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雨宿り
お題:雨
2
「ねえ、美作さん」

数分の静寂の後、牧野が俺を呼んだ。

「ん?」

返事をしながら牧野を見ると、牧野は未だ窓の外を見ていた。

「なんでここへ連れてきてくれたの?」
「ん? なんでって?」

そこで初めて牧野の瞳が俺を見た。

「ここへ通うようになってから三年間、他の誰のことも連れてきたことがなかったんでしょう?」
「まあ、そうだな」
「それなのに、」

言葉はそこで止まったけれど、俺の耳にははっきりと「どうして、あたしを?」と問う牧野の声が響いた。

「言うならば、ここって美作さんの隠れ家的な場所よね」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ」
「でもいつだって一人だったんでしょう? それって一人になりたい時に来るってことよね。もしくは、一人でゆっくり過ごしたい時に」
「ああ、たしかに」
「十分隠れ家だと思うけどなあ。ほら、あたしみたいな庶民はどこで何してても誰も気に留めないし知り合いに遭う率だってそんなに高くないけど、美作さんはそうじゃない。きっとこういう息抜きの場所も必要なんだと思うのよ」
「いや、俺は別にそんな――」
「それなのに、そこにあたしを連れてきて。たまたまさっきの雨宿りの場所から近かったっていうのもあるかもしれないけどさ。良かったの?」

「気に入ったら、毎週のように通っちゃうかもしれないよ?」と笑みを浮かべる牧野。そしてすかさず言葉を付け足す。「まあ、そんなことはしないけど」と。

「別にいいよ、牧野なら」
「え?」
「毎週来たかったら来ればいい。マスターも郁美さんも喜ぶと思う。俺も、牧野なら別にいい」
「……」

牧野は俺をじっと見つめて、それからふっと笑みを零した。

「美作さんって、やっぱり女の扱いが上手いよね」
「どのへんが?」
「このへんが。」
「……それじゃ全くわからん」

「無意識なところがなんかムカつく」とほんの一瞬顔を歪めて、そしてまた視線を窓の外へと移した。
これ以上説明する気はない、と言いたげなその横顔が、やけに憂いを湛えているように見えて、ほんの少しだけ気にかかる。
けれどそれを深く考える猶予を与えられることなく、その横顔から次の言葉が零れた。

「なかなか止まないね、雨」
「ん? ああ、ほんとにな」
「美作さん、何時に出たら間に合う? 会社戻るんでしょ?」

一気に現実に立ち戻ったその言葉に、俺は窓の外を見やる。溜息を吐きながら。

「うーん、あと三十分くらいかな。牧野こそ、大学行くんだろ?」
「うん。あたしもあとそれくらいかなあ」

あと三十分でこの雨は止むのだろうか、どうもそうは思えない。けれど止んでも止まなくてもあと三十分もしたらここを出ないとならない。
タイムリミットなんてなければいいのに、とほんの少し憂鬱な気分で思う。

「傘、買えるところ探したほうがいいかもね。ビニ傘ならコンビニ探せばあると思うけど、美作さんがビニ傘っていうのもなあ。あ、そうだ。駅ビルは?」
「もしやそこまでまた牧野が?」
「そうよ。……いや?」
「厭なんてことはないけど、おまえが濡れるだろ」
「さっきも言ったけどあたしの服は安物だしすぐに乾くからいいの。あ、それより美作さん、ここへ来る時ずいぶん濡れたんじゃない? ほとんどあたししか傘の中にいなかった気がするんだけど、」
「牧野が鞄をがっちり抱き込んでいてくれたおかげで書類が濡れずに万々歳だったけど?」
「それはそうかもしれないけど、美作さん自身だって濡れないようにしてよ」

「油断してると風邪ひくよ」と頬を膨らませる牧野に笑みが零れる。
「何笑ってんのよ」と見咎めた牧野はぷいっと視線を逸らして、すくっと立ち上がった。

「さ、そうと決まったら行こう。駅ビルで傘選ばなきゃね」
「……はいはい」

あっさりとこの時間が終わろうとしている。
それを寂しく感じるのは多分気のせいではないけれど、気付かぬふりで席を立った。
伝票を手にした俺に、牧野が問う。

「あの、本当にご馳走になっていいの?」
「もちろん」
「たいしたことしてないのに?」
「傘に入れてくれてランチも付き合ってくれた。あと三回くらいご馳走したいなあって思ってるんだけど」
「え!とんでもない。紅茶一杯分くらいにしかならないよ」
「あはは。でも俺にとってはランチ三回分だったの。また駅まで入れてもらうんだし」
「……じゃあ今度は濡れないように入ってね。駅で確認して濡れてたらランチ代支払うからね?」
「了解」
「では、ご馳走になります」

