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この紅茶色が消えるまで
COLORFUL LOVE
2

時間はあっという間に過ぎてゆく。
全てを猛スピードでやり終えて最後の確認とばかりに部屋をぐるりと見渡した時、チャイムが鳴った。
ドアの向こうにいるのがあきらだと思うと、ほんの少し緊張して、でもほんの少しワクワクした。
一度覗いている鏡を、思わずもう一度覗いてしまう自分がちょっぴり恥ずかしい。

「突然悪いな」

ドアを開けると同時に、流れる柔らかな声。
きちんと連絡を入れてくれたのに、ごく自然に詫びの言葉を口にするあきらは実に彼らしくて、一瞬でつくしをホッとさせる。

「待たせてごめんね」

謝るつくしの顔をじっと見つめたあきらの瞳がほんの僅かに色を変えた。

(あ、気付かれた……?)

つくしは咄嗟に視線を外す。
あれだけ泣いて気付かれないはずはない。
必死に顔を洗ってみたところで瞼の腫れはそう簡単に引くわけもなく、今だってじんと熱い。
でもどうしようもないと諦めてもいた。それでもあきらを招き入れたのは自分なのだから。

(大丈夫、言い訳は考えてあるんだから。)

夢見が悪かったみたいで起きたら泣いてた――そう言うと決めていた。
はあ、と小さく息を吐き、顔をあげようと覚悟を決めたちょうどその時、俯いた視界の隅にあきらの手が見えた。
その手には、少々厚めの本が握られていた。

「……あ、その本」
「ん? ああ。これ、必要だろ?」

あきらは、腫れた瞼の事は何も言わず、つくしの視界の真ん中に本を差し出した。
図書館へ行ったのは、偶然でも気まぐれでもなく、その本を探すためだった。


カフェテリアで「レポートの資料を探しているのよ」と話したつくしに、「それだったら良いのが図書館にあるぞ」と教えてくれたのはあきらだった。
午後の講義を終えたその足で図書館へ向かったつくしには、講義のないあきらがすでにそこに居るだろうことはわかっていた。
きちんと約束をしたわけではない。でも、それは約束と同じようなものだった。
――少なくとも、つくしにとっては。おそらく、あきらにとっても。

「ごめんね。あたし――」
「実はこれ、図書館のじゃないんだ」
「え?」
「図書館にあったんだけど、借りるのが面倒だったから家にあるのを持ってきた」
「……美作さんのおうちのを? わざわざ?」
「わざわざってほどでもないさ。ほら、ちょっと重いぞ」

そう言って手渡された本は、確かに少しだけ重かった。
アンティークという言葉が似合いそうなその本には、真新しい付箋が何枚も挟まれていた。
それは些か不釣合いで不自然で、つくしは思わずそのページを捲る。
パラリと開いたそこには、つくしがこれから調べようとしている事柄が記されていた。

(え……もしかして――。)

つくしは、くいと顔を上げてあきらを見る。

「これって美作さんがつけてくれたの?」
「ん? ああ、うん」
「ここへ来る前に?」
「去年その講義で同じレポート書かされたって話しただろ? よく見てたページだからすんなりと開いてくれた」

「かなり役立つと思うぞ」と微笑むあきらに、つくしは胸がいっぱいになった。
本来ならつくしがページをめくりながら吟味しなければならなかった作業を、あきらがやってくれたのだ。
頼んだわけでもないのに、まるで当たり前のようにさらりと。

「……ありがとう」
「いえいえ。たいしたことじゃないって」

その時、あきらの後ろからすうっと風が吹き込んで、玄関先でドアを半分開けたまま話していたことに気付いた。
見ればあきらはひどく薄着で立っている。
車で来たからコートも何も着ていないのだろう。

「ごめん。寒いよね。良かったら上がって」
「……じゃあ、お邪魔します」

パタンとドアが閉じられると同時に、あきらの香水がほわんと匂って、つくしの心をくすぐった。

 

つくしがお茶を淹れている間、あきらはソファに座ってテーブルの上に無造作に積まれた本を見ていた。
パラリパラリと本を捲る音が、時折つくしの耳に届く。

「随分いろいろ集めたんだな」
「うん。でもなんか、どれも決定打に欠けるっていうか」
「そうなんだよな。俺もそうだった覚えがある。で、その本を親父の書斎で見つけたんだよ」
「じゃあこの本はお父さんのなの? 持ってきて平気?」
「問題ないよ。家にある本は家族の誰もが自由にしていいってことになってるから」

