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真珠色に沈む
COLORFUL LOVE
11
「牧野。今度こそ上へ行こうよ」

 沈黙を破ったのは類だった。
 つくしは類に、うん、とひとつ頷いた。

「あきらも行かない? もういいでしょ、この人は」

 おそらく、類が百合の存在を口にしたのはこの時が初めてだったと思う。
 あきらはすっと百合を見下ろし、それから類を真っ直ぐに見た。

「悪い、類。牧野連れて先に行っててくれ」
「やっぱり、話さないとダメなんだ?」
「ああ。伝えておかなきゃならないことがあるから」

 ――個人的な想いとは別に。
 多分そこには、そんな言葉が続く。表情と声から、類はそれを感じ取った。
 それならば、と頷いて、そして再びつくしに言った。
 今度は、数歩近づいて。

「行こう、牧野。あとはあきらにまかせてさ」
「……うん」

 つくしには、類のようにあきらの言葉のその先を読み取ることは出来ない。
 伝えておかなければならないことってなんだろうと考える。でもすぐに、きっと答えには辿り着かないだろうと思った。
 それを知りたければ、あきらに直接訊くしかないのだ。「それは、何?」と。
 でもそれは、きっと今ここで訊くべきことではない。そしてきっと、訊いても答えてはもらえない。
 うっすらとではあるけれど、百合と話すその空間に自分がいてはいけないのだと、あきらはそれを望んでいないのだと感じていた。
 想いは複雑に広がっていく。
 けれど今は、表に出さないようにゴクリと飲み込む。

「じゃあ、先に行ってるね」
「うん。すぐ行くよ」

 あきらの笑顔は優しい。いつも通り。
 だからつくしもいつも通りの表情で頷き、あきらの傍を離れた。
 類が歩き出し、その後をつくしが続く。

 気にかかることがたくさんあった。
 あきらは何を話そうとしているのか。どんな顔で、どんな声で。
 他にも上手く言葉に出来ないたくさんのことが、つくしの中で渦を巻くように燻っている。
 そんな燻ぶりが足取りを重くする。
 数歩進んだところで、つくしは後ろを振り返った。
 何を見たいと思ったわけでもなかった。ただ気になった。
 けれど――振り返ったことを後悔する光景がそこにあった。

 ――あ。

 つくしの視界に映ったのは、俯いていた顔をスッと上げた、百合だった。
 その瞳が、その横顔が、ひどく愛しげにあきらを見つめていることがすぐにわかった。
 切なさと悲しさが零れ落ちそうな程に滲んでいて、それが心に沁みる程美しく思えた。

 ハッとした。
 ハッとして、苦しくなって、つくしはすぐに前を向いて足を踏み出した。
 嫌な感覚が身体中に充満した時のような鼓動の早さを感じながら。
 あの百合の視線の先にあきらがいる。

 ――どんな顔で?

 考えたら、心臓が痛いほどに拍動速度を上げた。まるで警告音を発するように。
 どういうわけか、怖くなった。何も特別なことなどないと思うのに。心配することなど何もないと知っているのに。
 人の心は複雑だ。やっぱり簡単に割り切れるものではない。
 信じる信じないとは別の次元で、すぐにピンチに陥る。自分勝手に。
 なんと弱くて、なんと滑稽で、なんと自由が利かないものだろうか。
 それでも人は、どうにかコントロールしようともがく。

 ――何も見てない。何も考えない。心配するようなことは、何もないんだから。

 言い聞かせるように心の中で繰り返しながら、つくしは一歩、また一歩と踏み出した。
 胸の中の警告音は踏み出す度に小さくなる。そうなるに違いない。そう自分に思い込ませながら。

「牧野」

 背中にあきらの声がした。
 つくしは、肩を竦ませ立ち止まる。
 心を読まれただろうかと想いを廻らせ、そして、ゆっくりと――恐る恐る、とも言えるかもしれない速度で振り向くと、十歩近く離れたはずのあきらが、すぐそこまで近づいて来ていた。
 考えるよりも先に、あきらはつくしのすぐ目の前までやってきて、そしてつくしに向かって腕を伸ばした。

  ――え、なに……?

