その小花は葵色だった
COLORFUL LOVE
 「梅雨寒」という言葉がある。普段あまり意識しないが、きっと今日みたいなことを言うのだろうと思われる、ある日の夕方。
 つくしは美作邸の、いつもの客室に居た。一人で。
 もちろん、勝手に来たわけではない。連れてこられたのだ。この邸の住人である、美作あきらに。
 ただそのあきらは、ほんの数分前に「それに着替えてベッドに入ってろよ」とだけ言い置いて姿を消した。それ、とはベッドの上に置かれた、一組のナイトウェアのこと。つくしがこの邸に泊まる時、いつも使わせてもらっているおなじみの物だった。

 なんてことはない。慣れた光景、ありふれたシチュエーションだ。
 けれど。
 今ここに立つつくしの胸中は、いつもとはまったく違っていた。


「……」

 しんと静まり返った部屋。
 窓の外はまだほんのり明るい。けれどそれが余計に室内の闇を間近に感じさせる。

「はああ……」

 気分はズシリと重たく、深いため息がこぼれた。
 そんな気分だからだろうか、空気さえも重苦しく思える。

「はああ……」

 もう一度大きくため息を吐き、つくしはノロノロとナイトウェアに手を伸ばした。とにかく、言われたとおりに着替えよう、と。
 なんだかすべてが億劫だと思いながら、つくしはブラウスのボタンに指をかける。ひとつ、またひとつと外すたび、どんどん気持ちが落ち込んでいくのを感じた。

 ――どうしてこんなことになったかな。

 思えば何度でもため息が零れる。
 ただ、つくしは、その原因をちゃんとわかっていた。その原因は、つくしをここへ連れてきた張本人、美作あきら――いや、元を辿れば、つくし自身だということを。



 *



 始まりは、大学。
 いつものカフェテリア。いつもの高級ソファ。

「へー。……それで?」
「それだけ」
「それだけ?」
「だから言っただろ。面白い話でもなんでもないって」

 目の前で繰り広げられる総二郎とあきらの会話を聞くともなしに耳に入れながら、つくしはフカフカの高級ソファに、いつも類がするように寝ころんでいた。
 二人の向こうには大きな窓があって、空が見えた。
 朝から降っていた雨が止んだのは一体いつだっただろう。窓の外に見える空は、記憶の中よりもずっと明るい色をしていた。

 ――なんか疲れたなあ。

 今日予定していた講義は、今から三十分程前にすべて終えた。
 朝からびっしりと講義を受け続けたからか、つくしはすっかり疲れ果てていて、休憩してから帰ろうとここへやってきた。そこには総二郎とあきらがいて、何やら楽し気に談笑していた。
 いつも座る場所に座り、いつも飲む紅茶を飲んだ。
 いつもと何ら変わらない日常。飲み終えた後、ソファにゴロンと身体を横たえてしまったのは、滅多にやらない行為だったが。
 総二郎に「おまえは類か」と呆れられて、「えー。だって気持ちいいんだもん。なんか疲れちゃったし」と答えたところまでは覚えている。
 それからぼんやりと窓の外を眺めていて……つくしの記憶はそこで途切れた。
 次に気付いたら、窓の外が記憶よりも暗くなっていた。相変わらず目の前の二人は他愛もない会話を繰り広げていたが、つくしの身体には覚えのない何か温かに感じるものが掛けられていて、僅かに身じろいだら、ほのかに甘い香りを感じた。

 ――美作さんの、香水……?

