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春よ、来い
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of MOE)
6
 涼子さんが私の想いを知ったのは、美作くんが専務としてこのフロアに来た――つまり、専務就任一日目のこと。
 それより前に、好きな人がいることだけは話してあった。ただその相手が誰であるかは言ってなかった。でも言うまでもなく、涼子さんはすぐに気づいたのだ。

「萌ちゃんの想い人って、美作専務でしょ」

 言われた私の心臓がどんな大きな音を立てたか、どんなに激しく脈打ったか、言葉なんかでは到底説明が出来ない。火が出るのではないかと思うほど顔が熱くなって、慌てた私の中からは否定するという概念がすっぽり抜け落ちてしまって、思わず「なんでわかったんですか?」と訊いてしまった。そんな私に涼子さんは噴き出した。

「見ればわかるわよ。美作専務を見つめる萌ちゃんの顔、恋する乙女だったもの」

 その言葉にますます真っ赤になった私は、あまりの恥ずかしさに手で顔を覆った。

「涼子さん、誰にも言わないでくださいね」
「言わないわよー。言うまでもなく、あっという間に知れ渡りそうだけど。恋する乙女は可愛いわね」
「……」

 言葉に詰まった私と、クスクス笑う涼子さん。どうにか顔の熱を逃がしたくて、俯いたまま顔を手でパタパタと仰ぐ。仰いでも仰いでも治まらなくて、いよいよ顔でも洗うべきかと思い始めたところに、「でも」と、涼子さんの声がした。
 そこまでとは少しだけ、でも明らかに違うトーンに、思わず顔を上げる。ニコニコと――いや、ニヤニヤとからかいの眼差しを向けられているかと思ったその顔には淡い笑みと真剣な眼差し。

「でも、がんばれって言うのはやめておくね」

 紡がれた言葉に、顔の熱がすっと引いた。

「美作専務はとても素敵な人だと思う。でも、彼の気持ちを掴むのも、彼の隣を歩くのも、相当の覚悟がないと無理だと思う。その覚悟、萌ちゃんにある? もしないなら……これ以上近づかないほうがいいわ。でもあるなら、誰の力も借りずに自分の手で掴み取って。それくらいじゃなきゃ掴んでもすぐに手放すことになると思うから」


 あの時言われた涼子さんの言葉は重かった。彼と同じフロアで働けることに浮き足だっていた私。数分前とはまるで違う恥ずかしさが充満して、俯かずにはいられなかった。

 私は――今の私は、あの時と変わることなく美作くんが好き。あの時よりも、もっともっと好きだと思う。でも、あの『覚悟』があるかと言われたら、あの時も今もわからないままでいる。
 自分の想いを伝えないのは、関係を壊すのが怖いというだけではなく、自分の覚悟が自分で見えないからかもしれない。
 目を瞑れば脳裏に美作くんの笑顔が浮かぶ。けれどその隣に立つ私を思い描くことは、どう頑張っても出来なかった。

 ふいに、受付カウンターの内線電話が鳴った。気持ちを切り替えようと私は小さく息を吐き、そして受話器を手にとった。

「役員フロア受付白川です」
「美作です」

 ドキンと心臓が跳ねて、そしてぎゅっと痛くなる。
 ――不意打ちすぎるよ、美作くん。
 私はぎゅっと目を閉じて、すべてを胸の奥へと沈めて目を開けた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様。五時半にロサードの平野部長が来ることになったから、来たら執務室に通して」
「十七時三十分ですね。承知いたしました」
「よろしく」

 電話を切り予定を書き込む。

「今日は比較的落ち着いてるかと思ったけど、やっぱりなんだかんだで忙しいわね、美作専務は」

 横から覗き込んだ涼子さんの言葉に頷きながら、でも仕事とは関係ない、彼への想いでいっぱいで、耳の奥には彼の声が何度も何度も流れていた。
 優しくて柔らかい美作くんの声。私は彼の声がとても好き。――本当に、好き。
 予定をただじっと見つめる私の横で、涼子さんが呟いた。

「人の気持ちって難しいよね」
「…………」
「誰かを好きになる気持ちは止めたくても止められるものじゃないって、私もよく知ってるもの」

 その声に吸い寄せられるように顔を上げる。

「誰かを好きになる気持ちに本物も偽物もないんだろうけど、でも萌ちゃんのは本物なんだな、って……私、この数ヶ月でわかったの」
「本物、ですか?」
「憧れの延長程度の想いじゃなくて、もっとずっと深くて真剣だった。素敵だなあって思った。正直――がんばれ萌ちゃん、って思う私がいるわ」
「涼子さん……」
「……だけど」

 涼子さんはほんの少し躊躇うように口を噤み、小さく息を吐くと、じっと私を見つめた。真剣な眼差しで。

「深みにはまり過ぎて抜け出せなくなってはダメ。常に冷静な自分を心のどこかに置くことを忘れないで。萌ちゃんがボロボロなるところなんて、私は見たくないから」

 秘書課に配属以来、涼子さんとは沢山の話をさせてもらった。仕事のことはもちろんだけれど、恋愛話もたくさんした。けれど私の想い人が美作くんであることを知られて以降、それについて深く話すことはなかった。
 相変わらずいろんなことに鋭くて、私がひそかに美作くんを見つめていたりしてもすぐにバレて、私はその度にからかわれたり呆れられたりしてきたけれど、真正面からきちんと話したりはしていなかった。
 今、その時以来初めて涼子さんの気持ちに触れた。
 鼻の奥がツンとして、視界が涙でぼやけていく。涼子さんがそんな風に思ってくれていたなんて、思いもしなかったから。

