01-05 / 06 / 07
曖昧色の夜の向こう
COLORFUL LOVE
6
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 感情の波に飲み込まれて、されるがまま流されるがまま溺れきって、いつ眠ったのかもわからない。
 とにかく気付けば朝だった。

 ――あー、なんか思い出したら恥ずかしくなってきた。

 つくしは頬の火照りをなんとかおさめようと、机を拭いていた雑巾でパタパタと仰ぐ。仰ぎながら、あきらと別れ際に交わした会話を思い出してみる。

 一度アパートに戻ってから会社へ出勤したかったつくしは、美作邸の車で送ってもらった。あきらも乗っていたのだけれど、仕事の話は一切しなかった。
 今日も忙しいの?と訊いたつくしに、そうでもないよ、と笑っていた程度。

「本当に会社まで送らなくていいのか?」
「うん。まだ時間に余裕あるから平気」
「そっか。じゃあ気をつけてな」
「うん。ありがとう」

 どう思い出しても普通の会話しかしていない。
 昨日のうちに会社に連絡があったのなら、もう予定は決まっていたはずなのに。

 ――なんで教えてくれなかったんだろ?

 忘れてたのか、ワザとなのか。
 社内で話すことは出来ないだろうから、夜にでも訊いてみようと思った。

「やだ、つくし! 何やってるの?」
「へ?」

 ふと気付けば、どこかへ消えていた美穂がいつの間にか戻ってきて、目をまん丸にしていた。
 その視線は、顔に風を送ろうとパタパタと動かしている雑巾に注がれている。

 ――あ、しまった。

 ハッとして手を止め、へへっ、と笑った。
 そんなつくしを見て、美穂は呆れた笑みを浮かべた。

「もう始業時間になっちゃうけど、いいの?」
「何が?」
「メイクよ、メイク!」
「……ああ」

 見ればたしかに、美穂は先程よりもメイクが幾分濃くなっている。ふと見渡せば、女性陣は一様にいつもよりメイクが念入りで、服装も華やかだ。
 つくしは至って普通のメイクと普通の服装。
 当たり前だ、知らなかったのだから。いや、知ったところでどうすることもなかっただろうし、どうすることも出来なかっただろうけれど。

「あたしはいいよ」
「えー。だって美作専務よ? 独身よ? しかも、滅多に拝めないレベルのイケメンよ?」
「美穂、会ったことあるの?」
「ないっ!」

 きっぱり言い切る姿が可笑しくて、思わずぷっと吹き出した。

「あるわけないじゃないっ! 私達が美作商事に直接行く用事なんて全くないし、仮に行けたところで直接会える可能性なんてほとんど皆無だろうし、プライベートに至っては、生活レベルの次元が違い過ぎるでしょう? 私達が普段行くようなお店に現れることはまずないもんね」
「ま、まあね」
「だから、会ったことなんて一度もないけど、でもお顔はめちゃくちゃよく知ってるわよ」
「そうなんだ」
「だって社内報でいつもいつも見てるもの」
「社内報?」

 美穂は目を丸くして、つくしをじーっと見た。

「つくし、まさか社内報知らないってことはないわよね?」
「社内報くらい知ってるわよ。でも、載ってたっけ?」
「うちのじゃないわよ。美作商事のよ」
「あー……」

 覚えはあった。
 それは、月に一度、山のように送られてきてあちこちに置かれるのに、あっという間になくなってしまう伝説の社内報だった。
 つくしが気付いた時にはいつも一冊も残っていなくて、何故そんなになくなるのか不思議で仕方なかった。だからと言ってそこまで読みたいとも思っていなかったので、特に執着しておらず、ふと思い出してあきらに訊いてみたことがあった。

 