 ドキリとして、目の前のあきらをよくよく見れば、たしかに先程までとは違う、淡い小花を散らせたシャツ姿。
 そこでようやく、つくしは理解した。いつの間にか眠ってしまっていたことを。そんなつくしに、あきらが自分の着ていたジャケットを掛けてくれたことを。

 ――えー、あたしってば。

 ほんの少し混乱する頭で、きっと乱れてしまっているだろう髪を手で撫でつけながら、もぞりと起き上がったつくしに、気付いた二人が声をかけた。

「お、起きた。大丈夫か?」
「おはよう。類二号」
「類二号って……何よそれ」
「こんなところでグースカ眠れるやつの総称。無防備にもホドがあるな、つくしちゃん」
「うるさいな。ちょっと寝ころんでみただけで、眠るつもりなんてなかったの」

 抗議してみるが、強く言えないのはその通りすぎるから。たしかに無防備すぎた。つくしは心の中で反省する。

「牧野、寝不足なのか?」
「うーん。そんなことないはずなんだけどなあ。あたし、どれくらい寝てた?」
「三十分くらいかな」
「そんなに?」
「あまりにもだらしない顔で寝てるからヨダレ垂らすかと思って見てたんだけど」
「え!」

 思わず口元を拭ったつくしだが「残念ながら垂れなかった」と、総二郎はケラケラ笑う。

「いつか仕返しするから覚えておいてよ。……あ、美作さん。これ、ありがとう」

 笑う総二郎をひと睨みして、つくしはジャケットをあきらに差し出した。

「さすがと言うか当然と言うか、これ、触り心地いいね。それに、すっごく温かい」
「寒ければ羽織っててもいいぞ」
「ううん、平気。もう帰ることにする」

 その言葉に、総二郎が「こんなところで寝るならその方がいいな」と頷き、あきらはジャケットを受け取りながら「じゃあ送るよ」と微笑んだ。

「え、いいよ。西門さんとゆっくりしてて」
「あー、俺もこれから野暮用があるから、そろそろ出る」
「だってさ」
「相変わらずね、西門さんは」
「悪いか?」
「いいえ」
「てことだから、送っていくよ、牧野」

 こうなってしまえば、もうつくしには断る理由がない。素直に「うん」と頷いて席を立った。

 こんな流れも、ここ最近ではすっかりおなじみ。
 いつも通りの、心地良い時間だった。


 カフェテリアを出ると、雨と土の匂いがした。
 雨がすっかり止んでいることは窓から見て知っていたが、それでも空気は水分を含んでしっとりと湿り、地面はまだ濡れていた。
 校門付近で総二郎と別れ、つくしはあきらに連れられるまま駐車場へと歩く。
 規則的に並んだ街灯が灯り、少しずつ降りてくる夕闇に光を広げようとしていた。

「なんか最近、いつも送ってもらってるよね。ごめんね、甘えちゃって」
「そんなの構わないよ」
「いつも助かってます。ありがとう」
「うん」

 いつも通り――いや、いつもよりどこか淡白な会話だな、と思った。けれどじっくり考えるよりも前に見慣れたあきらの車に辿り着き、つくしはいつも通り助手席へと乗り込んだ。
 シートベルトを締めて、それを確認したあきらが車を静かに発進させる。――それがお決まりのパターンだった。けれど今日は、いつまでも車が動かなかった。不思議に思って運転席のあきらを見ると、そのあきらはつくしを探るようにじっと見ていて、そして言った。

「牧野、おまえ具合悪いだろ」
「……え?」
「いつもと違う、よな?」
「……」

 思いもよらぬ言葉に、つくしは首を傾げた。

 ――そう、かな?

 たしかに。
 今日は朝から、それこそ起きた瞬間からやけに疲れていた気がする。身体が重いというか、頭がぼんやりとするというか。昨日遅くまで起きていたとか、そんなわけでもないのに。
 それから、いつものような食欲がなかった気もする。お昼にカフェテリアで食べたサンドイッチはとても美味しかったのに、二切れも残してしまった。一緒に頼んだオニオンスープが多すぎたからだ、とそれ以上深くは考えていなかったが。
 そして、ひたすら顔が火照っている。自分の掌が冷たくて気持ちいい、と思うくらいには。
 さらに、ちょっと肌寒くも感じている。朝から雨が降っていて少し気温が低いのだろうと、それなのに薄いブラウス一枚で家を出てしまったからだろうと思っていたのだが、それで片付けるべきではなかったのかもしれない。
 今日も今日とていつも通りの一日だが、たしかに、つくし自身はいつも通りではなかったかもしれない。とこの時初めて思った。
 つまりそれは――。

