01-05 / 06 / 07 / 08
水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
6
 ソファに座った客人――大木百合は、電話を終えて振り向いた俺と目を合わせると、にっこりと微笑んだ。

「ごめんなさい。お約束の時間より少し遅れてしまって」
「いえ、気にしないでください。申し訳ありませんが、あと三分だけお待ちいただけますか?」
「ええ、かまわないわ。その間、この美味しい紅茶を戴いていますから」

 目の前のテーブルに置かれたティーカップにちらりと視線を流し、そして再び俺に向かって微笑む。俺は「どうぞ」と小さく手で示すと、ドア付近に立つ松本の元へと向かった。それに気付いた松本が何歩か歩み寄ってきたが、俺が手で制するとすぐにその足を止め、俺が目の前に立つのを待った。

「松本、今の電話聞いてた?」
「申し訳ありません。失礼かと思いましたが、私の名前が出てきたので……」
「じゃあ、内容は理解した?」
「はい、ある程度は」
「それなら話が早い。多分、会議中に来ると思う」
「そうですか。ではお見えになりましたら、こちらにお通ししてお待ちいただきます」

 潜められた声と避けられた固有名詞は、ソファに座る客人を意識してのこと。わざわざ俺自ら松本に近づいた意味を瞬時に理解してくれたことも含め、この男が俺の秘書で良かったと感じる。

「ああ。悪いけど受付まで行ってやってくれ。初めてだから相当緊張してるみたいなんだ。松本の顔を見れば安心するだろう」
「私では力不足な気もしますが、承知いたしました。……この先こちらにお見えになることが増えそうですか?」
「待ち合わせに使うつもりはないけど、打ち合わせなきゃならないことが山積みなのに時間がとれない、なんて事態の時にはそうなるだろうな」
「でしたら、入館証を用意いたしましょうか。来社の度に総合受付で手続きする手間が省けます。このフロアの受付には……どうされますか?」

 重役の執務室ばかりが並ぶこのフロアの受付に座る社員は、当然のことながらそれにふさわしい資質を持ち合わせているので、余計なことを言いふらしたりはしない。それでも、牧野が何度も訪ねてきたら――美作の子会社の社員であるという事実はあるにせよ――「いったい彼女は美作あきらの何なのだろう」という話になるだろう。
 真実を告げても告げなくても、話題に上ることは避けられないだろうが、ならばそれは真実のほうがいい。
 どちらにせよ、さほど遠くない未来に公になることなのだから。

「入館証の手配は頼む。あいつがそれを何度も使う程ここへ来るかはわからんが、あったほうが圧倒的に楽だからな。それから、ここの受付には近いうちに俺が話す。そのうち知れることだ、下手に誤魔化すよりいいだろう」
「そうですね」
「ああ。……じゃあ、その件はそういうことで」
「はい」

 俺は小さく視線をソファへと流し、座って待つ客人の後ろ姿を視界の隅に捉えると、再び松本を見た。

「こっちは会議の十五分前には終わらせるから、すぐに打ち合わせられるように準備しておいてくれ。もし終わってなかったら内線鳴らして」
「承知いたしました」

 松本は一礼して部屋を出て行き、俺はソファに向かった。

「すみません、随分お待たせしてしまって」
「いえ。お忙しそうね」
「あー、忙しいというか、先週まで居なかったんでいろいろ仕事が溜まってて。大木社長も似たようなものでは?」
「どうかしら。そうでもないんじゃないかしらね」

 見習いとは言え秘書をしている人間とは思えない他人事な物言いに、思わず苦笑いが漏れる。
 美人でスタイル抜群と有名な彼女が、身体のラインがはっきりと出るニットワンピースを着てティーカップを手にするその姿は、たしかにそれだけで絵になる美しさがあるとは思う。だがそれは、間違っても仕事中の秘書がする格好ではない。
 今日は出社していないのだろう――もしくは、早退したのだろう――と、すぐに察しがついた。
 ――ということは、大木社長もすべて承知で送りだした、ってことか。
 面倒事が増えそうな予感に気が重くなる。だからと言って、適当に誤魔化してその場をやり過ごす類のことではない。
 数日の間にやって来るだろう大木社長と話す時間を確保しておかなければと、頭の中にスケジュールを廻らせた。

「それで、話というのは……?」

 早々に本題に入ろうとする俺に彼女は一瞬動きを止めて、それから「ああ、そうね」と小さく頷いた。

「先日のパーティーではいろいろありがとう。私、あんな大きなパーティーは数える程しか参加したことがなくて、とても緊張していたの。でも、あきらくんのエスコートがあったからとても心強かったわ。父にも、振舞いがとても良いって褒められて。あきらくんのエスコートのおかげよ」
「いえ、大したことはしていません。それに私なんかがいなくても、随分堂々としていましたよ」
「それは必死に平静を保っていたのよ。緊張してます、不慣れです、って顔に書いて歩くなんて恥ずかしいもの」

