十二月二十五日、クリスマス。
つくしは一人、空港にいた。
国際線の到着ロビー、到着出口におそらく一番近いだろうベンチに、もう何時間も座り続けている。
携帯電話と電光掲示板、そして、定期的に人を吐き出す出口を見つめながら。
つくしはこの場所で、ただひたすら、あきらの帰りを待っていた。
昨夜、あきらの帰国予定を教えてくれた類には「あきらは絶対に牧野のところへ来るから、ちゃんと家で待っててあげなよ」と言われた。
飛行機の到着予定時刻から考えて、あきらがつくしの家に来るとしたら、それはおそらく夜。
何の予定も入れていなかったつくしは、類に言われた通り、大人しく家で待ってるつもりだった。少なくとも、昨夜ベッドに入るまでは。
慣れないバイトをして疲れているはずだった。けれどなかなか寝付けなかった。その上ずいぶん早く目が覚めて、寝直そうともう一度目を瞑ってもまるで眠気が訪れず、ゴロゴロ寝返りを繰り返すこと小一時間。諦めてベッドから這い出したつくしは、カーテンを開け放った窓辺でブランケットに包まり、まだ明け切らない空をぼんやりとみつめた。
考えるともなしにあきらのことが脳裏に浮かび、それは日が昇り、今日という日が動き出しても同じだった。そのたびに心がざわつき、それは時間の経過と共に大きくなっていく気がした。
期待なのか不安なのか、つくし自身にも区別のつかない曖昧な感情が次から次へと湧いて、掌はしっとりと汗ばみ、指先は小さく震えた。
そんな自分に何度も何度も気付くうちに、居ても立っても居られなくなり、気付けば家を飛び出していた。
向かった先はもちろん、あきらを乗せた飛行機が降り立つ場所。
衝動的に行動を起こしたつくしは、案の定、とんでもなく早い時間に空港に着いたのだが、家にじっとしているよりはマシだと思えた。ここには、誰かを待つ多くの人がいる。それだけでどこか安心できる気がした。
とは言え、空港に来たからといって、到着出口や掲示板を睨みつけていたところで飛行機が早く到着するわけでもない。カフェに入るとか、空港内を散策してみるとか、時間の潰し方は幾つもあったのだろうが、どれもする気になれなかったつくしは、ただベンチに座り続けた。
ベンチであきらを待つ長い時間。
つくしは、あきらから送られてきていた何通もの――何十通もの未読メールを開いた。
そのほとんどすべてが、パリの街並みを写した風景写真だった。
それはどれも異国の素敵な風景。けれど、つくしはふと感じた。
あきらにとっては違うのではないか。あきらにとっては、この数日の、代わり映えのない日常の風景なのではないか、と。
そこに写し出されているのは、有名な建造物でもなければ、観光スポットと呼ばれる場所でもない。おそらく、あきらが毎日歩いているのだろう通り、あきらが毎日働いているのだろう建物、あきらが毎日眺めているのだろう景色。
時折カフェに立ち寄って。疲れた頭を休めたい時は窓の外を眺めて。日付が変わるだろう頃にホテルへ戻って。数時間眠ればまた朝が来る。
何も言葉は添えられていないが、敢えて添えるなら「今日も仕事」の一言に尽きるだろう。
そこにあるのは、代わり映えのない毎日で、ひたすら仕事を片付ける毎日で。
写真を追うだけで、その街並みにあきらが見える気がした。
一日に何通も届いていたそのメールをひとつずつ開き続けるうちに、その写真をひとつひとつ見つめるうちに、つくしは胸がいっぱいになった。
涙が込み上げて、音もなく頬を伝った。
これといったメッセージのない、写真だけのメールだが、そこに込められた想いがつくしにはわかった。
思い出したのだ。以前あきらが言っていたことを。
「出張中は、忙しすぎて余裕のないことが多いから、そんな時は写真を送るよ。牧野のことだけ考えて撮るから。だから、俺から届く写真は、景色だけじゃなくて、俺の想いも切り取られてる。それを受け取ってほしいんだ」
あきら以外の誰かが言ったなら鼻で笑ってしまったかもしれないその言葉に、つくしは顔が真っ赤になった。
柔らかな笑顔で告げられて、恥ずかしくて、でも嬉しかった。
あきらの送ってくる写真は、今日も元気にしている証。
あきらの送ってくる写真は、今日もつくしを想っている証。
あきらからのメールは、今日も会えない、今日も声を聞けない、でも今日も誰よりも想っていると、その心だけでも届けと願う、優しい彼の精一杯の想いの証。
――そうだったね、美作さん。
ずっと寂しさにばかり支配されて、そこに込められた優しさを見落としていた。わかっていたはずのことを見逃して、勝手に心を閉ざしていた。
――ごめんね、美作さん。
何度も涙を拭いながら、一番新しい、おそらくフランスを発つ直前に送信されたメールを開くと、そこには空港の写真と、そして言葉が添えられていた。
――――
ようやく仕事が終わった。これから日本に帰るよ。
牧野が俺を待っていてくれますように。
――――