「そっか。これってあたし、具合が悪いんだ」

 思わず呟くように言葉を吐き出したつくし。
 あきらはそんなつくしの様子に、「おまえなあ……」と盛大に溜め息をついた。

「ちょっとは気づけよ」
「え、だって」
「今日は、バイトないよな?」
「バイト? ないけど」
「なら、このまま俺の家に連れていくから」
「え、なんで?」
「この状態の牧野をアパートに送り届ける気になれない。うちで休め」
「いいよ。そんな迷惑かけられ――」
「いいから」

 つくしの言葉は途中で遮られた。いつもよりずっと強い、キッパリとしたあきらの一言によって。
 いやだけど、と再び口を開きかけたつくしの耳に、「ったく、もう」と、溜め息交じりの小さな声が聞こえた。
 心臓がドクリとなって、思わず口を噤む。
 と同時に、あきらは車を発進させた。いつもよりことさら静かに。いつもより、不機嫌そうな横顔で。


 大学を出てから美作邸に着くまで、つくし達はまともに言葉を交わさなかった。
 そんなことは、初めてだった。

 車中。つくしは、アパートに――自分の家に帰りたいと何度も思った。
 たしかに体調は万全ではないかもしれない。けれどそれは自覚なくここまで過ごせてしまった程度の違和感で。こんなことで迷惑などかけたくなかった。だから、大丈夫だと、心配しすぎだと訴えたかった。
 けれど、出来なかった。話しかけようと運転席を見ても、あきらの横顔に柔らかさが無かったから。何かに怒っている――そんなふうに見えたから。
 いつもなら、見惚れるくらい柔らかな横顔で運転してるのに。
 いつもなら、つくしの視線にすぐに気付いて「どうした?」と優しく訊いてくれるのに。

 その一方で、あきらの運転はその横顔とは裏腹にどこまでも穏やかだった。
 アクセルもブレーキも、ハンドルを切る時も、何一つ負担を感じなかった。普段からそんな運転をしている人だが、今日はことさら慎重で、静かに思えた。
 一つ目の信号で止まった時、後部座席に投げ出されていたジャケットをポスンと膝に乗せられた。
 寒さを感じて無意識のうちに腕をさすっていたつくしを気遣ってくれたのはすぐにわかった。「掛けてろよ」とジャケットと共に短い言葉が降ってきて、一瞬合った目に心配の色が滲んでいたから。
 ありがと、と喉まで出かかって。でも言えなかった。膝に置かれたそれを肩まで引き上げて、言おうと顔を上げた時にはもう、あきらはつくしを見ていなかったから。
 いつもなら、きちんと掛けるのを見届けてから前を向くのに。
 いつもなら、もう一度目が合うのに。絶対、合うのに。

 その時、はっきり自覚した。
 あきらは、機嫌が悪い。そしてその原因は、つくし自身だ、と。
 あきらにこんな不機嫌そうな横顔をさせているのは、つくしだ。あきらは、つくしに呆れていて、怒ってさえいるのだ。あまりにも鈍感で、迷惑ばかりかけるつくしに。

 静まり返る車中の空気が重かった。話しかけるどころか、息すらもしにくい感じがして、喉が詰まって胸が痞えて、ドクンドクンと心臓の鼓動だけがやけにうるさく感じた。
 この空間から抜け出したい。アパートでも美作邸でもどこでもいい。とにかく早く外に出たい。
 そんなことを思いながら、つくしはただ俯いているしか出来なかった。

