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孤独なミッドナイトブルー
COLORFUL LOVE
6
 あきらの口元が、つくしの名を呼んだ。
 それはきっと小さな呟き。もしかしたら、声など出ていないのかもしれない。
 そうでなくても、叫ばなければ聞こえないだろう距離。
 でも、つくしの耳には、はっきりと響いた。
 つくしの名を呼ぶ、あきらの声が。

 あきらは、つくしの存在を確かめながら、ゆっくりと歩き出す。
 つくしは、その姿を追い続ける。

『牧野、自分に素直にね』

 耳元で、類がそう言った気がする。

「……うん、ありがと」

 つくしは、そう答えた気がする。
 ただ、今のつくしの中には、何もかもが留まらない。
 ただ、あきらだけが、そこにいた。

 距離が近づくにつれ、二人の間を遮る人影が減っていく。
 そして、遮るものが何もなくなった時、あきらがその足を止めた。

「……」
「……」

 互いに手を伸ばしてもまだ到底届かない距離。
 何故あきらがそこで足を止めたのか。それが、この数日の間に出来てしまった二人の心の距離なのではないか。
 つくしの中に不安が生まれる。
 その心の内を探りたくて見つめたあきらの顔には、どこか迷いが見える気がして、つくしの不安はますます膨れた。
 やっぱりここへ来たのは間違いだったのではないか。そんな考えが頭を掠めたその時、あきらの唇が小さく動き、言葉を紡ごうとした。

「ごめん、勝手に来て」
「――え?」

 あきらが言葉を発するのを押し留めるように、つくしが先に言葉を放った。

「類が教えてくれたの。帰りの飛行機。それで、本当は家で待っていようと思ったんだけど……類もそう言ってたし、あたしもそのつもりでいたんだけど。でも、いろいろ考えてたら頭がいっぱいになっちゃって、家で待ちきれなくて……それで、ここまで来ちゃった。行き当たりばったりで、後先考えないで飛び出しちゃって、だからあたし、美作さんの予定とか、全く考えてなくて。そこまで考えがいかなくて」

 上擦りそうになる声を必死に繋ぎ留めながら、早口に言葉を紡いだ。この場合、紡いだというよりは、勝手に滑り出していたというほうが近いかもしれない。
 こんなにも慌てて必死に言い訳を並べる自分を恥ずかしいと感じながらも、言葉を止めることは出来なかった。
 ひとたび沈黙が訪れたら、あきらが何かを言うだろう。それが怖かった。あきらが口にする「何か」が。

「もしかしたら、予定とかあったよね。仕事とか。もし、そうだったら、あたしのことは気にしないで。そっちを優先して。あたしは家に帰るから。それで、今度こそ大人しく家で待ってる。最初からそうするべきだった。勢いでここまで来ちゃったけど……ついさっき気付いたの、こんな勝手なことして迷惑だったかもって。なんかあたし、この前の夜からずっと自分の気持ちばかり押し付けてるよね。自分勝手、過ぎるよね。わかってるの。ただあたし、どうしても美作さんに謝りたくて。一秒でも早く、会って謝りたくて。あたしあの日、酷い態度だったから。だから……」

 ――ごめんなさい。
 言うべき言葉、伝えたい言葉は、それだけだった。
 けれど、自分でも制御不能なほど吐き出し続けた言葉は、一番伝えたい言葉を前に、込み上げてくる涙によって途切れてしまった。
 何に対する涙なのか、自分でもよくわからない。こんなところで泣くのは、気持ちを誤魔化すようで嫌だった。泣けば許されるなんて微塵も思っていないし、そんなのは、つくしが一番嫌なのだ。
 けれど涙腺のコントロールは容易ではなく、どうにか伝えようと口を開きかけるけれど、言ったら最後、言葉と共に瞬く間に涙が溢れ出てしまいそうで、つくしは震える唇をぐっと噛みしめるしかなかった。

 ――泣かない。ちゃんと謝るまでは。……泣かない。

 思っても思っても、どう言い聞かせても涙は溢れてくる。
 今にも零れ落ちそうなほど溜まってしまった涙を必死にこらえて、ぎゅっと拳を握り込む。
 そんな状態では俯くことも不可能で、ただひたすらに、あきらを見つめ続けることしか出来ない。瞬きもせずに。
 すると視線の先で、それまで真顔でつくしを見つめ返していたあきらが、小さな、小さな笑みを浮かべた。
 それは、悲しいとも嬉しいとも感じられる、触れずともその温もりが伝わってきそうなほどに温かい、触れたら消えてしまいそうな程に儚い、そんな笑みに思えた。