 現実は厳しい。
 想いは募るばかりだけれど、実際の私は前へも後ろへも進めていない。ただ想っているだけで、一ミリも動けてはいない。
 現実は、本当に厳しい。
 だけどそんな私を見守ってくれている人がいた。涼子さんは、そんな私をずっと見ていてくれたのだ。
 嬉しくて、胸が苦しいほどだった。

「……ありがとうございます」

 伝えたいことはたくさんあるのに、胸がいっぱいでそれしか言葉の出てこない私の頭を、涼子さんは優しく撫でてくれた。胸に、小さな勇気が灯る気がした。


 受付カウンターに座る一日は、いつも心地良い速さで時間が過ぎていく。来客を案内したりお茶を出したり、会議室の準備や後片付けをしたり。
 いつまでも自分の個人的な想いに浸っている暇などはなく――それは私にとってとてもありがたいことだ――、与えられた仕事、やるべきことを一つずつ終わらせていく。
 使い終わった会議室の後片付けをして受付に戻ると、カウンター内のデジタル時計は十七時十五分を表示していた。
 ――あと四十五分で今週の仕事も終わりか。
 今日は金曜日。休日前の独特の解放感で、いつもより心が軽い。しかも今日は終わった後に「受付会」がある。それがさらに私の心を浮き立たせる。
 でもそれは私だけのことではなく、隣に座る涼子さんも同じような気持ちでいることが、その横顔から窺えた。

「あと今日の予定は、美作専務のアポ一件で終わりでしたっけ?」
「そう。十七時半だから、もうそろそろかな」
「ですね」

 今日は朝から外出の役員がとても多くて、今現在このフロアにいるのは美作専務のみ。予定されていた会議も全て終えた今、フロアはいつにもまして静まりかえっている。そのせいだろうか、エレベーターが止まり開く音がはっきりと聞こえた。私と涼子さんは同時に顔を上げる。

「噂をすれば、ね」
「はい」

 囁きあって立ち上がる。そんな私達の前に現れたのは、一人の女性だった。
 左手にコートとバッグを持ち、右手で書類封筒を胸に抱えるようにして、どこか不安そうな顔でゆっくりとこちらに歩いてくる。
 ――彼女が、平野部長……?
 おそらく私と同じ疑問を抱いただろう涼子さんが、小さく視線を動かし予定表を見たのがわかった。
 美作くんはたしかに「ロサードの平野部長」と言っていた。けれど目の前の彼女は私と同じくらいの年齢に見える。普通に考えて「部長」という年齢ではない。美作くんのような例もあるから決めつけるわけにはいかないけれど、美作くんのアポではない場合も考えて対応をしなければ、と考えた――その時。 

「牧野様」

 穏やかな、けれど凛とした声が響いた。その声に振り向くと、そこに姿を現したのは、美作くんの専任秘書の松本さんだった。

 ――マキノ様?

 視線を戻すと、松本さんが『マキノ様』と呼んだ彼女は、先程とは打って変わって安堵した表情で、「松本さん」と微笑んだ。
 立ち止まった松本さんが「いらっしゃいませ」と頭を下げる。ハッとした私と涼子さんも同じように頭を下げ、そんな私達に牧野様も頭を下げた。

「ロサードの牧野と申します。部長の平野の代理で参りました」

 そこでようやく合点が言った私達の表情が緩んだのだろう、牧野様がほんの少し肩の力を抜いたのがわかった。

「牧野様、執務室にご案内いたします」
「よろしくお願いします」

 松本さんに促された牧野様は、私達に再びぺこんと頭を下げると、松本さんの後をついて行った。
 二人の会話が聞こえてくる。

「総合受付から連絡を受けて驚きましたよ」
「すみません。平野が会社を出る直前にちょっと面倒なトラブルが起きてしまって」
「そうでしたか」
「あたしなんかで大丈夫なのか不安だったんですけど、届けるだけだからって。……あの、松本さん」
「なんでしょう?」
「えっと、あたしが来たこと、美作さ……美作専務には――」
「まだ伝えておりません。きっとものすごく驚かれると思いますよ」
「……ですよね。……はあ、なんか緊張……――」

 遠ざかる会話はそのへんで聞こえなくなり、立っていた私達は椅子に座ると同時にふうっとひとつ息を吐いた。

「びっくりしました。あんなに若い部長がいるのかと思って」
「そうね。……でもそれよりも……」

 涼子さんの言葉はそれ以上続かず。不思議に思った私が視線を向けると、涼子さんは口元に手を置いて、俯き加減で何かを考えていた。

「どうかしたんですか?」

 私の声にハッとしたように顔を上げた涼子さんは「ううん」と首を振る。でもなんでもなさそうには見えなくて、そのままじっと見つめていると、涼子さんは小さく笑みを浮かべて口を開いた。

「たいしたことじゃないのよ。牧野様、ずいぶん松本さんに心を許してるっていうか、なんか親しげに思えたから」

 たしかにそれはそうだった。でも。

「面識があったんじゃないですか?」
「まあ……そうよね。そういうことよね」

 涼子さんは笑みを浮かべて「変なこと気にしてごめん。お茶出してくるね」とカウンターを出て行った。私は思わずその背を見つめる。涼子さんの笑顔がいつもと違う気がして、ほんの少し気になった。
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2013.03 春よ、来い
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