 けれど結局、美作邸に着いたからといって、息がしやすくなるわけでも、空気が軽くなるわけでもなかった。
 車から降りても、あきらの表情は硬いまま。話しかける隙も見つけられず、だからと言って今さら帰ることも、逃げ出すことも出来ない。
 どうしていいかわからなくて、だんだん頭がぼーっとしてきて、モヤモヤして、ひたすらモヤモヤして。
 邸の廊下を歩いてこの部屋まで来る間も、つくしはただ黙って、自分の前を歩くあきらの背中を見つめ続けることしか出来なかった。


 *


 どうにか着替え終えてベッドに腰を下ろし、ベッドサイドに置かれたフロアランプを灯す。
 闇に光が広がって、外の明るさを見失う。
 カーテンを閉めるべきだったか、と今ここではどうでもよさそうな考えが頭を過ったが、もうつくしは再び立つのも嫌なくらい疲れていた。
 
「はああ……」

 ため息が出る。何度も。何度も。

 ――なんでこんなことになっちゃったんだろ。

 そんな言葉ばかりが頭の中を行き来する。何度も。何度も。
 何度も溜め息をついて、何度も思って。
 何もかもが面倒に思えて、つくしはもぞもぞとベッドに潜り込んだ。

 ――もういいや。考えるのやめよ。

 半ば投げやりな気持ちで、ふかふかのベッドに身を沈めた。

「……あ、れ。」

 横になった途端に、先程まで感じていたどうにもならない身体の重だるさみたいなものが軽減した。
 そこでようやく、つくしは気付いた。
 たしかに自分は、体調不良なのかもしれない。と。
 
「……」

 気分が重かった。車中で見たあきらの横顔が、いつもみたいに優しく柔らかくなかったから。
 空気が重かった。あきらから、いつもの話しかけやすい雰囲気が感じられなかったから。
 美作さんの表情が。美作さんの声が。美作さんが。美作さんが。――つくしはずっとそんなふうに、いつもと違うのはあきらのせい、と思っていた。

 ――なんだ。それだけじゃなかったんだ……。

「……あー、あたしってほんと、ダメだなあ」

 深いため息と共に、独り言がスルリと零れ落ちた。
 それと共に、胸の奥底に眠らせている気持ちが、ゆっくりと浮かび上がってきた。

 ほんの数週間前だった。
 あきらの顔を見た時、あきらのことを思う時、他の誰とも違う感情が湧くことに気付いたのは。 
 司と別れて以降、一番近くで支えてくれたのはあきらだった。穏やかで優しくて、さりげなく傍にいてくれるあきらは、つくしにとって頼れる存在だった。
 だから、他の誰とも違う、ほんの少し特別だと思える感情が湧くのは、極々当たり前のことだった。
 けれどこの感情は、つくしにとっては少しだけ厄介なものだった。
 心が揺れてしまうのだ。あきらを見るたびに。
 ただ静かに、今まで通り平穏な状態でいたいのに。ただ楽しいと、今まで通り心を弾ませていたいのに。
 それなのに、なかなかそうはいかないことが増えていた。
 あきらの笑顔を見ると、胸が高鳴る。
 あきらの声を聞くと、胸がざわつく。
 そしてまた、今日。そこに特別なモノが増えてしまった。
 あきらが笑ってくれないと、胸が苦しくなる。
 そのことに、気づいてしまった。
 つくしの中で、あきらがどんどん普通の友人でなくなる。親友という枠にさえ収まらなくなる。つくしの中で、あきらがどんどん特別になる。
 覚えのあるこの胸の痛み。
 これはきっと。この先にはきっと。

