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秘色の風
COLORFUL LOVE
2

「ここにいたのか」

 ため息混じりに小さく呟き足早に歩み寄ってくるあきらからは、明らかにつくしを心配している空気が感じ取られる。それは、鈍いつくしにもわかる程。
 ――なんか、心配されてる? それも、かなり真剣に。
 戸惑いを胸にその姿を見つめ続けているうちに、あきらはあっという間に目の前へとやってきた。

「こんなところで、どうした?」
「あ、えっと、コンビニの帰り」
「……なんだ、そっか。はああ、良かった。ぶっ倒れていたわけじゃないんだな」
「……え?」

 ――ぶっ倒れていた? あたしが?
 まったく意味がわからないその言葉を反芻するつくしの横に、あきらはドサリと腰を下ろして――本当に「ドサリ」という音がして、ヘトヘトな感じに思えた――気怠そうにネクタイを緩めた。
 つくしはそこで初めて、あきらがスーツ姿であることに気付いた。見るからに仕立ての良さそうなスーツ、磨かれた靴、緩められたネクタイ。そのすべてが、あきらの端正な容姿に良く似合っている。けれど、ふと見た額には、汗が滲んでいた。今日はそんなに気温が高いわけでもないのに、なぜだろうと思っているところにあきらの声がした。
 
「牧野、ケータイの電源切ってるだろ?」
「え? あ……」

 ――そうだ、あたしは美作さんに……。
 あまりにも突然あきらが現れたことで、一瞬いろんなことが飛んでいたつくしだったが、その一言で、全てが戻ってきた。

「美作さん、あたし――」
「いや、いいんだけどさ。メールしても返信ないし、電話しても繋がらないし。なんとなく引っかかってさ」
「うん、あたしね――」
「おまえ一人暮らしだから、なんかあったらまずいと思って……」
「うん、……え?」

 なんかあったら――その言葉に、つくしの思考回路が一瞬停止した。そして、一気にいろんなことが見えた気がした。
 あきらの気遣いに満ちた表情、今の今まで緩められていなかったネクタイ、額の汗――とんでもなくあきらに迷惑をかけたのかもしれないと気付いた。
 あきらはつくしを探したのだ。メールも返さず、携帯電話の電源を落したままで連絡の取れないつくしを心配して。きっとアパートへ行って何度もベルを鳴らしノックをして、反応がないことを心配してこのあたりを探し回っていたのだろう。会社帰りのスーツのまま、ネクタイも緩めずに。ピカピカに磨かれた革靴で。額に汗を滲ませるほど真剣に。
 力が抜けたように座りこんで「あー、よかった」と呟きながら空を見上げるあきらの横顔に、ふいにつくしの中に温かいものが込み上げて、胸がいっぱいになった。
 ――そうよ、いつだってそうじゃない。
 心配性で、面倒見が良くて、優しくて。今も昔もずっとずっとあきらはそういう人。
 何を怖がっていたんだろう。何を悩んで一人で閉じこもっていたのだろう。勇気を出さなきゃなんて、何を意気込む必要があったんだろう。きちんと向き合って、歩み寄ってくれる人に対して。
 わかっていたはずのことを置き去りにしていた自分が情けなかった。

「あたし、バカだ」
「ん?」

 つくしは立ち上がると、勢いよく頭を下げた。

「美作さん、ごめんなさいっ!」
「……なんだよ、突然」
「メール、ちゃんと読んだの。会社に行くって……だからスーツなんだよね。ちゃんと朝のうちに読んだ。でもあたし、返信しなくて」
「読んだならいいよ。返事なんか気にするな」
「だけど、そのあと携帯電話の電源も入れてなくて。何度も電話してくれたんでしょう? しかも、探してくれてた、よね? ごめんなさい、あたし――」
「それも別に気にしなくていい。俺が勝手に心配しただけだから」
「そうだけど、でも――」
「なんか、あったんだろ?」
「――っ……」

