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エクリュ
COLORFUL LOVE
6
 普段は気にならない階下を通る車のクラクションがはっきりと耳に届く程、室内がしんと静まり返った。
 吉田も平野も、言葉なく固まっている。
 当然だ。青天の霹靂――この言葉がぴったりだろうこの状況下で、すぐに言葉を見つけ出せる者などいるわけがない。
 この状態で口を開ける人間は、たった一人。

「驚かせてすみません」

 そう、あきらだけだ。
 まるでその言葉を待っていたかのように、室内の時間が再び動き出した。
 どうにか我に返った吉田が、はーっと深く息を吐く。

「ああ、いや。……そう、でしたか」

 吐き出された言葉はその一言だけ。あとは、あきらとつくしの間を遠慮がちに、けれど見られている当人達がはっきり意識してしまうレベルで、視線が行ったり来たりしている。まだまだ驚きは継続中のようだ。その横に座る平野の表情も同じようなもの。こちらは瞬きも忘れたように呆然とつくしの顔を見つめている。
 つくしは膝の上で両手をぎゅっと握りしめて、二人と視線が合う度、引き攣る笑顔で申し訳なさそうに小さく頭を下げた。別に悪いことをしているわけではない。それでもそうした反応になってしまうのは、もうどうしようもない。
 そんな中で唯一変わらぬ笑みを浮かべているのは、あきら。

「驚かれるのは無理もないと思いますし、いろいろ興味も疑問も湧くとは思いますが、今は仕事に関係することだけを話させていただきます」

 何にも動じることのない落ちついた声で断りを入れ、それから静かに話し始めた。あちこちに乱れ散らばったそれぞれの意識が、その声に吸い寄せられるように集まる。

「私と牧野は大学生の頃から交際しています。卒業後、私は美作商事に、彼女はこの春にこちらへ入社したわけですが、就職先が美作の子会社だったことは偶然です。彼女はそれを知らずに入社試験を受けていて、私は内定が決まって初めて会社名を知らされました。それはもう驚きました」
「そうでしたか。まあたしかに、うちは美作商事の子会社だということを全面に出していませんから、そんなこともあり得るでしょうね」

 ずっと驚きに満ちた表情を浮かべていた吉田が、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
 あきらは笑みを浮かべて頷いた。

「敢えてこの話をするのは、牧野がここへ入社した経緯に疑問を持たれては、こちらの人事担当者に申し訳ないからです。社長の知らないところで何らかの力を働かせたなどということはありませんので、まずそのことをご理解ください」
「もちろんです。そんなことを疑うつもりもありませんよ。我が社の採用方針は美作社長にもきちんと伝えてありますし、理解していただいていますから」

 きっぱりと言い切る吉田に、あきらは「それなら安心しました」と笑みを深くした。そして「それから」と言葉を続ける。

「私達の関係は、ロサードの社内の人間は誰一人知りません。これは美作本社も同じようなもので、今このことを知っているのは、社長と社長秘書、そして私の秘書だけです」
「そう、なんですか?」

 今度は平野が口を開いた。とても意外そうに。そして横に座るつくしにそっと訊く。

「牧野さん、木下さんも知らないの?」

 平野はつくしにエリートサラリーマンの恋人がいる事実を知っていた。そして美穂とつくしが仲良しで、その恋人について二人で語っていたことも。だから美穂は最初から相手を知っているのだろうと、そう思っていたのだ。

「あ、えっと、美穂、じゃなくて、木下さんには、昨日知らせました」

 ここまでずっと黙っていたつくしが、ようやく、本当にようやく口を開いた。

「つき合ってる人がいることだけは話していたんですけど、それ以外は話していなかったんです。他の人には、そういう人がいることさえも話していません」

 つくしの言葉に、平野が二度三度と頷いた。

「それで、黙っていてくれって言ってたのか……」
「そうなんです」

 すみません、と小さく頭を下げたつくしに、「牧野」とあきらが声をかけた。つくしが顔を上げると、「どういうこと?」と問うような視線を向けるあきらがいて、平野が知る事実について何も話していなかったことを今更ながら思い出した。

「あ、ごめん。言ってなかったね。えっと、先週の話なんだけど……美穂と話してるところにたまたま平野部長が通りかかってね」
「私が二人の話を少しだけ聞いてしまったんです。海外出張に行ってる恋人がいるっていう、ただそれだけの話なんですけど」

 偶然ではあったのだが、すぐに二人に誰にも言わないでほしいと口止めをされて、何かいろいろ事情があるのだろうと思っていた、と平野は言った。
 あきらはそれに対して納得したように頷き、小さく頭を下げる。

「すみません。ご迷惑をかける形になってしまって」

 平野は恐縮したように首を横に振った。

「いえいえ。迷惑なんて全然。聞くかぎり、内緒にしておかなければならないような関係でもなさそうだったし、とても素敵な彼氏だということは伝わってくるのになぜだろうとは疑問には思いましたけど、でもこういう事情なら、とてもよくわかります。たしかに簡単に話せることじゃないですね。言えば必ず周囲が騒ぐ。わかりきっていますから。……牧野さん」
「はい」
「君が口止めしたのは正しかったと思うよ。そうされなければ、俺は誰かに言っていたかもしれない。恋人がいるって知れ渡るだけで、いろいろ突っ込まれて大変なことになるもんな」