美作家は間違いなく上流家庭で、つくしの知る一般家庭とは全く違うことは百も承知だけれど、つくしの知る他の上流家庭にはない――と言っても、知っているのはF4の他の三人の家くらいだ――温かさを感じる。
それは最初にあきらの家を訪れた時から、なんとなく感じ続けていることだった。

「優しいよね。美作さんのお父さんもお母さんも」
「うーん。まあ親父は優しいかな。お袋は、優しいというより幼いんだよ」
「そんなことないよ」
「そうか?」
「うん。お金持ちの家って、どこか冷たくて跳ね返される空気を感じるんだけど、美作さんのところだけはそれがないんだよね」
「へえ。……ま、たしかにそうかも。あのお袋の空気感は独特だからな」
「若くて、本当に可愛い人だなあって思う」
「頭が痛くなることも多いけどな」

眉を顰めるあきらにつくしはクスクス笑って、淹れ終えた紅茶をテーブルに運んだ。

「あ、これって俺が持ってきたやつ?」
「そう。美作さんは紅茶、西門さんは日本茶、類は珈琲。なぜかものすごくバランス良く戴けるので、飲み物だけは相変わらずいつでもリッチなの」
「あはは。たしかに俺らって飲み物持ってくること多いな」
「そうよ……でも、美作さんが一人で来るのって珍しい」
「そうだな。一年ぶりくらい?」
「うん。一年以上前だよ」

類や総二郎と一緒になら何度も来ている。
家の前までならその数は数え切れないし圧倒的に多い。
けれどこうして一人で家へ上がったのは、後にも先にも、つくしが司と別れたあの朝の一回だけ。
今日が、ようやく二回目だ。
そういう機会がたまたま巡って来なかったというわけではなく、意識的にそれを避けているようだった。
誘えば必ず「牧野は一人暮らしだから――」と困ったように笑った。
その先の言葉をはっきり訊いたことはないけれど、なんとなく予想はついて、それは根が真面目なあきららしい考えで、つくしは勝手に納得していた。

「ごめんな、今日」
「え? ああ、ううん。いつでも上がってもらって構わないよ、あたしは。ダメな時はそう言うし、類だってしょっちゅうご飯食べに来てる――」
「そうじゃなくて」
「……え?」
「図書館、来たんだろ?」
「……」

不意打ち。まさに不意打ちだった。
前の話の続きだと思っていたつくしはすぐには頭の切り替えが出来ない。
けれど理解すれば、今度は動揺が広がった。

「……ああ、えっと、それは」
「ごめんな」

なんで知ってるの、なんて言葉を発するよりも先に、その理由に思い当ってしまった。
思わず小さなため息が零れた。

(……やっぱり類にはお見通しなのね。)

「謝るのはあたしだよね」
「なんで?」
「声掛けて本を受け取ってたら、わざわざここに来てもらう事なかったのに」
「いや、それは別に――」
「ごめんね。……なんか……」

それ以上は言葉にはならない。
どう話しても、ひどく不自然な言い訳にしかならない気がした。
俯くつくしに、あきらの声が降り注ぐ。

「今日一緒にいたのは、うちの取引先の社長令嬢なんだ」
「え」
「夏にヨーロッパに行ってただろ? フランスで親父と一緒に出席したパーティーがあって、そこで会ったんだよ」
「……」

ならば尚のことあきらとはお似合いなのだと思ったら、胸がチクリと痛んで、どう返事をしていいのかわからなかった。

「そのパーティー、類も一緒でさ」
「え、類も?」
「そう。俺が誘ったの。あいつもたまたまフランスに居たから」
「そうなんだ」
「うん。で、そこで話しかけられたんだよ、彼女に。――それだけ」
「それだけ?」
「それ以来、初めて会った。確かに英徳の学生だって言ってたんだけど、その事も会うまで忘れてた」
「……そう」
「だからさ……うん」

