01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06-08
水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
5
「失礼します。専務、午後の予定なんですが、」
「何か入った?」
「はい。十六時から会議が」
「十六時。……わかった。他には?」
「今のところ以上ですが……あの、」
「ん?」
「余計なことかもしれませんが、大木様とは……」

 言いたいことはすぐにわかる。先程の電話のことを心配しているのだ。

「今日会うことになった。十五時。来たらここに通して」
「承知致しました。会議の前に少し打ち合わせをさせていただきたいと思っているのですが――」
「ああ、かまわない。こっちはそんなに時間はかけないつもりだから」

 そんなに話すことがあるわけじゃないし、と呟くように言った俺の顔を、松本はじっと見つめて、それから遠慮気味に言葉を紡いだ。

「パーティーの会場以外でも何かおありになったのですか?」
「何かっていうほどじゃないけど……牧野とホテルに戻ったら伝言があったんだよ」

 机の上に放った便箋を手に取り掲げながら、俺はその翌日のことも含めて、この週末に起きた彼女とのことを松本に話した。
 松本はじっと話を聞き、それから小さく苦笑いを浮かべた。

「おそらく大木様は、パーティーをご一緒出来たことで、すっかり前進されたご気分でいらっしゃるのでしょうね」
「そこまで誤解させるような態度は取らなかったつもりなんだけどなぁ」
「失礼ながら、専務は牧野様の件でずいぶん動揺されていたようですから、完璧にシャットアウトした……とは言い切れないのでは?」
「……たしかにその通りだな。何にせよその気はないんだから、とにかくはっきりさせるよ」
「そうですね。それがよろしいかと思います」

 俺は小さく頷き「処分してくれ」と便箋を松本に渡した。
 松本はそれを受け取りながら、もう片方の手元をちらりと見た。

「ところで、そちらにお持ちのものは……?」

 その視線は、俺の手に握られた牧野の社員証に注がれている。
 俺は笑ってヒラヒラと動かしながら松本に見せた。

「こっちは牧野の社員証。車の中に落としていったんだ」
「え……では、牧野様がお困りなのでは?」
「そう思って届けるって言ったんだけど、仮社員証を発行してもらったから大丈夫、って断られた。でも仮のだといろいろ制限されるだろう? 困ったら連絡しろって言ってあるんだけど、音沙汰なし。本当に困っていないのか、困っていても言ってこないのか」
「牧野様らしいですね」
「まあな。……さて、昼にするか。松本、一緒に行かないか? ちょっと話したいこともあるから」
「それは今この場でより、食事しながらのほうがいいことですか?」

 俺は口の端を小さく持ちあげ、ひょいと肩を竦める。

「そうだな。この週末の、極々プライベートな出来事だから」

 松本はゆっくりと笑みを広げ、「ご一緒させていただきます」と一礼した。



 食事をしながら俺は松本に、牧野にプロポーズしたことを話した。
 松本は一瞬驚いた表情を浮かべ、それから「おめでとうございます」と満面の笑みを浮かべた。

「これからいろいろ忙しくなると思う。松本にも、今以上に――」
「承知しております。もしよろしければ、牧野様のスケジュールも合わせて管理調整させていただきますが」
「ああ、そうしてくれると助かるよ」
「……専務、誤解が解けて何よりでしたね」
「……ホントに。悪かったな、いろいろ。牧野も気にしてた」
「いいえ。気にしていただくようなことは何も。でも、なんだかホッとしました」

 微笑む松本に、俺は照れ笑いを浮かべる。
 どこか恥ずかしくて、そしてすごく嬉しかった。


 食事を終えてオフィスに戻り、牧野に連絡を入れた。
 定時を少し過ぎるかもしれないが早めに迎えに行けることを告げると、「無理してない?」と俺の心配をしたが、その声が僅かに弾んでいて、彼女の小さな喜びが伝わってきた。
 決して堂々と表に出したりはしない。けれど隠しきれずに溢れる牧野の感情が、とても愛しい。

「社員証、困ってないか?」
『うん、大丈夫』
「なら良かった。じゃあ、会社出る前に連絡入れるから」
『うん。わかった』

 あっさり話を終えて、閉じた携帯電話を胸元にしまうと、さっそく書類に手を伸ばした。パラパラめくりながら、残りのペース配分を考える。
 ――会議のことを考えると、この二時間が勝負だな。……よし。
 終わったら牧野と会える。それだけでいつも以上に気合が入るなんてどれだけ単純なんだと、そんな自分に少し呆れた。



 山積みだった書類をすべて片付け終えた時、時刻は十五時を少し回っていた。
 大木百合はまだ来ていない。けれど別に気にすることでもないので、秘書室から松本を呼び、書類の最終チェックを始めた。
 その途中で、胸元の携帯電話が振動した。
 取り出して見ると、牧野からのメールを受信している。そのまま開いて内容を確認した。