 ――美作、さん。

 心の中で愛しい名前を呼ぶ。

 ――美作さん。ごめんね。

 まるでそれが聞こえたかのように、あきらの口元が動いた。

「牧野」
「……」
「そばに、行っていい?」

 なぜそんなことを問われているのだろうと、思った次の瞬間。

「近づいて、抱きしめていいかな?」

 被せるように再び問われたその言葉で、その意味に気付いた。
 気付いた途端。
 頷くよりも早く、つくしの足は床を蹴っていた。
 涙が零れて頬を伝った。
 けれどもう、そんなことはどうでもよかった。

 あの日、つくしがあきらの腕を拒んだから。あきらからした香水の匂いを拒んだから。
 だからあきらは確認をしてくれたのだ。
 もうそんな想いはさせないから、抱きしめていいか――と。
 それがあきらの、つくしに対する最大限の優しさだとわかるから、堪らなかった。
 
 つくしは、走り寄った勢いそのままに手を伸ばし、思い切り背伸びをして、あきらの首に腕をまわして抱き着いた。そんなつくしをしっかりと受け止めたあきらもまた、ぎゅっと腕の中の存在を抱きしめた。

「……ごめんね。勝手なことばかり言って、自分のことばっかりで……本当に本当にごめんなさい」

 言葉は自然と零れ落ちる。涙と共に。
 声が震えた。

「あたし、あんなこと言ったけど……会えないほうがよかったなんて、言ったけど、来てくれないほうがなんて、言ったけど、あたし――」
「わかってる」
「あたし、どうかしてたの。あたし、あの時あたし――」
「牧野、わかってるよ」
「……っ……」
「ちゃんとわかってるよ、牧野」

 涙でなかなか言葉にならないつくしをぐっと抱きしめ、その耳元にあきらが言葉を落とす。

「俺こそ謝らないといけないんだ。ごめん、ずっと寂しかったよな」

 あきらの声が切なげに響く。

「わかってた、寂しい想いさせてるって。忙しくしてる俺より、俺を待ってる牧野が感じてる時間はずっと長いって。わかってたのに何も出来なかった。忙しさに振り回されて、余裕がなくて。牧野への埋め合わせはいずれどこかで。とにかく仕事をなんとかしないと、って……確実に、牧野に甘えてた」
「……」
「だから、牧野が悪いわけじゃない。むしろ謝るのは俺のほう。あの夜の俺は、あまりにも配慮に欠けてた。本当にごめん」

 つくしはフルフルと首を振る。
 あきらの手がつくしの後頭部を覆って、その感触を確かめるように髪をくしゃりと鳴らした。

「俺が至らなかったせいで、ずいぶんモヤモヤさせたよな。でもあの時の匂いは――」

 つくしはもう一度首を振った。フルフルと。

「いいの」
「良くないよ。俺は牧野に誤解させたまま――」
「類に聞いた、香水のこと」
「……え?」
「類が教えてくれた。悪いのは美作さんじゃない。バカだったのは、あたし」
「牧野――」
「話も聞かないで勝手に怒って……せっかく会えたのに、美作さんが作ってくれた時間を無駄にしたのはあたし。本当にバカだった」

 この数日。
 つくしはたくさんのことを考えた。たくさんのことを思った。
 あきらと想いを通わせ、時間を共有する月日を過ごす中で、知らず知らずのうちに当たり前になり、どこかに置き去りにしてしまった大切な感覚があることに気付いた。
 会話を交わす。触れ合う。言葉だったり温もりだったり、時にさりげなく渡される贈り物だったり。あきらが与えてくれる大切なものは日々たくさんあるけれど、それだけではなくて、あきらがつくしに与えてくれる一番は、もっともっと大切な、心の繋がりだった。
 どんなに短い逢瀬でも。電話で繋がる一分でも。写真だけのメールでも。
 そのすべてで、あきらはまっすぐにつくしを想ってくれていた。  
 誰かといるから満たされるのではない。あきらだから満たされる。
 一人だから満たされないのではない。あきらがいないから、満たされない。
 でも、本当は、あきらがそばにいなくても、あきらを好きだと思う時、あきらを大切だと思う時、つくしの心は多くの感情で満たされるのだ。時には不安、時には希望、でもそのすべては「愛」あればこそ。

