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エクリュ
COLORFUL LOVE
5
 自分が社長室に呼び出される理由なんて、どう考えてもひとつしかない。だからきっとそこにはあきらが居るはずだ。
 そんな確信に程近いものを持っていたつくしだったけれど、実際にあきらの姿を確認したら、緊張はそれまでよりも更に増し、鼓動は一気に速度を上げた。あまりにも無遠慮にバクバクと音を立てるから、隣に立つ部長の平野に聞こえるのではないかと心配になる程だ。

 ――えーと、こういう時ってどうしたらいい? なんて言えばいいの?

 この場面は「お疲れ様です」だろうか。「こんにちは」だろうか。それともここは「はじめまして」なんてシラを切るべきなんだろうか。
 パニック気味の頭で必死に考えるも、パニック気味ゆえに答えはなかなか見つからず、結局つくしは小さくペコンと頭を下げただけで何も言えなかった。
 そんなつくしの心情を察したのか、あきらは小さく笑ってソファから立ち上がった。

「先日はパーティーに出席いただきまして、ありがとうございました」

 もちろんそれは、平野に向かって発せられた言葉。平野は慌てた様子で答える。

「いいえ、こちらこそ、ご招待いただきありがとうございました。大変貴重な経験をさせていただきました」
「突然の招待で、ご迷惑だったのではないですか?」
「とんでもありません。部下達も皆喜んでおりました。……ね?」

 突然振られて驚いたのは、つくし。反射的にコクンと頷いた。この際本心は、心の奥底に沈めておく。

「そうですか。それなら安心しました」

 あきらは全てを承知の上でニコリと笑う。つくしはホッと息を吐く。
 予想外の来客者がいたことに心底驚く平野は、あきらとの会話に笑みを浮かべながらも、「これは一体何事だ?」と隣のつくしにしか聞こえない小さな声で呟いた。つくしはその声にちらりと平野を見上げたけれど、なんと言葉を返していいのかわからず、無言で頬を引き攣らせるように笑みを浮かべるだけ。

 ――あたしのせいです。

 言えたらどんなに楽だろうか。……けれど今それを言う勇気は、正直ない。
 再びあきらに視線を戻せば、変わらず優しげな笑みを湛えていて、つくしと目が合うとより一層笑みを深めた。あきらの細められた瞳に緊張がほんの少し吸い取られ、軽減した気がする。けれどその一方で、ここが始まりだと思うと別の緊張が増す気もした。

「平野部長も牧野さんもいつまでもそこに立っているつもりだい? こっちへ来て座りなさい」

 次に声を発したのは、社長の吉田だった。それはたしかにその通りで、「では失礼します」と歩き出した平野に続いて、つくしも中へと進んでいく。そして平野が座るのを確認してから、つくしもそっと腰を下ろした。
 ソファはとても座り心地が良いはずなのだけれど、今はそんなことを思う余裕などあるはずもなく、とにかくそわそわと落ち着かない。それは平野も同じみたいで、固い表情で社長の吉田とあきらの顔をチラチラと見ている。
 おそらく向かい側に座るあきらは、そんな独特の緊張感に気付いているだろう。そしておそらく、慣れてもいる。然して気にする風もなく、にこやかに話し出した。

「突然お呼び立てして申し訳ありません。こちらに来ていただくようにお願いしたのは私なんです」
「え、あ……そうでしたか」

 平野は答えながら、助けを求めるように吉田の顔を見る。吉田はその通りと言うように頷いたけれど、その顔にも僅かな戸惑いが浮かんでいた。

「美作専務から、私と平野部長にお願いがあるそうなんだよ」
「お願い……ですか?」
「はい。お忙しいところ申し訳ありませんが、一時間程お時間をいただけますか?」
「それは構いません。……ですがあの、うちの牧野が呼ばれたのは……?」

 それは上司として尤もな疑問で質問だった。
 あきらは吉田と平野にお願いがあると言った。そこにつくしの名前はない。けれどこの状況から考えて、つくしを呼んだのもまたあきら。とすると、つくしは何のために呼ばれたのか。上司として知らん顔していることは出来ないと思ったのだ。
 けれどあきらはただ柔らかな笑みを浮かべるだけで、それに対する直接的な返答はなかった。そのままその視線はつくしへと移る。何を言うのだろうと平野がじっと見つめる中――いや、同じように気になっている吉田も見つめる中、あきらがつくしに話しかけた。