きっとあきらの言う通り、それだけのこと。
でもつくしにはわかったのだ。
彼女はあきらに惚れている。
ヨーロッパで話しかけたのも、今日話しかけたのも、偶然を偶然で終わらせまいとする彼女のありったけの勇気。
例えあきらが何とも思っていなかったとしても、その想いは彼女のもの。
――それは、つくしだって一緒なのだ。
けれど、その先の未来を考えた時、つくしがあきらを好きでいることはひどく現実味のない夢の世界の出来事のように思えてならなかった。

「……」
「……」
「…やだ、そんなのあたしに言い訳しなくても」
「うん。――でも」
「……」
「でも、言っておきたかったんだ」

あきらのその声はいつもよりもずっと力が籠っている気がして、つくしは思わず顔を上げた。
予想はしていたが、あきらはつくしを真っ直ぐ見つめていた。
真摯な眼差しで告げられる言葉に、なんと返していいかわからなかった。
彼女じゃないんだから――これが正しいかもしれない。
けれど言葉が出てこない。
そんなことは、つくしにもあきらにもわかっているのだ。
それでも発せられた言葉だということを、どうやって自分に納得させたらいいのだろう。
混乱する頭とは裏腹に、心のどこかが期待で膨らむ。
あきらの奥底から溢れるその優しさを、いつか独占出来たなら――そんなおこがましいことを思っている自分が時々いて、驚くやら恥ずかしいやらで慌てふためくのだ。

(落ち着いて。気付かれるわけにはいかないんだから。)

つくしはありったけの理性をフル稼働させて冷静を装う。

「律儀ね、美作さん」
「律儀かどうか。ただ、誤解されたままは気持ち良くないだろ?」
「別にあたしに誤解されたって大したこと――」
「あるよ」
「……」
「牧野だから誤解されたくない」
「……」

理性とは、膨らみ続ける感情に比べたらなんと曖昧で覚束無いものなのだろう。
ひどく現実味のないつくしの想いは、いつだってふわふわと夢の世界へ飛び立つ途中で、こんなあきらの言葉に繋ぎ止められてしまう。
簡単に捉えられて、さらに心深く大きく膨らんでしまうのだ。

(友達としてよ。親友として。)

つくしだって、類や総二郎に男友達といるところを見られたら弁解するだろう。
それと同じだ。寸分違う事無くまったく同じだ。
そう思うのに、何度考えたってそう思うのに。
口から零れようとする言葉は、友人関係を覆す深い想いばかり。

(ああ、美作さんが好き。どうしようもなく、好き。)

悔しいけれど敵わない。
想い人を目の前にしては、どんな現実もどんな理性も脆くて薄っぺらい。

スマートにこの場を乗り切りたいわけじゃない。
けれど今は、何も壊したくない。

(何も言わない。何も言っちゃいけない。)

つくしは想いを飲み込んで、曖昧に微笑む。
言葉の真意がぼやけているからこそ、つくしはあきらの言葉に夢を見れる。
この時間が永遠じゃないとしても。
その先に、夢から覚める虚しさが襲ってこようとも。
今は、この時間とこの空気と、この距離感がすごく愛しい。
漂う幸せが悔しいくらい愛しい。


何も言わないつくしに、あきらもまた何も言わなかった。
ただ目の前のティーカップを口に運ぶ。
沈黙に時折カップとソーサの触れあう音がカチャリと響いた。
その音を聞きながら何気なく見つめていたあきらの指が動きを止める。

「そろそろ帰るよ」

ふと見れば、あきらのティーカップが空になっていた。
「もう一杯飲む?」と訊けば、あきらは頷いてもう少しここにいるかもしれない。
けれどつくしは、言わなかった。
これ以上の時間は、つくしを夢から覚めさせてしまうだろう。

「ありがとう。わざわざ届けてくれて」
「うん。あんまり頑張り過ぎずに寝ろよ」
「レポートの出来次第かな」
「早く終わることを祈ってるよ。あ、わかんないことが出てきたら連絡しろよ。協力するよ」
「はあい。頼らせていただきます」

言葉を交わせば、途端にいつもの空気が戻ってきた。

(大丈夫。あたしたちは明日もまた笑い合える。)

今の今まで流れていた空気が、さらりと日常にシフトしたことがつくしには嬉しかった。
あきらもまた、安堵したような笑みを浮かべ、それからつくしに背を向けた。
玄関先で靴を履き終え振り返ったあきらの視線がつくしを捉えた。