 言葉に詰まったつくしを、ただ真っ直ぐに見るあきら。柔らかな表情、でも、真剣な眼で。
 あきらは、どこかいつもと違うつくしに何かを感じていた。そもそも前日から小さな違和感があった。カフェテリアでランチをしたところまではいつも通りだったと思う。けれど午後からの講義へ一人で向かったつくしがそのまま戻ってこなかったのだ。別に珍しいことではない。講義のあとそのまま次の講義へ向かったり、バイトへ行くためにそのまま帰ることは普通にある。けれど昨日はなんとなく違和感を感じたのだ。講義の時間が迫る中、話し足りない様子で名残惜しそうに去っていった後ろ姿が脳裏に残っていたから。だから、もしかしたらまた顔を出すかもしれないと、あきらはなんとなくそのままカフェテリアに居続けた。
 結局つくしは戻って来なかった。連絡をしてみようかとも思ったが、何の約束もしていなかった手前、待っていたことを話すのも悟られるのも、なんとなく押しつけがましい気がしてやめた。
 けれど今は悔やんでいる。たった一日で、こんなことになってしまったのだから。
 言葉を詰まらせたつくしは、口を開かない。瞳を揺らしてあきらを見つめ返すだけ。けれどその表情がすべてを物語っている。何かあったのだ。
 つくしが一人で抱え込むことが得意なことを知っているだけに心配だった。
 無理に話させることはしたくない。けれど何かあるのなら、少しでも気持ちを軽くしてあげたいと思った。

「俺でよければ聞こうか?」

 あきらの柔らかな、けれど慎重な呼びかけに、つくしはあきらの気持ちを感じ取った。いつもそうであるように、あきらは話すことを強要したりはしないだろう。「何でもない」と言えば「そうか」と頷いてくれる。でも誰よりも心配して、ひたすらつくしの様子に気を配る。今日こうして、ここに居るように。

「美作さん」
「ん?」
「美作さんは、あたしに嘘ついたりしないよね?」
「なんだよ、急に」
「これから訊くことに、正直に答えてほしいの」
「……わかった。何だ?」

 つくしはあきらを信じてる。心から。友人として、いや、多分それ以上の何か深いところで。
 牧野、と優しさと気遣いのにじむ声であきらがつくしの名を呼ぶ。その声が、つくしの肩を押した。

「美作さんが、類や西門さんのように仕事を始めないのは、あたしがいるから?」
「は? 何だそれ」
「あたしを一人にしないため? 大学を辞めないように気を使ってくれてるの? 道明寺に何か言われてる? 本当は、もう大学に来てる暇なんてないのに、あたしのせいで――」
「牧野、ちょっと待て」

 あきらはつくしの言葉を遮ると、つくしを真っ直ぐ見た。
 ようやく口を開いたと思ったら堰を切ったように次から次へと投げかけられるその言葉は、どこをとってもあきらには不可解なものばかりで、完全に戸惑っていた。「なんだ、それは?」と聞き返したい気持ちでいっぱいだったが、問われているのは自分。まずはきちんと答えておくべきだと口を開いた。

「前に言ったと思うけど、俺が類や総二郎のように動き出してないのは美作の方針。正直言うと、俺自身は類や総二郎のように少しずつ始めるつもりでいたし、その覚悟もしてたんだ。でも親父と話して考えを聞いて納得して、それなら親父の言うとおりにしようって決めたんだ」
「ホントに?」
「本当だよ。こんなこと嘘ついてどうすんだよ」

 あきらは、表情こそ柔らかいが目は真剣そのもので、その言葉に嘘はないとつくしにはわかる。
 そう、つくしだってわかっている。前からあきらはそう言っていた。そして、噂されていたような、つくしが引き留めているという事実もない。それでもこんな話が出たということは、司と別れた時点で辞めようと思っていた大学を、みんなに説得されて残ったことが関係しているのではないかと思えた。つくしが大学を卒業することを望んだ司が無理やり彼らに命令している可能性まで考えた。そんなに疑い深くなってしまったのは、ついた傷が深かったから。感じた痛みが強かったから。
 俯くつくしに、あきらは言葉をかける。

「納得したか? 証明が必要なら親父に電話しようか?」
「ううん。そんな必要ない。嘘だなんて思ってない。本当だってわかってる。……ごめんなさい」
「謝る必要なんてないよ。その代わり、今度は俺が質問していい?」
「何?」
「――何があったんだ?」
「……」
「なんかあったんだろ?」