あきらの、祈るようなその一文に、思わず携帯電話を胸元に抱きしめた。
こんな想いをさせてしまったことが悔やまれて、こんなにも想ってくれることが嬉しくて。
瞼を閉じれば、熱い涙が零れ落ちる。
――ごめんね、本当にごめんね。
心の中で、ありったけの謝罪を繰り返す。
――待ってるよ、美作さん。
心の中で、ありったけの想いを放つ。
まだ目の前にはいない、もうすぐ会えるはずの、あきらに届けと願いながら。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
見つめ続けた電光掲示板に、あきらが乗っている飛行機の「到着」が表示された。
「……」
食い入るように見つめるつくしは、息が止まるような、そんな錯覚を覚えて、それからトクトクと鼓動が早まっていくのを感じた。
――帰ってきた。……美作さんが、帰ってきた。
何度も心に刻みながら、随分長い間、つくしはその表示を見つめ続けた。
やがて、ひとつ大きく息を吐いて、ゆっくりとベンチから立ち上がる。そして、ゆっくりと、一歩ずつ、到着出口へと進んだ。
多くの人が、誰かしらの姿を待つその場所に、つくしも立つ。
ただし、誰かが一緒にいたならば「もっと近くに行かないと、向こうから見つけてもらえないよ?」と言われそうな位置で、つくしは足を止めていた。
正確には、そこで足が止まってしまった。
これならば、ベンチに座っているのとさして変わらないのではないかと笑われそうなその場所で、つくしは早鐘のように鳴る心臓の鼓動を感じながら、視線は到着出口に縫い留めたまま、携帯電話を耳にあてていた。
もっと近づくはずだった。あきらを見逃さないように、あきらに見つけてもらえるように。けれど、間もなく出てくるだろうと足を踏み出そうとしたその時、携帯電話がメールを受信したのだ。あきらから。
――――
日本に帰ってきた。
家にいるかな。今日、行くよ。
牧野に会いたいんだ。
――――
つくしはその文面に胸が締め付けられて、気付けばメールを返していた。
――――
空港にいる。
美作さんに会いたくて。
――――
返信は、深く考えるより先だった。まるで条件反射のように、指が動いていた。
それはつくしの素直な気持ちだった。
けれど、送信した直後、突然「怖い」という感情が湧いてきて、再び踏み出すはずの足が止まってしまった。
しばらくすれば、きっと、あきらは現れる。
どんな顔で会えばいいのか。なんて言葉を発すればいいのか。今、心にある想いをそのままぶつけることは正解なのか。
会いたくてたまらないのに、何時間も待っていたのに、すごく、すごく怖くなった。
あきらが日本を発ったあの夜、つくしはあきらを拒んだ。己の感情だけをぶつけて。
あきらにだって、ああするしかない事情があったはずなのに。
あの夜が思うようにならなかったのは、つくしだけじゃなく、あきらも一緒だった。
あの夜のあきらは、苛立ちを抱えていた。社会人であるが故に投げ出したくとも投げ出すわけにはいかない現実があって、抱えたやるせなさは、あきらのほうが大きかったかもしれない。本当ならば、あきらこそ、感情を爆発させたかったかもしれない。
その夜が、決して「望まない夜」になってしまったことに。
昨日、類が最後の最後に、教えてくれたことがある。「やっぱり牧野はかわいいよ」とつくしの頭を撫でた手をそのままに、「もう一つプレゼント」と優しい声で。
「牧野が嫌がったあの香水はね、あきらに近づいた女が残したものじゃないよ。パーティー会場で取引先の人から渡されたサンプル紙だよ。ムエット、って言うのかな、あの紙。これから売り出す調合したての香水だって、俺や総二郎も渡されたんだ。あきら、それを胸ポケットにでも突っ込んだんじゃないかな。そんなところに入れたら匂いがついて牧野があらぬ誤解をすることくらい、普段のあきらなら真っ先に考え付きそうだけど、あの日は余裕がなかったんだろうね。らしくない失敗だけど、でもそれが真相。俺達のそばに女はいなかったし、牧野が心配するようなことは何もなかった。俺が保証するよ」
痞えていた重い塊が溶けていくような安堵感と、とてつもなく深い後悔が同時に湧いた。あの時あきらがしようとした「言い訳」は、これだったのかと思い至れば、息が止まりそうだった。
結果だけを見ればまったくもって、あきららしくない。けれどそれほどギリギリのところに立っていたあきらに、つくしは気づいてあげられなかった。それどころか話も聞かずに責め立てるような態度をとった。
もし逆の立場なら、つくしはきっと口走ってしまっただろう。「これ以上追い詰めないでくれ」と。「あなたにだけは、わかってほしかった」と。
でもあきらは一言もつくしを責めなかった。それどころか、この状況を招いたのは自分だと、非は自分にあると、己に落胆しているかのようだった。