納得した牧野に俺は笑顔で頷いて、「郁美さん、会計お願いします」と声をかけた。


「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「これからまた会社戻らなきゃいけないんですよ。牧野も大学だし」
「なんだ、そうなのかあ。残念。じゃあ今度は時間あるときにゆっくり来てね」
「はい、また来ます」
「つくしちゃんもまた来てね。あきらくんと一緒にはもちろんだけど、一人でもお友達とでも」

女二人で大いに盛り上がっていたとは言え、この短時間で早くも「つくしちゃん」と呼ぶ郁美さんに、俺は笑い牧野は驚いたように目を丸くした。
郁美さんはこういう女性だ。出会った時からずっと。
マスターが俺を名前で呼ぶのも、郁美さんがそう呼ぶから。
明るくて朗らかで嫌味がない。
彼女の自然なペースだ。
おそらく牧野にもそれは伝わっている。驚きに見開いた目はあっという間に嬉しげに細められる。

「はい、また寄らせてもらいます」

その返事に、郁美さんは嬉しそうに笑った。
そこへマスターがやってきた。

「マスター、ご馳走様」
「どうもご馳走様でした」

揃って言う俺達に、マスターは小さな手提げの紙袋を二つ差し出した。

「一つずつ持っていって」
「え? 何入ってるの?」
「さっき焼けたばかりのパンなんだけど、ちょっと形に納得がいかなくて避けたものなんだ。だから少し不格好で悪いんだけど、味に問題はないからおやつにでも食べて」
「ありがとう、マスター」
「え、あたしまで頂いちゃっていいんですか?」
「もちろんですよ」
「わあ、ありがとうございます。さっき食べたパンもすっごく美味しかったから嬉しいです」

牧野は満面の笑みで紙袋を受け取りながら言葉を続ける。

「パンだけじゃなくてパスタもサラダも紅茶もすっごく美味しかったです」
「気に入ってもらえて良かったです。また是非いらしてください」
「はい」



マスターと郁美さんの優しい笑顔に見送られて、俺と牧野は店を出た。
来た時同様、鞄と傘を交換して肩を寄せ合い歩き出す。
雨は今にも止みそうなほど小降りになっていて、「これなら楽勝ね」と声を弾ませる牧野に俺は頷いた。
「はあ、それにしても本当に美味しかった」
「だろ?」
「うん。それであの値段でしょう? 本当に通いつめたくなっちゃう」
「あはは。マスターも郁美さんも喜ぶよ」
「あ、でもそんなことしないから。たまに利用させてもらうね。あそこは美作さんの隠れ家だもん」
「だからそんなことないって」
「いやいや、絶対あるよ」

「誰にも教えたりしないから安心して」と笑う牧野に俺はやれやれと溜息を吐く。
決して隠れ家にしてるつもりはなかった。
なんとなく誰かを誘う気にはなれなくて、いつも一人だった。
じゃあなぜ牧野を誘ったんだと言われても、俺の中にその明確な答えはない。
ただ単純に、牧野ならいいような気がしたのだ。
牧野とならあそこでの時間が、変わってほしくない部分はそのままに、その上でもっと楽しくなるような、そんな気がした。
本当にそれだけだった。
結果的にその直感は間違っていなかったと思う。
あのカフェで俺の前に座る牧野は、俺の想像以上にあのカフェに溶け込んでいて、そしてその時間を楽しく彩った。
また一緒に行きたい――そう思うほどに。