 ――ずっと忘れてた。ただ想うだけだったあの頃のこと。

 あきらを想うだけで、苦しかったり、嬉しかったり、幸せだったりしたあの頃の自分を。
 彼の想いを知らずとも、彼を想う感情そのものが、つくしを満たしていた。

「美作さんの隣に慣れすぎて、いつの間にか、欲張りになってたみたい。……バカだよね」
「……それのどこがバカなんだよ。むしろ嬉しいよ」
「……え?」

 あきらは抱きしめていた手を緩め、そっと身体を離すとつくしの顔を覗き見る。

「好きな人に欲してもらえるなんて、嬉しい以外の感情湧かないだろ」

 幾筋もの涙の痕が残る頬を慈しむように両手で包んで、未だ残る眦の潤みを親指でゆっくりと拭った。

「牧野は、自分が俺に無理をさせたって思ってるのかもしれないけど、それは違う。牧野に会いたくてたまらないのは俺。会っても会っても足りなくて、別れた傍から会いたくなる。牧野に会うためにスケジュールの調整して、牧野に会うためにひたすら仕事して、徹夜もして。すべては俺自身のため。たしかに無理することもある。でも、それもこれも自分の欲を満たすためにやってることだから、誰のせいでもない」
「……」
「欲張りなのは、俺も一緒。というか、多分俺のほうが欲張りだよ。それこそ、俺ばっかり自分の欲をぶつけたかもって思ってた。俺こそ我慢しなきゃいけないよなって反省してた。だから、牧野にも欲張ってもらえるなら、こんな嬉しいことはない。俺も牧野を欲張れる」

 あきらはつくしの瞳をじっと見て、嬉しそうに笑みを浮かべる。

「今日、牧野がここへ来てくれてたのも、すっごく嬉しかった。メール読んで、思わず走り出しそうだった。……あー、もしかしたら、ちょっと走ったかも」

 その時のことを思い返しているのだろう。わずかに視線を左上に泳がせ、それからどこか照れくさそうに、けれどどこかおどけた様子で小さく肩を竦めたあきら。そんなあきらに、つくしの口元が思わず緩む。
 それを見て、あきらはこの上なく優しく微笑んだ。

「牧野が来てくれて、俺を待っててくれて、本当に嬉しい。迷惑だとか勝手だとか、欲張りだとか、心配する必要のない余計なことも含んでるけど、それも含めて、俺のことをたくさん考えてくれて、すごく嬉しい。俺もずっと牧野のこと考えてた。一秒でも早く会いたくて、一秒でも早く謝りたくて、たまらなかったのは俺も一緒」
「……」
「だから、これからも牧野は欲張っていい。俺のこと、もっと独占しろよ。その権利が、おまえにはある」

 拭われても拭われても涙が溢れて、零れてあきらの指を濡らした。
 そんなつくしをあきらは胸に抱き込んで、つくしにだけ届く小さな声で囁いた。

「こうやって牧野を抱きしめられるのは、俺だけの権利……だろ?」

 つくしは腕の中で頷いて、その背に腕を回してぎゅっと抱き着く。
 そんなつくしをあきらもまた、ぎゅっとぎゅっと抱きしめた。

「愛してるよ、牧野」

 囁かれたその言葉に、つくしは何度も頷いた。

 ――あたしもよ、美作さん。

 言葉にならない返事を心の中で繰り返しながら。





 あきらの腕の中で何にも変え難い安堵を感じたつくしは、次第に心が落ち着いていった。
 ずっと張っていた気が芯から緩むようなその感覚に、いつしか涙は止まり、自然と安堵の息が漏れる。
 同じようなタイミングで、あきらからもまた、安堵の息が漏れた。