「突然で悪かったな。急ぎの仕事とか……大丈夫だったか?」

 その口調は、いつも通りだった。――そう表現すれば何の問題もないように思えるだろうが、いつも通りというのは、プライベートでつくしと居る時の「いつも通り」だった。ついでに言えば、つくしを見つめる、その甘やかな眼差しも。
 いつも通りでいられないのは、その視線の先のつくしだ。驚いて思わずあきらを凝視する。そして当然のことながら驚いたのはつくしだけではない。
 つくしから見て「いつも通り」ということは、その数秒前まで平野に話しかけていたのとは明らかに異なる空気を纏っているということ。吉田と平野からしたら「いつも通り」なんかではない。いつもと異なる美作あきらがここにいる、ということになる。
 二人はつくしよりも更に驚いて、唖然とした表情であきらとつくしの顔を交互に見た。
 淡いブラウンの三つ揃えのスーツにネクタイをかっちり締めてソファに座るあきら。誰もが一瞬魅入ってしまうようなオーラを放っているのはいつものこと。けれど今、つくしを見つめる眼差しや発せられた声には、ビジネスシーンではあまり見せない色気が乗っている。そういったことにあまり聡いほうでないつくしでさえわかる程、はっきりと。
 もちろんそれは、隠しきれずに漏れ出てしまったものではない。あきらが意識的に乗せたのだ。これから話す内容を考えた時、そうすることが一番良いと判断して。
 けれどつくしはそこまで頭が廻らない。いいのだろうか、大丈夫なのだろうかとオロオロしてしまって、それに呼応するように鼓動が加速して、今にも心臓が口から飛び出すのではないかと、本気で思った。

 ――えーと、なんて答えたらいい? えーと、えーと……あーもうっ、心臓うるさい。

 混乱しきった頭で、吉田と平野の顔を盗み見ながら、なんとか言葉を吐き出す。

 ――無難に。平常心よ、つくし。

 自分に何度も言い聞かせながら。

「……はい。今は特に急ぎの仕事はなかったので」
「そっか。なら良かった。これのせいで残業になったら、俺に請求しておいて」

 これまたにこやかに、とんでもないことを言うあきら。必死に言い聞かせていた言葉なんて一瞬で吹っ飛んで、きっと冗談で言っているだろうそれを、余裕のないつくしは真っ直ぐ捉えていた。

 ――は? それってどうやって美作さんに請求するの……やり方がわかんないよ。

 誰に言えばそう出来るのか、時間だけ報告すればそれでいいのか、どうせならその方法まできちんと教えてほしい、なんてことをブツブツと考えながらあきらの顔を見つめ続ける。すると、突然その顔がくしゃっと歪んで、あきらがぷっと噴き出した。

「……え?」

 何事だろうと眉を潜めるつくし。あきらは「くくくっ」と笑いながら、可笑しそうにつくしを見た。

「牧野、声に出てる」
「……え!」

 何のことだろうと思考が停止したのはほんの一瞬。すぐに気付いて目を見開いたつくしは咄嗟に口を抑え数秒固まった。
 それから恐る恐る視線を移す。そこには予想通り、驚きを露わにつくしを見たまま固まる、吉田と平野の姿があった。

 ――あー………やっちゃったぁ……。

 つくしは一気に頭が痛くなって、思わず項垂れて手で顔を覆った。

 ――どうしよう。どうすればいい? あたし思いっきり「美作さん」とか言ったよね。絶対おかしいって思ったよね。えーと、えーと、えーーーと……。

 考えてもどうしようもなく結論も出ないことばかりが頭を廻る。こういうことは、つくしの頭で悩むよりも向かいのソファで憎らしいくらい余裕たっぷりでくすくす笑ってるあきらに丸投げするのが一番だ。そんなことはわかっている。わかっていてもぐるぐる考えて、でも結局どうにもならず、つくしはそーっと顔を上げてあきらを見た。

 ――どうしたらいいの、美作さん……。

 完全に困り果てた表情であきらを見るつくし。あきらはその視線を受け、柔らかに頷くと、にこやかに話し出した。

「驚かせてすみません。実は牧野さん――ああ、いや、いつも通り呼ばせてもらいますが、牧野とは学生の頃から知り合いなんです」
「え? 学生の頃?」
「後輩なんです。高校も大学も一緒でした」
「ええ!?」

 驚きの声と共に、二人の視線が一気につくしに注がれた。つくしは思わず身体を小さくする。別にそんな必要はないのだけれど。
 平野が慌てた様子でつくしに訊く。

「牧野さんって英徳出身だったっけ?」
「はい。そうなんです。すみません、らしくなくて」

 照れ笑いのような苦笑いのような、そんな笑みを浮かべるつくしに、社長の吉田は「いや、そんなことはないよ」と顔の前で勢いよく手を振った。図星だっただろうことが丸わかりの反応だったけれど、つくしからしてみたらそれが普通。「意外よね、わかるよ。自分でもそう思うもん」と心の中で呟きながら、まだ何も言葉を発しない平野を見る。当然平野も同じ反応だろうと予想を立てながら。
 けれどその予想は外れた。
 平野は「そうか、それで」と納得顔で頷いていたのだ。一体何に対する頷きだろうと全員の視線が平野に集まる。それを受ける形で平野は口を開いた。