あの時あきらが放った「呆れられても、見限られても、仕方ない」という言葉が、すべてを投げ出すような表情が、脳裏に焼き付いて離れなかった。思い出すたびに苦しくなった。それは日を追うごとに大きくなって、類の話を聞いて、なんて馬鹿な態度を取ったんだろう、と酷い自己嫌悪に陥った。
それを抱えきれなくて、家を飛び出したといっても過言ではない。
早く会いたい。早く謝りたい。呆れても見限ってもいないことを、深く想っていることを、早くあきらに伝えたい。――そう、強く、強く思った。
つくしがあきらからの連絡に反応しなかったのは、類に言った通り、そこにあきらを感じてしまったら会いたくてたまらなくなってしまうからだ。
でもそれだけではない。
目の前にいないあきらに、抱える想いのすべてを伝える自信を持てなかったから。あきらが何を考え、何を抱え、どんな顔をしているか。声やメールじゃそのすべてはわからないから。
きっとあきらを傷つけたと、きっとあきらを悲しませたと、きっとあきらを疲れさせて、ますます追い込んでしまったのではないかと、思えば思うほど、目の前にいないあきらに何かを伝えるのが怖かった。
類は、あきらだって悪かったのだからと言ったけれど。そうかもしれないけれど、もしそうであっても、傷つけてしまったその傷は、決して消えない。
つくしの態度が、つくしの言葉が、あきらを傷つけて疲れさせて、忙しい彼を――優しい彼をさらに追い込むことになってしまっていたら。
どう謝ればいいのだろう。どう想いを伝えたらいいのだろう。
そう考えるほどに、かける言葉も、紡ぐ言葉もみつからなくて、結果的に、ずっと音信不通になるしかなかった。
だから、あきらの帰る日を待っていた。顔を見て、目を見て、そこに浮かぶ感情を見逃さない位置でなら、きっとすべてを伝えられると思っていた。
だからここまで来た。
けれど今、ふと思ってしまった。
果たして本当にそうだろうか、と。
自分が苦しいからと、早く謝りたいからと、こんなところまで押しかけるようにやってきて、そもそもそのこと自体が迷惑なのではないだろうか。それこそつくしの都合を押し付けようとしているのではないだろうか。家で待っていろと言った類の言葉には、それなりの意味があったのではないか。
そして。
つくしが謝れば、あきらはきっと笑顔でそれを受け入れる。けれどその裏に、自分の傷を上手に隠してしまうかもしれない。そうなった時、果たして自分はそんなあきらに気付けるだろうか。
「……」
考えれば考えるほど不安になって、怖くなって、どうしたらいいのかわからなくなって。
気づけば、電話をかけていた。
このことを、相談できる唯一の友に。
『牧野、どうしたの? そろそろあきらが日本に――』
「ねえ、類。あたし、どうしよう」
『……何、どうかしたの?』
「あたし今、空港にいるの。美作さん、多分もうすぐ出てくる」
『あー、飛行機着いたんだ。そしたら俺と電話してないで、到着出口で待ってなよ』
「ねえ、類。あたし、待ちきれなくて空港に来ちゃったの」
『うん……?』
「早く謝りたくて。居ても立っても居られなくて」
『うん。わかるよ』
「でも、これってあたしの都合なだけで、美作さんには迷惑かもしれないよね?」
『どういうこと?』
「さっき、メールがきたの。『今日、行くよ』って。今日って書いてあった」
『それが?』
「もしかして、仕事してからかもしれないよね」
『へ?』
「だって美作さん、仕事でフランスにいたんだもんね。帰ってきたんだから会社に報告とか、こっちに残した仕事の処理とか……。それだけじゃなくて、そもそもこんな押しつけがましくあたしが空港にいたら――」
『牧野、ちょっと落ち着きなって』
興奮気味に急くように言葉を紡ぐつくしの耳元で、類が少し強めの口調で話を遮った。
思わず口を噤むと、類がふっと小さく笑ったのがわかった。
『いろいろ難しく考えすぎだよ』
「……そう、かな」
『うん。牧野らしいけどね』
「……あたし、どうすればいいのかな」
『大丈夫。何も心配しないで、今そうやって考えてることも、そのまま伝えたらいいよ』
「でもそんなことしたら、美作さん困らない? あたし、美作さんを困らせたくなんてないんだよ」
『あきらは困ったりしないよ』
「美作さんの重荷にだけは、絶対なりたくな――」
そこまで口にした時、見つめ続けた先――到着出口に、あきらの姿が見えた。
「あ……」
『……牧野?』
「……」
『もしかして、あきらが出てきた?』
「……うん」
小さく肯定するのが精一杯。つくしのすべてが、あきらの姿に釘付けとなる。
姿を現したあきらは、真剣な面持ちで何かを探すようにキョロキョロと周囲を見渡して、やがて――。
――あ……。
彷徨っていたその視線が、つくしの姿を捉えた。
その瞬間、二人の時が止まった。
五秒、十秒――時間はわからない。
吸い寄せられるように見つめる先。
あきらが柔らかに目を細めて。その口元が小さく動いた。
マキノ――。