「紅茶、ごちそうさま」
「こちらこそ、本ありがとう。お借りします」
「重いから学校に持って来なくていいぞ。またここで受け取るから」
「……わかった」
「今度はあの紅茶に合うチョコレートを持ってくるよ」
「あ、嬉しい。ぜひお待ちしてます」
「うん。」
「うん。」

「じゃあな」とあきらはドアノブに手をかけた。
下まで送ると言うつくしを止めて、笑顔で軽く手を挙げドアの向こうに消えた。
トントンと階段を降りる軽い足音を聞きながら、閉まったドアをしばらく見つめる。
それから慌てて部屋を横切り窓のカーテンを開けると、ちょうどあきらが車に乗り込むところが見えた。
窓を見上げたあきらと目が合う。
窓は閉まったままで、声の届かない距離。
あきらの手が挙がり、口が「おやすみ」と動いた。
つくしも同じように返すとあきらは微笑んで、今度こそ車の中に消えた。
偶然とは、なんと素晴らしい贈り物だろう。弾む心でその偶然に感謝した。


車が走り去るまで――走り去った後も、つくしは窓辺に立ち尽くした。
そして、ようやく大きく息を吐く。
途端に気が抜けて、まさに大学から帰って来た時のようにソファにポフンと座り、無造作にクッションを抱きしめた。

あきらとの時間が脳裏に鮮明に浮かび、つくしの想いや心を鷲づかんであっちへこっちへと漂う。
ふわふわと、ズキズキと。
そのたびに胸の奥が騒がしい。けれど決して苦しくはない。

(なんか、不思議な感じ。)

ざわめく心は、時間の経過と共に浮き立つのだ。
まるでこの先に、何か楽しいことが待っているかのように。

あきらとつくしは、恋人ではない。
つくしはあきらに想いを告げていないし、あきらの気持ちも知らない。
けれど、この空気をただの友人と片付けていいのだろうか。
総二郎とも類とも、明らかに違う。
緊張感と気遣いと慣れ合いと、それを包む優しさと。
何をするでもないのに、つくしの胸を躍らせて心地良く締め付ける。
あきらの優しさは、友情なのか、それともその中に爪先ほどでも愛があるのか。
あきらの気持ちは、つくしにはまだわからない。
惑わされているだけなのかもしれない。
もしそうなら、自分ははとんでもない勘違い女だ、とつくしは思う。

(……その可能性は否定できないのに。)

それでも、つくしは心のどこかに確信がある。
あきらは優しい。けれど、人の気持ちを弄んで貶めるような優しさの使い方はしない。

(少なくとも、自分の周りの人間には――きっと、あたしにはしない。)

その強い確信は、あきらとの付き合いの中で生まれたもの。
どんなに鈍感でも、それだけは間違えていない気がした。

まだ何も始まっていない。
つくしは想いのすべてどころか、その一部さえも口にしていないのだから。

きっとまた、上手く説明できない曖昧な空気が二人の間を流れる。
流れた先には日常があって、現実と夢とを行き来する。
何度も何度も、同じことが繰り返され、水に浮かぶ葉のように漂うだろう。
そしてそのうち、その境目がわからなくなるのかもしれない。
自らの意思でその境目をなくすのかもしれないし、自然になくなってしまうかもしれない。
どちらにせよ、その時つくしはそれを手放せなくなるだろう。
その時つくしは、もう後戻りは出来ない。

今のうちに流れを止めるべきなのか。
それとも、その流れに身を任せてしまうべきなのか。

(必要なのは、どっちの勇気だろう?)

もうとっくにわかっているのに、最後の悪あがきに似た葛藤が巻き起こる。

迷いながらも想いは少しずつ進んでゆく。
まるで何かに引っ張られるように、どこかへ向かっている。
その先に何が待っているのか。
どこまで進んでいくのか。

 

つくしはティーカップを傾ける。
すっかり冷めた紅茶が揺れている。

これをすべて飲みきるまで、
これがすべて終わるまで。

彼の残したこの柔らかな空気の中で。
まるで恋人のような余韻の中で。

Fin.
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2009.12 この紅茶色が消えるまで
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