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芽吹く
DOLCE
2
  ***




「……はぁぁぁぁぁ」

そして私は、頭を抱えている。
その、トイレで。


結果は、驚くほど早く出た。
こんな瞬時に反応するものかと驚くほどのスピードで、妊娠を示す線がくっきりと現れた。
正直、愕然とした。

( ……妊娠? ……私が? )

気付けば無意識にお腹に手を当てていた。
何の変わり映えもしないけれど、この結果が正しいのならば、ここにはあきらさんと私の子供が、居る。

( ……本当に? ここに、子供が? )

まったく実感が湧かない。
けれど、何度見ても検査薬の結果は「妊娠しています」と訴えていて、多分それは、疑いようもない、紛れもない事実。
結果を見た瞬間に噴き出した汗が引いていく。
身体がついていけないのではないかと思えるほどに鼓動が早い。
そして、漠然とした不安が広がっていくようだった。

「――どうしよう……」

自分でも驚くほど弱々しい声だった。
一体何が「どうしよう」なのか、口をついて出た言葉の真意が自分でもわからないほど混乱していた。
思い当ることはきちんとあるし、そうなって不自然なことは何もない。
焦ることも困ることもない、はず。
なのに、私は――。

トントンと小さな音がして「先輩、大丈夫ですか?」という遠慮気味な声が聞こえた。

( そうだ、桜子が待っていたんだ )

「あ、ごめん。すぐ行く」

一体どれくらいの時間が経っていたのか、あまりの驚きに、何もかもすっかり忘れていた。
慌てて個室から出て手を洗いながら見た鏡の中の私は、やっぱり何の変わり映えもしなくて、検査薬の結果だけがやけに浮いて思えた。


トイレから出ると、すぐそこに桜子が居た。
少しだけ心配を滲ませた瞳で私を見つめて、それからふうっと息を吐いた。

「どうやら私の勘は当たっていたようですね」
「……そのようです」
「……」

桜子は、開きかけた口を閉ざし、複雑な表情を浮かべた。

「先輩、なぜそんなに浮かない顔をしているんですか?」
「なぜって……」

なぜだろう。確かに複雑な判然としない気持ちでいた。
けれどそれをどう説明していいのか、私にもよくわからなくて、思わず口を噤む。

「先輩?」
「……よくわからないのよ、自分でも」
「わからない?」
「うん。よくわからない。全てが靄の中って感じで」

到底、納得できる答えではなかったと思う。
けれど桜子は小さく頷いて、それ以上は追求したりしなかった。
そのことに少しだけ安堵して、途端に、せり上がるような吐き気に襲われた。
二日酔いだと思っていたこの体調不良が、おそらく「つわり」だなんて。
やっぱりまだピンとこなかった。





ベッドに横になると、思った以上に身体が楽になった。
認識していた以上に具合が悪かったんだと痛感しながら、大きく息を吐く。
天井を見ながら、ここへ来る前にした桜子との会話を思い出していた。

 

 *




「先輩、寝室で休んだ方がいいですよ」
「そうしようかな」
「そうですよ。あとの事は美作さんが帰って来てから考えたらいいんです」
「あ、そうだ。あきらさんに言わなきゃいけないよね」
「……先輩、しっかりしてください」

完全に呆れ口調の桜子に、思わずすみませんと謝ってしまった。
「実に先輩らしいですけどね」と笑う桜子につられて私も笑う。
あまりにも余裕のない自分が滑稽で仕方なかったから。

「でも、美作さん、喜ぶでしょうね」
「え?」
「妊娠ですよ、妊娠。きっと喜びますね」

笑顔で当たり前のように言う桜子を、私はまじまじと見てしまう。

「ねえ、桜子。あきらさん……喜ぶと思う?」
「……は?」

桜子は信じられないとでも言うように目を丸くした。
あきらさんがどんな反応をするか、私には全く予想がつかなかった。
だから、そんな風にさらりと言う桜子の根拠が何なのか、知りたい気がした。

「先輩、ちょっとお伺いしますけど、二人で子供の話をしたことは?」
「あるよ」
「美作さんは、なんて?」
「自然にまかせよう、って」
「二人きりの結婚生活は三年半が過ぎました」
「うん」
「で、自然に任せた結果……ですよね?」
「……結果が正しければ」
「なら問題なく喜ぶんじゃありません?」

ああ、そうか。と思った。
順序立てて言われれば、まったくもってその通りで。
あきらさんが喜ばないなんてことは、きっとないのだろう。
でもそうなると、もしこの結果が間違いだったら……と、またしても余計な考えが脳裏をよぎる。
「先輩は考え過ぎですよ」と桜子が言う。

