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亜麻色の心に
COLORFUL LOVE view of SOJIRO
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 結局あきらは何も話さなかった。というよりも、俺が何をどう言ったところであきらに話す気がなければ絶対に訊き出せない。それがわかるから、深く掘り下げることをしなかった。
 あきらの瞳の奥に、頑な何かが見えた気がした。放っておいてもどうにかなるだろう類のものではないことも、心のどこかで感じた。それが何なのか、きちんとした言葉では訊き出していないが、あの日のあきらを見ていたら感じ取れるものはあった。
 牧野と、司と、あきらと……変えることの出来ない過去。そこにすべての感情の根源があるんだろうと思う。

 牧野と司は恋人同士だった過去があって、婚約関係だった過去があって、友人としての今がある。
 それは決して穏やかに変化を遂げたわけじゃない。たくさんの感情がぶつかって、たくさんの涙が流れて、ありとあらゆる葛藤の末、そこへ辿り着いた。あきらはそれを全て知っている。知って理解した上で牧野を愛し、共に歩く決意をした。
 牧野の恋敵のせいで予定はずいぶん狂ったが、ようやく全員が揃ったパーティー会場で、あきらは言った。「みんなに報告したいことがあるんだ」と。

「俺と牧野、結婚します」

 澄んだ声で、澄んだ表情で、俺達の間柄では凡そ使うことのない畏まった言葉でそう告げたあきらは、今まで見たどの時よりも凛然としていて、格好良かった。
 幼い頃からあきらを知る俺が改めてそんなことをいうのはある意味少し恥ずかしい。だが、たしかにそう感じた。そして、自然と胸が熱くなるような、ちょっとした感動を覚えた。司と牧野の時にも喜んだり盛り上がったりといった感情はたしかにあったが、あの頃よりも湧いた感情が色濃くて、意外にもとても新鮮に思えた。
 結局あの頃――司と牧野がドタバタと関係を深めていた頃の俺は、それを現実として捉えることが出来ていなかったのかもしれない。もちろん、二人の関係はたしかに本物だったに違いないのだが。年齢の問題なのか、二人の育んできた時間をあの頃よりもきちんと併走してきたからなのか、理由は定かでないが、あきらと牧野が選んだ未来は、俺にとってやけにリアルで深く響いた。
 それは多分俺だけじゃない。司は普段滅多にしない神妙な表情で二人を見ていたし、類は長い付き合いの中でも見た記憶がないほどの優しい笑みを口元に湛えていた。
 結果、ワッと沸いたのは女達で、男三人はそれに乗り遅れて、ただ言葉もなくその光景を眺めることになった。あきらと牧野の視線が俺達を捉えていると気付いて初めて、ようやく口を開く、そんな有様。「ついに貧乏脱却だな」と牧野をからかっては見たものの、俺の胸の内には言葉にならない感情が溢れていて、でもそれを上手く表現出来ないもどかしさを抱えた。
 おそらく。「やっとかよ。ちんたらしやがって」と憎まれ口を叩いた司も、「おめでとう。良かったね」と素直に祝った類もきっと心中は同じようなものだったはず。直接確認などしていないが、長い付き合いだ。その顔を見ればだいたいわかる。
 それはあきらも同じ。だからすぐにわかった。あの日、少なくとも俺の隣にいたあきらは、俺達よりもさらに複雑な感情を抱いた顔をしていた。
 掴む幸せは抱えきれないくらい大きいのに、心底それに浸りきれていない表情。優しくて柔らかな笑顔は変わらないのに、奥の奥に厳しい光を宿す瞳。
 あきらの中で何かが燻っていた。それが何か、俺には察せられた。
 あれは――嫉妬だ。牧野と司……二人の関係に対しての。

