間もなくエレベーターは役員フロアに着いた。降り立ったすぐ脇には警備員室、そして真正面に受付が見えた。
たしかにこれでは、まるきり無視して通り抜けるというわけにはいかないな、と思った。
私達の姿を視界に捉えるとすぐに揃って立ち上がり、スッと頭を下げた二人の女性社員は、下の受付嬢よりもさらに美人で、よくもまあこんな美人を見つけてきたもんだと、もはや驚きを通り越して感心してしまった。
松本さんが「専務室にお通ししますから」と言い放ち、立ち止まることなく前を通り過ぎる。つくしも私も一礼してその後に続いた。やっぱり興味深けな視線を投げられていたと思う。下の受付ほど露骨ではないところにスキルの差を感じたけれど、それでもやっぱり向けられた視線の種類は似たようなものだ。振り返ってまで見る勇気はなかったが、きっと後ろ姿もずっと見られているんだろうなと、そんな予感がした。
そしてようやく、専務執務室――通称、専務室へと辿り着いた。
ガチャリとドアを開けてくれた松本さんが、「どうぞ」と私達を室内へと導いてくれる。
「失礼します……わっ……」
「失礼しまーす……わああ……」
私とつくしは、二人揃って似たような声を発した。それ以外、すぐには言葉が見つからなかったのだ。驚きで。
中へ入ってまず、その広さと綺麗さに驚いた。
入るとすぐに存在感たっぷりの観葉植物。鉢のデザインがものすごくお洒落でセンスがいい。
部屋の真ん中の応接セットは、磨りガラスのセンターテーブルと優しい色合いの革のソファで、かなりのスペースを取っているはずなのに重くなりすぎず実にさりげない。
その奥、窓に近いところには、大きな執務デスク。真っ白でとても綺麗。真四角ではなくちょっと変わった形のようだ。そこにパソコン、モニターが二台、プリンターに電話、それから書類が山のように置いてあるけれど、雑然とした感じではなくきちんと整理されている。これは美作専務の性格ゆえかもしれない。けれど性格云々を差し引いても、このデスクの大きさが重要な気がした。
壁際には書類や書籍が並んだ大きな大きな本棚。その隣の凝った飾り細工が施されたガラス扉のキャビネットには様々なデザインのティーカップと、紅茶だろうか、茶葉が入ったガラスポットがずらりと並んでいた。インテリアかと思う程綺麗に並んでいるけれど、その近くにコーヒーメーカーやティ―サーバーがあるから、実際に使っているものらしい。
他にもコートハンガーやロッカー的なものがあるのだが、とにかく全体が良くまとまっていてとてもとてもお洒落なのだ。
ソファを勧められたにも関わらず、私もつくしも、部屋の真ん中に突っ立ったまま、キョロキョロと室内を見渡し続けてしまった。目に映るものひとつずつに、わーきゃー言いながら。
そして一通り眺め終えて、私は今日一番深いだろう感嘆の息を吐いた。
「素敵ねえ、この執務室。何もかもお洒落で……なんか、センスいいなあってつくづく感心しちゃう」
「ホントね。こんなお洒落なオフィス初めて」
言いながらも尚キョロキョロと見渡す私とつくしに、松本さんはクスリと笑った。
「ここへ初めて来られる方は、皆さん必ずそうおっしゃいますよ」
「ですよね。絶対言いますよ、これなら」
言いながらソファに座ると、これまた座り心地が良くて更に驚いた。一体このソファはいくらなのだろうとまたしても下世話なことを思ってしまう自分が情けない。でも、もはや情けなくても何でもいい。世界が違うのだ、世界が。
「役員執務室は全部こんな感じなんですか?」
つくしの問いかけに松本さんは首を横に振った。
「いいえ。いろいろですね。役員執務室は、その部屋を使う役員がレイアウトすることになっているんです」
「じゃあ、人が変わるたびに全てのものが変わるんですか?」
「簡単に言えばそういうことです。それまであった物はその執務室を使っていた人間が次に使う部屋に持って行ったり新しくしたり。不要になったものは社内でも子会社でも要望があるところに渡っていきます。もちろん、新しく役員になれば全て一から揃えることになりますね」
「へええ……すごいなあ。ね、つくし。すごいよね?」
「うん。すごい。……でもなんだかとっても贅沢な感じがするけど」
つくしは僅かに眉を寄せて肩を竦めた。
それはいかにもつくしらしい意見だったし、一般常識的にはその通りだろう。けれど、別に一般常識にすべてを当てはめることもないので、「いいじゃない。それだけのことをしても大丈夫な会社なんだから」と言おうと口を開きかけたのだが、それよりも一瞬早く松本さんが口を開いた。
「やっぱりそう思われましたね」
その言葉は、どういうわけか、とても嬉しそうな響きを持っていた。
――なんでそんなに嬉しそうなの?
