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硝子の靴
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of MIHO)
5
 *


 今もつくしの指には指輪が光り輝いている。何気なく歩いているだけのつくしなのに、いつもと変わらないつくしなのに、その指輪があるだけで、やけに綺麗に見える気がする。
 彼女の幸せを知ってるから余計なのかもしれないけれど。
 ――でも、それだけじゃないのかも。
 きっとつくしはその指輪があることで、いつも以上に美作専務に守られている。意識しなくてもそれを自然と感じるから、こんな柔らかな表情が出るのかもしれない。

「ねえ、つくし」
「ん?」
「やっぱりすごく似合ってるよ」

 つくしは一瞬考えて、それから視線を指輪に移した。じっと見つめ、その視線を私に向けると、にっこりと微笑んだ。

「……ありがとう」

 やっぱり恥ずかしそうで、それがとても可愛かった。


 電車を乗り継ぎ辿り着いた美作商事の本社ビルの前。その敷地に入る一歩手前でつくしと私は立ち止まり、ビルを見上げた。

「あー、とうとうここに入っちゃうのね。さすがに緊張するわね」
「あたし、ずーっと緊張してる」
「つくし、本当に初めてなの?」
「うん。あ、駐車場になら入ったことあるよ。美作さんが書類を取りに行って、あたしは車の中で待っていただけだけど」
「……今日が初めてで間違いなさそうね」
「うん」

 恋人の会社へ行くことが決まった時、つくしが無駄に緊張をしている気がしてならなかった私だが、相手が誰であるかを知った今、その緊張の意味を嫌という程理解していた。
 これから私達が足を踏み入れるのは美作本社。そして美作専務のプライベートオフィスだ。

「私、会社に行くなんて言ったって、建物の前かロビーで待ち合わせるんだろうくらいに思ってたのよ。いやー、まさかプライベートオフィスが与えられるほどの人とはね。……そりゃあ緊張で挙動不審になるわけよね」
「でしょ?」
「受付で門前払い、なんてことにはならないよね?」
「うん、多分。美作さんは会議中かもしれないから、秘書さんの名前を言うことになってる」
「そうなのね。ちなみに秘書さんの名前は?」
「松本さん」
「松本さんね。……よし、じゃあ行こう」
「え! ちょっと待ってよ。あたしまだ心の準備が」

 時間が経てば経つほど緊張が増す気がした私は、つくしの手を引き歩き出した。

「大丈夫。総合受付で松本さんの名前を言う。そしたら後はなるようになるんだから」
「……うん、そうだね。……そうだよね。うん」

 無駄に何度も頷いたつくしは口を真一文字に結び、今度こそ自分の意思で歩き出した。


「あの、牧野と申しますが、み、美作専務の秘書の松本さんと十七時半に約束をしていまして。……連絡を取っていただけますか?」

 つくしの声は僅かに震えていた気がする。隣にいる私も、緊張に思わず拳をぎゅっと握っていた。ただ話はスムーズに通ったようで、「こちらで少々お待ち下さい」と私達はロビーのふかふかのソファに案内された。実に座り心地は良かったけれど、今はそれに注視することも出来ず、つくしも私もソワソワと落ち着かない気持ちで周囲を見渡した。社内報でロビーの写真は見たことがあって、綺麗で広くて居心地良さそうだなあとその時も思ったのだが、実際に見るとそれは写真よりも更に良く思えた。

「綺麗だね、どこもかしこも」
「ホントね。しかも広い」
「うちの会社の受付ロビーも結構綺麗なほうかなあって思うけど、ここは別格ね」
「うん、言えてる」

 そしてつくしは「あ、そうだ」と呟いて携帯電話を取り出した。

「専務にメール?」
「うん。着いたって知らせたほうがいいかなって」

 言いながら指を忙しなく動かし、間もなく送信し終えたのか、ふうっと息を吐いた。けれどその息を吐き終えたか終えないうちに、すぐに「あっ」と焦ったように声を上げた。

「何? どうかした?」
「あー……会議中だったかもしれないって今更気付いた。全然気にせずにメール送っちゃった」

 泣きそうな顔で私を見るつくしに、私は思わずぷっと吹いた。

「つくし、心配し過ぎ。電話鳴らしたわけじゃないんだから大丈夫よ。仕事中だもん、マナーモードにしてるだろうし、別に誰にも迷惑かけないって」
「そ、そうかな」
「そうよ」
「そうかな……そうだよね」