「曖昧なまま報告するのが嫌なら、早めに病院で検査してもらいましょうよ。私もそれまで黙っていますから」
「……うん」
「まあ市販の簡易検査薬でも、それなりの信頼性はあると思いますよ。病院よりも早く反応が出るなんて話も聞きますから。……それよりも」
「ん?」
「あの美作さんが、こんなに体調の悪い先輩を放っておくとは思えないんですけどね」
「……たしかに」
「きっと薬を飲むように言うだろうし、理由も言わずにそれを拒否……なんて、無理でしょうね」
「だよね」
「余計な心配かけるよりは話した方がいいんじゃないですか? それじゃなくても心配性ですし、美作さんは」

さすがに学生時代からの長い付き合いだけのことはある。
あきらさんの性格をきちんと把握した的確なアドバイスだった。

「そうだね、話した方がいいね」
「そうですよ。あんまり複雑に考えない方が良いと思いますよ」
「すいません」

「全く世話がやけますね」と笑った桜子の笑顔はとても優しかった。




 *




そう。全てはあきらさんが帰ってきてから。

(  ――帰ってきてから。 )

思いながら、いつしか瞼を閉じていた。






頬に当たるひんやりとした感覚に目が覚めた。
ゆっくりと目を開けると、目の前にスーツ姿のあきらさんがいた。
どうやら私は、いつの間にか眠っていたらしい。

「ごめん、起こした?」
「ううん。おかえりなさい」
「ただいま。具合、どうだ?」
「うん。少しはいいかな」
「そっか」

頬に感じたのは、あきらさんの手だった。
その上に自分の手を重ねると、指先までひんやりしていた。

「外、寒かった?」
「あ、悪い。冷たいか?」
「ううん、いいの。ひんやりしてて気持ちいい」
「おまえは少し熱いな。熱あるんじゃないか?」
「そうかな。よくわかんない」

「やっぱり風邪ひかせちまったかなぁ」と呟いたあきらさんは、ネクタイを緩めながらベッドに腰掛けた。

「帰り際に、何か買い足す物がないかと思って電話を入れたんだ。そしたら、つくしは具合悪くて寝てるって言われてさ」
「誰に?」
「桜子」

桜子のことだ、大袈裟に言ったに違いない。
慌てるあきらさんが目に浮かぶようで、申し訳ない気持ちになる。

「ごめんね、びっくりしたでしょ」
「まあな。でも桜子が居てくれてよかったよ。おまえ一人じゃ無理して起きていそうだし」
「……まあ、たしかに。ねえ、今何時?」
「うーんと、一時半」
「……え? 一時半? やだ、起きなきゃ」
「いいよ、寝てて」
「でも、みんな来ちゃうでしょう?」
「もう来てるよ」
「ええ?」

帰って来た時には既に、西門さんも類も居て、なぜか二人揃って玄関で出迎えてくれたらしい。
「俺も遅かったんだけど、あいつら早え」とあきらさんは笑った。
しかもマンションのロビーで道明寺と遭遇していたから、F4が玄関先で勢ぞろいとなったのだとか。

「あいつらは俺達がいなくても勝手に楽しくやるよ。どこまでもマイペースだからな」

あきらさんはくすくすと笑い、その振動が緩やかに伝わってきた。
それだけで、私の心は落ち着く。

「あ、そうだ。つくし、薬は飲んだのか?」
「ううん」
「食欲は? 何か食べるか?」
「ううん。今は何もいらない」
「そっか。でも薬は飲んだほうがいい。何か持ってくるよ」
「あとでいいよ」
「どうせ飲むなら早い方がいいだろ? すぐに行ってくるから」

言い終わると同時に、頬に触れていた手が離れていく。
刹那、とてつもない心細さに襲われる。
思わず、その手をぎゅっと握りしめた。

「待って、」
「……つくし?」

「薬はいらない」とか「話がある」とか、言うべきことはきちんとあるのに、うまく声になる気がしない。
私は無意識に、もう一方の手をあきらさんに伸ばしていた。
彼はそんな私をじっと見つめ、それからすぐに何も言わずにその手を掴んで、ぐいと引きよせて起こしてくれた。そしてそのまま彼の胸に飛び込む。
肌にも脳裏にも馴染んだ彼の香水の匂いも、愛しさを込み上げて胸を締め付けた。

「どうした? 具合悪いから心細いか?」
「……しばらく、このまま……いい?」
「――いいよ。もちろん」

柔らかな声と優しい腕に、私はすっぽりと包みこまれた。
身体中の力が抜けるような安堵感が、私の中に広がった不安を消していく。

( ――ああそうか。私は、この腕を求めていた。 )

妊娠したかもしれないという事実が私に重く圧し掛かったのは、その時私が一人だったから。
この事実を知ったその時にあきらさんがいなかったことで、私は全てを一人で抱え込んでしまった。
私の横にはいつだってあきらさんがいて、どんな事実や感情をも共有できることを知っているのに。
数時間待てば帰ってきて、こうして私を抱きしめてくれるという現実を、きちんとわかっていたのに。