思ったところで、入口の扉がガチャリと開いた。「失礼いたします」と入ってきたのは、先程受付に座っていた美人社員――名前を知らないからそう呼ぶことにする。ちなみにスタイルも抜群――。手にはティーカップの乗ったトレイを持っている。
未だ立ったままだったつくしは、それを見て慌ててソファに座った。それを見届けて松本さんも座り、そして私達の前にお茶が運ばれた。紅茶のとても良い香りが漂い、執務室に入って昂っていた気持ちが自然と落ち着く気がした。
美人社員――観察結果その一、ティーカップを置くその指先は整えられた爪にピンクベージュのマニキュア。その二、香水は上品な花の香り。ほのかに香るいい塩梅。その三、近づいたその横顔はメイクも完璧。ふんわりと巻かれた髪も艶々美しい。見れば見るほど美人だなあと更に感心――が部屋を出て行き三人になり、「どうぞ」と進められるまま紅茶を口にする。
つくしは「美味しい」とほんわり笑った。たしかに美味しい。私もすっごく美味しいと思う。けれど私にはそれより気になることがあった。
「あの松本さん、『やっぱりそう思われましたね』って、なんですか?」
しかもどうしてそんなに嬉しそうなのよ、ということはあえて口にしない。けれどきっとデカデカと顔に書かれていることだろう。松本さんは笑みを湛えた顔で私を見て小さく頷き、それからつくしを見た。
「専務のフォローというわけではありませんが、一応言い訳しますと、ただ贅沢しているわけではないんです。ここにある家具や備品はすべてうちで取り扱っている商品です。それから、取り扱い検討中だったものを実際に使用して取り扱いを始めたものもあります」
「あー、つまりは商品モニター的なことを兼ねているんですね」
松本さんは頷き、「社内中がそういう状態です」と言葉を重ねた。
「専務には特にその要望が多くて、選ぶ際に随分苦労されていました」
「美作専務お墨付き、がほしいんですかね」
「おそらく、そういうことですね」
「そうなんですか。……すみません、あたし何も知らなくて」
「いえ。いいんですよ。どんな備品もこちらの望む声が先ですから、贅沢してることに変わりはないと思います。必要最低限……ではないですもんね、どう見ても」
室内をぐるりと見渡した松本さんは、「それでもここはかなり最低限に近いと思いますよ。そしてセンスは全役員の中でも抜群にいいですね」と目を細めていった。
他の部屋を見たわけではないが、それは確実だろう。そしてただ高級品を集めただけではなく、しっかり美作専務らしさが出ている気がする。専務が居なくても、専務を感じられる……と言っても多分大袈裟じゃない。
「それと、専務が一番気にされていたのは、牧野様の反応でしたよ」
「あたしの?」
意外だと言わんばかりの声を上げて自分を指差したつくしに、松本さんは嬉しそうに満面の笑みで頷いた。
「レイアウトの終えた部屋を見て一番最初におっしゃったのが、『牧野が見たら、お金持ちのやることってやっぱり理解出来ない、って呆れた顔するだろうな』でした」
「……」
「上司に対してこんなふうに言うのは失礼かもしれませんが、その瞬間ばかりはちょっと可愛く思えました。牧野様と知り合ってなければ、きっとそんな考えはされなかったでしょうし、ここまで影響力のある牧野様はすごいなあと……その時点ではまだお会いしたことのなかった牧野様に興味が湧いて、会える日が楽しみで仕方ありませんでした」
優しく目を細める松本さんに、つくしは照れたように笑って頬にかかる髪を弄った。
「なんだかとっても恥ずかしいです。……すみません」
「いえいえ」
それは何気ない会話だったかもしれない。けれど私には、とても重要なことに思えた。私の中で小さく渦巻いていた感情が徐々に静まり穏やかになっていくのを感じる。
そして、松本さんが腕時計を見ながら、「おっと」と声を発した。
「このままここでお話していたいのですが、まだ仕事が残っていまして」