「先週末のパーティーの時、ちょうど佐々木課長と話してたんだよ。牧野さんの動きが完璧すぎるって」
「……へ? 完璧? 動きって……何がですか?」
「マナーって言うのかな、立ち居振る舞いって言うのかな」
「あたしの、ですか?」

 平野はこくりと頷いたけれど、つくしにとってそれは思いもかけない話で、驚きに目をぱちくりさせた。

「何言ってるんですか、部長。そんなそんな、あり得ないですよ。完璧なんて。あたしなんて全然――」
「いやいや。あんな大きなパーティーに招待されたのなんて初めてだし、ほとんどの人間が緊張でガチガチだったのに、牧野さんだけはそうじゃない気がしたんだよ。なんとなく場馴れしてるっていうか、余裕が感じられるっていうか。飲み物を受け取るのも料理を取るのもスマートで実にスムーズで。凄いなあと思って眺めているうちに、そういえばドレスも自分で用意してたな、なんて思い出したりして」

 そこまで言って、平野は吉田とあきらの顔を見て照れ笑いを浮かべた。

「お恥ずかしい話ですが、私は部下全員の出身校まではきっちり記憶していなかったもので、どこで経験を積んだのかなあと不思議に思っていたんです」

 そして平野は「ようやくスッキリしました」と、再び納得顔で頷くのだった。
 困惑したのはつくしだ。まず、極々普通にしていたつもりのパーティーで、自分がそんなふうに言われる振舞いをしていたということに驚き、困惑した。たしかに同僚の美穂に「さすがねえ」的なことを言われたので、気をつけなければ、とは思っていたのだが、他に誰も言ってこなかったこともあり、あきらのことで頭がいっぱいだったこともあり、然程気にしていなかった。平野のように不思議に思っている人間が他にもいたのかもしれないと思ったら、全身の血がサーっと音を立てて引いていくような感覚に襲われた。
 それから、英徳という一種のブランドを世間がどう理解し判断しているのかということについて。つくしはそこの学生だったにも関わらずほぼ外から見ているのと変わらない見識を持っているので、そこにさほどのズレはない。ただそこで実際に学んでいたつくしは、外野が思う程そうしたマナーなどを勉強する機会がないことを知っている。お金持ちのご子息ご息女は、そんなことは学校で学ばない――もしかしたら中等部やその前に学ぶ時間はあるのかもしれないけれど――。もっと前から極々自然に身につけているのだ。けれどそれを「そうか、英徳出身だから」と納得している人達に、「いえ、そうじゃなくてね」と説明してしまうのは、つくしにとっては墓穴を掘るのと一緒。故に、否定も出来ない、肯定も出来ない、という状況が生まれて困惑してしまう。

 ――あー、もうここはどう乗り切ればいいわけ? このまま笑って誤魔化せばいい?

 頭を掻きむしりたいようなジレンマの中、再び助けを求めてあきらの顔を見た。
 助けを求める視線は本日二度目。この短時間で既に二度目。この話し合いがあと数十分続くとして、その間に自分は何度この人に助けを求めるのだろうと思ったら、自分があまりにも情けなく頼りなく思えて溜め息が零れた。
 その一方で、あきらがそんな自分を迷惑に思うわけもなく、いくらだって助けてくれることを知っている。結局のところ、「大丈夫だから俺に任せろ」という言葉が聞こえてきそうな笑みを返してくれるあきらが居ることに、一人じゃなくて良かったと胸を撫で下ろして、すっかり安堵してしまっている。「牧野は素直でかわいい女になったなあ」と総二郎にニタニタされてしまうのは、きっとこういうところ。昔だったら自分だけでなんとかしようと必死になってしまっていただろうから。――だからと言って、あのニタニタ笑いをそのまま放置すると次から次へととんでもないことを言い出すので、「うるさいよ、西門」と眉間に皺を寄せて牽制することは忘れてはならない。

 ――ここに西門さんがいなくて良かったー。居たら最大級のニタニタを見なきゃならないところだったわ。

 この場ではどうでもいいことを勝手に想像して勝手に安堵しているつくし。もはやこれは現実逃避以外の何物でもない。そんなつくしの心中を知ってか知らずか、あきらは涼しい顔で話を前へ進める。

「ああした場は、最低限の基礎知識はもちろん必要ですが、一番大きいのは経験値です。何事も初めてより二度目のほうが余裕を持てますよね。なのでああしたパーティーも場数を踏めばその分だけスマートに動けるようになるんです。そう言った意味で牧野は、平野部長よりも場数を踏んでいたということです。それが英徳出身であることと関係あると言えばあるし、ないと言えばない……まあそんなところですね」