「美作商事の社内報がものすごーく人気で、あたしが読もうって思う時には一冊もないっていう状態なんだけど、そんなに価値ある情報が詰め込まれたものなの?」
「いや、特別なんてことは全然ない普通の社内報だったと思うけど?」
「美作さん、読んでる?」
「もちろん、毎回目は通すようにしてるけど、いつもざっと流して終わりって感じ。読みたかったら持ってこようか?」
「ううん。そこまではいいの。なんでうちの社内でそこまで人気があるのかなって気になっただけ」
「うーん……そんなにインパクトのあることなんて載ってなかった気がするけどなあ。それよりも俺は、その社内報に載せるとかで取材があったり写真を撮られたり原稿書いたり、そういうのが面倒だって印象が強い」
「あー、わかる。うちも社内報あるけど、新入社員の特集とかあった時に面倒だった記憶がある」
「だろ? 俺はそれが頻繁にあるんだよ」
「大変だねえ」
「あれ、どうにかやめられないかなあ」
「あはは! 断るのは難しいんだ」
「まあ、俺ジュニアだしな」



 その会話を思い出して、今ようやくピンときた。

「ねえ、もしかして、あの社内報がものすごい人気なのって、美作さ――じゃなくて、美作専務が載ってるから?」
「……つくし、今気付いたの?」
「うん」

 美穂は、激しくがっくりと肩を落とした。「つくしってそういうのに鈍すぎだよ」とぶつぶつ呟く美穂に、つくしは苦笑いを浮かべるしかない。

「美作商事の社内報には必ず美作専務の単独ページがあるから、だからみんなが欲しがるのよ」
「単独ページ……それって専務になってから?」
「ううん。その前から。少なくとも私が入社して以降のものには全部ある」
「そうなの?」
「聞いた話では、営業部の課長になった時からみたいで、多分私たちが入社したのとタイミングが同じだから、四月からなんじゃないかな。でもその前も結構載ってたよ」
「なんで知ってるの?」
「ほら、ウェブ版もあるでしょ? それでバックナンバー見ちゃった」
「……へえ」

 ウェブ版なんてあったんだ、と思ったことは口にしなかった。ますます呆れられそうだったから。

「あからさまにどうのって載せ方じゃないんだけど、あれは絶対狙って載せてたと思うんだよね。で、課長に昇進したのを機に堂々単独ページ作っちゃいました、って感じじゃないじゃないかな」
「なるほど」
「最初に見た時は本当に驚いた。モデルかと思ったもん」
「へええ」

 ただ普通に発行しただけでは一度読まれて終わってしまうだろう社内報を、どうしたら楽しみに待ってもらえて何度も繰り返し手に取ってもらえるかと考えた末の秘策があきらの単独ページを作ることだったのだろうか。
 作る人達も苦労してるんだなあ、と思うと同時に、あれやこれやと要求されてるであろうあきらにほんの少し同情した。

「なんか、全く記憶に残ってませんって反応だけど……つくし、あの手のイケメンは興味なし? もっとワイルド系がいいとか?」
「あ、いやそういうことじゃなくて。あたし、実は一度も読んだことないんだよね」
「え、嘘でしょ?」
「本当。だっていつも一冊もないから、まあいっか、って」
「うっそー。グズグズしてるからだよ。今度取っておいてあげようか?」
「え、いいよ!」
「でも、せっかくの社内報だよ?」
「ほら、ウェブ版があるから」
「え、ああ、そうね。うん、たしかに」
「うん」
「いやでも、冊子はまた全然貴重さが違うよ? アイドル誌をタダで手に入れてるみたいな気分」
「アイドル誌……」
「やっぱり今度つくしの分もキープしてあげる」
「いや、あたしはいいよ。欲しい人がもらったほうがね」

 そんなつくしに「無欲だなあ」と少々呆れ顔でため息を吐いた美穂は、気を取り直すようにコホンと咳払いをすると、気合いのこもった顔で再び話し出した。

「そんなわけで、今日はその社内報でしか見たことのない美作専務に会えるわけ。こんなチャンス滅多にないもの。社内中の女性はみーんな、今から気合い入りまくりよ」
「うん。その気合いは伝わる」
「だって、やっぱり憧れちゃうじゃない? 大企業の御曹司、次期社長で、有能、独身、イケメン。そんなに揃ってる人、滅多にいないものね」
「……まあね」

