――
いろいろ悪かった。笑ってろよ、牧野。
――――


 つくしは携帯電話をメッセージごと抱きしめて、泣き崩れた。





 *




 つくしの燃えるような恋が終わろうとしていた。
 けれどつくしは、ひとりでなかった。涙の向こうにゆらゆらと揺らめくだけのどうしようもない現実を、温かな優しさがそれごとすべて包み込み、静かに見守っていた。

Fin.
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2009.04 赤き夢より覚める朝
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