「やっと帰ってきた感じがする」
「……あ、まだ言ってなかった」
「ん?」
「おかえりなさい」
「……うん。ただいま」

 互いの言葉を噛みしめて、二人が同時に、安堵の息を漏らした。
 その偶然を受け止める一瞬の間の後、どちらからともなく、クスクスと笑い声が零れる。

「さて、そろそろどこかへ移動しようか」

 ここじゃ目立ちすぎるしな、と笑いを含んだあきらの言葉に、つくしはようやくここが空港の、到着ロビーのど真ん中であることに気が付いた。
 んぎゃっ、とそれまでの雰囲気を台無しにしかねないほどの奇声を上げて、あきらの腕を抜け出そうとする。その様子に笑いながら「落ち着け、牧野。大丈夫。何も悪いことはしちゃいない」と、真っ赤な顔で俯くつくしの頭を撫でたあきらは、その肩をしっかり抱き寄せて、ゆっくりと歩き出した。
 あまり冷静でなかったとは言え公共の場でなんてことをしてたんだ、と恥ずかしさのあまりまともに顔をあげられないつくしだが、あきらはそれとは対照的に、微塵も気にしていないのだろう。普段と何ら変わらない。どうしてこうも堂々としていられるのか、憎らしい気さえするが、こればかりは生まれ育った環境の為せる業、と深く考えるのをやめた。
 幸いにも、そのあきらが肩を抱いてくれているおかげで、さほど周りを見ずとも正しい方向に歩いて行ける。これはこれで有難いことではあるな、なんてことを考えながら、ただひたすら足を前へ進めていると、そこへあきらの声がした。

「牧野、明日何か予定入ってる?」
「え、明日? ううん、何もない」
「よかった。じゃあ、明日は一日俺に付き合ってくれる?」
「いいけど……今日は?」
「ん?」
「これから、仕事?」

 ここでようやく顔を上げたつくしが、どこか不安そうにあきらの顔を見上げる。
 それに気づいたあきらは、笑顔で首を横に振った。

「ごめん、言い方間違えた。今日も明日も、出来れば月曜日に会社へ行くまで、ずっと俺に付き合ってくれる?」

 優しい笑顔に、優しい言葉に、つくしは嬉しくなって頬を緩めて、それでも僅かに残る不安を小さく声に乗せた。

「……そんなに平気なの?」
「平気だよ。今年中にどうにかしなきゃならないことは、もうほとんど終わらせた。フランスで散々働いてきたんだ、この週末くらいはゆっくりさせてもらうよ。……てことだから、この週末はずっと一緒にいてほしいんだけど、いい?」

 嫌だなんて言うわけがないのに、それでもつくしの意思を確認してくれるあきらは、やっぱり誰よりも優しい。この優しさに、これから先も数えきれないほど救われていくんだろうな、と思いながら、つくしはこくりと頷いた。
 そんなつくしに、あきらは嬉しそうに笑って、よしっ、と声を弾ませる。

「そうと決まれば、場所を探さないとな」
「どこか行くの?」
「今すぐ美味しいものを食べられて、ゆっくりすごせる場所。近場のホテルでいいとこあったかなあ」
「……もしかして、すごくおなか空いてるの?」
「深刻だよ」
「そうだったの? 早く言ってくれたらよかったのに。空港内にもレストランあるんじゃない? そういうところじゃ物足りない?」
「空港内はちょっとなあ。牧野不足が満たされそうにない」
「そっか、……え?」
「早く二人きりになりたいんだよ、俺は」
「……」
「牧野は、嫌?」

 昔は「超」がつくほど鈍感だったつくしだって、今はその意味がわからないほど鈍くはない。
 ようやく治まりそうだった顔を赤みがバババッと音がするほどぶり返し、「いや、あの……」と意味を成さない言葉を発しながら再び俯きかける。
 そんなつくしを見つめながら、こんな穏やかで溢れるような幸福感に包まれるのは久しぶりだと、あきらは寄り添う愛しい存在に目を細めた。
 朱に染まるその頬をするりと撫でると「牧野」とその名を呼びながら、背を屈めてつくしの顔を覗き込む。
 突然目の前に現れたあきらの顔。驚きに瞬きも忘れて見つめると、もう一度頬を撫でられて、そのまま顔が近づいてきた。
 反射的に目を瞑れば、それと同時に唇が重なって、その温もりは、数秒足らずで、ちゅっ、と小さな音を立てて離れていった。
 今起きた現実をきちんと理解するよりも早く、つくしの耳に声が飛び込む。

「ねえママ。今すれ違ったお兄さんとお姉さん、チュウしてたよ!」
「ジロジロ見ちゃダメよ」

 思わず足が止まるつくし。
 共に立ち止まり、ニコニコとつくしを見下ろすあきら。

「もーう! 美作さんのばかーっ!」

 そんな声が響こうとも、そこにあるのは「幸せ」ばかり。


 リンゴンと、どこかで鐘の音が響き、二人の時間の始まりを告げた。
Fin.
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