「また誘うよ」
「ほんとに?」
「ああ。その時は断らず付き合えよ」

牧野はほんの一瞬だけ考えて、そして「うん」と頷いた。
そして牧野は、何がどれくらい美味しかったか、次に何が食べたいかを語り出した。
それはそれは楽しそうに、まるで目の前にそれらすべてが並んでいるかのように。
俺は相槌を打ちながらその話を聞いていた。マスターに聞かせてやりたいなあと思いながら。
けれど――その話を最後まで黙って聞いてやることは出来なかった。
牧野の口から、聞き捨てならない言葉が発せられたのだ。

「パスタがすごく美味しかったんだよね。アスパラとベーコンのシンプルなパスタなのになんであんなに美味しいんだろう。それに比べてアメリカで食べたパスタはゴムみたいでひどかったよなー。このあたしが美味しくないって思ったんだから」

「アメリカで食べた」――牧野ははっきりとそう言った。
俺は思わず牧野を見つめる。

「なあ、牧野。……おまえ、いつアメリカ行ったの?」
「へ?」
「今、言ったよな。アメリカで食べたパスタって」
「……あ、」

おそらく無意識に発した言葉だったのだろう。
途端に強張る牧野の表情を、俺は見逃さなかった。

「なんだよ、司のとこか?」
「え? あーうん、一応」
「一応ってなんだよ。会ってきたんだろ?」
「あ、うん」
「司、元気だったか?」
「うん。元気だった、よ」
「そっか。仕事順調なのかな。最近連絡取ってないんだけど」
「あー、どうだろう。多分順調なんじゃないかな……うん」

なんとも心許ない曖昧な返事をする牧野。
それはどこか牧野らしくない態度だった。
いや、牧野らしくないとは言い切れないかもしれない。
牧野は司のこととなると、いつもどこかはっきりしない部分があったから。いつまで経ってもその話題に慣れないと言いたげにどこか照れたような表情を浮かべて、所在無さげに視線を彷徨わせる。
そういう意味では、いかにも牧野らしいと言えるかもしれない。
でも、そんな牧野を知っていても、知っていればこそ、今の牧野はそれとは違う気がした。
この話題を早く終わらせたいような、出来れば隠していたかったような……。

「内緒にしておきたかったのか?」
「え?」
「それなら、別にこれ以上突っ込まないし聞かなかったことにするけど」
「あ、いや、そういうことじゃないの。たしかに今言うつもりじゃなかったからちょっと慌てたけど、隠し通そうと思ってたわけじゃないし、別にいいの。ただ……ただ、ね。」

俺を見上げた牧野は、そうではないと慌てたように否定して、でもその言葉を途中で止めた。

「ただ?」
「うん……」

胸に抱きかかえるように持っていた俺の鞄をさらにぎゅっと抱き込んだ牧野は、明らかにその言葉の続きを言おうか言うまいか迷っている。
一体何を告げようとしているのだろう。
その先に何が待ち構えているのだろう。
牧野の横顔からその何かを読み取ろうと躍起になってみてもそう上手くはいかず、ただ沈黙だけが続いた。

「何かあったのか?」――そう訊くしか術はないか。
そう思った矢先――牧野が、口を開いた。

「美作さん、あたしね」
「……うん?」
「……」
「……」
「――道明寺と、別れてきた。」
「……え?」
「別れるためにアメリカに行ったの。それで、きちんと別れてきた」

予想だにしない言葉に、思わず足が止まりそうになる。
見つめた牧野の横顔にもう迷いは一切なく、ただ淡々とした表情だけが浮かんでいて、どう理解すればいいのか、俺の頭は混乱した。

俺の認識が正しければ、司と牧野は結婚の約束までしている間柄で、約束の四年が過ぎた今もまだ司が帰ってきていないという現実はあるものの、それだっておそらくは時間の問題だろうという状況ではなかっただろうか。
「今任されてるプロジェクトが一段落したら帰れる」と言っていたのはほんの数ヶ月前。そのことは牧野も当然知っている。
けれど牧野は、今はっきりと言った。
「道明寺と別れてきた」と。

「なんで?」
「え? ああ……なんでだろう」
「なんでだろう、って……」

どこか他人行儀な物言いに、思わず眉をひそめる。

「だって、婚約してたよな?」
「正式ではないけどね」
「それでも婚約は婚約だろ。お互いがそのつもりだったんだから。司、もうすぐ帰ってこれるんだろ?」
「うん。一年以内には、って言ってた」
「だったら――」
「待ちきれなかったわけじゃないの。そういうことじゃない」

