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リンドウ色ワルツ
COLORFUL LOVE
2

「そろそろ行くか?」
「うん」
「今度は茶室の前も通ってみようか。総二郎がいないことを祈りながら」
「あはは! 全力で祈りながらこっそり近づかなきゃね」

 笑い合いながら長椅子から立ち上がった、と同時に、つくしは足元で、ピリリッと何かが引っ張られるような違和感を覚えた。

 ――え、何?

 見下ろした足元に、特段大きな変化はない。けれど違和感の正体を知りたくて、履いていたスカートの裾を少し動かすと、またピリリと小さな違和感が走る。
 嫌な予感がする。
 これはもしやと目を凝らしてよくよく見れば、その予感は的中していた。
 スカートの裾裏の糸が、ショートブーツのファスナーに引っかかって、動くたびにほつれが広がっているのだ。

「えー……」
「ん? どうした?」
「いやー、あの、糸が……」
「……ああ、なるほど」

 つくしの視線を追って見下ろしたあきらも、どうやら状況を把握したらしい。
 つくしをもう一度座らせて、その横に自らも屈み込むと、ほつれ具合を確認しつつ、ファスナーから丁寧に糸を外した。

「盛大にほつれたな」
「ですね……」
「しかもこのままじゃ、ますますほつれるな」
「ですよね」
「というか、すでにここだけスカートの長さが変わってるぞ」
「あー、ショック……」

 少々のほつれなど気にしないつくしだが、スカートの右後ろあたりが三分の一程もほつれて布が垂れ下がってしまった状態に、さすがにため息が零れた。

 秋の初めに、あきらに連れられて入ったお店でみつけたミモレ丈のフレアスカートは、青みがかった薄紫色がとても綺麗で、見た瞬間に惹かれた。思わず手に取ると、その数秒後には「似合いそうだな」とあきらに取り上げられ、そのまま購入となっていた。
 何度聞いても値段は教えてくれなかった。でも店内の他の商品から予測するに、かなりの高級品。 理由もなくそんな高価なものを贈らないでほしいとさんざん抗議したが、「これを履いた牧野と歩きたいんだ」と顔を綻ばせるあきらを前に、もうそれ以上の抵抗など出来るわけもなく、それどころか、これを履いてあきらの隣を歩く日が、ただただ待ち遠しくなってしまった。

 そしてようやくその日が来た。
 着替え終えた鏡越しに、「よく似合ってる」と目を細めたあきらが嬉しかった。
 なのに。
 この状態はいったいどうすればいいのか。家に帰って直すのはともかく、まだまだ今日という日は折り返し地点までにも到達していないというのに。

「あーもう、どうしよう」
「まあ、デザインとしてはアシンメトリーってことで――」
「誤魔化しきれないよ、折り目ばっちりだし」
「……だよな」
「あーもう、どうしよう!」

 ――せっかく美作さんと一緒なのに。

 がっくりと項垂れるつくしの横で、あきらが「これならなんとかなるか」と呟いた。
 その言葉に「え?」と視線を上げれば、すくっと立ち上がったあきらが「待ってて」とだけ言い残してすたすたと歩いていく。店員に何やら話しかけて、それからほどなく戻ってきた彼の手には、ソーイングセットが握られていた。

「……どうしたの、それ」
「試しに聞いてみたら、店員が持ってたから貸してもらった」
「もしや、縫う?」
「このままじゃ、気になって楽しめないだろ?」

「俺はアシンメトリーでもかまわないけど」と笑いながら、あきらは再びつくしの横に跪く。

「布が破れてるわけじゃないし、幸い糸も、ここにあるわけだし?」

 ほどけた糸を慎重に手繰って端を見つけると、針に通し始めた。

「たぶん糸の長さが足りなくなるから、そんなに細かくは出来ないと思うけど、応急処置ってことでいいよな」
「もちろんだけど」
「じゃあ、このショール膝にかけて。で、じっとしてて」

 寒さ対策に、と持ってきていたショールを手渡され、受け取ったつくしが言われるままに広げたところで、あきらは左手でスカートの裾をそっと持ち上げ、スイスイと縫い始めた。
 
「え、嘘でしょ」
「何が?」
「あたしが縫うんじゃなくて?」
「それだともっとスカート捲らなきゃいけないだろ」
「いやそうだけど」
「家ならいいけど、一応外だし」
「そうだけど……」

 話す間もあきらの手は止まらない。スイスイと、本当にスイスイと音がしそうなほどスムーズに縫い進めていく。
 そんなあきらの姿に、つくしはしばらく見惚れて、やがて溜め息を吐いた。