 ――どうしよう、美作さん……。



 
 と、その時。
 ドアがカチャリと静かな音を立てて開き、あきらが姿を見せた。
 思わず起き上がったつくしに、「お、えらい。ちゃんとベッドに入ってた」と静かに近づいてきたあきらの手にはマグカップが二つ乗ったトレイ。それをベッドサイドのテーブルに置くと、部屋の隅にあった椅子を引き寄せて座った。
 ベッドの上のつくしと、その横で椅子に座るあきら。
 フロアランプのほんわりとした灯りの中、二人の目が、今日ここへ来て初めて、しっかりと合った。

「大丈夫か?」
「あ、うん」

 そっか。と小さく頷いたあきらの目は、優しかった。
 ただそれだけのことにホッとして、でも胸の奥がきゅうっとして、つくしは思わず口を開く。

「……あの、美作さん」
「ん?」
「あの……、えっと……」

 何かを言おうとしたわけではなかった。ただ黙っていられなかっただけ。胸中をざわざわと波立たせたつくしにはそこから先の言葉が浮かばず、結局口ごもって俯いた。
 その視界に、マグカップが差し出された。

「え……」

 思わず受け取ったカップには、白い液体。ほんのりと甘い香りがする。

「これ、牛乳?」
「そう。ホットミルク。 体調不良の時はこれが一番。絵夢と芽夢が好きなんだよ、これ」
「……だから、きっとあたしも好き、てこと?」
「そう」

 ちなみに俺も好き。と言いながら、あきらは、もう一つのマグカップを持ち上げ口に運ぶ。
 つくしもならって一口飲むと、ふわんと優しい甘さが口の中に広がった。

「あ……美味しい」
「だろ?」

 砂糖が入っているのだろうか、程よい甘さがあって、さらに温度もちょうどよくて、コクリと飲むたび心が緩む気がした。
 しんと静まり返る部屋の中。ベッドサイドのフロアランプの淡い光だけが浮かび上がらせる空間。聞こえるのはホットミルクを飲む二人の、ほんのわずかな動作音。
 つくしがいて。あきらがいて。ただそれだけ。話すでも笑い合うでもなく。ただ二人でホットミルクを飲んでいるだけなのに、先程とは比べ物にならないくらい、部屋の空気が柔らかくて、軽かった。

「牧野、ごめんな」

 あきらの声が、小さく静かに響いた。
 思わず顔を上げると、あきらがつくしを見ていた。ほんの少しバツの悪そうな表情を浮かべて。

「俺、感じ悪かったよな」
「……いつ?」
「車で。……それから、ここに着いてからも」
「……あー……うん。」
「なんか、自分に腹が立ってて」
「自分に? どういうこと?」

 意味が解らず訊き返すと、あきらは小さく息を吐き、視線を掌のカップへ落として話し出した。

「朝からなんかおかしいと思ってたんだ。ポワンとしてるというか、ぼんやりしてるというか。昼も残してたし。でも元気だったから、寝不足なのかなとか、疲れてるだけなのかなとか、そんな日もあるか、とか、それくらいで片付けてた。でも、カフェテリアで寝始めたからさ。そこでハッとした。朝から具合が悪かったんじゃないかって」
「……」
「牧野は自分の不調を人に見せるのを好まないからさ。周りに余計な心配かけることも嫌がるだろ。だから、二人になってから言ったんだけど……おまえ、全く気付いてないんだもん」

 マジかよって思ったよ。――言いながら、あきらが笑った。ああ、心配をかけてしまったんだ。と、つくしは申し訳ない気持ちになり、思わず「すみません」と呟く。
 あきらは小さく首を振り、笑いの残る声で続けて言った。

「正直、呆れた」
「ですよね」
「でもそれ以上に、そうだ牧野ってこういうやつだって思って。それを知ってたのに、いつまでも声をかけずにいた自分に腹が立った。とっとと言えばよかったのに。強引に連れ帰ればよかったのに。何をうだうだ様子見してたんだ俺は、って無性に腹が立って」
「……」
「で、あの態度」