 優しく理解を示す平野に、つくしは言葉にならないたくさんの思いを込めて頷くように頭を下げた。
 そんなつくしを見つめて、あきらは静かに口を開いた。

「私はこうした立場に生まれ育っているので、良くも悪くも注目されることには慣れています。でも一般家庭で育った牧野は違います。彼女がこの関係を公にしないことを望んで、それは当然の望みだと思ったので、私はそれを尊重してここまで来ました。でも状況の変化によっては公表することも必要になります」
「それが、今回ですね?」

 吉田の言葉に、あきらは頷いた。

「吉田社長、新事業のことは平野部長には……?」
「まだこれからです。今日の会食を終えてからと」
「そうですか。なら、私から少し話しても?」
「もちろんです」

 吉田が頷くのを確認して、あきらは平野に向かって話し出した。

「詳細はまた別に時間を設けて説明させていただきますが、春から新事業を始めてもらう予定でいます。本社と連携しての事業で、私がその責任者です。こちらに来ることも、彼女と仕事上で顔を合わせることも増えると思います」
「なるほど。そうなると、把握している人間がいるといないのとでは随分変わりますね」
「はい。ですので、吉田社長と平野部長にはいち早く報告させていただきました。まだ社長にも確認はとっていませんが、おそらくこちらの担当責任者は平野部長になるでしょうから」
「え、私ですか?」

 少々驚いた様子で吉田を見る平野に、視線の先の吉田は笑顔で頷いた。

「担当部署は君のところなんだよ」
「あー……となると、必然的に私が責任者ですね」
「このことを知ったからと言って、何をどうしてほしいということではありません。頭の片隅に留めていただいて、何か不都合が生じた場合には遠慮せず知らせてください」

 言葉を重ねたあきらに、平野は頷いた。

「それから、実はこっちの方が重要なのですが――」
「美作さん」

 更に話を進めようとしたあきらの言葉を遮ったのは、つくしだった。

「あの、あたしから話してもいい?」

 あきらが話そうとしているのは、つくしのこれから。それは本来、つくしが話すべきことだ。ただつくしのする結婚が「特殊」に分類されるものなので、あきらがこうして話をしてくれている。けれど、自分の意思くらいは自分の口から話せる。難しい話は任せるにしても、それだけは自分で伝えたいと思った。
 あきらはつくしをじっと見つめて、笑みを浮かべて頷いた。

「いいよ」

 伝えられるだけの気持ちを思ったまま伝えてごらん――まるでそう言われてるような気がして、その優しい笑みと優しい声は何よりも心強く感じた。
 つくしは唇をキュッと結び頷くと、吉田と平野に改めて向き直り、膝の上で握りしめた拳に再び力を込め、ゆっくり言葉を紡ぎ出す。

「今後の仕事のことなんですが……」
「ああ、うん」
「もし可能なら、このままずっと働かせてもらえないでしょうか?」
「……ずっと、というと?」
「婚約をしても、その……出来れば結婚をした後も」
「……ええ!?」
「け、結婚後も?」

 吉田と平野は、ほぼ同時に驚きの声を上げた。つくしが婚約者であることを告げた時に比べたらその驚きは小さかったけれど、それでもかなりの驚きようだった。
 つくしはそれに怯むことなく言葉を続ける。

「自分がこれからしようとしている結婚が、普通の結婚と同じだとは思っていません。正直、どこまで両立出来るかもわかりません。早退や休暇を取ることは確実に増えると思いますし、いずれどこかの時点でやっぱり無理だと思う日も来るかもしれません。でもやれるだけはやりたいと思っているんです。出来るだけ迷惑を掛けないように頑張ります。なので、検討していただけませんか?」
「……」
「……」

 つくしの申し出に、吉田と平野は顔を見合わせた。
 二人とも、婚約中はともかく結婚後は仕事を辞めるものだと思い込んでいた。だからまさかずっと続けたいと言われるなどとは思いもせず、すぐに返事が出来なかった。しかも吉田は、別の申し出をされる可能性を考えていて、まずはそこから確かめなければいけないと思った。
 十数秒の沈黙の後、吉田がおずおずと口を開く。

「あの、美作専務」
「はい」
「牧野さんの考えは、専務もご承知なんでしょうが」
「もちろんです」
「共働きの選択はお二人の自由だとしても、牧野さんに仕事を続けさせる上で、本社勤務とか、そういう方向のお考えはないのですか?」
「え、本社……?」
「私の配下に置くということですよね? 秘書にするとか、直属の部下として働かせるとか」
「そうです」
「ええ? ちょっとま――」
「もちろんそれは考えましたよ」
「ええ! 美作さん、そうなの?」
「もちろん」