 道明寺司――あきらが認める男。そして、牧野がかつて真剣に惚れた男。
 あの日。牧野はあきらに惚れてる令嬢に絡まれていて、それを救い出したのが司だった。
 すぐに動くことの出来なかったあきらには何よりも喜ばしいことで有難かったに違いない。そう望んだのはあきらで、司はその望みをいち早く叶えただけにすぎない。けれどそれですべてよしとなるほど単純なものではなかったのだ。
 あきらは自分の手で守りたかった。でもそれが出来なかったことを悔いた。しかも司は頼まれたから動いたわけではない。牧野が大切だからゆえの純粋な行動。そこには「あきらに頼まれたから」なんて気持ちは微塵も存在しない。――それが容易にわかってしまうからこそ、あきらの心は抉られてしまったのだろう。
 二人の想いは、一人の女に向けられている。とうの昔からわかっている事実だが、過去の関係を思えばこそ、あきらには重い事実。
 あの時あの場所で牧野が見せた笑顔は、二人の男の瞳にそれぞれ違うものとして映ったのではないかと思う。あきらの瞳には、司に守られた安堵の笑みに。司の瞳には、あきらが現れた安堵の笑みに。実際は、そのどちらでもあったと思う。でも二人には、その一方だけが色濃く映って、それぞれの感情を揺すった。
 そうは言っても、司は二人の関係を胸にしっかりと刻み直すことで自分を納得させることが出来る。どう足掻いたところで、あきらと牧野が恋人同士なのは歴然たる事実なのだから。けれどあきらは。
 惚れた女に惚れられて、寄り添い生きることを互いに望み、今その一歩を踏み出した。未だ彼女に惚れてる男たちは、どんなに望もうとも指を咥えて見ていることしか出来ない、そんな幸せのど真ん中に立っているはずのあきら。そのあきらが、何を嫉妬する必要があるというのか。
 外野はこぞってそう言うだろう。
 ――でもわかる。俺には。
 あきらがどんなに自分の立つ場所を理解しても、抱えた幸せの大きさを把握していたとしても、それでも胸に張り付く複雑な嫉妬心は消えやしない。
 なぜなら、相手が司だから。
 もうそれは、理屈じゃない。

 でもあきらは、それを誰にも悟らせないように振舞っていたし、振舞えていたと思う。多少張り詰めた空気感を漂わせる瞬間があったとしても、思わぬことが起きた後だ、それが原因だと誰もが思っただろう。でも実際は、必死に深呼吸して必死に隠して、宥めて抑え込んで……それでもどうしても消えない燻りが、たしかにあの日あそこにあった。
 おそくら牧野が感じたあきらの違和感は、その余波。いや、余波なんて小さなものじゃないかもしれない。いつも穏やかなあきらの心の揺れだからこそ、ひどく大きく感じたかもしれない。
 俺の知る限り、牧野は昔ほど鈍感ではない。――むろんそれでも、今も尚どうしようもなく鈍感だと思うが。それでも今の牧野にはわかってしまうのだ。そんなあきらの心の機微が。
 二人は、もうずっと恋人同士なのだから。もうずっと寄り添い過ごしてきたのだから。
 
 想いを巡らせる俺の顔をじっと見つめる牧野の視線を感じる。不安そうに、心配そうに、けれどそれを全面に出さないように懸命に取り繕っているのだろう、固い笑顔を貼りつけて。

「そんなにあきらが心配か?」
「え……あ、まあ」

 しばらく黙りこくっていた俺が突然発したその声に驚いた顔をして、けれどすぐに表情を戻して小さく頷いた。

「美作さん、一人で抱え込むから」

 小さく尖らせた口元に滲むのは、何も言ってくれないあきらへの不満か。自分の非力さに対する嫌悪か。大方、牧野の場合は後者。何か違うとわかっているのに何もしてあげられない。その歯がゆさを抱えて、そして何も出来ない自分に失望する。
 ――本当は、そんなことねえはずなんだけどな。
 でもそれを納得させるには、俺がどんなに言葉を尽くしても無理だろう。こういう牧野に伝わる言葉を持つのは、あきら一人だと思うから。
 ――それこそがこいつらの真実なのに。わかってないねえ、あきらも牧野も。
 俺は小さく溜息を吐き、くいっとワインを飲み干した。

「あいつが抱え込むのは昔からだ。たまに突然キレるから覚悟しとけよ。すげー怖えぞ」
「えー、そうなんですか? なんか想像つかない」
「それ道明寺にも言われたことあるんだけど……ホントなの? まだそんな美作さんを見たことがないんだけど」
「そんなもん見ないに限る。ホントに怖えから」
「でもたしかに、普段穏やかな人って、それとのギャップがあるから」
「そういうこと。司みたいに年がら年中キレてるやつは、あれに慣れちまうんだけど、あきらは全く違うからな。それも何にキレたんだか、わからねえんだよなあ、いつも。あいつの思考回路は決してわかりにくい方じゃねえと思うんだけど、時々類よりもわからん」
「そう、なんだ」
「でも」
「でも?」
「おまえなら最後まで昇華してやれるんじゃねえか?」