 一瞬で、つくしの身体はその長い腕に絡めとられ、そしてぎゅっと抱きすくめられていた。

「……っ」

 あきらの香りが鼻腔をくすぐり、あきらの温度を感じる。
 驚きに声も出ないつくしの耳元で、あきらの声が響いた。

「俺は我慢強い方だと思ってたんだけど……さすがに無理だ。抑え切れない」

 それは、囁くような小さな声。

「ありがとう。サイコーだよ――牧野」

 それは、心に直接溶けるような、甘やかな声。

 ――……美作、さん。

 突然抱きすくめられた驚きがここまで大きくなければ、きっとつくしは泣いていたと思う。
 先程までのもやもやとした感情はどこかに消え、胸が痛いほどに締め付けられる。
 それが、つくしが百合に語った想いに対しての、あきらの飾らない感情だとわかるから。
 つくしは胸がいっぱいで、たったの一言も出てこない。想いは驚きを追い越す程に増えていくのに。
 嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、愛しくて、心が震えてどうしようもないのに。

 ――あたしこそ、ありがとう。美作さん。

 声にはならない。ただその想いだけは伝わりますようにと、つくしはあきらの腕にそっと触れた。
 あきらの腕の力が緩み、右手が頬に添えられる。
 親指が、すうっと頬を撫で、そしてあきらはニコリと笑った。

「続きは後でな」

 頬を撫でたあきらの指が、つくしの髪をくしゃりと梳いて離れてゆく。
 同時に身体も離れ、そこでようやく、ここがカフェの店内で、周囲には、類も百合も大勢の客もいることに気付いた。

 ――……あー……そうだったぁ……。

 途端に恥ずかしさで顔が熱くなる。それこそ火が出そうな程急激に。
 あきらは楽しそうに笑みを深くして、羞恥に俯くつくしの背を押し、歩を促した。
 何事もなかったかのように「上へ行く階段は入口の近くだから」なんて言いながら。

「……もうっ」

 つくしは小さく口を尖らすけれど、顔の火照りは増すばかり。
 耳の奥で心臓の鼓動が煩いほどに反響している。
 身体に残るあきらの腕の感触、柔らかな声、甘くて優しい残り香。
 そのすべてが恥ずかしくて、でも愛しくて、どんな顔をしていたらいいのかもわからない。
 ただ、背中を押されたその余韻だけで歩き始めた。

「初めてみたよ。あきらと牧野のラブシーン」

 驚いて顔を上げると、ぶつかりそうな程の至近距離に類がいて、なんとも心の内を読み取りづらい飄々とした表情でこちらを見つめていた。

「ら、ラブシーンて……類、今のは、その――」

 しどろもどろなつくしに、類は楽しそうに微笑んだ。

「想像通りだった」
「想像!?」
「生はいいね。電話越しより、ずっと」
「……何の話?」
「ほら、行くよ」

 意味のわからない言葉を並べるだけ並べて、何事もなかったように歩き出す類。

「……はああ」

 思わず溜め息が零れた。
 あきらと言い、類と言い、この切り替えの早さはなんなのか。結局いつもつくしだけがなかなか抜け出せずに、感情の渦に取り残されてしまう。

 ――まったくもうっ。そうやっていっつもあたしをからかうんだから。

 八つ当たり気味に心の中で愚痴りながら、類の背中を追った。
 あきらと百合のことはほんの少し気になる。けれど今は、あきらがもたらした幸福感と未だ残る羞恥心が、前へ進めとつくしの背中を押していた。
 数歩前を歩く類をつくしは足早に追う。恥ずかしいから、あまり周囲は見ないように。
 でも心の中で「お騒がせしてすみません」と何度も頭を下げながら。
 店内のど真ん中辺りで類の背中に手が届く距離まで追いついた。
 類がつくしの気配にすっと振り向く。

「つくし」

 名前を呼ばれた。けれどその声は、類の声ではない。
 声の方に顔を向けて、そしてつくしは目を見開いた。

「美穂!」

 そこには、顔の横で小さく手を振る美穂がいた。
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2011.06.30 真珠色に沈む
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