 ごめんな。とあきらは言った。
 つくしはフルフルと首を振る。あきらが悪いことなど、あきらに謝られることなど、何もなかったから。

「美作さん、何も悪くないよ。あたしが鈍感なだけ。むしろ、ごめんね。あたしのせいで、余計な気遣いさせて、しかもこうして迷惑かけて」
「別に迷惑なんてかかってないよ」
「でも」
「こうしたかったからしてるだけ。牧野のためより、多分俺自身のため」
「美作さんの?」

 あきらは頷く。

「多分俺、心配性なんだよ」
「うん、知ってる」
「だから、なんとなくで放っておくってことが出来ない」
「それも知ってる」
「だから、牧野をここへ連れてきて、自分の目で経過観察しないと安心できなくて。牧野のためにもそのほうがいいとか、そういうことよりも、俺の心の安定のためなんだよ、きっと」

 でもそれは、結局はつくしのためなのだ。つくしからしてみたら、それ以外の何物でもない。それそのもの、一から十まですべて、つくしに対するあきらの気遣いで、あきらの優しさなのだから。
 胸の奥が、ほわりほわりと温かくなる。

「ありがとう、美作さん」
「……」
「感謝してる。本当に」

 たしかにつくしは落ち込んだ。
 あきらに笑顔がなかったから。無視はされていない、でも拒絶されてるような空気を感じてしまったから。
 でもそれは、決してそうではなかった。嫌われたとか、見放されたとか、そういうことでもなかった。
 そうでないとわかったことが、つくしの心を軽くした。先程までとは比べ物にならないくらい、つくしの心は温かかった。温かくて穏やかで、むしろムズムズフワフワと浮き立った。

「ありがとう、ね」

 もう一度言うと、目の前のあきらがふわりと笑った。

 ――やっぱり美作さんが笑顔でいてくれたら、それだけで嬉しいな。

 それだけで、つくしも心底癒されるのを感じて、自然と笑みが浮かんだ。
 そんなつくしの表情に、あきらもまた安堵して、ほっとしたように息を吐く。それから静かに立ち上がるとつくしの掌のカップを取り上げた。

「さ、とにかく横になって。体調不良は間違いないから」
「うん。さっき横になった時、自覚した」
「だろ? もうちょい前の段階で気付いてくれるといいんだけどな」
「鈍くてすみません」
「別にいいけど」

 俺が気づけばいいだけだから。と聞こえた気がした。
 それはあまりにも小さな声で、あきらが整えてくれる布団のカサカサとした音にかき消されて、つくしの耳にははっきりと届かなかった。

「え、今なんか言った?」
「いんや。何も」
「嘘。なんか言ったよね?」
「言ってねーよ」
「えー、嘘。絶対何か言っ――」

 刹那、音もなく、あきらの手がつくしの額にあてがわれ、つくしは言葉を失った。

「少し熱ありそうだな」
「……」
「とにかくゆっくり寝て」
「……」
「もし熱が上がってくるようなら、薬もあるから」
「……」
「もう見過ごさないから、安心しろ」

 ――優しすぎだよ、美作さん。

 あきらの笑顔を欲していたのに。優しいあきらを求めていたのに。
 いざそうなると、それはそれで落ち着かない。
 心はなんてわがままなのかと、呆れるほどに。
 ドキドキと、どこまでも高まってしまいそうな鼓動に、落ち着け落ち着けと念じながら、つくしは額に乗せられたままのあきらの手のひらを感じる。
  顔が熱い。心が熱い。違う意味で、熱が出そうだ。その少し冷たい、でも優しい温もりに、涙まで。

 つくしは視界に入るあきらのシャツの袖をじっと見つめた。
 昂る気持ちを静めたくて。今この瞬間を閉じ込めたくて。
 ただじっと、じっと見つめた。
 視界に広がるのは、淡く優しいたくさんの小さな花。
 その小花は、葵色だった。

Fin.
After Word ―聞き分けのない恋心が揺れる
2020.11.23 その小花は葵色だった
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