 ストレート過ぎる質問かもしれない。でもきっと下手に誤魔化して聞くことではないだろう。あきらは、つくしが自分から話すまで何も聞かないつもりでいた。けれど、自分に関係することなら、きちんと聞いて不安要素は取り除くべきだと感じた。つくしの中で、わかっているはずのことが大きく歪んでいる。その原因が何かあるはずなのだから、それをきちんと知りたかった。
 そして多分、あきらの考えは正しかった。僅かな沈黙の後、つくしはそのすべてを話し出した。

「噂、聞いたの」
「噂?」
「美作さんが仕事を始めないのは、あたしのせいだって」
「……それで、さっきの質問?」
「うん。なんか、わかってたはずのことが、その話を聞いているうちにわからなくなっちゃって」

 自嘲気味な笑みを浮かべて「バカだよね」と俯くつくし。自分でもわかっている。けれどどうしても、撥ね退けられなかった。何故なら――。

「他に何を聞いた?」
「え?」
「それだけでそんな風にはならないだろ?」

 あきらは、鋭い。もっとつくしを追いつめた何かに気付いている。そしてそれは、つくしが一番確かめたい真実。あきらが一番知りたい真実。

「美作商事が業績不振で……それは、美作さんが仕事を始めないからだって」
「うちの会社が?」
「うん。……あたし、そういうのわかんないから混乱して。でも美作さんが突然会社に行ったから、何かあるんじゃないかって……」
「……」

 あきらは何も言わず、眉間に皺を寄せて何かを考えているような表情をしている。
 沈黙分だけつくしの不安が広がった。
 司との別れの最大の原因はつくしの気持ちにあったのだが、道明寺財閥の業績不振が二人の前に立ちはだかったのは確かで。僅かではあったけれど、どうすることも出来ない現実に押し潰され続けてきたあの頃の感覚が未だ残っていた。
 何とかしようと藻掻きたくても、それすら出来ない隔たり。何も持たないつくしには、立ち入ることも許されない世界、どうやっても越えられない高い壁。あっという間に蘇ってしまうから、そこを感じ取ってしまうと心が勝手に怖気づいてしまうのだ。
 ――もし本当にそうだったら。
 考えると、つくしは怖くてたまらなかった。

「なるほどね、そういうことか」

 つくしには永遠に思える程の長い沈黙の後、あきらはため息混じりに小さく呟き、無造作に髪をかき上げた。

「牧野さ、類にこのこと話した?」
「え?」
「うちが業績不振だとか、そのへんのこと」
「あ……話したっていうか……」

 昨夜、一人で抱えきれなくなったつくしは、たまらず類にメールをした。

――
 美作さんの家の仕事って、順調?
――

 類からの返事はメールではなく、電話だった。

『あきらがどうかしたの?』
「ううん。そうじゃないんだけど、何か知ってるかなって思って」
『うーん、今イタリアだから日本の情報が全部入っているわけじゃないけど、何も聞いてないよ』
「じゃあ例えば、何かいつもと違うことがあったら類の耳には入るもの?」
『全部じゃないけど、美作ほどの大企業のことは、まず間違いなく入ってくるね。あそことはうちも取引があるから』
「そっか……」
『牧野。何があったの?』
「何ってわけじゃ――」
『何かあったんでしょ? じゃなきゃそんなこと聞いてこないもんね』
「……」
『困った時はいつでも言っていいんだからね? 大学にはなかなか行けてないけど、牧野がピンチの時は駆けつけるんだから』

 あまりにも優しいその言葉に、いっそのこと全部話してしまおうかと思ったその時、電話の向こうで類を呼ぶ声がした。イタリア語なのだろう、その内容はわからなかったが、仕事中だということは読み取れた。やっぱり話すことは出来ないと思った。

「ありがとう。でも大丈夫。ごめんね、仕事中に」
『ホントに大丈夫?』
「うん、大丈夫」

 まだ何か言いたげな類に「またね」と電話を切った。

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2009.07 秘色(ひそく)の風
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