牧野はきっぱりと言い切った。
俺は口を噤む。

「明確な理由を答えろって言われても、ちょっと今のあたしには無理」
「無理って、」
「はっきりこれっていう理由があるわけじゃないの」
「……」
「ただ、そうしたほうがいい気がしたの。そうしなくちゃいけない気がしたの」
「な――」

再び「なんで」と問い質しそうになる俺に、牧野は「なんでって言わないでよ」と釘を刺した。

「思いつきでそんなことしたわけじゃないんだよ。ずいぶん悩んだしすっごく考えた。だけど……」

「わかんなくなっちゃたのよ」と牧野は力なく笑った。

「電話でね、あと一年以内に帰れるから、どんな結婚式がしたいか考えておけって言われたの。たしかに、あいつが帰ってきたらそうなるんだと思う。だけど……何一つ思い描けなかったの、あたし」
「……でもそれはさ、したことのない経験をしようとしてるわけだから、」
「そうなんだけど、幸せだなって思うことさえできなかったのよ?」

牧野は宙を見つめる。

「こんな状態って正しいのかな。あたしはそもそも待っていたいのかな。その先の未来が楽しみなのかな。望んでるのかな。好きってなんだろう。幸せってなんだろう」
「……」
「そんなことぐるぐると考えたの。そしたら、なんかどれもわかんなくて、どれもピンとこなくてさ」
「わかんないって、だって、」
「なんか、道明寺の帰りが待ち遠しいと思えなくなってたの」
「牧野……」
「むしろ、あいつが帰ってきて今のこの生活に変化が生じるのかと思ったら、憂鬱な気さえしちゃったの。……それって、もうなんか違うよね」

牧野は一つ息を吐き、そして言った。

「だから、別れたの」

語る牧野の表情は、常に淡々としていた。

――考えすぎなんじゃないか?
かけるべき言葉はこれだったかもしれない。
――そうか、なら仕方ないよな。
これだったかもしれない。
――でも、司が帰ってきてから考えても良かったんじゃないか?
これだったかもしれない。
でも、そのどれもが俺の中で育たなかった。

「別れて正解だった気がする。別れようって決めた時、なんかいろんなものが見えた気がした。実際別れてみたら、もっといろんなものが見えた気がした」

淡々とした表情、いつもと変わらぬ表情。
どちらかと言えば明るい声、前向きな言葉。
けれどどこか憂いを湛えたように思えるその横顔とその声に、何かが騒いでしまったから。
俺の中の、胸の真ん中の何かが。

「自分でも気づかないうちに、たくさんの感情から目を背けていたんだなあって、それがわかったか……ら――……え?」

なんでそんなことをしたんだろう。

「……ちょっ……み、まさかさん……やめてよ」
「やめない」
「やだ、だってここ――」
「誰も見てないよ。誰も、見てない」
「……」

なんでそんなことをしたのか、俺自身にもよくわからない。
けれど俺の腕は躊躇うことなく牧野を後ろから抱きすくめていた。
そうしなければいけないと、そう心のどこかで思ってしまったから。

「なんか……なんか守りたくなった」
「……え」
「守りたくなったんだ。牧野」

それは俺の思い込みなのかもしれない。単なる勘違いなのかもしれない。
でもそう感じてしまったら、抱き締めずにはいられなかった。

時が止まる。
身体こそ強張らせたものの、牧野は俺の腕を拒んだりはせず、やがてその強張りさえも解いた。
そして代わりに、肩を小さく震わせた。

「苦しいよ、美作さん」
「……」
「苦しい。」

苦しいのは俺の腕か、震える胸か。
今はまだ知らなくていい。
今はまだ、この腕を緩められそうにないから。

 
止みそうで止まない雨の中。
一つの傘に、俺と、牧野――ただ、二人。
Fin.
【包み込んですべてから守りたい、君を。】
ここで出会ったのは偶然か、はてまた必然か。
答えの全てが今はまだ手元にないけれど、きっといつかわかるはず。
降りしきる想いは雨のごとく、流れて流れて辿り着くはず。
抱き締めたワケも、抱き締められたワケも、いずれその手に。
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2011.11 雨宿り
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