「ねえ、美作さん」
「ん?」
「美作さんて、何でも出来るのね」
「そんなことはない」
「いやまさか、裁縫が出来るなんて思わなかったよ」
「双子がしょっちゅう服を引っ掛けるんだよ。脱いで他のを着ればいいって言うんだけど、これじゃなきゃイヤ!って泣かれたら、どうにかしなきゃだろ? 使用人がいればもちろんやってもらうけど、俺がやるしかないことも結構あってさ」
「ふうん」

 お気に入りの洋服を引っ掛けて涙目になる双子の妹と、億劫そうに、でもスイスイ縫って直してあげるあきら。嬉しそうに満面の笑みを浮かべて再び駆け回る双子の妹と、溜め息を吐きながらも双子を見守るあきら。
 そんな美作家の光景が、つくしの脳裏にはっきりと浮かぶ。
 なんと穏やかで、優しい光景だろう。

「嫌か?」
「え?」
「人前で、こんなこと平気でする男」

 突然言われたその言葉に、つくしは思わず首を傾げた。
 スカートの裾がほつれて困っているつくしのために、跪いて縫い直してくれているあきら。
 その手さばきは見惚れるほど見事で、心底驚いてはいる。
 たしかに周りには人がいて、浴びるほどに視線を集めているのは、鈍いつくしでもわかる。でも、そもそもモデル並みに端正な容姿のあきらといれば、何をしててもしてなくても視線は感じるし、そのあきらが女の足元にしゃがみこんで、しかもスカートのほつれを直しているのだから、それは見るなという方が無理というものだろう。
 恥ずかしいけれど、それはされている行為に対してではなくて、あきらにこんなことをさせてしまっている自分に対して、だ。でもそれさえも、あきらが自分を思ってしてくれているとわかるから、言われるがままに任せてしまっている。
 この一連の中の、どこに「嫌」なんて感情を持つのだろう。むしろ感謝しかないのに。
 あきらはつくしをチラリと見て、再び手元に視線を戻してから、言葉を放った。

「オバサン少年」
「……なにそれ」
「昔付き合ってた人に言われた言葉」
「……」
「袖だったかな、縫ってあげたらそう言われた」

 細かいことは忘れたけど、と続いた言葉はきっと嘘。
 俯くあきらは、表情のすべてをつくしに見せてはいない。
 けれど、つくしにはわかる。
 あきらはその時のことを、無意識のうちに心のどこかに留め続けていて、思い出したのだ。あの時の自分を。
 今あきらは、きっと傷ついた表情(かお)をしている。
 過去のあきらは、それだけ深く、傷ついた。忘れられないほどに。

 ――そんな必要ないのに。

「バカな女と付き合ってたんだね」

 思わず零れ落ちた本音に、あきらが顔を上げた。

「大切にされている事実よりも、体裁を気にするなんて、バカな女、でしょ?」
「……」

 つくしは時々ずるい。
 あきらの予想を飛び越えた言葉で、あきらの心を揺する。
 そんなつくしだから、こうして一緒に居たいんだと、あきらの心を満たす。

「一瞬でも妬いたあたしは、もっとバカだけどね」

 つくしの言葉に、あきらは笑った。くしゃっとした、まるで泣き出しそうな笑顔で。
 それを見て、傷ついた過去のあきらも笑ってくれたらいいなと、つくしは思った。
 留め続けた記憶が、浄化されたらいいな、と。
 



「さ、できた。これでどうだ」
「すごーい。すっかり元通り」

 立ち上がってスカートを揺らしても、どこにも不自然なところはない。
 アシンメトリーになってしまったスカートに軽く絶望を感じていた心はすっかり吹き飛んで、あきらの手によって元通りになったスカートを、幸せな気持ちで見下ろした。

「ありがとう。美作さん」
「どういたしまして」

 顔を上げると、視線の先のあきらが優しく笑っていて、ますます幸せに思えた。

「それにしても、ほんとに凄い」
「そんなことねえよ」
「絶対あたしより器用よね」
「……それは否定しないけど」
「あ。そこは嘘でも、そんなことねえよ、でしょ?」

 口を尖らせるつくしに、あきらはアハハと笑いながら立ち上がり真っ直ぐ向き合うと、労わるような眼差しで微笑んだ。

「……悪かったな」
「え?」
「昔の話なんか持ち出して」
「ううん、全然」
「言うまでもないだろうけど、おまえが妬くような付き合いじゃないから。だから――」
「わかってる。だって美作さん、ワケアリ、年上、マダムキラー、――だったもん」

 苦笑いを浮かべながら、「これ返してくる」とソーイングセットを手に歩いていくあきらは、本当に本当に律儀な人。
 つくしが「妬いた」と言ったから、気にしてくれたのだろう。
 そんな必要、全然ないのに。