 話を聞けば、この浮足立った空気も納得がいく。自分がその視界に入ることがあるかどうか、このフロアに現れるかどうかさえわからない状況下でも、万全を尽くしておきたい女心。それは、世界共通に違いないのだから。

「どう? つくしも興味湧いてきた?」
「あたし? ……まあ」
「……やっぱり冷静なのね、つくしは」
「ははは」
「なんでそんなに――……あ、思い出した」
「え?」
「そうよそうよ、ねえ、つくし」
「何?」
「ちょっと、ちょっと近づいて」

 手招きされたつくしがそっと顔を近づけると、美穂は小さな声で言った。

「つくしって、英徳出身じゃなかった?」
「……」

 しまった、と思った。
 入社当時から隣り合ったデスクで仕事をする同期で同僚の美穂は、つくしの一番の仲良しで、入社当初にあった飲み会の席で、出身校を話していた。
 ただ、英徳出身イコールお金持ちだと思われるのが嫌だから黙っていてほしいと言ったつくしの言葉を忠実に守ってくれているため、それきり話題になったことがなかった。
 おかげで、つくしは今の今まで話した事実をすっかり忘れていた。

「たしか、そう言ってたよね?」
「……言いました」

 ここで否定するのは不自然過ぎるだろうと、ひとまず頷く。
 それ以上突っ込まれない事を祈りながら。

「てことはさ。美作専務のこと知ってるよね?」
「えっと、知ってるっていうか……」
「美作専務って、学年は私たちの一つ上なんだよね。てことはさ、つくしは一緒のキャンパスにいたってことでしょ?」
「……まあ、そうなるかな」
「だよね!!」
「しーーーーっ!」

 あまりの興奮に美穂は大声で叫び、つくしは慌ててその口を慌てて抑えた。

「美穂っ! 声が大きいよっ!」
「ごめん」
「まったくもうっ」

 何事かと振り返った人達に、ぺこぺこと頭を下げる二人。それから、ほうっとため息をついて、二人は再び顔を突き合わせた。

「やっぱり見たことあるってことよね?」
「そりゃまあ」
「なーんだ。そっかそっか。だからそんなに冷静だったのか。今日初めてお目にかかるわけじゃないってことだもんね」
「……まあ」
「え、まさか、話したこともあるとか?」
「ええ? いやそれは――」
「さすがにそれはないか」

 同じ大学にいたってそんなものよね、と勝手に納得して脱力して笑う美穂に、つくしは心の中で謝りながら、一緒に笑った。
 話したことがあるなんて、よーくよーく知ってますなんて、絶対言えない。

「でも、見たことはあるんだね。ねえ、生の美作あきらはやっぱり相当カッコイイの?」
「……まあ、それは、もちろん」
「歩いてるだけでアイドル並みの騒ぎになるって聞いたことがあるんだけど」
「あー……そんなこともあったかな。たしかに全員揃うと目立ったから」
「全員?」
「あそこはお金持ちの御曹司が多いでしょう? その中でも同じようなイケメンジュニアがあと三人いて、F4って言われて有名だったの」
「F4?」
「そう。フラワー4。花の四人組ってことらしいよ」
「へええ。あと三人て誰?」
「道明寺司。花沢類。西門総二郎。みーんな、凄いお金持ちのお坊ちゃん」
「あたし知ってる。間宮先輩が持ってた雑誌に『イケメン御曹司特集』ってのがあって、それに載ってた」
「そ、そんなのあるの?」
「まあ、単なる特集記事だけどね。ちなみに間宮先輩はもちろん美作専務目当てで買ったの」