――――
突然ですが、今日の仕事はもう終わってしまいました。なので迎えに来てもらうのではなく、私が美作商事の近くまで行くことにします。ちょっと話したい……というか、相談したいことがあるので、電話もらえたら嬉しいです。忙しければ別にいいので気にしないでね。ひとまずその辺ぶらぶらしてまーす。
――――


 なんとも気になるその文面に、俺は携帯電話を見つめたまま黙り込む。
 そんな俺に気付いた松本が声をかけてきた。

「どうかしましたか?」
「ん? ああ、牧野からなんだけど……悪い、ちょっと電話する」
「席外しましょうか?」
「いや、そのまま続けて」

 俺は松本と向かい合って腰かけていたソファを立ち、窓際に移動しながら牧野に電話をかけた。
 数回のコールで繋がった電話から聞こえてきたのは、「もしもし」という牧野の明るい声と、ざわざわとした喧騒だった。

「もしもし」
『ごめんね。忙しいのに』
「いや、気にしなくていいよ。それより、仕事が終わったって……?」
『そうなの。今日ね、三時で仕事が終わりになっちゃったの』

 一年で一番大変だろう仕事が先週で一段落したことや、残業続きで祝日出勤までしたことなどから上が判断して、部署全員で仕事を切り上げることになったのだと牧野は言った。

『お昼から戻ったら、部長が突然そんなこと言うもんだから、みんなびっくり』
「まあ、週末はパーティーまで参加させられてるからな。その判断は妥当かも」
『たしかに今日はあんまりやることもなくて。結構時間を持て余してたんだよね』
「そっか、じゃあちょうど良かったな」
『そんなわけで、もう会社を出たの。今、美穂と一緒に歩いてて、近くに新しくオープンしたカフェがあるから、これからそこへ行ってみようって話してたところ』
「へえ。いいね」
『うん。それで、仕事が終わる時間に合わせてそっちに行こうと思ってるんだけど……』

 牧野はそこで言葉を途切れさせた。俺の答えを待っているのだろうかと、「いいよ、それで」と言ったのだけれど、それでも牧野は言葉を止めたまま。「どうした?」と訊くと、ようやく牧野は話し出した。

『あのね、美穂も連れていっていいかな?』

 ――……あー。相談ってこれか。

 牧野が美穂と呼ぶ女性――木下美穂。牧野が一番仲良くしている同僚。
 彼女を連れて、ということは、俺と彼女を会わせたいということ。
 会社の人間に俺とのことを内緒にしている牧野がそんなことを言い出すなんて、今までではとても考えられない。
 けれど、今はもう違うのだ。この週末、二人でそういう話をしたから。
 どこまでこの事実を公表するか、しないか。するのならばいつするか……いろいろ話す中で、牧野が一番に名前をあげたのが、木下美穂だった。「美穂に最初に話したいの」と牧野は小さく笑っていた。それがいつであるかは言っていなかったけれど、今日が良い機会だと思ったのだろう。

『突然、すぎる?』
「いや。俺はいつだってかまわない。もちろん今日でも」
『……良かった』
「木下さんには話したのか?」
『美穂? うん。話した』
「会ってもいいって?」
『うん。是非お会いしたいです、って……今隣で言ってる』
「その相手が俺だってことは、言ったのか? それとも――」
『言ってない、まだ。なんか、反応が怖くて』

 電話越しでも、苦笑しているであろう牧野の顔が浮かんだ。

「そっか。まあ、会えばわかることだからな」
『うん』

 一瞬、小さな沈黙が流れた。
 そこで俺は、ふとあることを思い立つ。

「そうだ、牧野。せっかくだから、二人でここへ来いよ」
『え? ここって?』
「美作商事」
『……え!?』

 ひどく驚いた声が、電話の向こう側から響いてきた。

「ほら、これからいろいろ打ち合わせとかしなきゃいけなくなるだろ? どうしても時間が取れない時は、仕事の合間にちょこっと、なんてこともあるかもしれないし、きっとこの先ここへ来ることがあると思うんだよ。まだここへ牧野を連れてきたことがなかったから、近いうちに一度って考えていたんだ。ちょうどいい。今日にしよう」
『いや、でも、仕事中だし、迷惑でしょう?』
「そんなことないさ。俺がおいでって言ってるんだから」
『いやあ、でも、初めてだし、緊張しちゃうから、せめて一度目は誰もいない時とかに……』
「大丈夫だよ。俺専用の執務室に来てもらうだけだから、他の誰かに会うってこともない。別に緊張する必要ないだろ?」
『あ、そっか。いや、でもぉ……』