 たしかにつくしは、ほんの少しだけ嫉妬を覚えた。
 話の上ではよく知る、けれど実際に目にしたことは片手で十分足りるほどしかない、あきらの過去の恋愛事情。それが具体的な形となって目の前に提示された――そんな錯覚に陥った。きっとそうだろうと思ってはいたが、やっぱり過去のあきらも優しくて、彼にその優しさを与えられた女性がいたのだと、それを実感して、少しだけ妬いたのだ。
 でもそんなことは、ずっと前からわかっていたこと。あきらの優しさは、相手によって変わるものではないと、つくしは知っている。
 だから、ほんの一瞬妬いたけれど、そんなことは平気だった。
 それよりも。

 つくしは、器用に針と糸を操るあきらの手元を見ながら、ずっと考えていた。
 年上ばかりを好んで付き合っていたあきらが、なぜ年下の自分と居るのだろう、と。
 昔むかし、まだ二人の間に恋愛の種すらもなかった頃に、一度訊ねたことがある。「なぜ年上なのか」と。

「癒されたいんだよ。せめて女といる時くらい」

 返ってきた答えはシンプルだった。
 強すぎる個性がぶつかり合う幼馴染達たちの中において、あきらは潤滑油のような存在に思えていた。その立ち位置はきっと疲れることのほうが多いから、だからせめて女くらいは、と包容力のある年上を求めるのは、ごくごく自然なことなのかもしれないと、納得したのを覚えている。

 だから余計に、「なぜ」なのだ。
 なぜ年下の、癒しを与えているとも思えない、こんな普通の自分と居るのだろう、と。
 今だって、昔と変わらずあきらは仲間たちの潤滑油で、誰からも頼られる存在なのに。その立ち位置が変わったわけではないのに。

 その答えは、あきらの中にしかない。
 つくしがどんなに考えたところで、それは予想にしかならなくて、本当のところはわからない。
 訊けば教えてくれるのかもしれない。けれど、知らなくてもいいような気も、していた。

 ――だって、現実として、美作さんはあたしの隣に居るんだもんね。

 この変え難い事実が、つくしを幸せにしているから。

 あきらを「オバサン少年」と評した女性は、あきらの何を見て、あきらに何を求めて付き合っていたのだろう。後腐れのない関係と言ってしまえばそれまでだが、あきらの優しさを理解できなかったのだとしたら、それはとても寂しいことだと思った。
 あきらは優しい。昔から。無茶苦茶なこともたくさんしていたけれど、現につくしはその被害者でもあるけれど、それでも「あきらは大人で優しい」と、その印象はどういうわけか揺るがない。
 そして年を追うごとに、落ち着きを増し深みを増し、元々持ち合わせる優しさはそのままに、どんどん魅力的な大人の男になっていくのを、つくしは彼と付き合うよりも前から、そして今も感じている。
 過去には理解しなかったその女性が、今あきらを見たらどう思うのだろう。今のあきらと出会ったら、どう感じるのだろう。

 ――きっと、あの時の自分を悔いるんじゃないかなあ。

 あと腐れのない関係だったとしても、本気の恋じゃなかったとしても、手放す理由になんてならなかったと。
 けれどそこまで考えた時、つくしは思うのだ。
 手放してくれてよかった――と。
 おかげで今、そんなあきらを独り占めできるのだから。
 そして、そんな過去が少しずつ蓄積して、今、対象外だった年下の自分に目を向けてくれるあきらがいるのだとしたら……。

「おまたせ。行こうか」
「美作さん」
「ん?」
「ありがとう。――選んでくれて」

 あまりにも唐突なつくしの言葉に、戻ってきたばかりのあきらは虚をつかれたように目を丸くした。
 けれど数秒の沈黙の後、元の優しい笑顔を浮かべてつくしを見つめた。

「選んだんじゃないよ」
「え?」
「望んだんだよ。――俺が、牧野を」
「……」

 あきらは、ずるい。
 もうこれ以上抱えきれない「好き」を、また増やす。
 そんなあきらだから、ずっと一緒に居たいと、つくしの心を満たす。



 行こう、と差し出された手に手を重ね、歩き出した景色は彩鮮やかで、歩くたび、進むたび、赤や黄色がカサリカサリと音を立てた。




「たしかこの先に、そのスカートと同じ色した花が咲いてた気がする」
「なんていう花?」
「なんだっけな。たしか――……」

Fin.
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―― 竜胆色(りんどういろ)――
リンドウの花のような青みがかった少し薄い紫をさす伝統色名。
2018.11 リンドウ色ワルツ
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