「私って、ほんっとバカ」
「ん? 何が」

この優しい腕の中でなら、きっと何も怖くはない。
不安も喜びも、この腕の中でなら。

「あきらさん、あのね」
「ん?」
「あのね、私……――妊娠、したかも」

沈黙が流れた。
そして頭上で、「え?」という小さな声が聞こえた。
そっと身体を離して顔を上げると、茫然と私を見つめるあきらさんと目が合った。

「妊娠したかもしれない」

再度、流れる沈黙。
それを破ったのは、掠れたあきらさんの声だった。

「本当に?」
「うん。まだ市販の検査薬で確かめただけなんだけど……」
「いつ? いつ、わかったんだ?」
「午前中。桜子に言われて」
「じゃあ、具合悪いのって……」
「多分、つわりなのかも――」

最後まで話し終える前に、私はあきらさんに抱きすくめられていた。
押し当てられたあきらさんの胸で、早鐘を打つ鼓動を感じる。
自分のかと思ったけれど、それはあきらさんの鼓動だった。
きちんと確かめたいと思ったその時、彼が腕を緩めて身体を離した。

「つくし、気分は? これから出かけられそう?」
「え? どこへ?」
「病院。大事なことだから、きちんと確かめたほうが――」

ふと、掴まれている腕に僅かな震えを感じた。

( この震えは……あきらさん? )

顔を上げかけた時、あきらさんが呟いた。

「やばいぞ、俺」
「え?」
「やばい。嬉しすぎる。――泣きそうだよ」

――泣きそうだよ。

思ってもみない言葉だった。
その、昂った感情が今にも溢れそうな言葉と声に、心が熱くなる。

( ああ、良かった―― )

その時初めて、歓びに心が震えた。

「――今、初めて」
「ん?」
「初めて、嬉しいって思った」
「……」
「妊娠してるかもしれないってわかっても、全然実感が湧かなくて、不安でどうしていいかわからなくて、どうしようってそればかり思ってて、なんか、苦しくて……」

喜びを感じるよりも不安ばかりが募っていた私をあきらさんはどう思うだろう。何がそんなに不安なんだと、二人の温度差を気にするだろうか。
それでも私は苦しくてどうしようもなかった。喜びは、ようやく今浮かんだ感情。

俯き話す私の視界に伸びてきたあきらさんの手が、私の手を包み込んだ。
「つくし。」と柔らかに呼ばれて、見上げれば、優しい瞳が私を映す。

「今も、苦しいか?」
「ううん。今はね」
「うん」
「今は……、すっごく幸せ」

私の言葉を受け止める一瞬の沈黙の後、あきらさんは極上の笑顔を浮かべた。

「俺もだよ。最高に幸せ」
「……」
「何も心配はいらない。何も不安に思わなくていい。面倒なことは全部俺に任せて。おまえはただ――」

あきらさんの手が私の頬に触れた。
包み込まれて、温もりが伝わって。

「ただ、この奇跡を抱きしめていてくれたら、それでいい」

優しさが私の心に沁み入って。
あまりの深さに、涙が零れそうになる。
けれど、それはもったいない気がして。
そのすべてを私の中に満たしておきたくて。
私は静かに瞼を閉じた。

零れませんように。
あきらさんの優しさ――零れませんように。

「つくし――愛してる」

重なる唇から注がれるその愛も。
すべて私の中に。
新しく芽吹いた生命にも届きますように。




「よし、じゃあ行こうか」
「え、どこ?」
「だから、病院」
「ホントに行くの?」
「もちろん――あ、でも気分が悪ければ、今日じゃなくても……――」

私の身体を気遣って、慌てて言葉を紡ぐあきらさん。
話す笑顔が輝いていて、思わず私も笑顔になる。



――おまえと結婚する。その事実が俺の中では奇跡だ。

結婚前に言ったあきらさんの言葉が、ふと思い出された。
その時と、同じ笑顔だった。
あの時私は「大袈裟ね」って笑ったけれど、月日が経つごとに、本当にそうかもしれないと思うようになった。
住む世界も育った環境も生きる道も、何もかもが全く異なる二人が出会って恋をして、結婚した。
「出会うべくして」なんて言葉は、たくさんの奇跡なしには成り立たない。
私達は、奇跡の上に立っている。
だから、ここに宿る生命もまた、奇跡。

これから先。
私達はいくつの奇跡を見るのだろう。
私はそのたびに、彼のこの笑顔を見るだろう。
そのたびに、大きな幸せと大きな愛に包まれて、もっと彼を愛するだろう。

新しい生命が宿った幸せが、今、私を支配する。



あきらさん、またひとつ、キセキが降ってきたね。
Fin.
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2009.08 芽吹く
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