 それでも牧野は、躊躇している。
 その時、内線電話が鳴った。振り返ると、すでに松本がソファを立って近寄ってきていたので、電話は松本に任せることにして、俺は話を続けた。

「俺、四時から会議が入ったんだ。それ自体はそんなに長くはかからないと思うけど、その後に片付けなきゃならない仕事が幾つか出そうだし、時間内に終わるかどうか微妙なところなんだ。どこかに待たせてるって思ったら気が焦るけど、ここへ来てくれたら安心して仕事を片付けられる。迷惑どころか最良だよ」
『……』
「な? ここへおいで。初めての場所も木下さんと二人なら心強いだろ?」
『美穂と一緒でも、さすがにそこは勇気がいるよ』
「でも一人よりいいだろ?」
『……百倍くらいね』
「じゃあ、決まり。待ってるから」

 たっぷりと考えた後、ようやく「わかった」と言った牧野に、俺は口の端をあげた。

『何時に行けばいい?』
「そうだなあ。――あ、ちょっと待って」
 
 俺をじっと見つめる松本の視線に気づいて話を止めると、松本に話しかけた。

「内線どこから?」
『受付です。お客様が見えられたようです』
「わかった。ここに通して」

 松本は小さく頷き、再び受話器を耳に当てた。
 俺は牧野との電話に意識を戻す。

「悪い。えーと、時間だったよな」
『うん。……話してて平気なの?』
「ん? ああ、大丈夫。えーっと、多分会議は五時過ぎに終わると思うんだけど」
『じゃあ、五時半? あ、でも就業時間内はマズイよね』
「かまわないよ。あんまり遅くなると退社する社員がわんさかいるし、その前に会社に入ったほうがいいだろ」
『そっか。そうだね。うん。そうする』

 五時半ね、と俺にというより自分に念を押すように小さく繰り返す牧野に、俺はクスリとわらった。

「別にそんな正確に来ることないからな。商談じゃないんだし、俺に会いに来るだけなんだから。早くても遅くてもいいよ。あー、遅いのは心配だから、その時は連絡もらいたいけど。でも早い分には全然かまわない。執務室に入れば誰もいないし、自由に待っていられる」
『でも会議中だったら――』
「受付には松本の名前を言えばいいよ。アポ取ってるって言えばすぐに取り次いでもらえる。そうすれば、俺が会議中でもそうじゃなくても確実だろ?」
『じゃあ、そうする』
「松本にはきちんと話しておくから」
『うん。よろしくね』

 それから牧野は「なんか緊張するなあ」と呟いた。
 大丈夫だとどんなに言ったところで、きっと牧野は緊張したままここに現れるだろう。あちこちキョロキョロと興味深げに眺めながら。キョトキョトと目を泳がせながら。

「せっかくだから、何か美味い物でも食いに行こう。木下さん、時間は大丈夫そう?」
『あ、ちょっと待って。訊いてみる』

「美穂、今日何時まで平気?」と僅かにくぐもった牧野の声が聞こえてくる。
 モゴモゴと繰り広げられる会話をなんとなく聞いていると、コンコンとドアをノックする音がした。
 目を合わせた松本に小さく頷くと、松本はドアに向かい歩き出した。
 ドアを開け、そこにいる客人――大木百合を部屋の中へ案内するだろう様子を思い描きながら、俺は入口に背を向けて窓の外を見つめた。

『もしもし、お待たせ。美穂、何の予定も入ってないって』
「そうか、じゃあゆっくり出来るな。何が食べたいか考えておけよ。何も言わないと俺が食べたい物になるからな」
『わかった。決まるかわかんないけど一応相談しておきます』
「ああ。……じゃあ、そろそろ仕事に戻るよ」
『あっ、そうだった。ごめんね、長電話になっちゃった』
「気にするな。何かあったら電話して。会議に入ったら出られないけど、それ以外は大丈夫だから」
『うん。わかった。じゃあ、後でね』
「後でな。じゃ。」

 電話を切と、俺はそれを胸元にしまい込む。
 同じように電話を切り、楽しげにカフェへと歩き出す牧野の後ろ姿が浮かんできて、思わず口元が緩んだ。
 いったい俺は、一日に何度牧野の姿を思い浮かべてるんだろうと思ったら、余計に口元が緩む。
 けれど背後で、運ばれてきたティーカップがテーブルに置かれたであろう音がカチャリと鳴って、それが緩んだ口元を引き締めさせた。
 ――まずはこっちを片付けないと。
 ふうと小さく息を吐いて、それからくるりと振り向いた。

「お待たせしました」

 やっぱり俺の中には、笑顔で歩く牧野の姿が浮かぶ。
 目の前の上品な笑顔よりもずっと、豪快で弾けるような愛しい笑顔が。

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2010.11 水色に浮かぶ雲
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