 はああと溜め息を吐くつくしに、私はくすくすと笑いが止まらない。
 なんてなんて可愛い子なんだろう。同い年のつくしを掴まえてそんなセリフは失礼かもしれないけれど、そのサラサラの髪をわしゃと掻きまぜたい衝動に襲われるほど、可愛くて仕方なかった。
 何度も溜め息を吐き、「がんばれつくし」なんて独り言を呟いているつくしを眺めているうちに、私の緊張はすっかり和らいでいたようで、先程よりも周囲が良く見えてきた。
 総合受付は女性社員が三人。美人揃い。
 ロビーには幾つもソファセットがあって、それらは観葉植物などでさりげなく仕切られていたけれど、私達のように誰かを待っているのか座っている人が数人いることがわかった。当たり前だが、いずれもスーツ姿の「商談にきました」風の人ばかりで、私達のように――私達だって一応会社帰りなので、それなりの格好はしているはず――私用で訪れているらしき人は一人も見当たらない。
 おそらくこの後、担当者が現れて応接室に通されたり、この場でそのまま話をしたりするんだろう。やっぱりこれまた当たり前だが、私達のように重役の秘書がやってきて役員フロアの執務室に直行なんて人は、一人もいない。きっと間違いなく。
 それ故に、と言っていいのかはわからないが、どうも先程から受付嬢の視線を感じる。おそらく私達がこれから美作専務に会いに行く、なんてことは知らされていないだろうけれど、専務秘書を呼び出した時点で、相当興味を持たれているのは間違いないようだ。
 まあ、理解は出来る。私があちら側の人間だったとしても、興味を持つ――いや不審にさえ思うだろうから。
 ――あの中には、美作専務に特別な感情を持ってる人もいるかもしれないしね。
 多分誰にでも想像のつく、けれどこればかりは想像し始めたら誰もかれもがそう見えてしまう、そんなどうしようもない考えが浮かんでしまって、私は思わずふるふると頭を振った。こういう疑いの眼差しを注いでしまうような考えはあまりしないほうがいいのだ。フラットに見てこそ見えてくるものがあるのだから。
 ――にしても、あの一番左は怪しいわよね。
 思った傍から疑いの眼差しを向けてしまっている私。可笑しいやら呆れるやらで、そんな自分に苦笑した。

 その時、隣に座っていたつくしが、突然立ち上がった。
 視線を追うと、そこにはこちらに向かって歩いてくる長身の男性が一人。

「ねえつくし、松本さんって、あの人?」
「うん。そう」

 ――ああ……やっぱりあの人か。
 それは見覚えるのある人だった。
 つくしに倣って私も立ち上がる。つくしが「松本さん」と呼ぶ美作専務の秘書さんは、あっという間に私達の前に辿り着き一礼すると、にこやかな表情を浮かべた。

「おまたせして致しました」
「いえ、こちらこそお忙しいのにすみません。わざわざここまで降りてきていただいて……」
「とんでもありません。これは私に課せられた重要な任務です」
「公私混同しすぎですよね」
「いいえ、そのようなことはありませんよ。牧野様とのお約束は、専務のスケジュールに正式に組み込まれていますから」