 驚きに目を丸くするつくしに、あきらは緩やかな笑みを浮かべて頷いた。

「シンプルに考えて、それが一番融通を利かせやすいだろう? 好きなように仕事をさせてやれるし、時間も自由自在だし」
「……それって、職権乱用、公私混同ってやつ?」
「そうとも言う」
「イヤよ、そんなの。大体にして、あたし秘書なんて出来ないもん。それに、美作さんには松本さんがいるじゃない?」
「別に、第一秘書にする必要はないだろ。第二でも第三でもいいんだし、もっと言えば秘書じゃなくてもいい」
「他に何よ。あたし、なんにも出来ないよ?」
「司の母ちゃんみたいに、実権を握るとか」
「ど、道明寺のお母さんみたいに? もっと無理だよ! あたし鉄の女になんてなれない」
「あははは! 別に鉄の女になれなんて言ってない。まあそれは冗談として、おまえが働きたいって言うことは訊く前から予想出来てたから、俺なりにいろいろ考えてみたってことだよ。考えてはいたけど、おまえがここ以外は考えていなさそうだったから、話さなかっただけ」
「……そっか」

 あー驚いた、と胸を撫で下ろすと同時に、いろいろ考えてくれていたあきらに感謝の気持ちが湧く。「ありがとう」と伝えようと口を開きかけた時、自分の声でもあきらの声でもない別の声が、つくしの耳に届いた。

「あの、すみません……」

 ハッとして見ると、二人のやりとりを唖然とした表情で聞いていた吉田と平野の姿があった。

「……あ」

 つくしは二人の存在をすっかり忘れて、いつも通りのやりとりをしていた。二人の関係を公にした今、決して困ることなど何もないのだが、それでもつくしは大いに困り果て、項垂れた。

 ――あー。やっちゃった。

 そんなつくしにあきらは口元を緩め、けれど涼しい顔で吉田と平野に言葉を投げる。

「そんなわけで、本社に呼ぶことは今のところ考えていません」
「……そ、そうですか」

 吉田はそう返事をしたものの、もはやそれどころではない、という表情を浮かべ、躊躇いがちに言葉を紡いだ。

「あの、今……」
「はい?」
「凄い名前が出てきた気がするんですが」
「……ああ、道明寺司ですか?」
「そうです。えっと、道明寺財閥の……」
「ええ。副社長です」
「牧野さん、今呼び捨てしてなかった?」

 つくしはハッとして顔を上げ、更に深く項垂れる。

 ――あー。さらにやっちゃってる。

 けれど項垂れてばかりいても解決しないので、申し訳なさそうに口を開いた。

「してました。すみません。それ以外の呼び方したことがなくて、つい」
「……」

 つくしにしてみたら、その答えがベストだったのだが、吉田と平野は更に驚いて目を丸くした。フォローしたのは、もちろんあきら。

「副社長の司は私の幼馴染です。彼も英徳出身ですから――」
「ああ、なるほど。牧野さんも学生時代から知り合いってことか」
「なかなかすごい人達とお知り合いだね、牧野さん」

 平野が呆然とした様子で呟き、つくしは苦笑いを浮かべた。もうそれ以外にどんな顔をしていいのかわからない。
 そんなつくしをあきらは楽しそうに見つめ、それから改めて吉田と平野を見ると、それまでよりも凛とした口調で告げた。

「牧野が仕事を継続出来るかどうかを判断いただく材料として、私のスケジュール的なことも少し説明させていただきたいと思っています。社長も部長もこのまま話していて大丈夫ですか? もし予定があるようでしたら日を改めますが」
「私は大丈夫です。午前中は外出予定も来客予定もありませんから。……平野部長は?」
「私も大丈夫です。仕事は先週で一段落しておりますので」
「そうですか。……牧野」
「はい」
「おまえは仕事に戻ったほうがいい。あんまり長く席を外すと、後々言い訳が大変だ」

 あきらの言うことは尤もだった。時計を見れば、席を離れてから三十分以上が経過している。平野と一緒だということは美穂が知っているけれど、残してきた情報はそれだけなのだ。心配もするだろうし、誰かが気付いて疑問に思えば話題にものぼるだろう。

「……そう、だね」
「うん。平野部長、ここへ来ることを周囲にはどのように……?」
「特には何も言ってきていません。緊急の時には携帯電話を鳴らすようにと」
「そうですか。……たしか会議室はこの階にもありましたね」
「はい」
「では、本社に提出済みの書類にミスがあって、会議室でその修正をしていたことにしてください。一分一秒でも早く仕上げるために会議室に籠っていたと。そして修正終了後、平野部長は社長室に、牧野は通常業務に。修正を命じたのは私で、社長と打ち合わせをしながらその完成を待っていたということにすれば、怪しまれることはないでしょう」

 スラスラと架空の状況を作り上げていくあきらに、吉田は感心したように数回頷き、平野とつくしは目を丸くした。

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2010.03 エクリュ
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