 誰だって初めは不慣れで緊張するのだから、そんなことを気にする必要などないはずなのだが、グループの中でもトップに立つ勢いの大木社長の娘として、やはりプライドはあったのだろう。
 たしかに、動きに迷いがあった場面も幾つかあったかもしれない。ただ彼女には、経験不足を補うだけの自信があって美貌があって……。
 ――牧野はすぐに不安を表に出すんだよな。大丈夫だって言ってるのに。
 気付けばいつの間にかそんなことを考えている俺が居て、こんな時に、と自分に呆れて思わず笑みが零れた。
 その笑みを目の前に座る彼女がどう捉えたのか、今までよりも嬉々とした様子で言葉を続けた。

「それにしても、あきらくんはさすがよね。エスコートが本当に上手。何もかもが自然で、あんなにさらりと出来るなんて驚いたわ。エスコートってああしたパーティーでは本当に重要なのね。あんなに居心地が良くなるなんて、思っても見なかったもの」
「まあ……ああいう場には慣れてますから、一応」

 彼女は握り続けていたティーカップを口元に運び、それからテーブルに置くと、改めて俺を真っ直ぐに見つめた。

「ねえ、あきらくん」
「なんでしょう?」
「これからするのは極々プライベートな話なの。だから、敬語なんて止して。なんだか仕事の延長みたいで嫌だから。昔みたいに普通に話したいわ。ね?」

 彼女は甘えるような上目づかいで俺を見た。
 たしかに昔、俺は彼女に敬語など使っていなかった。
 大木百合という女性は、知り合った時から俺にとって「美作のグループ会社の社長令嬢」だったけれど、今のように仕事が絡む関係ではなくて、大分類では「知り合いの一人」だった。
 当時、俺は高校生で彼女は大学生。仲間達と好き勝手やってた俺と、目に入れても痛くないほど可愛がられて育てられた箱入り娘の彼女。一緒に遊ぶ仲というわけでもなく、連絡を取り合う関係でもなく、会ったら少し話をする、ただそれだけの間柄だった。
 けれど彼女にとって、年下のくせに何の物怖じもせずフランクに話す俺は――違う捉え方をすれば、ただ単に礼儀知らずなだけだったとも言えるのだけれど――かなり目新しい存在で、俺が思っていたよりもずっと親しく感じていたのかもしれない。
 俺が仕事を始めるのと時同じくして彼女も秘書として父親に同行するようになり、俺は彼女に敬語を使うようになった。傍に他の人間が居ようが、居まいが。「二人の時は敬語なんていらないわ」と数回言われたことがあるけれど、俺は敬語を使い続けた。俺にとってその時間は、仕事以外の何物でもなかったし、それを使い分けなきゃならないほど親しい関係でもないと判断していたから。
 つまりは、言葉の使い方など、どうでも良かった。
 けれど、彼女には違ったようだ。
 この期に及んでそんなことに拘るなんて、と思う気持ちがないわけではないけれど、この後彼女に与えるショックの大きさを考えたら、それくらいは付き合ってもいいかと思い、「わかった」と頷くと、彼女は嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
 けれどそれきりなかなか話し出そうとはせず、沈黙だけが流れていった。
 きっとこれから核心をついてくる。そう思った俺は、黙ってその時を待つことにした。

 沈黙は二分近く続き、それからようやく、彼女の口がゆっくりと動いた。

「こんなこと、私の口から言うのは恥ずかしいんだけど……その、私、あきらくんと……私達、真剣なお付き合いを始めたって思っていいのかしら?」

 ほんのり頬を染めて、時折俺の顔を上目使いで見つめては恥ずかしそうに目を伏せる彼女は、もうすでに俺の彼女になっているかのような甘い表情を浮かべていた。

「ごめんなさい。こんなこと私から口にするのは図々しいってわかってるんだけど、なんだかはっきり聞いておかないと不安で……――」

 気持ちが落ち着かない、夜もぐっすり眠れない、と言い募る言葉全てから、彼女は「イエス」以外の返事など爪先ほども考えていないのだと感じ取れる。
 その自信は俺が与えてしまったのだろうか。もしそうなら、一体そんなに何を期待させただろうか。
 どう考えてみても、その明確な答えに行きつけそうになかった。
 けれど実は、そんな答えなんてどうでもいいことを俺は知っている。