 間宮先輩とは、つくし達の四つ上の先輩。普段は大人しくてさほど目立たない存在なのだが、美穂が言うには「いいオトコにだけは積極的」らしい。

「まあそれはそれとしても、道明寺とか花沢とか、普通に有名よね。道明寺財閥に花沢物産でしょ?」
「そう、有名なんだよね。当時のあたしは全然知らなかったんだけど」

 話しながら、あまりの懐かしさにつくしの顔から笑みが零れた。

「凄いなあ。つくしはそんな人達と同じキャンパスにいたんだねえ」
「まあ、そうなるね」
「実は友達です、とかだったらもっと凄かったのに」
「はは……」

 顔が引き攣る。
 実は友達ですなんて、しかも恋人だったりもしますなんて、絶対に絶対に言えない。

「会社の同僚が有名人の友達です、とかちょっと言ってみたい!」
「有名人って……大袈裟じゃない?」
「有名人よ。親会社の専務ってところで美作専務が一番身近だけど、でも、うちらレベルじゃそこを意識するような仕事って今のところないでしょう? それこそ役職でもついてれば別だろうけど。だから、こういう時にうちって本当に美作商事の子会社だったんだって実感するだけで、全然身近じゃないもん」

 たしかにそうだった。
 親会社と子会社の関係がどこもみんなそうなのかは定かではないが、この会社に関してだけ言えば、親会社をさほど意識しているようには思えない。仕事内容は確実に深く関係しているようなのだが、重要であればあるほど、つくし達のような新人社員のもとへは降りてこない。ゆえに、強く意識する瞬間がないのだ。
 それでなくてもこの会社は、良い意味で親会社に依存しすぎず頑張っているイメージがある。「親父はそこを評価しているよ」と以前あきらが言っていたことを思い出す。

「他の子会社だったら、もっと身近だったのかな」
「そうかもしれないね。でも、私は今、つくしが美作専務と英徳繋がりだってわかって、途端に身近に感じるようになったよ」
「……英徳繋がり、ね」
「ひょっとしてひょっとしたら、恋人だった可能性もある!」
「え!?」
「なーんて思ったら、余計に楽しくなってきた!」
「……あはは」

 つくしは、なんとか顔色を変えずにいたものの、心臓がバクバクしていた。
 あきらとつくしの関係は、会社では誰も知らないトップシークレット。それは、つくしが自分でそうしようと決めたこと。
 おそらく、ここが美作と関係のない会社だとしても、その事実をすすんで言う事はなかっただろうが、関係ある会社であればあるほど、絶対に言わないようにしようと思った。言った途端、何かが変わってしまうように思えたから。
 あきらと関係があると知って、接し方を変える人間もいるだろう。仕事もやりづらくなるかもしれない。
 けれどそんなことよりも、つくしを介してあきらに近づきたいと思う人間が出てくるかもしれないことのほうが問題だった。
 ただ単純に知り合いになりたいという感情だけでなく、ビジネス的な絡みも出てきてしまうかもしれない。美作商事は大企業で、それゆえに大問題に発展するようなことがあるかもしれない。
 そうなることは、絶対に避けたいと思った。
 あきらは、関係が公になっても構わないし、そこに付随して面倒な自体になったとしても、何も気にすることはないと言うが、つくしには、気にしないなんてことは無理だった。

 仲良しの美穂に嘘をつくことは後ろめたいが、今は絶対に言えない。
 秘密にして欲しいと言えば、きっと彼女の心の中だけに留めてくれるだろうが、その話をしている時に誰かが聞いてしまうかもしれない。秘密が秘密でなくなり、噂が広がる可能性は無限にある。
 だからつくしは、自分の口から広がっていくことだけでも完全に防いでいたかった。
 隣で鼻歌交じりに仕事の準備を始めた美穂に心の中で手を合わせて謝ると、つくしは雑巾を片付けようとその場を去った。
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