「あ、すみません。そうですよね。お忙しいのに時間取らせてしまって――」
「いえ、とんでもありません。廊下を挟んだ向かい側が秘書室です。私はそこに居ますので、何かありましたら携帯電話を鳴らしてください。番号は……?」
「わかります。大丈夫です」
「では、よろしくお願いします」
松本さんはソファを立つと一礼して、「部屋の中は自由に見て下さってかまいませんから」と言い残して部屋を出て行った。パタンと扉が閉じると同時に、私はふうっと息を吐いてソファを立ち、もう一度ぐるりと室内を見渡した。
「本当に良い執務室ね。居心地は抜群に良いし仕事もしやすそう」
「うん、そうだね」
私は本棚を眺めながら窓辺へと歩いて行った。
窓の外には東京の夜景が見える。ぼんやり眺めていると、すぐ隣で「綺麗ね」とつくしの声がした。うんと頷いて、私は窓の外を見つめたままつくしに問う。
「どう? 緊張は解けた?」
「うーん……来た時よりは随分マシになった」
「すっかりリラックス、ではないのね」
「うーん……まだ美作さんの顔見てないから、かな」
「でも後はここで待つだけでしょう?」
「そうだけど。でも、誰が入ってくるとも限らないでしょう?」
「誰が入ってくるのよ」
「わかんないけど、ここへ来る間ずいぶん興味深げに見られてたから、突然誰かが入ってきて『貴方達は一体?』ってことになる可能性はゼロじゃないかなって……」
その言葉に初めて私はつくしを見た。
「つくし、気付いてたの? 何も言わないし表情にも出さないから、気付いてないのかと思ってた」
驚きを含んだ私の言葉につくしはクスリと笑い、「あれだけ見られたら気付くよ」と言った。
「でも仕方ないかなって思って」
「仕方ない?」
「どう考えてもちょっと変わった訪問者だろうし、行き先は役員フロアだし。このフロアの受付の人達なんてここにいることを知ってるわけだから、その気持ちは更に強いだろうし」
「まあね。……でも、ちょっと嫌じゃない? 気になるっていうかさ」
「そりゃあね。でも、ほんのちょっと慣れてる部分はあるのかも。ああいう視線には昔から嫌ってほど晒されてるから。心底嫌だと思ったことももちろんあるし、今だってあるんだけど、でも仕方ないって思える自分も存在するようになったっていうか……うん」
美作専務の隣にいるということは、そういう視線と常に向き合うということ。つくしは、私が想像するよりもずっとずっといろんなものを越えてきているんだと、その時改めて知った。
そしてふと、訊いてみたいことが湧いてきた。
「じゃあもし……もし誰かが来て、『貴方達は一体?』って訊いて来たらどうする?」
「うーん。わかんない。口ごもっちゃうかも」
「美作専務の恋人です、とか、婚約者です、とか」
「えー、それはきっと言えないと思う。友人ですって言っちゃうかな」
「あはは。友人ね。なるほど」
好奇の視線は何気なく交わせるけれど、直接訊かれたら友人と答えてしまうかもしれない、そのアンバランスさがいかにもつくしらしい気がした。
「でもそれって、美作専務が聞いたら悲しむわね」
「そうかな」
「そうよ」
「……でもどう答えたらいいのかわからないのよね。どう答えたら美作さんに迷惑がかからないのか……そういうのがいつもわからなくて」
つくしのアンバランスさは、自信の無さから来るものではない。相手への思いやりからくるものだ。それがわかるから余計に、つくしらしいし可愛いなあと思う。
つくしはじっと窓の外を見つめていた。私も同じように窓の外を見つめる。
やがてつくしがぽつりと呟いた。
「この景色のことか……」
それはきっと心の中にだけ響くはずの独り言だったのだと思う。けれどあまりにも優しい横顔だったから、私は思わず訊いてしまった。
「何が、この景色?」
「え? ……ああ、また声に出してた?」
うん、と頷くとつくしは照れ笑いを浮かべた。
そして窓の外を見つめて話し出した。