 牧野はきょとんとした表情で意味が分からないと言いたげに俺を見つめた。

「俺もあの日のあきらはおかしかったと思うし、何か人知れずめんどくせー感情を抱えてるとも思う。しかも俺にはそれが何か、なんとなく見当がついてる」
「そうなの? え、何? 教えてよ」
「言わねえよ」
「なんで?」
「直接確かめたわけじゃないから確信もねえし、仮にビンゴだったとしても、あきらがおまえに何も言わなかったんなら、俺が言うべきことじゃねえだろうし、あいつ自身知られたくないのかもしれないだろ?」
「……」
「でも、それを知らないからってあきらを救えないわけじゃない」
「……どういうこと?」
「牧野、もし目の前で誰かが溺れていたら、溺れた理由を訊くよりも先に助けるだろ?」
「もちろん」
「それと一緒なんじゃねえの? おまえがあきらといて違和感を感じる瞬間があったら、ひとまず手を差し伸べてやればいいんだよ。声かけてやるでも抱き締めてやるでも、傍にいてちゃんと見てるし気にしてるって伝われば、それだけであいつは救われると思うぞ」

 なにげなくぼんやり前を見ていたその視線を戻すと、予想以上の大真面目な顔で俺を見つめる牧野と、そして美穂ちゃんがいた。真面目な話をしているのだから当然と言えば当然なのだが、やけに真剣なその表情と漂う空気感が恥ずかしくなってきて、「一番いいのは一発やらせてやることだと思うけど?」と軽口を叩く。牧野はみるみる顔を赤くして、そして言い放つのだ。

「あーもう、西門さんって凄いなあ、なんて一瞬でも感動したあたしがバカだった!」

 シュンシュンと頭から湯気を出す勢いで頬を膨らませる牧野と、それを見て楽しそうに笑う美穂ちゃん。
 これでいい。牧野の元気があきらを救う。牧野の真っ直ぐさがあきらを救う。些細なことを気にしてぐちゃぐちゃと余計なことを考えて頭をいっぱいにするくせに、純粋で単細胞で鈍感な牧野だからこそ、あきらにはふさわしい。
 口にしたら「貶してるでしょ」と言われるから黙っているが、俺は心からそう思っていた。最高の賛辞として。




 数日後――あきらがうちにやってきた。
 やつらしく、電話で約束した時間きっかりに。イギリス土産の紅茶をたんまり持って。

「お、これ初めて見るな」
「新作だよ。味は確認した」
「へえ。あきらがそう言うなら間違いない。サンキュ」

 あきらはイギリスに行く度に、土産に紅茶の茶葉を買ってくる。茶葉なんていくらでも手に入るしなくても困らないのだが、あきらの選んで買ってくる茶葉はいつも絶品で、故に毎回とても楽しみにしている。

「で、ロンドンはどうだった? トラブル処理だって聞いたけど」
「ああ、まあ順調に片付いたって感じかな。同じ類のトラブルは前にも経験済みだから。本音を言えば、同じこと繰り返さないでもらえると助かるんだけど」
「ははは。ま、仕方ねえな」
「仕方ないのかねえ。でも同じこと繰り返して……――」

 牧野と食事をしたことや、その時にロンドン出張のことを聞いたことなどは粗方電話で話し終えていた俺達は、仕事の話や日々の他愛もない話で盛り上がった。笑顔で話すあきらはいつもと何ら変わりないあきらで、パーティーの時のような憂いは感じられなかった。俺はそれに安堵して、けれど奥底に押し込めてるだけじゃないかと危惧していた。
 そのままぶつけて訊き出してみるか……でもまあ、無理だろう。余計なことは訊かない、余計なことは話さない。長い年月、俺達はそうだったから。
 けれど今みたいに一瞬でもあきらの心を知りたいと思った時、今の俺は必ず牧野の顔が浮かぶ。心配そうな、不安そうな、あいつには不釣り合いな思いつめた顔。そして俺は口を開いてしまうのだ。余計なことだと知りながら。