 ――ありったけの愛を注いでいるはずの牧野は、滅多にそんな顔してくれないんだけど。

 こんな時でも俺は牧野のことばかり考えている。牧野のことばかりが俺の中を駆け巡る。
 それが一番確かな現実なのだから。
 俺はすうっと息を吸うと、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「百合さん、俺はそういうつもりはありません」
「……え?」
「百合さんがどうしてそう思ったのかはわかりませんけど、俺は百合さんとお付き合いしているつもりはない。それは、今後も」
「……」
「俺は百合さんを、そういう対象として見ていないから」

 刹那、彼女の瞳が大きく見開かれ、そのまま時を止めた。
 たっぷりの沈黙を経て、笑みが消えたその口元が、震えて引き攣るように言葉を紡いだ。

「……うそ、よ……」
「嘘じゃない」
「え、……だって、ロンドンで……」
「ロンドンで、何?」

 動揺の色濃い震える声で呟かれた言葉に引っかかりを覚えた。
 何を言おうとしているのか、全く見当がつかない。とにかく次の言葉を待つ。
 彼女は小さく瞳を左右に揺らした。

「ロンドンで、おじさまに、今後のこと――結婚を見据えた話をした、って……」
「……それ、何?」
「父からそう聞いたの。あきらくんが突然ロンドンに現れたのは、おじさまと今後の話をするためだって。近いうちに身を固める決心をしていて、その了承を得に来たんだ……って」
「……」

 正直、かなり驚いた。なぜ大木社長がそのことを知っているのか……俺や親父が話すわけはなく、それ以外に知っている人間が他にいるわけでもないのに。――となれば、大木社長が立ち聞きしたことになる。しかもそれを、娘に話したのだ。
 たしかに、親父の執務室で話をした。もちろん人払いをして二人きりで話したが、直前まで大木社長がいたから、可能性は十分にある。
 ――だからって、そんなこと許されると思ってるのか?
 苛立つ気持ちと腹立たしさが膨れた。
 ただそれを彼女にぶつけたところでどうしようもなく、それよりも訊きたいことが他にあった。
 出来るだけ表情を変えないように、苛立ちをぐっと胸の内に仕舞い込んだ。

「でもそれで、なんでその相手が百合さんだと……?」
「だって、ずっと優しかったから」
「……」
「向こうではとても忙しそうだったから全然お話は出来なかったけど、帰りの飛行機の中でも、パーティー会場でも、ずっと一緒だったし、あきらくんはずっと優しかったから……。周囲の方々にいろいろ言われても、あきらくん、ずっと笑顔を絶やさなかったから……だから、私……」

 ――それだけ?
 苛立ちを抱える俺の中に、口を吐いて出なくて良かったと思うほど尖った言葉が湧いた。
 彼女は俺の気持ちが自分に向いたと思っただけではない。もっと進んで、つき合い始めていると思っていた。
 そこまでの思いこみが「優しかった」と言う事だけで成り立つのだろうか。
 それはとても理解出来るものではなかった。
 それとも、そこには他の何か要素があったのだろうか。
 ――周囲の無責任な噂話か?
 パーティー会場には、たしかに俺達の関係を決めつけて祝福する声があった。俺からしてみたらあんなエスコートは大したことではないのだが、パーティー慣れしていない出席者が多い中では、特別な光景として映ったのだ。
 面倒だとは思ったがそんな視線が集まることには慣れていたから、予想の範囲内だった。
 ただひとつだけ、一番あってはならない誤算は、牧野がいたこと。それだけは本当に、焦りを通り越して頭の中が真っ白になった。
 おかげで俺の全神経がそこに集中して、他のことはさらにどうでも良く思えた。何を言われようがどう騒がれようが、いつか真実は明らかになるのだから、と。
 だから俺はそのすべてをさらりと流してしまっていたけれど、彼女はそのすべてを受け止めたと言うことだろうか。
 小さく芽生えた期待に周囲の声が重なると、大きな大きな自信へと変化するのだろうか。

 どんな話をしてどんな顔をしていたか、自分の記憶を辿ってみる。
 牧野のことでいっぱいだった俺は、良くも悪くもあまり表情を変えていないはずだ。笑みを絶やしたりはしなかっただろうし、冷たくあしらったりもしなかったように思う。
 けれどそれは特別なことではない。普段からずっとそうしていること。
 とすると、俺は普段からずっと誤解を招いていたのだろうか。

「百合さん、俺――」
「ずっと、好きだったの」
「……」
「あきらくんが美作商事の後継者だからじゃないわ。そんなの関係ない。ただ、あきらくんが好きで……好きで好きでたまらなかったの。――気付いていたでしょ? あきらくんは鋭い人だもの。絶対に気付いていたわよね。それでも優しかったから……だから、私、ようやく……」

 気持ちを受け入れてもらえたんだと思った――。

 彼女の言いたいことは、尻すぼみに消えてもはっきりとわかった。
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2010.11 水色に浮かぶ雲
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