 そう言って微笑んだ後、その視線を私へと移し、胸元からスッと名刺を取り出した。

「申し遅れました。松本と申します」
「こちらこそご挨拶が遅れました。木下です。木下美穂です」

 手渡された名刺には、「総務部秘書課」と肩書きがあって、隣からつくしが「松本さんは美作さんの専任秘書なんだよ」と教えてくれた。
 専任だからプライベートなことももちろん把握してるのかなあ、なんて、どうでもいいことをぼんやり思っていると、頭上から声がした。

「木下様とは、こうしてお話するのは初めてですが、何度かお会いしていますよね?」
「あ、はい」
「え、そうなの?」
「ああ、ほら。美作専務が来社した時とか、パーティー会場とか」
「……ああ。そっか。よく覚えてるね、美穂。松本さんもですけど」
「牧野様が仲良くされている方ですから、しっかり記憶していますよ」
「そうなんですか。知らなかった。……美穂は?」
「私はイイオトコは絶対に忘れない体質なの」
「何よ、その体質」

 つくしは「変なの」とコロコロと笑った。松本さんが現れたことで、つくしの緊張は随分解けたようだ。良かった、と思っているところに、再び松本さんの声が響く。

「受付には、名前をおっしゃられただけですか?」
「あ、はい。何か他にありましたか? すぐにここに案内されたので、名前以外は何も……」
「本来は会社名ですとか来社目的を書いていただくんです。ただ、牧野様はきっと困られるだろうと思いましたので、受付には私が行くまで待つように伝えておいたんです」
「そうだったんですね、すいません」
「いえ。ではちょっと受付に行ってきますので、もうしばらくお待ちくださいね」

 総合受付へと歩いていく松本さんの後ろ姿を見送りながら、私はつくしに囁いた。

「ねえ、松本さんって年齢は?」
「はっきりは知らないけど、たしか美作さんと十歳くらい違うって聞いた気がする」
「てことは三十五前後か。独身?」
「うん。独身。今は彼女もいないって言ってたよ」
「へえ……でも、その気になればいつでも彼女なんて出来そうよね。見るからにモテそうだもん」
「うん。モテると思う、きっと」

 長身、スマート、知的、大企業の専務秘書――条件的には揃い過ぎな程だ。顔だけの話をしたら完璧に整ったハンサムとは少し違うが、それは美作専務のようなとんでもないハンサムと比べたら、の話で、合コンなら一番人気を争えるくらいに整っている。クールな印象が漂う涼しげな目元が、笑うと一転優しげな雰囲気を醸し出して、そんなギャップにやられる女性は多いと思う。きっと相当出来る男に違いないのだが――なにせ専務秘書に抜擢されてるわけだし――、それを鼻にかけそうな雰囲気も皆無だし、何より自分自身を前面に押し出してこないところが実に良い。
 ――そういえば、先輩達が言ってたのって……松本さんだったのかな。
 パーティー会場で「ちょっと渋くてカッコいい人見つけた」と言っていたのは今朝のこと。
 美作の社員だと思うとは言っていたけれど、話も出来なかったし名前もわからないと言っていた。 その時は誰のことだかわからなかったし、なんとなく聞いていただけだったのだけれど、今にして思えば、あれは松本さんのことだったかもしれない。
 よくよく思い出してみれば、「前にどこかで見たことがあるのよね」的なことも言っていたような気がする。多分それは美作専務に同行して来社した時のことなのだろう。でもあの時は、みんながみんな美作専務を注視し過ぎで、松本さんにまで意識が行き届かなかったのだ。……というか、美作専務の華やかオーラが尋常じゃなくてどうしてもそちらに視線が釘付けにされてしまったし、松本さんは職業柄かその存在感を主張せず、空気と化すくらいさりげなくそこに居たのだから仕方がない。
 ただ私は、たまたま廊下に松本さんが一人でいるところを見かけて、おかげでやけに印象に残っていた。そしてパーティー会場で美作専務に何やら話しかけているのを見かけて、秘書さんなのか、とぼんやり思ったのだ。
 ――単独で会ったら目を惹くハンサム。お仕えする専務と居る時はさりげない存在。……出来過ぎなくらいのイイオトコね。
 観察を終えてすっかり満足した頃――何とも行儀の悪い趣味でごめんなさい。心の中で謝ります――、受付から松本さんが戻ってきた。
 では行きましょう、と促されて、私とつくしは松本さんの後に続いた。こちらを見ていた受付譲達にペコンとつくしが頭を下げて、向こうもそれに応えるように小さく頭を下げる。つくしはそのまま歩き出してしまったけれど、私は見逃さなかった。彼女達はその後も興味深けにじーっと私達を見つめ続けて、それから顔を見合わせていた。
 エレベーターに乗り込み三人だけの空間になったことを確認して、私は松本さんに訊いた。