「解決したのか?」
「え?」

 唐突に切り出した俺に、あきらは怪訝な顔をした。

「年末のパーティーの時、いろいろ抱えた顔してただろ? 今日は随分すっきりしてるから、いろいろ片付いたのかと思ってさ」

 その言葉に、あきらの表情が一瞬強張って、それから陰って、そして緩んだ。言葉にせずともあきらの心情がすべて見えるようだった。すべてを悟られていると覚悟を決めたような、そんな表情にも思えた。それでもあきらは言葉にしない。ただじっと想いを巡らせ、それから俯きふっと笑みを零した後、再び上げた顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

「牧野、なんか言ってた?」
「いや、なにってことはない。ただ心配してた」
「……そっか」

 今あきらは牧野のことを思っている。全力で。それが容易に読み取れる優しくて穏やかな表情が、俺の胸までも締め付けた。

「あんまり一人で抱え込むなよ」
「ん?」
「何でもかんでも話せとは言わないけど、どうにもならないことは一人よりも二人三人で抱えたほうが楽だろ?」
「総二郎……」
「なーんの解決もしてやれないかもしれねえけどな」

 片眉を上げてニヤリと口元を緩める。その言葉の意味が重すぎるものとなってはいけないから。そうなっては、俺らしくないし、俺とあきららしくないから。
 ただ伝わればいいのだ。気持ちが。

「……」
「……」

 じっとあきらの顔を見続ける俺を、あきらもじっと見つめ返してきた。ほんの少し瞳を揺らして、自分の心と対峙するような表情で。そしてやがて、こくりと頷いた。

「わかってる。いつでも聞いてもらえることも、なーんの解決にもならないかもしれないこともな」

 そう言ってにやりと口の端をあげるあきらは、いつもと変わらない雰囲気で、いつも以上に澄んだ瞳をしていた。

 



「これから牧野のところへ行くんだ。久々にゆっくり出来そうだ」
「そりゃよかった。牧野によろしくな」
「ああ。じゃあ」
「またな」

 柔らかな笑顔を残して帰っていくあきらの背を玄関先で見送りながら、数十分前に茶室で交わした会話をぼんやり思い出していた。

「ここへ来る前、司に会いに行ってたんだ」
「司に?」
「ああ。結婚のこと、きちんと二人だけで話しておきたくて」
「へえ。で、司の反応は?」
「今更なんだ、もう聞いたじゃねえか」
「らしいな。どうせ眉間に皺よせて言ったんだろ?」
「ご名答。……でも、やっぱり寂しそうだった。そんな気がした」
「ふうん。ま、仕方ねえだろ。あいつにとって牧野は初恋の相手だし、今も昔も、多分この先ずっと特別だ。いつか恋愛感情が完全に消える日が来たとしても、な」
「……そうだな」
「別におまえが必要以上に気にすることはない」
「ああ、それはわかってる」
「……じゃあ、何が気になったんだ?」
「ん?」
「その顔は、なんか気にしてるだろ?」
「……あー、いや」
「なんだよ?」
「……牧野にとってもそうなんだろうな、と思って」
「牧野?」
「牧野にとっても司はずっと特別なんだろうなって。……ま、わかりきったことだな」
「あきら」
「すまん。忘れてくれ。ふと思っただけだから」

 だからなんだって話だよな、と笑ったあきらは、ただただ穏やかで、でも瞳の奥がほんの少し悲し気だった。
 頭では理解出来ても胸の奥底が落ち着かないことは、誰にでもある。あきらはそれを感じながら、それでも穏やかに笑っていた。
 おそらく今は、まだ大丈夫。誰も気づかなくても、手を差し伸べなくても。でもそれがずっと続いていくかどうかは誰にもわからない。どこかで綺麗に消えてなくなってしまうのがベストだが、きっとそれは無理だから、せめて今のまま大きくならなければいい。
 でもいつか、何らかの拍子に大きく膨れて笑えなくなる日がくるかもしれない。

 ――その時こそ頼ってこいよ、あきら。

 遠ざかる背に、亜麻色の影。
 二人の時間が穏やかであることを願う昼下がりも、悪くない。
Fin.
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2011.12 亜麻色の心に
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