 なんとも曖昧な言い方をしたが、綺麗に纏まった話と有無を言わせぬ笑顔に、吉田も平野も納得してしまったようだった。
 つくしはその二人の様子に改めて安堵して、さすがあきらだと感心する。
 けれど、だからと言って心は落ち着いたりしない。
 つくしは知っている。この安堵が長くは続かないことを。

 ――だって美作さんは、こんな話をしにきたわけじゃないものね。

 そろそろ本題に入るのだろうかと思ったら、むしろ緊張が増してきていた。
 あきらはそんなつくしの心情を読むかのように、そっと彼女を見て、小さく眉を動かした。

 ――いいか?

 不思議な程はっきりと、あきらの声が耳元で聞こえた気がした。
 視線の先には柔らかなあきらの笑み。緊張を増していたつくしの心が、ふっと緩んだ。
 今更ながら思った。慌てふためいてもどうしようもないのだと。
 あきらは二人の関係を話すためにここへ来ていて、それは二人の間でそうしようと話し合ったこと。あきらは、誰のためでもない、仕事を続けたいと言ったつくしのためにここにいる。それなのに、つくしが緊張してパニックになっている場合ではないのだ。背筋を伸ばしてきちんと前を見据えていないと。
 ずっと黙っていた二人の関係を公表するのは――しかも、会社の上司に公表するのは、とても勇気がいる。そのことを面白がったり、逆に眉を潜められたりすることはきっとないだろうと信じてはいても。
 それでも、きちんと進んでいかなければいけない。進むことを選んだのは、つくし自身なのだから。

 ――この人を信じて、あたしも頑張らないと。

 つくしはこくりと頷いた。
 あきらの瞳がつくしの想いを受け止めて、一瞬柔らかに細められた。
 それから改めて姿勢を正すと、社長の吉田と部長の平野を真っ直ぐに見た。

「あまりお時間を取らせては申し訳ありませんので、早速ですが本題に入らせていただきます。これから話すことは私の極プライベートなことになります。勝手を言って申し訳ありませんが、他言無用でお願いします」

 あきらの引き締められた表情と口調に、吉田と平野の背筋がピンと伸び、神妙な様子で「わかりました」と頷いた。
 あきらは二人の目をじっと見つめ、それから意識的に放っていた張り詰めた空気を僅かに緩めると、口を開いた。

「実は、春頃に婚約発表をしようと思っています」
「え、婚約、ですか?」
「はい。と言っても、済ませたのは彼女へのプロポーズだけで、スケジュールなどはまだまだ未定なのですが」
「美作社長には……」
「私の両親の了承は得ています。彼女の両親も、挨拶はまだですが、了承は得ています」
「そうですかー。でしたらもう、あとは順を追っていくだけではないですか。いやー、これはおめでたい」

 吉田は驚きに見開かれていた目を細くして、満面の笑みを浮かべた。平野も同じように笑みを浮かべて、「明るいニュースですねえ」と声を弾ませた。

「専務、おめでとうございます」
「おめでとうございます」

 多くの喜びや祝福が込められているだろうその言葉に、あきらは頭を下げて「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んだ。
 にこやかな笑みが広がり、そこに居るだけで幸せになれそうな、今何も知らずにここへ入ってきても、何かとても良い事があったんだとわかりそうな和やかで穏やかな空気が漂う。ただその中で、つくしだけはどんな顔をしていいのかわからず身を固くしていた。
 そんなつくしにあきらはもちろん気付いている。
 やがてもう一人。つくしの隣に座る平野が、そのことに気付いた。

「牧野さん、どうかし――」

 その硬い表情を気遣って声をかける。けれど発せられた言葉は途中まで。残りは宙に溶けることもなく、平野の中に飲み込まれた。
 その動きはつくしを見つめたまま止まり、ぱちぱちと瞬きだけが繰り返された。
 何かに思い当った。
 それがわかるような表情だった。
 二人の間の空気がピタリと止まる中、吉田の声が響いた。

「それで専務、不躾なことを伺うようですが、お相手の方はどちらの――」

 けれどその言葉もそこまでだった。
 吉田もまた、平野と同じように気付いたのだ。美作商事の専務が「他言無用」と念を押す極々プライベートな話をする場所に、入社一年目の女性社員を呼んでほしいと願い出た理由に。

「専務、あの……」
「も、もしかして……」

 途端に目が泳ぎ出す二人の心の動きを最初から読んでいたかのように、あきらはにっこりと微笑んで、そして改めて言葉を放った。

「彼女が、私の婚約者です」

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