「あの、受付にはどう記載していただいたんですか?」
「はい。今回は、会社名をそのまま記載しました」
「ロサードですか?」
「そうです。子会社ですし、一番自然ですから。来社目的は私との事業打ち合わせにしています。通常、お客様との打ち合わせなどは二階にある応接室で行うのですが、役員フロアには別の応接室がありまして、私等はそちらで打ち合わせをすることが多いので何の問題もありません。役員フロアに入ってしまえば、そこから先のことは総合受付にはわかりませんから」

 たしかに不自然な点など微塵もない。それでも受付譲達はこれっぽっちも興味を削がれてなどいなかった。むしろ益々興味深げにこちらを見ていた。やっぱり私達そのものが物珍しく映っているのだろう。
 ――それも当たり前といえば当たり前なんだけど。でも。
 私がここへ来ることはもうこの先ないかもしれないが、つくしはきっと違う。その度にああした視線を浴びて、いずれ全てが公になって更に多くの視線を浴びて……漠然とではあるけれど、精神的に大変なことが多いだろうなあと、今私の隣でぼんやり前を向いているつくしのことがなんだかとても心配になった。
 そんな私の心が読まれたのだろうか。松本さんが口を開いた。

「後で詳しく説明いたしますが、牧野様には専用の入館証を用意させていただきます。それがあれば、総合受付に寄らずに済みますので、面倒がなくなると思います」
「そんなこと出来るんですか?」
「もちろんです。ただ役員フロアには専用受付があります。専務が近いうちに事情を説明するとのことですが、それまでは行き先を告げていただくことになると思います。私を呼んでいただいてもかまいませんし、専務の名前を告げてそのまま専務室に入ってもらってもかまいません。いずれにせよ、それも数回だけかと……」
「それって、顔パスってことですか?」
「顔パス? あたしが?」
「そうですね。そうなると思います」
「えー……大丈夫なのかなあ。というかそもそも顔パスになるほど来るのかな」

 つくしは困ったように苦笑して、それを見ていた松本さんが、本当にさりげなく、けれど温かな声で言い添えた。

「ええ、きっと顔パスになる程いらっしゃいますよ。これから忙しくなりますから」
「え、あたしがですか?」
「はい。遅くなりましたが、おめでとうございます。よくお似合いですよ」

 つくしは一瞬きょとんとして、それからハッとしたように左手を見ると、みるみる顔を赤くした。

「あっ、えっと、その、ありがとうございます……っていうか、おめでとうってそんな、まだ」
「今日、専務から報告いただきました」
「え、美作さんから?」
「はい。それはもう嬉しそうに」
「……」
「お幸せそうで何よりです。安堵いたしました」
「松本さん……。ありがとうございます。ご心配おかけしました」
「いいえ、私は何も」

 これからつくしが何度も足を運ぶであろうこの場所には、敵もいっぱいいそうだが、とても頼もしい味方もいる。今は物珍しいつくしの存在が、少しずつ受け入れられて少しずつ自然になって、頼もしい味方がもっともっと増えたらいいなあと思う。
 ――それまで、専務と一緒につくしを守ってね、松本さん。
 今日初めて向かい合ったその人に、口には出さないけれど、強く強く心で念じた。
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